19 虚無の竜
冒険者達が仮眠を終え、身支度を整えて出揃う頃には出発の準備は整っていた。
討伐部隊が乗り込む馬車と輜重隊の運搬騎獣が街道に並び、出発のときを待っている。
馬車馬も運搬騎獣も、特別な訓練を受けた滅多なことでは動じない強靭な個体ばかりだ。馬車を引く多足軍馬は早く行こうと鼻息荒く、沢山の物資を括り付けた戦車山羊は暢気に草原の草を食んでいる。
組合の馬は騎士隊に預けられ、代わりに多足軍馬が繋がれた。
「こいつぁいい馬だ。頼んだぜ」
竜殺しの英雄の称賛に気をよくした美しい漆黒の馬は、勇ましい嘶きを上げた。
騎士隊の馬車を先頭に、討伐部隊が出発する。
直前、見送りに顔を見せたクリストフェルは、厳かな表情を崩さないまま瞳だけを僅かに揺らしてただ一言、「生きて戻れ」とだけ言った。
武運を祈るなどというどこか他人行儀な物言いではなかった。それは、紛れもない彼の本心であっただろう。
彼も武人だ。できるなら自ら先頭に立ち、共に戦いたかっただろう。
しかし彼の肩書がそれを許さない。危地と分かっている場所へ大切な友と部下を送り出さなければならない彼の胸中は如何ばかりか。
御者台に片脚を掛けていたザックは、不意に踵を返してクリストフェルに歩み寄り、肩の高さに手を掲げた。
目を丸くしたクリストフェルがやがて破顔して同じように手を掲げると、ザックは親友の手に己の手を打ち付けた。
必ず戻るという誓いの儀式。
ここにいる大多数の人々は彼らの関係性を知らない。けれどもこのとき、二人の間には確かな友情があることを知った。
――やがて馬車は走り出す。
シオリもアレクも、これから竜の待つ地へと向かう人々はただ前だけを見つめていた。もう誰も後ろを振り向かない。
それを見送る人々だけが、森に呑まれて見えなくなった討伐部隊の面影を探すように、いつまでもその場に立ち尽くしていた。
ディンマ氷湖までは国境に広がる森林地帯を抜けていく。地元の猟師が使う、巨木の根を迂回するように踏み固められた道を辿って奥を目指した。
夏空に巨大な枝葉を広げて聳え立つ巨木群に圧倒されたシオリは、知らず小さな吐息を漏らした。
幾人もの大人が手を繋いでようやく一周できるほどの巨木が生い茂り、竜の尾のような太い根がうねるように地を這っている。開拓するにはあまりにも手が掛かり過ぎるがゆえに、最低限の道以外はほとんど人の手が入っていないこの森。
けれども湧き水を水源とするいくつもの清流と栄養豊富な土壌、そして魔素の濃い森は恵み豊かで、この辺りに住む人々にとってはなくてはならないものだった。収入源でもあるのだ。
「だが、当面森の恵みは期待できんだろうな。少なくとも今年はもう……無理だろう」
アレクがぽつりと呟く。
「魔獣暴走対策でかなりの数を狩ってしまった。時間が経てば魔獣やそれ以外の生物もいずれまた戻ってくるだろうが、それまでに廃業する猟師も多いだろうな」
彼の視線は道の端に転がる魔獣の死骸と、暴走する魔獣に踏み荒らされたベリーの群生地を捉えている。
魔獣暴走が与える影響は暴走そのものだけではなかったのだ。
「……魔獣の死骸を片付けてないのって、単純に手が足りてないからってだけでもない?」
「まぁ……そうだな。そういう面も少なからずある」
アレクは認めた。
「落ち着いたら近場の連中が拾っていくはずだ。あまり日が経つと腐敗が進んで難しいが、そうでなければ使える素材は沢山ある」
「そっか……それならやっぱり、なるべく早く解決しないとだね」
「ああ」
氷蛇竜さえ斃せばあとはトリスヴァル辺境伯の領分になる。きっとアレクやザックも密かに手を貸すのだろう。
――渦中の氷蛇竜は未だ氷湖に留まったままだ。
彼の竜は目覚めの食事を済ませた後、氷湖のそばで蹲るようにして浅い眠りと短い覚醒を繰り返しているという。
百数十年という長き眠りで消耗した体力の回復を図っているのか、あるいは氷の魔獣であるがゆえに氷湖に留まっていた方が都合が良いのかもしれないが、それはあくまでも推察に過ぎない。
いつ人のいる場所に向かって移動を始めるかも分からない状況だ。
しかし、攻略法の分からぬ未知の竜を無暗に攻撃してはならぬ、討伐部隊到着まで陣容を整えて待機と命じられた先遣隊は、でき得る限りの対策を講じているということだった。
彼らの主たる任務は魔獣の逃亡阻止だ。決して人が住む場所に近付けてはならない。足止めに掘った二重の深い堀を泥で満たし、結界の陣を幾重にも張り巡らし、飛ぶはずのない地竜型の魔獣が万が一にも空へ逃げることがないようにと、氷湖を取り囲むように魔法騎士隊と弓騎士隊を配置していた。
数多の命を抱くはずの森は今、息を潜めて待機する騎士達が放つ殺気と、妖気交じりの重苦しい冷気に覆われて、異様なまでの静けさだった。
命溢れる夏の痕跡を残していながら、その全てが失われてしまったかのような静寂は、言い知れぬ不安感を煽る。
ルリィやブロゥはそわそわと落ち着きがなく、ヴィオリッドは居心地悪そうに視線を彷徨わせている。使い魔達は、こんな森は知らないと言いたげだ。
奥へ進むほどに森本来のものではない、冷たく、粘り付くような空気が重苦しく圧し掛かり、シオリはふるりと身を震わせた。
常冬の湖が近いからというだけではない。何の準備もなしに近付けばきっと心身に障るだろう類の気配が人々に纏わりつく。
(……まるで死霊の巣みたいな……)
およそ生者のものとは思えない気配。それは冒険中に幾度か出会った死者の慣れの果ての気配によく似ていた。
幾人かが不調を訴え、ニルス処方の気付け薬を口に含んだ。
それでも回復しない者は途中の陣に預けることになったが、そこでも似た症状で手当を受けている騎士がいた。索敵中、氷蛇竜のものであろう気配に触れて失神したのだという。
間もなく意識を取り戻した騎士は、「えらい目に遭った」と呻いた。
「死霊の体内に取り込まれたらこんな気分になるかというような……なんとも悍ましい……」
氷蛇竜は死霊ではない。目視で確認されているからそれは確かだ。
けれどもその気配はまるで死霊のようで、何の心構えもなく探索魔法で触れてしまったその騎士は、この世のものとは思えない瘴気を孕んだ気配に意識を保つことができなくなったと語った。
話を聞きながらシオリは慎重に探索魔法の網を伸ばす。
――巨木群の先に、今感じている不快感を何倍にも濃縮したような「何か」がいた。
幸い意識は保てているが、長く触れていて良いものではないことは確かだ。その「何か」に同調しないように最大限の注意を払いながら魔法を解いた。
「おい、無理はするな。大丈夫か」
シオリを慮ったアレクが声を掛ける。
「大丈夫。なんとなく……こういうものの躱し方はもう覚えてるから」
この数年、伊達に魔法研究に時間を費やしてはいない。対象の気配に内包された感情に触れてしまうこともある探索魔法は、もはや第一人者と言ってもいい立場にある。そういったものへの対処法は身体で覚えてしまった。
「そうか……だが、無理はするなよ」
「うん。ありがと、アレク」
再び馬車を走らせて間もなく防寒具の全員着用命令が下り、夏服の上から冬装備を着込んだ。それでも心なしか肌寒い。初夏とは思えないこの寒さはどうだろうか。
「湖一つとその周辺を常冬にするほどだ。それで昔から湖底には氷の魔法石の鉱脈があるんじゃないかと言われていた。しかし、全面凍り付いているうえにかなり深いようでな。これまでにも何度か専門家が調べたが、結局詳しいことは分からずじまいだった。だが、そうは言ってもこれほど妙な気配は今までになかったはずだ」
「ねー。何度かこっちで仕事したことあるけど、こんなのは初めてだよ」
あまり事情に明るくはないシオリのために説明してくれたアレクの言葉を、リヌスが肯定した。口調こそ普段通りのものだったが、いつもは太陽のように笑っているはずの彼の表情は硬く、その顔色も冴えない。
この酷く重苦しい空気は、伝説に謳われた竜が目覚めた影響だろうとザックは言った。
「竜ってぇのは、その存在感だけで人が殺せるとまで言われてんだ。しかしここまでの奴ぁ俺も経験がねぇ。心してかかってくれ」
二度の討伐経験があるザックの言葉は重く響いた。
――竜殺しの英雄の到着まで、騎士隊に攻撃命令が下りなかった理由の一つ。
これほどの異様な気配の持ち主を下手に刺激して人里近くまで逃したら、それだけで死人が出る。そんなものを万が一にも国境――旧帝国ではない、氷湖の向こう、山脈を超えた先にある同盟国に逃しでもしたら、国際問題に発展しかねない。
国境に接した領地にはそういう問題も付いて回る。だから辺境伯というのは、単純に武力や政治力だけではない、そういう事態にも柔軟に対応できるだけの人間でなければ務まらない。
クリストフェルは、騎士隊や辺境伯家の私兵団を差し置いてまで、民間の冒険者組合を頼った。同一人物による二度の竜討伐は信頼に足ると、確実性の高い選択をしたのだ。
しかし、立場や面子を天秤に掛けるまでもなくその判断ができるほどの人材となると、そうはいない。体面を重要視する貴族はなおさらだ。
クリストフェルは国境地帯を任せるに足る人物なのだと改めて思い知らされる。
――前方から討伐部隊のものではない馬の嘶きが響いた。
巨木群の合間を駆けてくるのは伝令の早馬だ。
「竜覚醒、移動の兆しあり! 魔法騎士隊第一、第二が交戦中!」
伝令の言葉に被さるように重低音の短い咆哮、続いて爆発音が響いた。
木々の向こうから閃光が走る。
大剣を抜いたザックが叫んだ。
「総員戦闘準備! いつでも出られるようにしとけ!」
愛剣に手を掛けて前を見据えたまま、アレクはぽつりと呟く。
「……俺達のためだけじゃない。あいつやこの国の民のためにも、必ず勝って帰らないとな」
王族でありながら前線で自ら剣を取って戦うことができるアレクの、シオリにだけ聞こえた独り言。
本来の姿を偽り民からは見えない場所で、彼はこうして民のため、国のためにずっと戦い続けてきたのだろう。
「うん。勝って帰ろう。そして皆で夏至祭を目いっぱい楽しもうよ」
死ぬ気で戦うとは言わない。死ぬ気でなどと言っていては、いざという局面で「もういいか」と永遠の安息を望んでしまいそうだからだ。
ひどく冷たく、何もかもを拒絶するような気配に迫る中、自分を奮い立たせるためにもシオリは努めて明るく言った。
その言葉に呼応してルリィがぷるんと震え、ヴィオリッドも尾を振る。
「じき氷湖だ! 森から出るぞ!」
巨木群が途切れて突如開けた視界の向こう、陽光に煌めく白と薄青の世界の中心に見えたのは雪の小山――否、真珠をまぶしたように輝く白銀の竜だ。
首を巡らせた竜と、不意に視線が交わる。
そのガラス玉のような瞳は、およそ感情らしいものの一欠けらも見当たらない。ひどく虚ろだ。
まるで虚無の深淵を覗き込んだかのような錯覚に陥って身を竦めるシオリの横で、アレクは強い既視感に息を呑む。
怒り、悲しみ、痛み、苦しみ、孤独、渇望――あらゆる負の感情を煮詰めた後に残った、冷たく硬い空虚の結晶と化した瞳を、アレクはかつて見たことがあった。
(まるで、いつかのシオリのようだ)
それはあの日、悪意を抱く三人の娘達と相対したときにシオリが見せた瞳によく似ていた。
絶望というにはあまりに生温い、希望と名の付くもの全てを手放してしまった空虚な瞳だ。
【Take2】
氷蛇竜「待ってたぜェ! この瞬間をよォ!」ギャリギャリギャリギャリ
Q.なにか本編と性格が違わない?
A.「こっちは封印されずに自由に育った世界線のオレぇ」
ユル蛇「想定外に重ぉ……」




