08 逸れ狼(1)
村に戻る道すがら、アレクは「フェンリル」に質問して正体を訊き出そうと試みていた。
どこから来たのか。
どこに棲んでいるのか。
そして何ものなのか。
勿論言葉を話すことができない、それも今日が初対面の魔獣から話を訊き出すのは容易ではなく、どうやら蒼の森奥地で生まれたこと、ノルスケン山に近い辺りに棲んでいたことがようやく分かった程度だった。
当たり前といえば当たり前なのだろうが、肝心の「何ものか」についてはほとんど分からず、「フェンリル」も自らの出自に関しては何か思うところがあるのか、はぐらかすような仕草を見せるだけにとどまった。あるいは、自分でもよく分かっていないのかもしれない。
持ってきていた最新版の携帯魔獣図鑑の頁を指し示して訊いてはみたが、やはり反応は曖昧なものだ。
「色と大きさを除けばほぼ雄の雪狼と言って差し支えない……が、さすがに専門家ではないからどうとも言えんな、これは」
「そっか……」
ブロヴィート村には確か雪狼に詳しい老人がいたはずだ。彼なら少なくとも雪狼か否かの判断はできるかもしれない。
観光客と鉢合わせないように散策道を避け、ルリィとブロゥの案内で森の中を歩いていたシオリ達は、村に近い場所で立ち止まった。低木の枝が大きく張り出して視界を遮ってくれる場所を慎重に選び、その陰に身を隠す。
「どうする? 私が呼んでくる? それともルリィにお願いする?」
「そうだな……」
少しの間思案していたアレクは、「ルリィに頼もう」と言った。
「俺達は村人にも顔を覚えられているからな。お前や俺が一人で戻るとかえって目立つかもしれん。ここはルリィに行ってもらうことにしよう」
今のあの村なら、かえってスライムの方が目立たないだろう。似たような色合いのスライムも何体かいたから紛れられるはずだ。
破った手帳の頁に事情を説明する文を認めてルリィに託すと、任せろと言わんばかりにぷるんと震え、瞬く間に森に紛れて見えなくなった。
カスパルを待つ間、「フェンリル」は地面に座って大人しくしていた。その周囲をブロゥがうろうろとしている。許しを得て美しい毛並みに触れたり、大きな爪を眺めたりしているようだった。単なる昆虫好きというよりは、どうやら生き物全般に強い興味があるらしい。
「知的生命っていうと人間だけみたいな風潮だけど、こうして見てると魔獣も喋らないだけで普通に知性があるんだなぁって、改めて思うよ。どう考えたって意思疎通ができてるもの」
「ああ。何をもって知的生物とするかはまだ意見が割れているようだが、そもそも魔獣や精霊に関しては動物の常識に当てはめられないところも多いからな。まず、人間を生物の頂点に置くこと自体が間違っているのかもしれん。確かに高い文明を築いているのは現状人間だけなんだろうが……」
現状、と彼が敢えて言ったのには一応の理由がある。
かつては人類以外にも独自の言語と文明らしきものを持った生物がいた。ゴブリンやトロール、オークなどの二足歩行の魔獣だ。しかし、人を襲って喰らうばかりか繁殖のために「若い雌」を浚って狼藉を働くなど、人類にしてみればあまりにも危険で到底共存を考えられる相手ではなく、文明が発展していく過程で「駆除」が進み、今ではほとんどの種が絶滅したという。
ゴブリンは約九十年前に赤道付近の森林地帯で二体が駆除されたのを最後に目撃情報が途絶え、絶滅宣言が出されている。トロールやオークなどは高緯度地方でまだ少しは生き残っているが、こちらもおそらくあと数十年のうちに絶滅するだろうということだった。
「稀に友好的な個体もいて使い魔にしていたという話もあるが、どうもあまり長続きはしなかったようだ」
――似たような文化を持ちながらあまりにもかけ離れた考えを持つために、それを忌避した人類によって滅ぼされたということなのだろう。彼らは生存競争に負けたのだ。
「そっかぁ……」
その是非についてはシオリには分からないし、言うべきでもない。もしかしたら時代が進めば愛護団体のようなものが騒ぐようになるのかもしれないが、結論は永遠に出ない問題だろうなとシオリは思った。
――友好的な知的生物としては、伝説やお伽噺に登場する妖精族や小人のように、人類に近い亜人族と呼ばれるものが太古の世界にはいたとする説も以前はあったようだ。しかし化石や文明の痕跡は一切見つかってはおらず、研究が進んだ現在では特定地域の少数民族がそのように呼ばれていたという結論が出ている。
「お前の故郷ではどうだった? 知的生命はほかにもいたのか?」
「うーん……現存してるのは私達の種族だけみたいだよ。何十万年も前にはほかにも人類がいたけど、色々あって絶滅したみたいだね。亜人とか魔獣とかもいなくて、普通にお伽噺の中だけの話だったな」
「そうか……だが、似ているところも多いというのは面白いな」
こちらとあちらは異なる世界ではあるが共通項も多い。研究自体はあっても未だ空想上の存在として考えられていた並行世界も、こうして「ある」と分かった以上はいずれ、いつか遠い未来の世界で解明され、そして二つの世界が交わることもあるのかもしれない。
――いつか。もう自分が生きている時代では無理かもしれないけれど、いつかはそんな時代が来たら面白い、否、来たらいいとシオリは思った。そうしたら、自分がこの世界に落ちてきた理由や原因が分かるかもしれないからだ。自分は生涯知ることはないだろうが、それでも遠い未来の誰かがそれを解明してくれたらいい。
そうして二つの世界に想いを馳せているうちに、茂みの向こうからルリィが姿を見せた。やや遅れてカスパルと村長、そして老人が顔を覗かせた。雪狼襲撃事件のとき、馬車に捕らえられていた雪狼を調べてくれたあの老人だ。引退した腕利きの猟師で、雪狼の生態には詳しいということだった。
「いやぁ……体毛の数本もあればとは言ったが、まさか本人を直接連れてくるとは思わなかったぞ」
この展開にはカスパルもさすがに肝を潰したらしく、王者の風格漂う「フェンリル」にじっと見つめられて、「や、これはわざわざご足労いただき大変恐縮で……」などとしどろもどろに言い、目の前の魔獣に胡乱な目で見られていた。
村長はといえば目を丸くしたまま立ち尽くしている。こちらもやはり驚いたらしい。
唯一冷静だったのがビョルクと名乗った元猟師の老人で、「おお……こいつぁ見事なもんだ」と魔獣の前に膝を突いた。
身体検査を受ける間、「フェンリル」は大人しくしていた。ビョルクの態度が敬意あるものだったというのもあるだろうが、敵意はなく温厚というのは間違いないようだ。
やがてビョルクは「俺ぁ専門家じゃあねぇってことを前提で聞いてもらいてぇが」と前置きしてから言った。
「顔付き、骨格、足と爪、尾の形からして、若ぇ雪狼の雄でほぼ間違いはなかろうと思うぜ。だが、こんな毛色の奴ぁ見たことがねぇ。変異種……かもしれねぇなぁ」
少なくともこの場で出せる結論は、概ねアレクの予想と同じだった。
「しかし……本当に雪狼だってんなら、お前さんが一匹でいる訳も大体察しがつくぜ。お前さん、群れに馴染めなかったんだな。あるいは――群れを追われたか」
ビョルクの問いに「フェンリル」は明確な答えを示さなかった。ただ、僅かに垂れた耳と尾、そして目を伏せるような仕草が無言の肯定をしているようにも思えて、パーティから追われた過去を重ね合わせたシオリはいくらか呼吸が苦しくなった。
――雪狼は仲間意識が非常に強い魔獣だ。数十頭の大きな群れを形成し、厳格なルールに従って秩序を保ちながら共同生活する社会的な生物。それゆえに群れの存続を脅かしかねない「異物」には極めて敏感で、秩序を乱す存在には容赦がない。
「何しろでけぇ群れを作る連中だ。ちょっとの乱れが命取りにもなりかねねぇ。だから秩序が乱れることを何よりも嫌うのさ。そのせいなんだろうなぁ。例え同族だろうと、少しでも乱す可能性があるってんなら、どこまでも厳しいのさ」
逸れ狼の大半はそうして群れを追われた個体だ。追放の基準は群れごとに多少の違いはあるらしいが、性格的に集団生活に向かない個体や、何らかの理由で外見が異なる個体は概ね追放の対象となるらしい。
運良く別の群れに受け入れられるか、別の追放された個体と番になって新たな群れを形成することもあるというが、逸れ狼となった個体の多くはあまり長く生きることはないそうだ。集団行動が基本の彼らにとって、単体での狩りは成功率が極めて低いうえに、その他の魔獣の標的になりやすいからだ。中には群れのトップ自らが手を下すこともあるという。
「特にこいつぁこの見てくれだ。どこの群れでも敬遠されたに違いねぇ。とすりゃあ、雪狼が棲むにゃあちょいとばかり厳しいノルスケン山にばかり出てたってぇのも説明が付く。いくつもある群れの縄張りから外れる場所っていやぁ、この辺じゃあの山しかねぇからな」
数年に一度はその姿が目撃されていたのも、自らの居場所を求めて彷徨っていたからなのかもしれない。
――スライムの問いに雪狼が「あれは雪狼に非ず」と答えたのは、きっとそういう訳だったのだろう。
アレクは随分長いこと黙っていた。彼もまた、貴族社会に馴染めなかった自らの境遇を重ねたのだろう。
ただ、「フェンリル」にそっと近寄った彼は、「お前も苦労したのか」と声を掛けた。
「フェンリル」は小さく唸り、大したことじゃないわというように尾を振った。
黙って寄り添う彼らには近寄り難く、それでも放っておくことができなかったシオリは恋人の背に触れた。
「……アレクの判断に任せるよ。何か考えがあるなら、したいようにしていいと思う」
ルリィもまた「自分も」というように彼の足元をぺたぺたと撫でる。
二人を振り返ったアレクは「ありがとな」と微笑んだ。そして再び「フェンリル」に向き直り、その金色に輝く瞳を真っ直ぐ見据えて言った。
「――色々あっただろうが、これからは一人じゃない。お前さえ良ければ一緒に来るといい。シオリもルリィも構わないと言っている。だが気が乗らなければそれでもいいんだ。その代わりにまた会いにくる。どうだ」
提案という形の問い。
しかし敢えて人間の前に姿を現し、ここまでほとんど無条件で付いてきたこの魔獣のことだ。言われずとも初めからそのつもりでいたのだ。
一歩踏み出した「フェンリル」は、その鼻先をアレクの頬に摺り寄せた。答えの代わりなのだろう。
「そうか。一緒に来るか」
嬉しそうにアレクは笑った。
完全に蚊帳の外になっていたカスパルは、ここでようやく我に返ったようだ。
「連れていくのは構わんが……」
「なんだ、それは構わんのか」
冗談めかして言ったアレクに、「ここまできて反対もできまいよ」とカスパルは苦笑いした。
「しかしまだ正体が確定した訳ではないし、さすがに混乱は免れんだろう。騎士隊としてもこのままどうぞという訳にもいかん。まずは使い魔契約をすることが大前提だ。そして組合を通して当局に報告した後、必ず専門機関の調査を受けること」
ちらりと目配せしたアレクに、美しい獣はしばし考えた後に「ヴォフっ」と答える。思うところはあるようだったが、とりあえずは群れのルールには従うという意思表示をしてくれた。
それを見たカスパルは、硬直したまますっかり置いてけぼりになっている村長を振り返った。
「村長、気を確かに。で、村へはどう報せますか」
「……ああ、そう、そうですな。我々としては村に害さえなければそれで良いのです。彼らにはそのように伝えましょう。しかしビョルクさんの意見も伺っておきましょうか。どう思います」
「いいと思うぜ。こちらの御仁にも敵意はねぇ。まぁ、群れが襲ってきたのだって、元はといえば人間様が原因だった訳だしな。こっちが馬鹿やらかさねぇ限りは同じことにゃあならねぇだろうよ」
魔獣に関しては村で最も詳しいというビョルクの言葉は、五十絡みの村長を納得させられたようだ。
「なんならいっそ、見せてやってもいいんじゃねぇのか。実体が分からねぇってのは不安のもとだ。少なくとも猟師の連中なら、一目見りゃあ害があるかねぇかの判断はできるはずだぜ」
「俺としてはあまりこいつを見世物にするような真似はしたくないが……」
しかし、どうあってもこの姿は目立つ。連れていくというのなら、しばらくの間注目されることは避けられないだろう。
魔獣社会にあっても同じだったのか、今更だわというように「フェンリル」は低い唸り声を上げた。何もかも承知の上で、この魔獣は人里へと下りてきたのだ。同族に受け入れられぬのならいっそ、外の世界に飛び出すつもりで。
アレクは鞘から愛剣を少し引き出し、指先を押し付けて小さな傷を作った。ぷっくりと膨れた赤い水玉を「フェンリル」が舐め取る。
体液の授受によって成立する使い魔契約は、魔獣にとってはある種の婚姻関係、もしくは親子関係を結ぶ行為に等しいとされている。ゆえに彼らは体液を分け与えた人類に従うのだという見方もあるが、実際には大多数の「主従」が対等な関係だ。体液を口に含むという行為自体、積極的同意がなければ成立しないからだろう。
――ともあれ、彼らはこうして無事契約を成立させた。こうすることで一応の安全宣言代わりとなるだろう。
「名前は……そうだな。ヴィオリッドなんてどうだ。愛称はヴィオだ」
それは王国に古くから伝わるお伽噺の騎士の名だ。王の素質がありながらその座に決して就くことはなく、雪菫が咲き乱れる美しい故郷を護ることに生涯を捧げた孤高の、けれども多くの人々に愛されたヴィオリッド。
その名を与えられた「フェンリル」――ヴィオリッドは、「悪くないわね」というように流し目をくれた。
「ほう、雪菫の騎士か。なるほど、良い名じゃないか」
「にいさん、なかなかいいセンスじゃねぇか。王者の風格、それに不思議と慈愛みてぇなもんを感じさせる目を持ち合わせてるこいつにゃあぴったりの名だ」
口々に賞賛と祝福の言葉を述べる男達に、ヴィオリッドは気分を良くしたようだ。満足そうに鼻を鳴らしたヴィオリッドは、礼を言うように鼻先をアレクの頬に触れた。
そして人々と連れ立って森を出る直前、不意に振り返ると、たった一度だけ咆哮を上げた。
彼方まで聞こえるような良く通る遠吠えが蒼の森に響き渡る。
群れを追われた逸れ狼への返答は何一つ返ってくることはなかったが、代わりに木々の向こうから二頭の若い雪狼が姿を見せた。
兄弟だろうか。それともかつての同胞だろうか。その正体まではシオリ達には分からなかったが、黙ってこちらを見つめる視線には親愛の情が感じられた。
しばらくの間見つめ合っていた彼らだったが、やがて一頭が背を向けて茂みの中に姿を消し、やや遅れてからもう一頭もまた走り去っていった。
交わす「言葉」のない、静かな別れ。
「……孤独だったんだろうが、こいつにもちゃんと理解者がいたんだろうな」
「そうだね……」
向こうが吠え声の一つも上げなかったのは、群れでの立場を考えてのことだろう。それでもこうしてわざわざ見送りに現れたのは、情があるからに違いなかった。
「行こう、ヴィオ」
アレクが促す。「ヴォフッ」と短く吠えたヴィオリッドは、今度は振り返ることなく歩き出した。
――森の魔狼の旅立ちはその後、ノルスケン山のフェンリルの伝承に結論を与えることになった。これは幻獣に非ず。遥か遠い昔、絶滅した魔獣と交雑していた雪狼の、先祖返りした個体である、と。
ギリィ「……! ……!! ……!!!!」
ルリィ「なんか凄い悔しそう」
歯の健康のためにも歯軋りはやめましょう_(:3」∠)_




