20 虚無と混沌の怪物
第一印象は竜の形を成した巨大な美しい真珠。
けれどもよく見ればその姿はひどく歪だ。
身体つきは確かに地竜のものだ。
しかし、体格にはやや不釣り合いに小さな頭部と白銀に輝く鱗はユルムンガンドによく似ていた。鳥に似た後ろ脚とくるりと巻いた太い尾には、バジリスクの特徴が出ている。前脚と一体化した翼はワイバーンのものだろうか。
様々な生き物を繋ぎ合わせた歪な竜の足元には、何かの残骸と赤黒い染みがあるのが遠目にも分かる。旧皇帝派の残党の成れの果てであるのだろう。
神話の邪竜をそのまま体現したかのようなその竜は今、虚ろな瞳で人々を睥睨していた。
生き物であるなら、なんらかの感情がそこに見えるはずだ。だが、そこにあるのは底なしの虚無だった。
――強い既視感を覚えたアレクは、思わず隣の恋人に視線を向けていた。
幾許かの緊張はあれど、その落ち着いた色合いの瞳には強い光が宿っている。
(大丈夫だ。あのときとは違う)
それを分かってはいても、アレクは湧き上がる不安を抑えることができなかった。
目の前の竜とかつての彼女の瞳はあまりに似通っていて、このまま戦えばシオリがあの竜と同調してしまうのではないかとひどく不安だった。
だが、当のシオリに「大丈夫」と袖を引かれて、目を瞬かせる。
「大丈夫だよ。私はもう空っぽじゃないから」
そう言って彼女は小さく笑った。
聡い彼女は、自分と竜を見比べているアレクの表情から察したに違いなかった。
「空っぽだった私を満たしてくれたのはアレクだよ。今この瞬間だって満たしてくれてる。アレクと出会ってからまだ一年も経ってないのに、もう溢れそうなくらいなの。だから、大丈夫だよ」
「なるほど」
愛剣を握り直したアレクは、竜を見据えながらにやりと笑った。
「そんな可愛いことを言ってくれるなら、これはさっさと終わらせて帰らないとな」
夜のお楽しみを匂わせるとシオリは頬を赤らめ、足元のルリィが「お前はこんなときにまで何を言っているんだ」とばかりにじっとりと見上げた。真横に陣取っているヴィオリッドは「ご馳走様」とでも言いたげに鼻を鳴らしていて、アレクは密かに苦笑いした。
(いつも通り。いつも通りだ。肝心の俺が動揺してどうするんだ。いつも通りじゃないか)
そう、いつも通りに戦うだけだ。
湖岸の戦場を見下ろす丘にある第一次防衛線。そこに設置された土塁の内側で馬車は止まる。
竜が本気を出せばあまり意味はないだろうが、土魔法で築かれたそれは一応の防御壁代わりになっていた。竜の攻撃射程圏のぎりぎり外側とはいえ、魔法攻撃の余波を食らう可能性もある。何もないよりは遥かにいい。
「待っていたぞ」
討伐部隊の到着を認めた先遣隊指揮官が、手短に挨拶を済ませて状況を教えてくれた。
「現況を伝える。目標は北東、平原方面に向かって移動を試みている模様。魔法騎士隊、弓騎士隊が移動阻止のため交戦中。目標の突進攻撃、氷、水、風属性の魔法使用及び魔力放出を確認。魔法耐性あり、弱点属性、急所ともに不明」
「飛行能力は?」
「未確認。ただし前脚にワイバーン様の翼あり。飛行の前兆行動様動作を一度確認した」
「分かった。しかし魔法耐性ありか。炎属性も試したんだな?」
「無論だ。全方位から最高火力で撃ち込んだがまるで動じん。足止め程度にしかならなかった」
さすがに伝説の竜の名を冠するだけのことはある。
竜は本体のみならず、表皮を覆う鱗そのものにも強力な魔力を帯びている、基本的に魔法耐性が高い魔獣だ。ゆえにこれと戦う側は、物理攻撃主体の近接戦を強いられる。これが竜討伐を難しくしている最大の理由だ。
それでも属性付きであれば、不利な属性魔法である程度体力を削げるはずだったが、弱点属性と思われる火属性が効かないのだ。気のせいではなくその場の空気が重くなった。
「奴の属性は氷属性で間違いねぇのか」
「正直に言うとよく分からん。氷属性は強く感じられるが、明確にそうだとは断言できんのだ」
「なんだそりゃぁ」
騎士らしからぬ曖昧な返答に、ザックは眉根を寄せた。
「例の探索魔法でも探らせたが、どういう訳か属性が混在しているうえに使用者の半数が昏倒してそれ以上探れんのだ。ここからでも分かるだろう。あの不気味極まりない気配を。あれは精神に来る。中てられて離脱を余儀なくされた者もいる。そのうえ魔力放出時の精神攻撃が強力で下手に近付けん」
「属性が混在……!?」
一般的に生物は単一属性である。属性の異なるものを掛け合わせても、生まれてくるのはどちらか一方の属性だ。それが属性が混在しているとはどういうことか。
ザックはしばらく考え込んでいた。その視線がこちらを、正確にはシオリの方を向いた。
「……シオリ。探れるか」
自分で声を掛けておきながら、彼の表情に不安が滲んだ。
訓練された騎士が昏倒するような気配だ。魔力が低いシオリに任せることに躊躇いがあるのだろう。
だがシオリは「やってみる」と頷いた。
目を閉じて集中する彼女の身体から微細な魔力の糸が伸びる。
彼女を興味深く観察していた騎士達から小さな感嘆の声が漏れた。無駄がなく、繊細で美しい魔力の流れに感じ入ったようだった。
「全体的には氷の属性を強く感じるけど、前脚……翼かな? の片方は風、もう片方は火、それから後ろ脚のあたりは土属性だと思う。身体の中心部にも氷とは違う属性があるような感じがするけど、深い闇のような気配……強い拒絶があって探れない。これ以上は私の魔力が押し負ける。ごめん、兄さん」
竜の毒気に中てられて幾分蒼褪めたシオリは唇を噛んだ。多分悔しいのだろうが、それでも騎士達は細かい探索結果に驚きを見せている。「噂以上だ」と誰かが呟く。
「いや、この距離からそこまで分かっただけでもありがてぇ。よくやった」
ザックも労いの言葉をかけたが、シオリの眉根は寄ったままだ。何か気に掛かることがあるらしい。
「どうした。ほかにも何かあるのか」
促すと、躊躇いがちに口を開く。
「属性の変わり目……って言えばいいのかな。線を引いたようにくっきりとした境界線がある感じで、生き物にしては不自然かなって思った。なんていうか……異素材の生地を繋いだら、境目が目立ってるみたいなそんな印象」
「どういうことだ」
それが何を意味するのか。戦況を有利なものにする情報なのかを図りかねた騎士達は眉根を寄せた。
しかし騎士の一人が口を挟んだ。
「前脚と後ろ脚だと言ったな。その部位は胴体と少しばかり色が異なるという報告を受けている。模様なのかと思っていたが、何か意味があるのかもしれん」
自然、人々の視線が氷蛇竜に集まった。
首を巡らせ尾を振り回す氷蛇竜を、遠巻きにした騎士達が牽制している。大きな損害は出ていないようだったが、精神攻撃を懸念して一定距離以上の接近ができず、苦戦しているようだ。
しかし、よく見れば竜の四肢の動きがぎこちないようにも思えた。
「話し中申し訳ない。発言の許可を」
エレンと何か話し込んでいたニルスが、沈黙を破った。
医師資格を持つ二人に注目が集まる。その表情は硬く強張っていた。
「現物を間近で確認した訳じゃないし、ストリィディアではまだ認められていない治療法だから、これは推測になるけれど」と前置きしたうえでニルスは言った。
「その二ヶ所は、もしかしたら移植したのかもしれない。損傷の激しい部位に、本人や近親者の組織を移植する治療法があるんだけど、動物や魔獣の場合、同種の別個体や近縁種の組織を使うことがあるらしい。そのときに組織の提供源が異属性であった場合、移植部位に提供源の属性がそのまま残るという話だ。つまり、後天的に属性を複数持った個体になるということらしい」
「異属性の個体を交配した場合はそうはならないわ。どちらか片方の属性しか発現しない。あの竜が交配を重ねて作り出された合成魔獣だというなら、単一属性のはずよ」
「理屈は分かるが……別個体の組織を移植だと?」
「そもそもあの巨体にそんなことができるものなのか? 手術はおろか、組織の提供源を探すことすら容易ではないだろう」
当然驚きの声が上がるが、二人は不可能ではないと言った。
「体格の小さい幼生体の段階であればできないこともない。竜だって卵から孵って数年は大型犬程度の大きさだっていうじゃないか。決して不可能ではないと思う」
「それも二つ以上の属性を持っているというのなら、あの竜は合成魔獣というよりはむしろ、いくつもの魔獣を繋ぎ合わせた……継ぎ接ぎ細工の生物ということになるわね」
かつて栄華を極めた旧帝国は、最盛期には様々な分野の最先端にあった。生物工学や医療技術もまたその一つだ。
――数々の合成魔獣を生み出した旧帝国。その一部を既に目にしたことがあるアレク達にとって、それは否定しきれない話である。
二人の推論が事実である可能性は、決してゼロではない。
「これが事実だとするなら、こんなものは間違っても治療とは言えないよ。いや、それどころかむしろ――」
ニルスはそこで言葉を切ったまま沈黙した。
(面白半分に……命を弄んだのか)
途切れた台詞の先を想像したアレクは、吐き気を催すような嫌悪感に低く呻いた。教育水準の高い、ここより遥かに発達した世界から来たというシオリなら、より惨い事実に思い至ったかもしれない。
蒼褪めた彼女を抱き寄せる。その肩は心なしか震えているようにも思えた。
足元のルリィは身動ぎすらしなかった。代わりにヴィオリッドは牙を剥き出して低い唸り声を上げていた。
(行き過ぎた栄華と欲は、かくも倫理観を狂わせるのか)
――もし推測が事実とするならば、惨く悍ましいという言葉では到底足りない。あの竜が虚無の深淵に至ったその理由の一端を垣間見たような気がして、アレクは天を仰ぐ。
夏の朝の高く澄み渡った空は、残酷なほどに青く美しい。
この輝くような空の下、命溢れる世界に降り立ってなお、あの竜はただひたすらに冷たく虚ろなのだ。
「――まだ推測の域を出ねぇ。詳しいことは現地で確かめよう。話を続けるぜ」
長いようで短い沈黙を破り、ザックが声を張り上げる。
「合成魔法による簡易結界は試したか。あれは魔法耐性があっても有効だぜ。足止めの手段にもなる」
「簡単に言ってくれるな」
片眉を上げた指揮官は淡々と返す。
「残念ながら我々はまだそれを使いこなせる水準にはない。暴発の危険性が高いのだ」
シオリのせいですっかり当たり前のように思っていたらしく、これを聞いたザックは気まずそうに「ああ、そりゃあ……それもそうだな。いや、悪かった」と頬を掻いた。
「じゃあこっちで試させてもらう。シオリ、頼めるな」
「うん、任せて」
「あたし達にもやらせておくれな。ちょいと試したいことがあるのさ」
ナディアとダニエル、そしてヨエル達魔導士が目配せし合っている。春の講座以来続けていた研究の成果を、ここで試そうというのだ。
彼らに全幅の信頼を寄せているザックに否やはない。
「そんなら期待させてもらうぜ。そっちは任せた。それじゃあ俺達ぁ討伐に専念させてもらうが、構わねぇな」
ザックの言葉は念押しのようなものだったが、騎士隊の指揮官はあっさりと頷いた。
「問題ない。背後の護りは我々に任せてくれ。彼奴が例え空を飛ぼうが絶対に逃がさん。だから存分に戦ってくれ――だが」
それまで淡々としていた指揮官が最後、不意に言葉を途切らせた。ややあってから、再び口を開く。
「本音を言えば我々が戦いたかった。冒険者とはいえ民間人を……最前線に立たせたくはなかったよ」
微かに語尾が震え、その表情に悔しさが滲む。騎士隊を差し置いて、民間の組織に全てを託した上層部の決定への不満を口にするかと思われた。
「なんだ、不満か? 手柄ぁ横取りされんのが」
ザックは挑発的に言ったが、指揮官は首を振った。
「そうではない。騎士ではない人間を死地に向かわせねばならんことが不満なのだ。本来それは我々の役目だからな」
「真面目過ぎんだろ、騎士さんよ。緊急事態に騎士も民間人もねぇだろ」
渋面の指揮官にザックは笑った。
「やれる奴がやる、ただそれだけの話だ。今回は俺達に竜討伐の経験があった。そして俺達は攻めるのは得意だが護りには向いてねぇ。対象が多けりゃ多いほどな。領地だ国だって規模になっちまっちゃあ、物量でも信用度でも制服さんにゃぁ到底敵わねぇよ」
適材適所が適用されただけの話だと語ると、指揮官は苦笑気味に「そうだな」と頷く。
「――誰一人欠けてはくれるなよ。必ず全員生きて戻れ。そうでなければ我々は悔やんでも悔やみきれん」
生きて戻れ。
それはクリストフェルと同じ餞の言葉だ。
次の瞬間にはもう私人の顔をかなぐり捨てていた指揮官は、声を張り上げた。
「前線各隊に伝令! 討伐部隊到着と入れ替わりに第一次防衛線まで後退! 態勢を整えたのち討伐部隊騎士隊側面に移動! 冒険者隊を全面支援!」
僅かな待機時間にザックもまた指示を飛ばす。
「まずは奴の動きを可能な限り封じる。有効なのは翼と尾だ。この二ヶ所をやりゃあ運動能力をかなり削げる。俺とアレクの班は尾を切断。これで奴はバランスを失うはずだ。クレメンスの班は翼を。こいつは破くだけでいい。それから、もしニルスとエレンの推測が当たってんなら、少なくとも四肢の接合部分はほかの部位より強度がねぇ可能性もある。こいつは現地で見極めよう。いけそうならそこも攻める」
「了解だ」
「リヌスの班は目を潰してくれ。ニルスとエレンは例の接合部の有無の確認。医師の目で見て判断を頼みてぇ。カイ、すまねぇが一時的に二人を護衛を頼む。接合部が見えるところまで連れてってくれりゃあいい。その間、カイの班はクレメンスの下に入ってくれ」
「――ザック。ニルスとエレンにヴィオも付けてやってくれ。少しの間なら人も乗せられる」
身軽で賢いヴィオリッドなら、護衛役を十分に務められるはずだ。無論ヴィオリッドには許可を得てある。
アレクの提案にザックは目を丸くしたが、「よし、じゃあ頼んだ」と即断した。
返事の代わりにヴィオリッドは短く吠えた。頼もしい「友」だ。
「ナディア、ダニエルの班は奴の足止めと支援を頼む。さっきも言った通り、やり方はそっちに任せる。治療要員は各班後方に待機、負傷者の迅速な治療及び重傷者の搬送を頼む。エレン、ニルス、お前らも……前に出すことになって悪ぃが頼んだぜ」
「了解したよ」
「任せてちょうだい」
「それ以外の指示は各班長に従え。俺からは必要に応じてその都度指示するが、相手が相手なんでな、型通りにいかねぇ可能性は常に念頭に置いといてくれ」
「了解」
「それから……フロルとユーリャ。あんた方のその使い込まれた得物を信じて命じる。フロルはクレメンス、ユーリャはニルスの班に入ってくれ。最前線の戦いになるが、期待してるぜ」
二人は力強く頷いた。
彼らの剣と杖は、シルヴェリアの塔脱出時に置き去りにされていたはずだった。
しかし、雪解けを待って調査に赴いた駐屯騎士隊が、想い出の一つも手元に残らないのでは寂しかろうと、わざわざ回収してキャンプ地まで送ってくれたのだという。
その彼らの優しさと気遣いにも報いたいと彼らは言った。
「せいぜい足を引っ張らんように全力でやルさ」
「全力出すのは構わねぇが、命を賭けるだなんてことだけはよしてくれよ。さすがに寝覚めが悪ぃし、なにより……キャンプで待ってるお仲間が悲しむだろうからな」
「本当にお人好しダな」
フロルは笑った。
「……だが、悪い気分じゃない」
目の縁を濡らして俯く男の肩を、アレクは叩いた。
顔を上げたフロルは「大丈夫ダ、いつでも行ける」と目元を拭う。
「竜退治はさすがになイが、ワイバーンなら何度か経験がある。なんでも命じてくれ」
「そいつぁ頼もしい」
全隊に伝達完了の報せを受け、ひらりと手を振って返したザックはにやりと笑う。
いよいよだ。自然、背筋が伸びる。
「最後に戦闘中の注意だ。竜の直線上には絶対立つな。突進攻撃が来たらまず避けられねぇ。必ず側面に立てよ。それから前衛は一撃離脱が基本だ。一ヶ所には留まるな。尾の動きにも注意しろ。かすりでもしたら骨なんぞ簡単に砕けるからな」
個体数が極めて少なく出現場所も一定ではない竜は、国内の討伐総数も直近の二十年では両手の指にも満たない数だ。有効な情報そのものがあまりないのが実情。
ゆえに討伐には非常な困難を伴う。得られる全ての情報を取りこぼさずに集め、攻略法をその場で組み上げなければならない。
「――行くぞ!」
ザックの号令と共に、一斉に防衛線を飛び出す。
純粋な戦闘能力だけでは足りない。高い観察力と判断力、臨機応変の行動が求められる、竜――竜の形をした怪物の討伐が、ついに始まった。
氷蛇竜「ラウンドワンッ! ファイッ!」
ルリィ「陽キャが過ぎる」
_(:3」∠)_




