01 一つの区切り
ストリィディア王国の賢王、オリヴィエル・フェルセン・ストリィディアの三十五回目の誕生日を祝う祭典が盛大に催された翌週。祝いの空気を未だに残した北部最大の都市トリスは、初夏の明るい日差しの下、今日も賑わいを見せていた。
「いい季節になったねぇ。皆楽しそう」
新緑の美しい街路樹や彩り豊かな花壇を眺めていたシオリが何気なく呟くと、異母弟オリヴィエル――まさに先日、その誕生日を祝ったばかりの王その人だ――からの手紙を楽しげに読んでいたアレクは、「そうだな。いいことだ」と微笑んだ。
一年のうちで最も日が長いこの季節は、真夜中でさえ夜明け前のように薄明るい。トリスヴァル領においては生誕祭に次ぐ規模の夏至祭を目前に控え、トリス市内は昼夜を通して活気に溢れていた。
至るところに軽食や土産を売る屋台が立ち並び、広場では吟遊詩人や旅芸人が陣取って道行く人々の目と耳を楽しませている。街の人々は色鮮やかな草花の刺繍を施した伝統衣装を纏い、旅人は屋台で買った花冠を被って祭り気分を楽しんでいた。
大陸随一とさえ言われる平和なストリィディア王国の光景。
それを見たままに美しいと感じられるようになったことを、素直に嬉しいと思う。
――突然身一つで異世界に落とされて、孤独に苛まれ続けていたこの数年は、この光景をあるがままに受け止めることができないでいた。この世界にとって異物である自分は、この景色を形作る要素の一つですらないのだと、どこか他人事のように捉えていたからだ。
それだけ深い絶望があった。完全に故郷から切り離されて、何一つ縁のない場所で生きるということが、どれほど難しいことか思い知った。
けれども今は違う。
愛しい恋人、可愛らしい友人、頼れる兄貴分。もう永遠に手が届かない場所に置いてきた和泉詩織という人間の過去を、丸ごと全て受け入れてくれた人達がいるのだ。
――もう、独りではない。シオリ・イズミとしてこの世界に根を下ろして生きていこうと決めた。この世界で生きていくという現実を、本当の意味で受け入れることができた。
経験と実績を積み、人と人の繋がりを作り、手繰り寄せて、そうして自分の世界を広げていくことが今は楽しい。
もうすぐ形になりそうな家政魔法教本の原稿や、携帯食開発の進捗状況を報せるエナンデル商会からの報告書を手に取って感慨に耽っていると、手紙を読み終えたアレクが視線を上げた。
愛しい人。自分の全てを受け入れてくれた、大切な人。
その唇に自らのそれを重ねると、逞しい腕に引き寄せられる。その力強さと温もりが嬉しくて、シオリはアレクの腕の中で微笑んだ。
ひとしきり啄み合った後、彼は言った。
「オリヴィエが来る日が決まったよ」
「いつ?」
「七月の始めだ。よほど急な用事が入らない限りはその日程で確定だと」
「そっか。いよいよ……だね」
アレクの弟オリヴィエルは、先述の通りこの国の王だ。その異母兄にあたるアレクは、一時期オリヴィエルとともに城で暮らしていたことがあったという。
腹違いという複雑な関係ではあったものの兄弟仲は良好で、切磋琢磨し支え合って、将来はともに王国を護っていこうと誓い合った仲だった。
しかし、様々な思惑に翻弄された異母兄弟は、国と王家を護るために別離を決めた。
それは苦渋の決断だった。まだ年若く未熟だった彼らには、その選択肢しかなかったという。
けれどもアレクは、そのために捨てなければならないものがあった。未来の王となる異母弟を生涯支えるという誓いと王族としての責務を、そして当時交際していた恋人を、自ら放棄しなければならなかった。
国と王家、そして互いを護るための決断だったのだろうが、きっとそれは本意ではなかったはずだ。だからそれが、後悔という形で今もアレクを激しく苛んでいた。
――それは異母弟も同じだったようだ。
二人の兄弟は、十六歳のあの日にすれ違ったままの想いを、十九年という時を経てようやく打ち明けようというのだ。
「……例のスライム袋、あれを装備してくるらしいぞ」
「スライム袋って」
間違いではないがその言い方が可笑しくて、シオリは噴き出してしまった。
オリヴィエル王の使い魔が桃色スライムだというのは有名な話で、非公式の外出時に目立たぬよう、アレクが特注で作らせたのがスライム運搬用背嚢、通称スライム袋という訳だ。
それを装備してくるということはつまり、使い魔の桃色スライム――どうやらルリィの同胞らしい――を連れてくるということだ。
「ペルゥとやらの里帰りも兼ねているそうだ。最近ブロヴィート近辺ではスライム連れもあまり珍しくはなくなっているらしいから、案外目立たんかもしれんな。まぁ、それでもさすがに変装はしてくるだろうが」
「桃色スライム連れの金髪の美男子って、そうはいないものね……」
「そうだな……だからどうやら城ではかえって悪目立ちしてるらしくてな。まぁ、その代わりに新人や下働きが、王とその他大勢を間違えて無礼を働くなんて失態はなくなったらしいが」
アレクはその姿を想像したのだろう。不意に口元を押さえると、くつくつと笑い出した。
つられてシオリも笑ってしまう。
「でも、大丈夫なの? 国家の要人だから、目立つとあんまりよくないんじゃ……」
「今の近衛隊は人格的にも優れた精鋭揃いで信頼できるし、それこそルリィの仲間だって付いてるんだ。滅多なことにはならんだろうさ。噂ではあいつに襲い掛かろうとした不届き者を、衆目環視の中で文字通りの丸裸にして身動きとれんようにしたらしいぞ」
「うわぁ……」
「哀れにもその男、全裸で大泣きしながら退場するはめになったようだ。歴史ある伯爵家の当主だったというのに、噂がどこかで捻じ曲がって、今や『全裸で陛下に襲い掛かった変態』だそうだ」
「ひぇぇ」
スライムお得意の溶解攻撃で、矜持と自尊心を服ごとぺろりと頂いてしまったという訳だ。
なんとも言えない気分になったシオリだったが、「お前が気を使ってやるほどの男じゃない」とアレクは苦笑いした。その手がシオリの左腕、二の腕に触れる。優しく撫でる手つきはまるで労わるようだ。
「――ブロヴィートでお前が大怪我をした……大元の原因を作った男だ。十九年前、俺を玉座に就けて傀儡にしようとした男でもある」
「え。そう、だったんだ……」
先年、軍事兵器の密輸と謀反の罪で捕縛されて新聞を賑わせたイスフェルト伯爵は、雪狼襲撃事件の原因となった商人と繋がっていた。救助活動を妨害し、シオリを鞭で打ち伏せたあの商人だ。そのうえアレクとも因縁があると聞かされては心穏やかではいられない。
先年の事件も、二十年近く前の王位継承権争いも、傷付けられた者は数え切れないほどいた。それまでの生活を手放さなければならなくなった者もいる。
同情は、必要ない。
「そっか。その人は今、ようやく報いを受けてるんだね」
「そういうことだ。本人に謀反の意思はなかったとして極刑は免れたが、終身刑に処されたよ。財源確保のために軍事兵器や軍用魔獣の密貿易に手を出し、自国に甚大な被害を出したのがあまりに悪質ということでな」
長い溜息を吐いたアレクは、静かに立ち上がって窓の外を見下ろした。楽しげな笑い声が響く街を見つめる横顔には、微苦笑が浮かべられている。その胸に去来する想いは推し量るしかないけれど、きっと彼の中で何かが一つ、区切りがついたのだろうことが察せられた。
その隣にそっと寄り添うと、小さく笑った彼は肩を抱き寄せてくれた。ルリィも慰めるように二人の足元をぺたぺたとつつく。
「――しかし、いい匂いだな」
近隣の屋台の香りが開け放した窓から入り込み、思わずといった様子でアレクが呟いた。
この香りは炙った腸詰だろうか。「気になるなー」というようにルリィがずるりと窓枠をよじ登り、じぃっと街を見下ろした。
「せっかくだ。屋台で腹ごしらえしてから組合に行くか」
「いいね。何食べよっかな」
ご馳走にありつける予感にルリィがぷるるんと震え、宝箱代わりの菓子缶から取り出して眺めていた「宝物」を片付けると、いそいそと扉の前に移動した。
早く行こうと言いたげなルリィに微笑んだ二人は、促されるままに身支度を始めた。
イスフェルト伯爵「わが生涯がいっぺんに台無し!!!!!!!!」
強制ZE☆N☆RA
ルリィ「出だしからフルスロットルでいくスタイル」




