13 氷湖の幻獣
支部からの報せには、討伐部隊は深夜にトリスを発つ予定とあった。夜間の移動は本来推奨される行為ではないが、それだけ急を要する事態なのだろう。
だからできる限り早く戻り、少しでも身体を休めたかった。
いつもならあと少しと思う距離も、急事を受け取った今はこの十シロメテルさえももどかしかった。近隣の村で馬か馬車を借りるという手もなくはないが、手配をしている時間も惜しい。
「こういう状況だからな。近場にも何人かいたようだし、馬はもう誰かが借りていったかもしれん」
アレクのこの予想は間違いではなく、最初に飛び込んだ村では直前に借り手が付いていた。トリス支部所属の冒険者が借りていったのだという。人相風体から察するにラネリード夫妻のようだ。
「やはりか。これはもう余計なことはせず徒歩で向かった方が良さそうだな」
「だね。それにそもそも私、馬には一人で乗れないよ。ああ……車だったら二十分もかからないのに……!」
しても仕方のない無い物ねだりが口を突いて出る。
「二十分……!? それは凄いな。向こうの乗り物はそんなに進んでいるのか」
「うん。ブロヴィートからトリスまでなら多分一時間くらいで着くよ」
「恐れ入るな。こっちもいずれはそうなって欲しいものだが、まだまだ夢の夢だな……おっと、なんだヴィオ」
急ぐアレクの背をヴィオリッドが鼻先でつつく。その金色の目は「つべこべ言わずに乗りなさいな」と語っていた。
アレクは躊躇いを見せたが、ヴィオリッドの有無を言わせない強い眼差しに覚悟を決めたようだった。
「分かった。じゃあ頼む。だが無理だけはするなよ。何度も言うようだが、俺はかなり重いからな」
「ヴォフッ」
提案が受け入れられて嬉しいのか、ヴィオリッドは高い声で一声吠えた。そして身体を低くして「乗りなさい」と促す。
「シオリ、来い」
「う、うん」
アレクの手でヴィオリッドの背に押し上げられたシオリは、言われるままに背嚢を前に抱え込んだ。その後ろからアレクの逞しい腕が回される。
「俺が支えているから。お前はヴィオの鬣をしっかり握っていろ」
「うん、分かった」
ヴィオリッドの「指示」で掴んでいい場所を教えられたシオリは、その鬣の根元近くを握り締めた。しゅるりと這い上がったルリィとブロゥが、二人とヴィオリッドの身体を繋ぎ止めるようにして巻き付く。
「よし、じゃあ行ってくれ。走らなくても良いからな」
「うぉんっ」
ヴィオリッドは短く吠えるなり、速歩で歩き出した。
人を乗せての駆足はさすがにできなかったが、それでも十分に速い。駅馬車と同等かそれより幾分速いくらいだろうか。この速度なら一時間もあればトリスに着くだろう。
「……思ったよりもずっと安定感があるね。もしかして気を使ってくれてる?」
「そのようだな。それどころか慣れているようにも思えるが」
訊けば人間はこれが初めてだが、迷子の魔獣を乗せて親元まで届けたことなら何度かあるということだった。珍しい外見ゆえに危険視されることも多かっただろうに、それでも見過ごせなかったのだろう。
「……優しいんだね」
ヴィオリッドは「放っとくのが嫌だっただけよ」とでもいうように「ヴォフッ」と小さく鳴き、その後は黙ってトリス目指して駆け続けた。
街道では一度だけ二人組の騎士に呼び止められたが、カスパルの許可証が功を奏してあまりしつこく追及されることはなかった。
休憩と情報交換を兼ねた彼らとのやり取りで、北方騎士隊の先遣隊はトリスを発ったらしいことが分かった。残念ながら我々は留守番なのだと、彼らは苦笑いした。
「駐屯騎士隊は受け持ちの地域を護ることこそが使命だからね。有事の際には留守番を仰せつかることになるんだ」
「誉れ高き騎士として、前線で武勲を立てたいという気持ちは勿論ある。だが、民を護ることもまた我らの務めだ。民も国の一部なのだからそう悲観することもあるまいが……若い連中はやはり不満のようだな」
有事の際にもその場に留まることを要求される駐屯騎士隊への配属は、左遷に等しいと考える若い騎士も多いらしい。華々しく活躍して武勲を立てたい騎士にとっては物足りなくもあるのだろう。
「……旧帝国の歴史を少しでも知っていれば、そんな考えに至ることもないと思うがな。攻めてばかりで護りを忘れた末に、護ることすらできなくなって滅亡したんだ。まぁ、活躍したいという気持ちは分からんでもないが」
目の前で苦笑いする壮年の騎士達の想いを代弁するようにアレクは呟く。
彼は時折こうして現地を見てきたかのように語ることがある。旧帝国史に造詣が深いということもあるだろうけれど、もしかしたらかの国を訪れたことがあるのかもしれないと、シオリはふと思った。
「それで、状況はどうなんだ。心なしかいつもより人通りが少ないようだが」
「北部からトリスまでは通行規制が掛かっているからそのせいもあるだろうな。外出制限まではまだだが、それも今後の状況次第だ」
「なるほど。実際現地の様子はどうなっている? 何か聞いているか」
アレクの問いに、騎士は幾分声を低めて答えてくれた。
「――原因の魔獣は氷湖の辺りに出たらしい。たまたま近くにいた狩人の一団が襲われたという話もあった。小規模な暴走もいくつか発生しているようだが、これが拡大するかどうかはまだ分からないな」
「氷湖?」
アレクはぎょっと目を見開いた。
「そのうえ竜型か。冗談にしても笑えんな」
「あまり考えたくはないがね。正直、せめて旧帝国の例の実験体であってくれればと思っているよ」
この辺りで氷湖といえば、ディンマ氷湖だ。旧帝国との国境付近に位置する万年氷湖で、帝国領時代中期頃までは氷の魔法石の産地の一つに数えられていた場所だ。
――そしてもう一つ。幻獣「氷蛇竜」が眠る地とも言われている。
神話の時代、大陸全土を支配し不毛の凍土たらしめた邪竜。それを死闘の末に封印した英雄が、帝国建国の祖なのだと伝説には語られている。
「それに氷蛇竜の噂で難民が恐慌を来す懸念がある。長引く難民生活で大分参っている者が増えているようだからな。氷蛇竜伝説は向こうが発祥だし、些細なことが引き金になりかねんのだ」
「暴徒と化すかもしれない……ってことですか」
「騎士隊はそちらの相手もせねばならん訳か」
「そういうことになるな。だから魔獣暴走だけならまだしも、万が一にもそういう事態になったら十中八九騎士隊だけでは手が回らんだろう。多分そろそろ組合にも通達が行ってるんじゃないのか」
「ああ。ついさっき報せを受けたところだ。いずれにせよ俺達も急いだ方が良さそうだな。ヴィオ、シオリ、行けるか」
「うん」
「うぉん」
騎獣に慣れていないシオリもヴィオリッドも、この数分でいくらか回復はできた。ルリィとブロゥも「こっちも大丈夫ー」とぷるるんと震える。
「よし、では行こう。あんた達も頑張ってくれ」
「ああ。すまないが、我々の分も頼まれてくれよ」
彼らは敬礼の代わりに籠手に包まれた手を差し出した。
前線に出向くことができない彼らの秘めた想いを、固い握手を通して受け取る。
そして二人は再びヴィオリッドに跨った。
トリスは目前。「初仕事」を最良の結果で終わらせるために、ヴィオリッドはこれまで以上に速度を上げて走り出した。
トリスに到着したのはそれから間もなくのことだ。
非常事態を示す半開きの西門に飛び込み、慌ただしく入市の手続きを済ませて組合に駆け付けたシオリ達を出迎えたのは、完全武装したザックだった。
シオリは息を呑んだ。
――ギルドマスターが自ら指揮を執るほどの事態なのだ。
ギリギリギリギリギリギリ
ユル蛇「何の音?」
ルリィ「ギリィの歯軋りの音」
歯医者さんが再びアップを始めたようです。




