24 氷蛇竜戦(4)暗殺者
遂に下された突撃命令。
高らかな鬨の声とともに戦場を駆け抜け、伝説の名を冠する竜に迫る。
――いかに竜と言えども、首を落とすか心臓を突けば確実に死に至る。
それは誰もが知る常識だ。
ではなぜ初めからそうしないのか。
実戦経験もなく、文字でしか物事を知らぬ評論家などは「分かり切ったことをなぜやらぬのか。急所ですらない場所を攻めて悪戯に犠牲者を増やすなど愚策ではないか」と訳知り顔で語るが、遥か頭上、十メテルを優に超える高い位置で揺らめく頭を、二メテルにも満たず飛ぶこともできない人類がどうして落とすことができようか。
強靭な鱗、そして高密度の分厚い筋肉の内側、長槍ですら届かぬ場所に護られた心臓をどうして貫くことができようか。
できぬからこそ、障害となるものを先に排除せねばならないのだ。
飛んで逃げぬよう翼を落とし、巨大な鞭となって敵を叩き殺す尾を落とし、その一歩で容易く人を踏み潰せる四肢を落として、それでようやく急所を突けるのだ。
無論その間、竜も大人しくしている訳ではない。その抵抗一つで簡単に命が奪われる、そんな戦いを強いられるのが竜討伐だ。
この氷蛇竜も今まさに激しい抵抗を見せ、一人二人と敵の数を着実に減らしていた。
それもただ抵抗するだけではない。戦いで学習し、敵の手段を封じることを覚えたようだった。上級魔法を連発して敵を防御魔法で手一杯にすることで、拘束魔法を使う余裕を奪うのだ。
自由を取り戻した四肢で足踏みして接近を躊躇わせ、それでも勇敢に立ち向かう者達を大きく撓らせた首で薙ぎ払う。倒れ伏した者の頭上から火炎弾を浴びせて、逃げる隙すら与えてはくれない。
だがそれでも、必ずこの邪竜を斃すという強い意志が人々を突き動かした。
鎮痛剤を飲み、身体強化を重ね、魔力回復薬を何本も空けて、何度振り払われようとも果敢に立ち向かっていく。
「足並みを揃えろ! 間合いに入るときは後ろから回り込めよ!」
「攻撃系は防御を補助系に任せて攻撃と拘束に専念しな! 補助系は全員で魔法障壁!」
ザックとナディアのよく通る声が響き、竜の猛攻に乱れていた足並みが揃う。
劣勢に傾いていた戦況は再び優勢に戻りつつあった。
このまま覆させぬと竜は吼え、森で息を潜めていた肉食の巨鳥の群れを呼び出した。魔獣の頂点に立つ竜の気迫で従わせられた巨鳥は、奇声を発しながら人々目掛けて急降下する。
グリフォンにも見紛う巨鳥の群れは動揺を誘った。竜で手一杯の状況で、このうえ空飛ぶ魔獣の相手はあまりにも荷が重い。
そのとき突如魔狼の咆哮が辺りに木霊し、巨鳥を怯ませた。
「ヴオォォォ――――――!」
天にも届かんばかりの遠吠えは、森に木霊し彼方まで響いていく。
気高き森の王者の咆哮は、恐怖によって従わされていた巨鳥を正気に戻した。再び空に舞い上がった彼らは頭上を一度だけ旋回すると、そのまま森の彼方目指して飛び去って行った。
「ヴィオ、よくやった!」
契約の主、魂の友の称賛に気をよくしたヴィオリッドは、「ヴォフっ」と短く鳴き、再び戦場へ戻っていく。
「よし、ルドガー、手伝え!」
「はいよっ!」
アレクとルドガーは土魔法を唱えて竜の足元を陥没させた。強力な拘束にはならずとも、その歩みを止めることくらいならできる。
魔導士ほどの魔力はなく、重剣士のように剣一本で戦えるほどの技量もない。それが魔法剣士の弱みでもあるが、極めれば一人二役で戦える。
万能になるか器用貧乏になるか。それはその者の努力次第だ。
「土魔法ってのは地味だけど使いようによっちゃ便利だよな!」
地面を隆起させて坂道を作り、駆け上がりながらルドガーは叫んだ。
「まったくだ!」
襲い来る竜の土槍を小さな土塊に戻しながら、アレクは炎を纏わせた魔法剣を振るった。鱗が飛び、そこへ仲間達が得物を突き立てていく。
「若ぇってのはそれだけで強ぇな!」
一人何役もこなしている彼らを横目で見ながら、ザックは口笛を吹いた。
「まったく歳は取りたくねぇもんだ! さすがに手が痺れてきやがったぜ!」
言いながらもその動きに衰えを見せないザックを、「いつまでも若いつもりでいるとあとでどっと疲れが出るぞ!」と一回り年上のダニエルが揶揄った。
「そろそろ年齢なりの戦い方を模索するいい機会ではないかな!」
A級魔導士の彼は年齢を理由に補助職へと転向している。攻めの魔法ばかりを好んでいた青年時代とは戦い方もまるで違うが、生来の研究者気質で補助と防御の魔法を極め、かつてと遜色ない戦果を上げている。
「お互い帰ったら寝込むことになりそうだ! 神の戦槌!」
「違いねぇ! おらっ、食らいやがれっ!」
ダニエルが作り出した巨大な岩の槌が氷蛇竜の膝裏を殴って膝をつかせ、背に駆け上がったザックが縫合部へ大剣を突き立てる。
鱗と鱗の隙間が僅かに開いている縫合痕は、ニルスの推測通り負荷には弱かったようだ。鱗を剥がさなければ攻撃の一切を通さなかった表皮に、切っ先が深く食い込んだ。
「キュオオオオオン!」
怒りの咆哮を上げた竜は、がぱりと口を開けた。
「弓騎士隊構え! 撃て!」
二人に齧りつこうとしていた竜目掛けて銀の軌跡が走る。
魔法を纏わせた矢が幾筋もの軌跡を描き、口内の柔らかい場所に降り注いで、いくつかは舌に、残りは見事歯茎に突き刺さった。
だがそんなものは効かぬとばかりに矢を噛み砕いた氷蛇竜は、再び口を大きく開けた。
その鼻先をシグルドの爪が掠めて僅かな隙を作り、竜の背を駆け抜けたカイがその首元に魔力を込めた重い蹴りを入れ、衝撃と痛みに一瞬呼吸を止めた竜は潰れたような悲鳴を上げた。
それを好機と見たニルスは、腰元のポーチから秘蔵の新薬を取り出した。
「リヌス! これをあいつの口にぶち込んでくれ!」
「おっけー! 任せてー!」
ニルスから手渡された紐付きの薬瓶を矢に括り付け、リヌスは見事その口内に命中させた。
飛び込んできた異物を歯で粉砕した竜が、喉の奥から絞り出すような絶叫を上げた。
浸透した薬液が、竜の喉を焼いたのだ。
「ねぇニルスー! 今のあれ何ー!?」
「脳啜り撃退スプレーの原液!」
「うっそだろマジかよ!」
つい真顔で叫んでしまったが、リヌスは多分悪くない。
「ニルス先生容赦なさ過ぎ!」
シオリが危険な希少種に激辛オイルをぶちまけて撃退したという話はもはや伝説級である。
ヨエルは薬師の恐るべき所業に悲鳴を上げ、詠唱中の魔法に乱れを生じさせた。
しかし、シオリの講習を経て研究と鍛錬を重ねた彼の魔法の精度は驚くほど高く、薄くも強靭な氷刃が表皮を撫でるように飛び、鱗を捲り上げていく。
鱗を剥ぎ落すほどではなかったにせよ、捲り上げられて生じた隙間は十分な隙となる。
「お前凄いな!」
同い年の、しかしランクは上のイクセルからの掛け値なしの称賛に、ヨエルも正直悪い気はしない。
「これなら剣が届かない場所の鱗も削ぎ落せるぞ!」
「いいぞ、もっとやれ!」
「よっ未来の大魔導士!」
同僚はヨエルが褒めて伸びる質だと知っている。
さんざんに持ち上げられて調子よく放った魔法が、次々と鱗を捲り上げていった。
そこへ全力攻撃が降り注ぎ、捲れた鱗の下の皮膚を傷付けていく。
中でもナディアの魔法は凄まじく、炎を極限まで凝縮した熱線が竜の皮膚を貫いた――かのように見えた瞬間、一瞬にして膨れ上がった竜の魔力がナディアの魔法を拡散させた。灼熱の光線が揺らぎ、火の粉を散らしながら空気に溶けて消えていく。
「いいとこだったのに忌々しいったら!」
魔女は悔しげに唇を歪めた。
「長引かせるとまずいな」
アレクの顔は険しい。
長引かせればそれだけ学習を重ねさせることになる。
そのうえ長命種の魔獣は総じて生命力が高く、氷蛇竜も総攻撃でこれだけのダメージを受けてなお、まだ余裕を見せていた。
長期戦になれば不利になるのは間違いなくこちらの方だ。
だがここに至ってもなお、まだ四肢の一本も落とせてはいない。
竜種では水竜に次ぐ巨躯の地竜。それを相手取ることの難しさをまざまざと思い知らされたアレクは歯噛みした。
一般的な魔獣であれば致命的であろう傷も、この巨体では切り傷程度にしかならないのだろうか。
「駄目だぁ! 沸騰もミンチも効かねぇわ!」
「魔力で押し返されちまう!」
イクセルとヨエルが悲鳴を上げた。
シオリの家政魔法を流用して体内を直接破壊しようと試みたが、膨大な魔力に阻まれて局所的なダメージしか与えられない。
シオリは中心部までは探索魔法でも探れなかったと言っていたが、魔力の高い彼らでさえ押し返されてしまった。
「何かもっと決定的な弱点でもあればいいが……確実に竜の動きを封じるような何かが……!」
そんなものが本当に存在するのか。
虚しいことだと分かっていても言わずにはいられなかった。
それを嘲笑うかのように竜が吼える。
「ヒュオオォォォォォォ――!」
喉を焼いたからか、これまでほどの声量はない。
しかしそれでも十分な力を伴うそれは、無数の精霊を呼んだ。氷湖周辺に漂う、自我のない低級の精霊だ。
「今度は召喚術か……!」
肉体を持ちながらその精神は精霊に近いとも言われている竜は、稀に召喚術を使うことがある。その稀な部類だったらしい氷蛇竜は、氷の眷属とでもいうべき霜の精霊を呼んだのだ。
真白な蛍のような姿の精霊は、チリチリと小さな鈴の音のような音を立てた。それが幾重にも重なり共鳴し合って強い冷気を発した。
「ぐっ……!」
「けほっ……」
肌がひりつくほどに乾燥した冷たい空気は、吸い込んだ者達の呼吸器を刺激して正常な呼吸を妨げた。
息自体はできる。しかし、数十分に渡る激しい戦いで大量の新鮮な空気を欲する身体にはひどく堪えた。
氷湖から次々と湧き出るように現れる霜の精霊はさらなる冷気を発し、窒息しろと言わんばかりに嗤いさざめく。
と、そのとき大気がふわりと揺れた。
優しく温かな空気が辺りを取り巻いていく。
シオリの魔法だ。
ザックが言った通りに空調魔法は竜の足止めにすらならなかったが、彼女の性質によく似た春の温もりは霜を溶かし、仲間達をふんわりと包み込んでいく。
「おお……!」
「これが噂の……!」
特別な動作も詠唱もなく、ほとんど瞬間的に発動させた合成魔法。
驚き、感嘆の声を上げながらも、騎士達は既に次の行動に移っている。
大魔法と同じく、魔力を瞬間的に大量消費する大規模召喚術の後には大なり小なりの隙が生じる。
よく訓練された騎士達がこれを見逃すはずはない。僅かな硬直時間を絶好の機会と捉え、一気に距離を詰めた彼らは流れるような動きで鱗を薙ぎ払い、剥き出しの肉に剣を突き立てた。
無論、アレク達も黙ってはいない。それぞれに振り上げた得物で縫合部を斬り、体液が噴き出す傷口を広げてようやく関節を剥き出しにした。
「よし、いけるぞ!」
このまま関節を切断しようと再び剣を振り上げた瞬間、氷蛇竜が火炎弾を吐いた。それは強風を伴いながら頭上に降り注ぎ、防御が間に合わずに巻き込まれた何人かが吹き飛ばされた。
一進一退を繰り返して長期戦の様相を呈し始めた戦い。
その中でアレクは微かな違和感を覚えて眉根を寄せた。
だが、何に対してそう感じたのかが分からない。
――目前には魔法攻撃を連発する氷蛇竜。
炎、土、風、炎、土、風、炎、氷、炎の魔法と、闇の幻覚さえ伴う魔力放出が無秩序かつ断続的に続けられる。
そしてまた、竜は火炎弾を吐いた。
「ああ……そうか」
アレクは不意に気付く。
「あいつ、氷蛇竜を名乗るわりには氷魔法をあまり使わないんだ」
それどころかむしろ、一般的な氷属性の魔獣であれば弱点となる炎属性の魔法を好んで使っているようにさえ思える。
シオリもまた何かに思い当たったようで、あっと声を上げた。
「それだよアレク。あの竜が氷湖に封印されて眠ってたって、それ自体が変じゃない?」
「何?」
「もし本当に氷属性だとしたら、氷漬けにされて眠らされるだなんてことにはならないんじゃないかな」
分厚い氷に覆われた、深く冷たい氷湖の底は氷蛇竜にとってはむしろ楽園のはずだ。それが身動きも取れぬまま、二百年近くもの間大人しく眠り続けていたというのはどういうことか。
「……!」
アレクは目を瞠った。
竜の弱点――氷の名を冠する竜の、真の姿に辿り着いたかもしれないのだ。
「こんな寒いところでずっと眠り続けてたって、まるで冬眠してたみたいだよ。だとしたら、あの竜は本当は氷の魔獣なんかじゃない。むしろ寒さに弱い、対極にある属性の――」
「炎属性の竜――火竜か!」
この竜は恐らくは地竜と火竜との交雑種。
地竜の容姿と火竜の性質を併せ持って生まれた竜だ。
その実体は、火竜なのだ。
「身の内に……火の性質を隠していたのか」
膨大な魔力で本来の姿を包み隠して、氷の魔物の王を演じていたのだ。
否、演じさせられていた。
地竜の姿を持つ火竜に伝説の氷蛇竜の名と氷湖という棲み処を与え、そして長い年月を掛けて、この地に封じられた竜は氷の魔物の王であるという先入観を人々に植え付けたのだ。
――いつか、子孫が切り札として使えるように。
「これ、この血……多分、氷属性だ」
シオリはアレクに付着した返り血に触れ、震える声で呟く。
それはとても微弱な気配で、辺りの寒さに紛れて分かりにくい。けれども、その血に触れて感じ取れるのは確かに冷たい氷の気配だ。
「氷の魔石の粉末を餌に混ぜて摂取させられていたか……あるいは、輸血で氷竜の血液に置き換えられたか。いずれにせよ、氷属性の血液を全身に巡らせることで、本来の属性を誤魔化してたんだろう」
ニルスの言葉が重く響く。
邪悪とはこのことを言うのだろうとアレクは思った。
偽りの名と属性を与えられたこの哀れな竜の背後に、ほくそ笑む科学者の姿を見たような気がした。その醜悪な笑みがかつて皇都で見た帝国貴族達の姿と重なり、あまりの嫌悪感に吐き気すら覚える。
「強敵には違いねぇが、このクラスの竜にしちゃあ妙に弱かねぇかとは思ってたんだ。だが、そういうことなら話は分かる。ここの環境はそもそもあいつにゃあ合わねぇってことだ。移動しようとしてんのも、本能的に温かい場所を求めてんのかもしれねぇな」
返り血を拭いながら言ったザックの表情は険しい。
しかし、その瞳には憐れみにも似た色が浮かんでいる。
「どうする。氷属性中心で攻めるか? うまくすれば眠ってくれるかもしれん」
まだ確定した訳ではないが、アレクの問いにザックは「ああ」と頷いた。
「そうは言ってもこの気温であれだけ動く。氷湖に沈めるくれぇの――それこそ夏でも湖一つ凍らせるほどの低温でなけりゃ意味がねぇ」
氷蛇竜が氷を割って浮上したであろう場所は、既に凍り付いていた。湖そのものが低温なのだろう。
「首を残して氷漬けだ。魔法で溶かされねぇように魔導士を総動員して氷結魔法を使う。そして物理攻撃で首を落とす」
皆異論はない。もとより、できることはほとんどやり尽くしてしまった。
「よし、リヌス。全隊に伝令を頼む。標的は火属性の可能性あり、首を残して凍らせろってな」
「りょーかい!」
身軽な弓使いは戦場を駆け抜け、ザックの言葉を伝えていく。
やがて伝達は完了し、冒険者隊、騎士隊双方の攻撃が一時的に止んだ。
それを不思議に思ったのか、氷蛇竜もまた一瞬動きを止めた。
「今だ、ナディア!」
「任せな!」
突如垂直に空いた縦穴が氷蛇竜を呑み込み、ドォン! という轟音が響く。
落下した氷蛇竜の首から上だけが不満げに顔を出し、目の前の人間達目掛けて牙を剥いた。
瞬間、魔導士と魔法騎士総動員の氷結魔法が竜を中心として渦を巻く。
びきびきびき、ぱきん。
軋むような音が響き、氷蛇竜――否、火竜を巨大な氷塊の内に閉じ込めていく。
火竜は激しく啼いた。
人間達の企みに気付いて、戦慄したのだ。
氷の拘束を解こうと死に物狂いで激しく藻掻く。だがそれも虚しく、耐え難い眠気に囚われ動きを鈍らせていく。
「キュォオオオオオオオオオン!」
睡魔から逃れるように咆哮を上げる火竜の、その身体から魔力が噴出した。それは色すら伴う闇色の妖気で、浴びた者達に孤独と絶望の幻を見せた。
寂しい、悲しい、もっと温かな場所に行きたい、こんな寒いところにはいたくない、もう二度と孤独の湖底に沈みたくはないのだと、そんな竜の慟哭は人々の心を激しく揺さぶった。
「呑まれるな!」
闇色を切り裂くようなザックの怒声が響く。
「戦場に情けを持ち込むんじゃねぇ! 敵への同情は身を亡ぼすぞ!」
烈火の如き色の髪を振り乱して、竜殺しは叫んだ。
けれどもそんな彼の眦は微かに濡れていた。
「同情するのは戦いが終わった後だ! 今はあれを斃すことだけに集中しろ!」
竜に同調しそうになる心を殺し、アレクも負けじと声を張り上げて仲間達を鼓舞した。
あれは哀れな竜だ。
だが見逃せば甚大な被害が出ると分かっているものを、このままにしてはおけない。
それに、闇色の幻に紛れたあの竜の本心を知ってしまった。
あの竜は自由になりたがっている。異形の竜は、あの継ぎ接ぎだらけで不自由な肉体を捨てて、自由になりたがっている。
ならば、亡国の悪夢から永久に解放してやろう。
それでも死にたくないという本能には逆らい難く、竜は死に物狂いで抵抗を続けた。
敵を孤独と絶望の深淵に引き摺り込む幻を見せ、灼熱の魔法で氷の拘束を溶かそうとしてその度に上書きされ、死の腕から決して抜け出せない絶望に怯えて半ば恐慌状態に陥った竜は、混乱状態で火の雨を降らて人々に悲鳴を上げさせた。
灼熱の雨を避け損ねた者が一人、また一人と倒れていく。
倒れ伏したまま動かなくなる者、火傷の痛みに苦鳴を上げて悶える者。
治療術師や薬師達は必死で治療に当たった。
怪我を癒した者は、立ち上がって再び竜に向かっていく。
――その様子を、湖岸に広がる森の中からじっと見つめる男の姿があった。
巨木の根元に隠れるようにして口を開けた、小さな洞穴――氷湖に繋がる洞穴の奥深くにある研究施設の跡地で竜の封印解除を成し遂げ、半ば崩れて迷宮のようになっていたそこから這う這うの体で這い出した男が見たのは、地上で待っていたはずの同志の無惨な姿であった。
そして、それを踏みつけながら暴れ回る竜と、必死に立ち向かう王国人の姿。
ある程度予想していたことではあったが、それを目の当たりにした男は絶望に低く呻く。
「やはり、御しきれなかったか……」
強大だった帝国が御せなかったものを、亡国の一貴族でしかない己が御せる訳がない。
だが帝国奪還を成し遂げるためには、この竜に縋らざるを得なかったのだ。
歯噛みしながら目の前の光景を忌々しげに眺めていた男は、ふと一人の男に目を止めた。討伐部隊の主力らしい魔法剣の男だ。
「似ている……」
それは、かつて帝室主催の狩猟会で見た、武器商の娘の情夫によく似ていた。
似ていると言っても間近で顔を合わせたことはなく、ただ遠目に見た「彼女の新しい男」とあの剣士の後ろ姿が似ているといった程度のもので、その姿を見たのもそのただ一度きりだ。常識的に考えれば、本人である可能性は極めて低い。
だが、寒さと飢え、ここ数日の強行軍で半ば正気を失いかけていた男は、あの剣士からもう目が離せなくなっていた。
「選帝侯の異母弟、雇い主を連合国に売り、帝国滅亡の遠因を作った裏切り者……!」
そんな男が何食わぬ顔して目の前にいる。まるで初めから王国人であったかのように振る舞い、あまつさえ切り札の竜に手を掛けようとしている。
ほとんど無意識のうちに、男は弓を番えていた。もし竜を御しきれなかったそのときには、自ら引導を渡すつもりで持ち込んでいた沼蛇の毒矢だ。
無論こんなもので竜を殺せるとは男自身も思ってはいない。
だが、人であれば耐え難い激痛に襲われ、半時も持たずに死に至る。
標的はあの裏切り者だ。亡き皇女にも認められたこの弓で、必ずやあの裏切り者を仕留めてみせる。
せめて一矢報いねば、貴き命を散らした同志が浮かばれない。
妄執に憑りつかれた男は、限界まで弦を引き絞った。
(……なんだ?)
呼吸を整えながら双剣の血糊を振り払ったクレメンスは、森の片隅に人影を見たような気がして眉根を寄せた。
その方向に視線を向けたのはほとんど偶然。そうでなければ、激戦が繰り広げられる中、その男に気付くことはなかっただろう。
――竜の左後方に広がる森のほとり。そこには巨木の影から戦場を覗き込む男の姿がある。薄汚れた猟師風の男だ。
逃げ遅れか、それとも規制を掻い潜った猟師かとも思ったが、その男はおもむろに弓を番えた。
竜討伐の援護射撃というには弓の角度が不自然で、目を凝らして男が狙う方向を見定めていたクレメンスの横合いから、フロルの緊迫した声が掛かった。
「帝国人だ。何度かキャンプで見かけタ。水が合わなイといって、長くは居付かなかったが」
ざわりと肌が粟立った。
男の弓の直線上に、アレクの姿を認めたからだ。
「アレク! 弓使いが狙っている!」
声を限りに発した警告の言葉はしかし、爆音に掻き消されて届かず、あの男の殺気も戦場に紛れて誰も気付いてはいない。
「くそっ!」
この位置からでは間に合うかどうかは際どいところだ。男の弓は既に限界まで引き絞られている。
だが、それでも駆け出さずにはいられなかった。
(間に合ってくれ……!)
無我夢中で疾走するクレメンスの帽子が風に舞い、銀髪が露わになる。
視界の端で、男の腕が動いた。弓を射たのだ。
「アレク! 避けろっ!」
再びの警告にも竜の咆哮が重なり、また虚しく掻き消されてしまった。
(――駄目か!)
高速で飛翔する矢をこんなもので防ぎ切れぬとは分かっていても、クレメンスは双剣を構えてアレクの背後に飛び込んだ。
瞬間、ヂ、と双剣を掠めた耳障りな音が響く。
続いて激しい衝撃、灼熱。
振り返ったアレクの目の前に、鮮血と、銀糸が舞った。
陽キャ竜「……」
※さすがに空気を読んでいる




