10 雪狼も食わない
その晩、夜も大分更けた頃に案内された宿は素朴ながらも上品な佇まいで、その大きさや宿泊客の身形からして富裕層向けの旅館だろうと察せられた。かつては豪農の屋敷だった煉瓦造りの建築は歴史的にも価値があるらしく、学者が見学に訪れることもあるという。
その宿の一室が報酬の上乗せ分として用意されていて、使い魔三匹を連れていても十分な余裕がある立派なものだった。訊けば宿一番の部屋だという。
「こんな立派な部屋……使い魔も一緒で大丈夫なんですか」
「ええ。当館では全ての施設が問題なくお使いいただけますよ。最近は使い魔やペットをお連れのお客様も多いですから、村では同伴で宿泊できる宿も増えてきておりますね」
不安そうに訊ねるシオリに、村長の義理の弟だという支配人はそう言って笑った。
――ブロヴィートは元々農業と林業が中心の村だったが、国民の生活水準が向上して労働階級が旅行を楽しむことも珍しくはなくなったここ数十年は、街道沿いという立地の良さや蒼の森に面した美しい景観を生かして観光業にも力を入れているという。順調に観光客を増やした近年は、観光関連の第三次産業が占める割合が多くなってきているらしい。
「富裕層の方々にはこのような農村はあまり好まれませんでしたが、この二、三十年で大分考え方が変わったようでしてね。貴族の方々がお泊りになることも珍しくはなくなったんですよ。貴族ともなるとお連れ様も立派ですから、それなりの設備も必要ということで、当館も大分手を入れましたね」
「なるほど、そうなんですね……凄い」
富裕層が落としていく利益は大きい。羽振りが良いと連れ歩く使用人や護衛も多く、たった一日の滞在で何件もの宿が潤う。しかし何か問題があれば真っ先に訪問滞在を取りやめるのもこの層で、書き入れ時に富裕層の宿泊取り消しが重なると損失は計り知れない。
実際、先年秋の雪狼襲撃事件後に富裕層の事前予約がほとんど取り消しとなり、新規に始めた足湯でも減ってしまった売り上げを補填できず、食い繋ぐために雪解けまでの期間出稼ぎを余儀なくされた家もあったようだ。
「ですから早い段階で解決していただいて、本当に感謝しておりますよ」
幻獣騒動の原因となったヴィオリッドは申し訳なさそうに耳を垂れた。
しかしそれは勿論この魔獣のせいではない。元はといえば人間――それもとある貴族の企みによるものだったのだ。そのうえ村を襲ったのはヴィオリッドの両親率いる群れとは別の群れだったということだから、これについては誰もヴィオリッドを責めることはできないだろう。
村人達もそれは分かっていて、代わりに村唯一の写真屋を呼んで「記念撮影」を強請り、ヴィオリッドを随分と狼狽えさせていた。その様子を思い出したシオリは、くすりと笑った。
モノクロの写真ではこの美しい色を再現できないだろうが、それでも威風堂々とした佇まいは損なわれないに違いない。現像した写真は焼き増しして村役場や主だった施設に飾り、そのうちの一枚は後日アレク宛てに届けられる約束になっている。
初めての「家族写真」は村人や騎士隊の面々も参加しての賑やかなものになったが、この記念すべき日の良い想い出になるとアレクも無邪気に喜んでいた。
「写真は居間に飾るか。いや、その前に新居を決めるべきか」
「そうだねぇ。そっちを急いだ方が良さそう」
今のアパルトメントも二人と一匹暮らしには十分な広さだったが、雪熊ほどもあるヴィオリッドと同居するとなるとさすがに手狭だ。
新居を兼ねたシェアハウス用の物件を本腰を入れて探すことに決めた二人は、「楽しい予定で毎日が充実してるね」と微笑み合った。
――そして翌朝、窓の外から聞こえた牛の鳴き声で目を覚ましたシオリは、自分の身体をがっちりと抱え込んで眠っているアレクの腕を器用にすり抜けて上半身を起こした。まだ眠り足りないのか目を閉じたままもぞもぞしている彼の頬に口付けを落とし、そっと寝台を抜け出す。
床の上にはルリィとブロゥが広がっていて、そのすぐそばには携帯用の魔獣図鑑が転がっていた。就寝前の読み物代わりに眺めているうちに眠ってしまったのだろう。
寝台の傍らには昨日「家族」になったばかりのフェンリル――否、美しい雪狼のヴィオリッドが身を起こして座っていた。こちらは大分前から目を覚ましていたようで、「夜更かしした割には早起きね」とでも言いたげな悪戯っぽい目付きでシオリを眺めていた。
(これは……気付かれてたなぁ……)
夜中に目を覚ましたアレクが夢うつつのままおいたをしていたことに、ヴィオリッドは気付いていたのだろう。
さすがに新しい家族を迎えたばかりでそんな悪戯を仕掛けてくるとは思わず抗議したはいいが、当のアレクは寝惚けているのか目を閉じたまま終始ご機嫌で恋人を弄り倒し、耐え続けて精魂尽き果てたシオリが意識を手放すまでやめてくれなかったのだから堪らない。
――これは後で王兄殿下に是非ともご忠告申し上げなければなるまい。
気恥ずかしさで顔を赤らめながら「おはよう、ヴィオ。早起きだね」と声を掛けると、ヴィオリッドから「ヴォフッ」という返事があった。
「――もしかして、起こしちゃった?」
声は潜めていたつもりだったが、音に敏感な魔獣を起こしてしまっていたかもしれない。もしそれからずっと眠れなかったのだとしたらあまりにも申し訳ない。
そんなシオリの懸念を察してか、ヴィオリッドは「違うわよ」と否定するような素振りを見せた。
「それならいいんだけど……」
「……元々眠りが浅いのかもしれんぞ。今までずっと危険に晒されていたようだったからな」
布団の中でずっともぞもぞしていたアレクが、ようやく身体を起こして口を挟む。
実際にその通りだったようで、ヴィオリッドは「くぅん」と喉を鳴らした。
食物連鎖の上位にいる大型肉食魔獣がほかの魔獣に襲われることは稀だというが、ヴィオリッドの場合は同族の雪狼から狙われることが多かったという。同じ姿形をしていながら色だけがまるで違う、それが彼らの警戒心と嗜虐心を煽っていたようだった。だから塒を転々とし、夜も警戒しながらうとうとする程度の生活を余儀なくされていたのだ。
「そっか……」
毛色が違うがゆえに厳しい環境に置かれてしまうその辛さをシオリは知っている。ただそこに存在するだけのことですら「普通」の人以上の努力を強いられる生活は、心身共にひどく疲弊させるものだった。
「俺も実家にいた頃は眠りが浅かったからな。何の心配もなく眠っていられる今の環境が心底ありがたいと思うよ」
彼も本来安全であるはずの家に居てさえ安心して休むことができなかったという。最大の庇護者であった父王が死病に倒れてからは、後ろ盾が同い年の異母弟と父の側近のほんの一握りだけになってしまったアレクにとって、家ですら安らげる場所ではなくなってしまったのだ。
気を抜いたところで命を取られるか、あるいは既成事実を作られて王家に相応しくない婚約を強要されるか。望まぬ王位継承権争いは、夜の細やかな安らぎの時間すら彼から奪っていた。常に緊張を強いられていた最後の一年は熟睡できず、それも彼の健康を損ねる一因だったという。
――睡眠不足は健全な思考を奪う。ヴィオリッドから訊き出した身の上話が事実とするならば、歴代の「フェンリル」が精神的に弱っていったのも無理はない。
「だが、これからはその心配もなくなる。安心してゆっくり眠るといい」
アレクの言葉にヴィオリッドはぱたぱたと尻尾を振った。「ありがとう」という意思表示のようだ。
いい感じに話が纏まったところでふと思い出したシオリは、アレクの耳元にそっと口を寄せた。
「――ねぇアレク」
「うん?」
「……初めましての人と一緒にいるのに、悪戯するのはちょっと……恥ずかしいから、せめて別室とかそういうときに……」
ひそひそと抗議するシオリに目を丸くしていたアレクは、やがて「ヴィオじゃなかったのか」と呟いた。
どうやら夢の中でヴィオリッドと戯れていたらしい。しかし実際には隣で寝ていたシオリを寝惚けて弄り倒していた訳で、それで散々に掻き乱される破目になったシオリはあんぐりと口を開けた。
「それでどうして下着の中に手が入るの!?」
「あ、ああ、悪かったよ」
「あれ絶対ヴィオと遊んでる手付きじゃなかったよ!?」
「そ、そんなことを言われても」
シオリにしてはなかなかの剣幕にアレクは腰が引けている。
いつの間にか起きていたルリィが「朝っぱらから仲良しで結構なことだなぁ」というようにぷるんと震え、ブロゥは初めて見る人間の痴話喧嘩を興味津々で眺めている。そのうえヴィオリッドが「犬どころか雪狼も食わないわねぇ」とでも言いたげにニヤついているようにも思えて、シオリは「うあぁ」と顔を覆った。
今後遠征のときには、何を置いてもまず隣の男に気を付けねばなるまい。
――感動的な出会いを果たしたその翌日の朝の、なんとも締まらない始まりである。
ルリィ「寝惚けてナニしたんだろう」
ペルゥ「ナニしたんだろうねぇ」
ユル蛇「下世話ぁ……」
概ねいつも通りです_(:3」∠)_
【おしらせ】
8月頭どころか下旬のお知らせになってしまいましたが、9月4日に書籍版「家政魔導士の異世界生活」第8巻が発売予定です。掲載範囲はWeb版「家政魔法の講習承ります」と、大幅改稿に書き下ろし(アレクの誕生日話の別Ver.)を加えた番外編「命の軌跡と奇跡」の二編です。
どうぞよろしくお願いいたします\(´ω`)/
(活動報告ではカバー絵もご紹介しておりますので、興味のある方はそちらから……)




