09 逸れ狼(2)
一年で最も日の長い季節を迎えたブロヴィート村は多くの人で賑わい、かつてない活気を見せていた。夏至祭を控えて村の至る場所には屋台が立ち、滞在中の旅人や仕事帰りの村人達の気を引いている。
かつて村を訪れた東方人から得た知識で開設された足湯も盛況で、二十時を過ぎても明るい空の下、足の疲れを癒しながら牛串を片手に蒼の森を眺める入湯客で賑わっていた。
特に賑わいを見せていたのはその湯場の一角だ。騎士隊長カスパルの奢りだという霜降り牛の串焼きを頬張るシオリとアレクの背後には、同じく新鮮な肉を振る舞われて食事を楽しむ使い魔達がいる。この使い魔――特に紫水晶のように煌めく美しい獣が注目を集めているのだ。
人々の半数は襲撃事件の記憶が蘇ったのか幾分怯えたように遠巻きにしていたが、半数は間近で興味津々に眺めていた。初めこそ恐れを隠しもしなかった彼らも、知性と気品を感じさせる佇まいに警戒心を解いたようだ。
「森の魔狼」の訪問は今では概ね歓迎されているようだった。もっとも、「これで懸念事項がなくなった」と安堵する気持ちも少なからずあったに違いない。
森の魔獣を良く知る猟師などはすっかり気を許したようで、今はヴィオリッドを囲むように座ってその「身の上話」を聞いていた。と言っても実際話しているのは人間の方で、ヴィオリッドは質問に対して是か非で答えるだけだ。
たったそれだけのことではあったが、この世に生まれ落ちてから現在に至るまでまともに相手をしてくれたのが親兄弟だけだったヴィオリッドにとっては、得難い貴重な体験でもあった。大勢にこれほど好意的な待遇を受けたことなど、生まれてこの方ただの一度さえなかったのだから。
「そうかそうか。あんたも苦労したんだな」
「攫われた嫁さんを一族郎党で取り戻しにくるほど気性の激しい奴らだからなぁ。あの勢いできつく当たったんだろうな」
「ひでぇ話だとも思うが、まぁ、人間も似たようなもんだからな。あんまり偉そうなことも言えねぇが」
世の中分からぬものだとヴィオリッドは思う。まさか己の理解者が、大いなる自然の理から外れて久しい異種族であったとは。
――ヴィオリッドはノルスケン山の麓に近い、蒼の森の生まれだ。
両親は餌が最も豊富な地帯を縄張りとしていた最大の群れの頂点に立つ番だ。五年ほど前に初の子となる三匹の赤子を産み落としたが、そのうち一匹の毛色が明らかに違うことに気付いた彼らは、この異端の赤子を追放することに決めた。群れを率いる立場で異分子を容認することなど許されるはずもなかったからだ。
雪狼には稀にこうして紫の体毛と金の目を持つ赤子が生まれる。遥か昔に交雑して生まれた祖先の血が色濃く出た結果のことだったが、外敵の標的になりうる目立つ個体を群れに置くこと自体が危険であると、その多くはヴィオリッドのように追放されることになるのだ。
それでも両親は我が子を憐れんでか、しばらくは手元に置いてくれた。彼らはせめて成熟するまではと考えていたようだったが、同時に生まれた兄弟よりも遥かに育ちが早く体格が良いこの赤子が、内面にも問題を抱えているらしいことに恐怖を覚えた同胞の反発は大きく、結局乳離れ後まもなく追放されることになった。
だが、体格は成体並みといえども幼体に変わりはない。ゆえに生き延びられるかどうかはほとんど運だ。狩りもできずに飢えて死ぬか、ほかの魔獣に食われて死ぬか。あるいはこれが可能性としては最も高いことだが、異端者として同じ雪狼に襲われて死ぬかのいずれかだ。
ヴィオリッドが生き延びることができたのは、両親が密かに用意してくれていた場所に匿われていたからに過ぎない。同胞の目を盗んでの給餌は不定期で量も不十分ではあったが、彼らの援助は間違いなくヴィオリッドを生き長らえさせた。
だが、成熟してもなお受け入れてくれる群れのないヴィオリッドは孤独だった。姿こそ違うがヴィオリッドは紛れもなく雪狼で、大規模な群れを作って生活することが当たり前の雪狼であるにもかかわらず独りでいることを強いられる日々は、ひどく心身を削った。
――だから成熟するまで生き延びたとしても、「異端の子」は長くは生きない。生きる気力さえなくして緩やかに死を待つか、ノルスケン山の雪待鳥に身を晒して彼らの「餌」となるか、そうしてこれまでに生まれた紫の同胞達は自ら死を選んでいった。
それでもヴィオリッドが自死を選ばなかったのは、生来楽観的な気質だったこともあるが、あの日一緒に生まれた兄弟の存在があったことも大きい。偵察のために単独で群れを離れる機会が多い彼らは、時折ヴィオリッドのもとを訪れて孤独を埋めてくれた。
追放後も途切れることのなかった家族との絆。
それがなければ、こうして「生涯の友」と出会うことはできなかっただろう。
「――どうしたヴィオ。もう腹一杯か?」
今日出会ったばかりの友に問い掛けられて己がぼんやりしていたことに気付いたヴィオリッドは、「まだ食べるわよ」と言わんばかりに低く唸った。幼少期の食事事情ゆえか雪狼にしては少食な腹は既に八分目を超えていたが、今宵だけはまだこの空気に酔いしれていたかった。
新鮮な赤身肉を平らげ、搾りたての温かな乳を飲み干して、人間の子供やスライム達に群がられたまま首を巡らせて森を見る。
『さらばだ兄者。達者で生きろ』
『人間どもとせいぜい仲良く長生きするがいい』
口数こそ少ないが情に厚い長弟に、不器用だが根は優しい次弟。そして「長男」が独り立ちした日を最後に姿を見せなくなった両親。
雪狼としては不出来だった己を「生きろ」と送り出してくれた、厳しくも温かい家族がいるあの蒼い森に戻ることはもうないだろう。だが、友とそして新たな家族になるであろう人々を得た己は、きっともう孤独ではない。そして長生きしなければならないのだ。そうでなければ、掟に背いてまで己を生かしてくれた家族に申し訳が立たない。
人間の領域で生きる以上は彼らの作法を覚えなければならないだろうが、それでもヴィオリッドは己の世界が広がっていく予感に胸を躍らせた。己が封じられていた山を下り、故郷の森を出て、まだ知らないことばかりの広い世界を存分に堪能してやるのだ。
――だから、父よ、母よ、そして我が兄弟よ。もう憂うることは何もない。ただ、外の世界に旅立った幸福な家族がいたことだけを優しい想い出の中に留めておいてほしいと、ヴィオリッドはそう願うのだ。
ユル蛇「あれ、ギリィは?」
ルリィ「歯軋りし過ぎで奥歯痛めて歯医者行った」
歯は生涯の友なので大事に_(:3」∠)_




