21 氷蛇竜戦(1)戦いの幕開け
戦場となる氷湖北東岸を目指し、ザックを先頭にした討伐部隊は緩やかな丘を一気に駆け下りた。
竜よりおよそ五十メテルの位置、半同心円状に布陣していた先遣隊から比喩ではなく歓声が上がった。
領内北部全域に及ぶ魔獣暴走対応で多数の人員が割かれ、小竜種や大型魔獣の棲み処には精鋭の騎士達が派遣されている。先遣隊も討伐部隊の騎士の数も、決して多くはない。竜相手ではむしろ少な過ぎるとさえ言ってよいだろう。
一個小隊ほどの人数で防衛に徹し、一進一退を繰り返す戦いに彼らは疲弊していた。
しかし、接近戦を禁じられたことが功を奏したのか、致命傷を負った者がいないのは幸いだった。
「討伐部隊到着!」
「待ちかねたぞ! 全隊、一度押し返したのち、負傷者を回収しつつ後退! 防衛線にて態勢を整えろ!」
「魔法騎士隊、総員火炎魔法用意――撃て!」
数十人に及ぶ魔法騎士の火魔法が炸裂し、炎そのものは効かずともその爆風で氷蛇竜は押し戻された。足止めの泥沼にずぶりと嵌り、態勢を崩して横倒しになった。
これを機と見て先遣隊が後退を始め、入れ替わりで討伐部隊の騎士達が順次指定の位置に就いていく。
湖岸に立ったアレクは、足元の意外な温かさに目を見開いた。
氷湖の冷気によって湖岸は真白に凍り付いているはずだったが、地面は溶けてすっかり乾き、むしろ温かさすら感じるのだ。先遣隊が魔法で足場を整えた名残であるらしい。
「足場は我々騎士隊が引き続き維持する。貴殿らは戦いに専念してくれ」
引き上げる間際、先遣隊指揮官はそう言った。
絶え間なく湧き上がる冷気が地面をそのままにしておくことを許さず、端から再び凍り付かせていくのだ。だから魔法で常に干渉していなければならず、その地道で骨が折れる作業を彼らは引き受けると言った。
「そいつぁありがてぇ」
「なに、これくらいはやらねばな。暖房とまではいかぬが、なかなか快適だったぞ。足元が冷えんのはいい」
役目を引き継いだ騎士達が展開する魔法にどこか見覚えがあると思ったが、シオリの家政魔法を参考にしたと聞かされて合点がいった。
発案者はシオリの講座に参加した騎士で、快適な眠りのために固い地面を整えるというシオリの話から着想を得たという。
「いずれ近いうちに是非お話を」
微笑して軽く頭を下げたシオリに笑顔で返した彼は、直属の部下を引き連れて後退していった。
その間、氷蛇竜はその巨体ゆえに粘性の高い泥沼から這い出ることに苦戦しているようだった。今だ態勢を直せずにもがいている。
このまま泥沼深く沈めて再封印すればよいのではという考えがちらりと脳裏を掠めたが、それでは根本的な解決にはならないということも知っている。
事実、この竜は封印から目覚めてここにいるのだ。いつかはまた再び目覚め、世を騒がせることになるだろう。
だから今、ここで斃しておかなければならない。
「しかし……大きいな」
大きいとは思っていたが、改めて間近で見るとその巨大さに圧倒された。アレクでさえ、本音を言えばこれは人間が戦っていいものではないとさえ思う。
かつて倒した火竜とはまるで違った。あれらは飛行の妨げにならぬように、小柄で細身だった。
だが、目の前のこの竜はどうだ。小山のようなとはよく言ったものだ。
こんなものが長年誰に知られることもなく眠り続けていたなどとはぞっとする。
最接近して分かったことだが、人工の泥沼の後方には何かを地中から引き抜いたような大穴と亀裂があり、砕け散った岩や巨大な氷塊が散乱していた。土魔法、氷魔法での足止めが失敗した跡だ。
亀裂の深さ、岩や氷塊の大きさからして拘束力は相当に強かったはずだが、竜の膂力がそれを上回ったのだ。
だがそれより気になったのは、竜が泥に浸かっていながら平然としていることだった。もうもうと激しく湯気が立ち上っているからには高温なのだろうが、温度そのものはまるで意に介していないようなのだ。
「――ちょいと待っておくれな。この邪竜様ときたら、出端を挫いてくれるじゃないのさ」
「これ、もしかして空調魔法が効かないんじゃ?」
ナディアとシオリの表情は硬い。
「どうするザック」
ザックはしばし氷蛇竜を見つめていたが、すぐに「やめとこう。無駄に魔力を消費する必要はねぇ」と答えた。
長時間の高温曝露は恐らく無意味。
これで戦闘開始前に有力な手段の一つを失ってしまった。
「低温高温両方に耐性あるなんてねぇ」
ナディアがぼやく。魔導士にとってはやりにくいことこのうえない相手だ。
「やはり、物理攻撃で叩くのが確実か」
「だな。地竜は初めてだが、どうにかするしかねぇ」
こんな巨大生物と生身で戦うなど、アレクとてできるならやりたくはない。
――巨躯の竜種は、些細な動作一つが人類にとって脅威となる。たったの一歩で数メテルを移動し、軽く前脚を振り払っただけで人間の身体などは容易に吹き飛ぶ。爪が掠めれば、皮膚が薄皮を剥くように剥ぎ取られてしまうほどだ。
だからまずは動きを封じなければならないが、地竜は水竜に次ぐ巨躯の持ち主なのだ。例えザックの大剣を根元まで突き刺したとしても、心臓には届き得ない。その巨躯を支える四肢や尾も頑強で、斬り落とすにも一筋縄ではいかないだろう。
だがやるしかない。
ナディア達は魔法による物理攻撃中心の戦法に変えることにしたようだ。
シオリも空調魔法の役目がなくなり、治療及び補助要員として流動的に動くことになった。ニルスの薬品と輜重隊の物資を受け取り、腰元のポーチの中身を手早く入れ替えていた。
ルリィとブロゥは護衛兼負傷者の搬送係だ。
――転倒した氷蛇竜は体勢を立て直しつつある。戦う相手が変わったことを覚り、既にその視線はこちらを向いていた。
各班指定位置に就いたのと騎士隊から全隊配置完了の報が届いたのはほとんど同時だった。
「よォし、始めるぞ! ナディア、ダニエル班、凍結魔法!」
戦場にザックのよく通る声が響く。
第一戦から退いた身ではあっても、その気迫はまだ衰えてはいない。
(――もし義兄上が生きていたら、多分今頃あいつは王国騎士団のトップに立っていたのだろうが)
一瞬浮かんだ、過去のある瞬間まではあり得たであろう彼の「未来」の姿を即座に頭の隅に追いやったアレクは、一気に踏み込んだ。
「全面凍結!」
ナディア達A級魔導士の強力な凍結魔法が、高温の泥沼を巨大な氷塊に変えた。
「キュォッ!」
泥沼から這い上がろうとしていた氷蛇竜は、四肢と胴体の動きを封じられ、勢い余ってがくんと首を垂れる。
すかさずリヌスが弓を引いた。
鋼をも貫く月魔鉱製の矢尻が竜の眼前に迫る――瞬間、巨大な口ががぱりと開き、槍の穂先のような牙が生え揃う口から強風を吐き出す。
ごぉ、と唸るような強風は湖岸を吹き抜け、矢を呆気なく吹き飛ばした。
「ちぇ、やっぱ一筋縄にはいかないかー!」
叫びながらも彼は脱兎の勢いでその場を離脱した。竜がリヌスの姿を捉えたからだが、それが竜にとっての隙ともなった。
竜が細身の弓使いに気を取られた瞬間、大地から岩と氷の巨大な槍が生えた。
強靭な鱗に覆われた硬い皮膚を貫通することはなかったが、横面を殴られた衝撃で頭部が大きく揺れた。
リヌスの追撃が片目に見事命中、「ギャンっ」という短い悲鳴が上がった。
「さすが!」
誰かの称賛の声と、口笛が響く。
その間アレク達も黙って見ている訳ではない。その巨体との距離を詰め、凍結した泥に固定された尾に一斉に斬りかかった。
アレクとルドガー、魔法剣士達の炎を纏わせた魔法剣が表面の鱗を削ぎ落す。
魔獣の鱗は魔法にも物理攻撃にも耐久性があるが、垂直方向の衝撃に比べて横方向の攻撃には弱い。ユルムンガンド戦で得た鱗の対処法は、幸い氷蛇竜にも効いたようだ。
「うわーっ、これ気持ちいいなァ!」
気持ちよく剥げ落ちた鱗に、ルドガーは思わず歓声を上げていた。
鱗の下の剥き出しになった肌に、渾身の力で振り下ろされたザックの大剣が突き刺さる。肉が裂け、ゴリュ、と気味の悪い音を立てて大剣が止まった。
血飛沫が飛び、ザックの身体を朱に染めた。
氷蛇竜は吼え、激しく身体を揺する。
無論、剣士達は既にその場から退いていた。
足元からびきびきと音が鳴る。氷塊がひび割れる音だ。
だが抜け出すまでには至らず、竜は悔しそうに短く鳴いた。
「さすがに一回じゃ無理か! だが悪くねぇな!」
血塗れの大剣を抱えたザックは満足そうに笑った。
「今のうちにやっちまうぞ!」
「おう!」
答えるアレクとルドガー、他の班員も笑顔だ。
だが、皆それが容易ではないことを知っている。
ザックの大剣捌きは骨を断つほどのもの、その全体重を乗せた切っ先を受けてなお無傷を保った骨に、一体何度斬り付ければ断ち落とすことができるのか。
それまでの間、この異形の竜が大人しくしていられるのか。
(――恐らく、あと一度打ち込めるかどうかだ)
アレクの勘は当たっていた。
事実、もう一度鱗を削いだ瞬間、氷蛇竜の咆哮とともに足元が激しく泡立ち始め、巨大な氷塊がただの泥沼に戻ってしまった。
大気が揺らぎ、氷蛇竜の胸部が大きく膨らむ。
肌を圧迫するような独特の感覚。「それ」が来ることを察したアレクは叫んだ。
「魔力放出が来るぞ! 堪えろ!」
重なるように重低音の咆哮が上がった。
強風さえ伴う魔力放出と同時に闇に覆われ、脳と心臓を冷たい手に鷲掴みにされたような感覚に襲われる。
「うぁっ……!」
絶望に沈むような昏い闇――少年時代の陰鬱な幻を見たような気がして、アレクはその場でたたらを踏んだ。
仲間達も似たようなもので、ルリィとブロゥが風圧でころころぽよんと転がっている横に、シオリが自分の身体を抱き締めるようにして立ち竦んでいる姿が見えた。
駆け寄って抱き締めたいが、それを許される状況ではない。
ヴィオリッドは態勢を低くして油断なく身構えているように見えるが、鼻面に皺を寄せて牙を剥く表情がその心情を物語っていた。この魔狼の孤独だった過去を、暴かれたに違いなかった。
「第二波が来るぞ! 耳を塞げ!」
大地を揺るがす咆哮は人々の恐怖感をさらに煽る。
被害は後方の騎士隊にも及んだ。耐えきれなかった幾人かが膝を突いている。倒れ伏して動かない騎士を、衛生班員がよろめきながらも引き摺って行く。
「気付け薬を!」
ニルスの怒鳴り声で、冒険者達は歯を食いしばりながら腰元のポーチを漁った。小さな薬瓶の中身を呷ると、微かな苦みを感じたあとに甘く爽やかな薄荷の香りが鼻腔を抜けた。
それでいくらか残っていた不安と不快感が解消される。それでも回復しきれなかった者は、ルリィとブロゥがしゅるりと回収して後方まで運んでいった。
精神攻撃で受けるダメージの度合いには個人差がある。感受性の強さやその日の体調にも左右されるとは言われているが、向けられた負の感情があまりに大きければ、受け止めきれずに昏倒する者さえ出てくる。
あの虚無の竜が放つ負の感情には、それほどの威力があった。
――魔力伝いに感じた孤独と絶望。恐らくあれは、それを深く体験したことがある者ほど効果がある。
素早く視線を巡らせたアレクは、クレメンスに助け起こされているナディアを見た。
ザックは両脚で立ったまま平然と身構えているが、顔色は悪く幾分苛立っているようにも見えた。二十六年前の悲劇の記憶を蒸し返されたことが気に障ったに違いない。
「……お前は大丈夫か」
竜から視線を外さないままゆっくり後退したアレクに、深呼吸した恋人が答える。
「ん、平気。ちょっとびっくりしただけ」
「ちょっと、か。何度でも言うが、無理はするなよ」
なんでも「ちょっと」で済まそうとする愛しい恋人には苦笑するしかない。
人々が動揺していた一分弱の間に、異形の怪物は泥沼を抜け出していた。
足元で蠢く人間達をちらりと見る。
しかしそれも束の間、ふと視線を逸らした竜は、無造作に一歩、二歩と踏み出した。
北東、クリスタール平原の方向だ。
やはり、どうあっても下へ、人がいる場所へ行こうというのだ。
ち、と舌打ちしたアレクは嘲笑った。
「俺達なんぞ眼中にもないということか」
「上等だ」
ザックもまた赤毛から血を滴らせたまま、凄絶な笑みを浮かべた。
「なんとしてでも振り向いてもらうぜェ、色男!」
竜殺しの英雄の咆哮は、冒険者達を鼓舞する鬨の声となった。
ルリィ「ところでギリィは?」
マンティコア「治療中の奥歯がまた砕けて歯医者に怒られてる」
ユル蛇「過ぎた嫉妬は身を亡ぼす……」
※もう亡んでる




