15 咆哮
この日の夕方、トリスヴァル領北部に非常事態宣言が発令された。
領民は生活維持に必要な場合を除いて外出が制限され、夜間及び居住区域外への外出は全面禁止された。
小規模な村や集落では魔獣除けの城壁がある近隣の町への避難指示が出され、避難先に指定された領都を含む各町では、門を半開にして魔獣暴走に備えた。
堅牢強固な高い城壁に囲まれた領都トリスにおいては例外的に警戒水準は低く定められたが、飲食店での酒類の提供は制限され、夜会や興行の一切が禁止された。
劇場や酒場、娼館など、事実上営業停止となった店も少なくはなく、夏至祭を前にしてのこの措置には当然不満の声も上がった。
しかし、明け方から昼頃に掛けての魔獣暴走の予兆を多くの市民が目撃しており、安全が確保されるまでは致し方のないことだとして概ね受け入れられた。
だが、終わりが見えない。宿を求める旅人や帰宅を急ぐ人々の顔には不安が滲む。
市内に異様な雰囲気が漂う中、シオリとアレクは装備を整え直すために一度帰宅した。
ルリィとヴィオリッドは組合に残した。彼らにも何か思うところがあるようで、使い魔同士で情報交換するつもりのようだ。
「食料と回復薬は、野営道具とは別の背嚢に分けておけ。携帯食と回復薬は持てるだけ持っていけよ」
「うん、分かった」
今回は煮炊きをする余裕はあまりないだろう。
少なくとも一旦作戦が実行されてしまえば、完了までは休む時間は恐らくほとんどない。時間との戦いだ。せいぜい携帯食を摘まんで沸かし湯を飲む程度に違いない。
シオリは戸棚から小さな背嚢を取り出し、作戦時に携行する食料や回復薬、防寒具を押し込む。
最終目的地は夏期でも低温下にあるディンマ氷湖だ。そして、もし未知の竜種が伝説の氷蛇竜とするならば、氷雪攻撃が主体の可能性がある。防寒具は必須だ。
「仮眠は組合で取ろう。その方が少しでも多く休める」
「うん」
ザックを指揮官とする本隊は午後十時、後発隊は明朝三時に出発予定だ。
本隊に参加する二人は、慌ただしく身支度してアパルトメントを飛び出した。
そして暮れ泥む日がようやく落ちた午後十時過ぎ、冒険者達を乗せた幌馬車二台が北門から出発した。
剣が交差する冒険者ギルドの旗を掲げた幌馬車は、領都の城壁北側に防衛線を敷いた北方騎士隊領都防衛部隊の合間をすり抜ける。
街道沿いに展開していた隊の騎士の何人かが、最前線に向かう冒険者達を敬礼で見送ってくれた。その顔ぶれの中にニクラス・ノイマン――水虫は治っただろうか――や、ルリィの同胞ソルネとその主の騎士の姿もあった。
それ以外にも、名は知らなくとも挨拶を交わす程度には親しい顔見知りが幾人も。
武運を祈る。
後は頼んだ。
互いに生きて逢おう。
交わす言葉はなく、ただ敬礼と目礼でのみ伝えられるそれぞれの祈りと想いを胸に、組合の幌馬車は北を目指して走っていく。
日没直後の空は仄明るく、午前三時過ぎに夜明けを迎えるまでは概ねこの明るさを保っていた。
完全な闇に沈むことのない夜は夜行性の生物にしてみればやりにくいことこのうえないだろうが、この地の気候に適応した魔獣が跋扈する夜が、人類にとって危険であることに変わりはなかった。
そのうえ暴走魔獣は、普段は決して手出ししない格上の相手にも攻撃的だ。
遭遇率が高まることが予想された。
事実、街道周辺には真新しい魔獣の死骸が点在していた。断続的に発生する小規模暴走に、騎士隊の別動隊が対応したものだろう。
「だが、現地までは無視していいというのはありがたいな」
「そうだね……この数を相手にしてたら、いつまでたっても向こうに着かないもの」
出発の直前、辺境伯家から直々に「街道沿いの小規模暴走は騎士隊対応。冒険者隊は本陣に直行せよ」という報せがあった。竜殺しの英雄率いる討伐隊の到着に遅れが生じることを懸念してのことらしい。
幌から外を覗くと、平原のあちこちに点在する灯りが見えた。騎士隊の魔獣殲滅部隊の陣だ。時折魔法のものらしき光が明滅する。交戦中なのだろう。
「直線的か同心円状に進む大規模暴走は走路から起点が予想できるから、ある意味では対応しやすくていい。だがそれに不随して発生する小規模暴走は断続的で、どこで発生するのか分からないのも厄介なんだ。ほとんど奇襲みたいなものだな。だからああいうふうに、一定間隔で小隊ごとに陣を張って対応することになる」
「へえええ……」
「だが、今回は新型兵器を導入したってぇ話だ。少なくとも小規模暴走に関しちゃあ、これまでよりずっと楽になるかもしれねぇな」
「新型兵器?」
どこか意味深長な響きに振り返ると、兄貴分はにやりと笑った。
「索敵魔法だよ。お前が教えた」
「あ……」
春先の家政魔法講座の成果。
それを今、こんな形で見ることになろうとは。
「シオリほどの距離と精度はまだまだらしいが、なんとか実戦投入できるレベルには仕上がったようだな」
「遭遇前に大体の発生地と走路が分かるってぇのは便利だろうぜ。無駄足踏まずに済むんだからな。それに討ち漏らしもかなり減らせるはずだ」
出発から一時間。
これだけの距離を走っていながらまだ一度も暴走魔獣との遭遇がないのは、騎士隊の索敵を利用した殲滅作戦が功を奏しているのだ。
「……そっかぁ」
シオリは微笑んだ。
「ちゃんとお役に立ててるみたいで良かったよ」
感慨深く呟くシオリの肩を、アレクがそっと抱き寄せる。
足元のルリィも誇らしげにぷるるんと震え、優雅に寝そべっていたヴィオリッドが「やるわねぇ」と鼻を鳴らした。
放置すれば併呑して大きな集団になりかねない、群発する小規模暴走。
それを狩り尽くす勢いで騎士隊が頑張ってくれたらしい。
結局、街道を走っていて暴走魔獣の群れと遭遇したのは、発生地に近い地域に入ってからの二回きりだ。
「――さすがにこれは逃げきれんか」
避難民対応で五シロメテルおきに置かれた騎士隊の簡易休憩所を幾つか超え、間もなく最警戒区域に差し掛かる頃。
街道を塞ぐように現れたバジリスクの亜種を前に、アレクはすらりと愛剣を抜いた。
森林の奥深く、日の当たらない沼地に棲息するその魔獣の群れは、瞬く間に二台の馬車を取り囲んだ。油を差していない古びた扉のように、ギィギィと耳障りな鳴き声を上げている。
魔法灯の光に照らされて、どす黒い鱗が禍々しくぬらりと光る。
「手筈通り、第一、第四、迎え討て」
事前に班分けされた冒険者隊に、指揮官ザックの指示が飛んだ。
ルドガーが魔法灯を点滅させて、後続の馬車に合図を送る。
停車、応戦の合図だ。
すぐに了解の応答があり、威嚇攻撃と同時に減速を始めた馬車は間もなく停車した。
既に誰かの手で魔法障壁が張られ、魔獣の接近は防がれている。
早速近付こうとして行く手を阻まれた沼毒蜥蜴が、悔しげに牙を剥いた。
毒々しい錆色の口内から毒液が吐き出される瞬間を狙って魔法や弓矢を叩き込み、激痛にのたうつ魔獣の首を斬り落とす。
精鋭冒険者の連携は凄まじく、Aランク相当の群れは五分と経たぬうちに血の海に沈んだ。
「お疲れ」
「ああ」
ヴィオリッドの口元に付いた血糊をルリィがぺろりと拭き取る横で、シオリはアレクの頬に飛んだ返り血を消毒液を含ませたガーゼで拭った。
「……その辺に転がってるのも、人里近くでは見ないのが増えてきたね」
「ああ。どうやら本格的に魔獣が溢れ始めているらしいな」
今のところは氷湖の竜に目立った動きはないのか、大規模暴走が発生するまでには至っていない。けれどもそれも時間の問題で、本来人のいる場所には姿を見せないはずの種類が目立ち始めていた。
事は一刻を争う段階に来ている。急がねばなるまい。
――そう考えたシオリ達を嘲笑うかのように、彼方から響く不気味な音――声が、大気を震わせた。
……ォォォォォォォォォォォォンンンンン……
花火の余韻のようにも思えるそれ。
腹の底に響くようなそれは、巨大な生き物が放った重低音の咆哮だ。
誰もが瞬きすら忘れたように目を見開き、息を呑んだ。
仄明るい夜空が徐々に白み始め、間もなく夜明けを迎えようとしている爽やかなはずの黎明の景色は、得体の知れない重々しく不気味な気配に支配されつつあった。
ルリィ「約170dB」
脳啜り「それ災害級というか公害級……」




