25 幕間五 春の祝祭(アレク、シオリ、クレメンス)
1.
春の雨がしとしとと街を濡らしていく光景を、アレクはぼんやりと眺めていた。
誕生月である五月は、アレクにとって最も憂鬱な時期だ。
――九つの誕生日を迎えて間もなく女手一つで育ててくれた母が急死し、親族との連絡が付くまではと突然孤児院に放り込まれたあの体験は、悪夢以外の何ものでもない。
トリスの片隅にあった私設の小さな孤児院は、小綺麗で寝食に困ることも決してなかったが、突然始まった見知らぬ子供達との生活はひどく余所余所しく窮屈なものだった。
定められた日課に沿った生活は規則正しく杓子定規で家庭的とは程遠く、まるで寄宿舎暮らしのようだった。私物の全てが取り上げられることはなかったものの、身元の手掛かりになりそうなもの以外は「きょうだいで仲良く使いましょうね」と共有物にされた。小さなトランクに入れて大切にしていた玩具や文具、絵本などといった、九歳の少年には宝物だったあれらの品々は結局最後まで手元に戻ることはなく、孤児院への寄付品になったはずだ。
着るものさえも自由にはならず、院で一括管理していた制服を皆で着回しする決まりになっていた。誕生日に母が誂えてくれた真新しい服は「皆が羨ましがるから特別な日だけにしましょうね」と言い含められ、ほとんど着ることがないまましまい込むことになった。
外遊びの相手も孤児院によって吟味され、ついこの間まで一緒に遊んでいた友達とはそれきり会えなくなってしまった。
預かった子供達を限られた資金で平等かつ安全に育てるためには必要なことであっただろうが、およそ個人というものが尊重されない生活は、親元で自由闊達に育った少年の心を摩耗させるには十分なものだった。
あとで分かったことだが、あれは富裕層出身の孤児を条件付きで預かる、まさにある種の寄宿舎だったのだ。子供に間違いがあってはいけないと、院長を始めとした大人達が神経質になっていたのも分かる。
(――少ないながらも三食食えたし、服も寝床も清潔だった。先生達だって厳しいが冷たくはなかったし、体罰だってなかった。いきなり路地裏に放り出されるよりはずっと恵まれていたはずなんだ。城暮らしの予行演習と思えば決して悪いものではなかったんだろうが……)
あの孤児院での子供達の扱いも、理由を知れば「なるほど」と理解できるものではあったが、その後数年で閉鎖することになったのは、然もありなんといったところだ。
何らかの事情で親元から離された子供達にとって、緩やかに個を殺していくあの環境は良いものとは言い難かった。児童養護施設としては、何かが決定的に間違っていたのだろう。施設での暮らしを聞いた父が眉を顰めたのも頷ける。
『優しい虐待とでも言うのだろうかな、これは。迎えが遅れてすまなかった。さぞ心細かったろう』
迎えが遅れたのは、王位継承権一位と二位の息子が相次いで事故死し、王妃が気鬱を患って療養を余儀なくされるという、いわば国家の一大事への対応で多忙を極めていたからだ。
あの孤児院に預けられたのも、下手な施設を選んで子供の身に何かあっては困るといった事情からだと聞いた。当時はまだ、子供を預けられるような環境ではない孤児院とは名ばかりの施設も数多く、市内で評判の良いトリス孤児院は満員で受け入れを一時休止していたというのも理由の一つだったようだ。
決して考えなしであそこに預けられた訳ではなく、故あってのことなのだ。謝罪の言葉と共に抱き締めてくれた父の温もりは、母と死別して以来凍り付いていたアレクの心を溶かしてくれた。
しかし、その後の城暮らしもまた環境が良いものとは言い難かった。オリヴィエルとアレク、誕生日が近い異母兄弟の王子を祝う生誕祭も純粋に祝ってくれる者ばかりではなく、母の死から続く忌まわしい記憶の連鎖は未だにアレクを陰鬱な気分にさせていた。
――全ての始まりの五月は、憂鬱にくすむ青色に彩られている。
そのせいなのかどうか、この季節は体調を崩しがちだ。つい二日前も熱を出したばかりで、病み上がりの身体を心配したシオリに、あと数日は大人しくしているようにと言い付けられていた。今も監視役よろしくルリィが足元に佇んでいて、時折探るような気配を放っている。
「……今年こそは大丈夫なんじゃないかと思っていたが、そう上手くはいかないものだな」
生涯を共にすると誓った愛しい女や、頼もしい友人と一つ屋根の下で暮らすようになった今、何を憂うることがあるだろうかとも思う。だが結局、いつだったか「精神的なダメージは後を引く」と薬師のニルスが指摘した通りになっている。
「アレクにとって、五月は身体を大事にする月でもあるんだと思うよ。それに、最近はずっと忙しかったんだもの。ゆっくり休んで、しっかり治そう?」
温かなミルクティを差し出したシオリが、そっとアレクの頬に口付ける。
「お前も色々と忙しいだろうに、すまないな」
「ううん、大丈夫。私も一緒に休ませてもらってるから」
あと数日でアレクは三十五歳。そろそろ身体を労わることを覚えなければ、後々確実に良くない結果をもたらすことになるだろう年頃だ。
「ハイラルド爺さんのように、あの歳でも現役でいられればいいんだろうがな」
「あの人はちょっと特別じゃないかなぁ……それに、今はもう長くても一泊の仕事しか受けてないって言ってたよ。それで次の仕事まで何日かはしっかり休むって。ハイラルドさんなりに身体を大事にしてるみたいだし」
生涯現役と豪語する御年八十一の同僚の顔を思い浮かべたアレクは薄く笑った。
仕事の仕方、酒の飲み方、女との付き合い方――一度きりの人生、楽しまねば損だと言って憚らない国内最高齢の老冒険者は、人生を長く楽しく生きる術を知っているのだ。
「あんなふうに生きられたらさぞ楽しいだろうな。今度教えを乞うてみるか」
「うん。でも、女の人との付き合い方はちょっと困るかなぁ……ハイラルドさん、凄くモテるし」
「なんだ、やきもちか?」
「……いけない?」
む、と口の端を尖らせた恋人の姿は可愛らしく、それですっかり機嫌を良くしたアレクは笑いながらその唇を塞いだ。何度も啄み、舌先を絡めて、恋人を思うままに味わう。
唇を離す頃には、いつものように彼女の瞳はすっかり潤んでいた。
「お前、痛みには強いのに快楽には弱いんだな」
口付けでさえこれなのだから、これ以上の触れ合いでは言わずもがなだ。
そう言って揶揄ってやると、顔を赤らめたシオリは「もう」とアレクの胸元に頬を寄せる。そうして身を寄せ合ったまま、二人はしばらく雨の街を眺めていた。
灰色の空から降り注ぐ雨は石畳の上に水溜まりを作り、通り掛かった幼子がわざとそこに踏み込んで水飛沫を上げ、きゃっきゃと楽しげに笑う。それに対して若い母親は慌てたような悲鳴を上げた。
雨の日の親子連れの姿が、遠い昔の栗毛の親子の幻と重なる。
母親にとっては災難以外の何ものでもないだろうが、その微笑ましい光景に口元を緩めていたアレクは、通りの向こうから歩いてくる男の姿に「うん?」と小さく声を上げた。
小脇に籠を抱え、傘をさして悠々と歩く、ただそれだけだというのにその姿はひどく様になっている。濃灰色を基調とした紳士風の身形に銀髪が映え、甘さと渋味が絶妙な均衡を保っている端正な顔立ちは人目を惹いた。
男でさえも振り返るほどの美貌の持ち主はこのアパルトメントの前で足を止めると、やがてエントランスに消えた。
「クレメンスさんだ。うちに来たのかな」
「だろうな。しかし、なんの用だろう」
足元のルリィも同調するようにぷるんと震えた。
間もなく廊下を歩く軽快な足音が聞こえた。部屋の前で立ち止まった足音の主は、二度扉を叩く。扉を開けると、果たしてそこにはクレメンスの姿があった。
「――良かった。思ったよりも元気そうだな」
アレクがこの季節に体調を崩しがちなことを知る彼は、そう言って微笑む。
「ゆっくり休ませてもらったんでな。もう何日かしたら復帰するつもりだ」
「そうか。だが、無理はするな。三十代も半ばを過ぎると無理がきかんようになるからな」
「……経験者の忠告か?」
「否定はしない」
軽口を叩きながら招き入れる。
元々用件だけ済ませたらすぐ戻るつもりだったようだが、せっかくだから茶でも飲んでいけと勧めると、「では一杯だけ」と誘いに乗ってくれた。
アレク手ずから淹れた紅茶を一口啜ったクレメンスは、ほう、と息を吐くと用件を切り出した。
「もうじき誕生日だろう。ナディアやザックから贈り物を預かってきたんだ。数年ぶりだから盛大に祝ってやるつもりだったが、急な仕事が入ってしまってな」
泊りがけの遠征で、明後日に出発予定だという。四日後、誕生日当日までの帰還は難しいかもしれない。それで友人代表としてクレメンスが訪れたということだった。
卓上に並べられた大小様々な箱を前に、アレクは言葉を詰まらせた。
――最後に誕生日を祝ったのは五年前だ。王国を留守にしていた数年間、友人達は己の誕生日を忘れずにいてくれた。忙しいだろうに、己のために時間を割いて贈り物を用意し、あまつさえこうして届けに来てくれたのだ。
彼らの真心がアレクを揺さぶる。病み上がりで弱っていた心には覿面に効いた。
誕生日を祝ってくれる友がいる、その事実が己の居場所はここなのだと改めて教えてくれた。
「それは……わざわざすまないな。ありがとう。何と言っていいのか……」
どうにかそれだけ言ったきり、震える吐息を漏らしたアレクを見るクレメンスの目は優しい。
「――色々あったのだろうから、今頃の季節はお前も思うところがあるだろう。だが、この世に生まれてきたことを厭わないでくれ。お前は、お前が思う以上に大事に想われているのだからな」
言いながら彼が差し出したボトルを受け取ったアレクは、その銘柄に目を瞠った。
黄金色の白ワイン、春の祝祭。家族思いで愛情深く、子沢山であったことで知られる数代前の王に七人目の子が生まれた際、親しい友であったとある伯爵から祝いの品として贈られたとされるワインだ。
花が咲き乱れる草原で、籠一杯の桜桃を手にして舞い踊る精霊がデザインされたラベルは、豊かな色彩に色付く春への喜びに満ち溢れていた。手前の精霊がこちらに手を差し伸べているのは、生まれくる命を迎える姿を描いているのだとされている一方で、踊りの輪に親しき友を招いているのだとも言われている。
この春の祝祭を贈った伯爵が、真実何を想ってこのラベルを描かせたのかを知る術は既にない。だがいずれにせよ、友に対して深い親愛の情を抱いていたことは間違いない。
「お前と出逢い、友となれて本当に良かったと思っているよ。共に切磋琢磨し、一緒に馬鹿もやって過ごす日々は楽しかった。世間知らずで温室育ちの私が今ここにこうして在るのは、お前と共に過ごした日々があったからこそだ。あの事件で失踪したと言われていたお前と出逢ったあの日は、きっと私にとって人生の分岐点だったんだろう。あの出逢いをもたらしてくれたザックと、あの魔窟のような場所から生き延びてくれていたお前には、感謝しているんだ」
「――クレメンス、お前」
普段は冷静な男の熱い想いを目の当たりにし、そして己の正体を知ることを遠回しに示唆した彼の言葉に、アレクは息を呑む。
そんなアレクに、クレメンスはこの上なく美しい、惚れ惚れするような笑みを浮かべて言った。
「誕生日おめでとう、アレク。我が生涯の友の新たな門出に幸多からんことを」
アレクは手で顔を覆った。そうしなければ見苦しい泣き顔を晒してしまうからだ。
シオリも、この男も、全力で己の存在を肯定し、祝福してくれるのだ。
シオリの温かな手とルリィの柔らかな触手が、咽び泣くアレクを慈しむように撫でてくれた。
――いつの間にか雨が上がり、雲間から差し込む柔らかな光が、室内を優しく照らしている。
2.
友の偽りなき友情を改めて知ったその日の夜。
九時を過ぎてようやく日没を迎えたトリスの夜景を、アレクは飽きることなく眺めていた。
薄っすらと茜色を残す北西の空には沈みゆく宵の明星が輝き、その西寄りの位置には金と銀に輝く兄弟星が煌めいている。
シオリの故郷では双子座と呼ばれていたらしいが、世界を遠く隔てた異郷の地でも似たような呼称を用いるとは面白いと思ったものだ。全くの異世界でありながら至るところでどこか似通っているのは、遥か遠い過去に根が同じ世界だったのかもしれないというシオリの説も、案外正しいのかもしれないと思わせてくれる。
「銀色の方がお兄さんで、金色の方が弟なんだって」
「なるほど、そこまで同じなんだな。こちらの伝説では異母兄弟だと言われているが」
継承権を捨てた銀の兄王子と、王位継承権第一位だった金の弟王子は、序列に差こそあれ双子のように仲の良い兄弟だったという。
『まるで僕らのようだね』
いつだったか、オリヴィエルがそう言っていたことを不意に想い出したアレクは、無意識に傍らの小箱に手を触れた。クレメンス達からの贈り物に紛れていた、オリヴィエルからのそれ。
中にはペガサスの鬣を編んで作られた、美しい白銀の房飾りが納められていた。伝説の英雄の騎馬、そして自由と高潔の象徴の天馬。その鬣で編まれた剣の飾り紐は、幸運と武運の護符となる。
アレクの覚悟を知ったオリヴィエルの、心からの贈り物だ。
光の加減で淡い紫色にも見えるその房飾りは今、アレクの愛剣を飾っていた。
――先日送った「スライム袋」は無事彼のもとに届いただろうか。
ふふ、と小さく笑ったアレクは、小箱と一緒に届けられた手紙に視線を落とす。その手紙には祝いの言葉と共に、「信用できると思う者には、お前の判断で身分を明かすといい。お前が認めているのなら、きっと彼らはお前の善き友であり、力となってくれる者達なのだろうから」という言葉が添えられていた。
ザックがクレメンスにオリヴィエルの贈り物を預けたのも、きっと意味があることなのだ。
そして。
「――お前も読んでみるか?」
オリヴィエルの手紙を手渡されたシオリは、「え」と目を丸くした。
「……いいの? 私が読んでも」
「ああ」
意図をはかりかねるというように遠慮がちに手紙を開いたシオリは、読み進めるうちに小さく息を呑んだ。
「ナディア姐さんって、アレクと陛下のお義姉さんになってたかもしれない人だったんだね……」
僅か十三歳にして全てを失った旧リトアーニャ王国の侯爵家の末姫、ナディアーナ・フェリクス・チェルナンド。若くして婚約者を亡くし、その後間もなく故国の内乱で生家を失い、歴史から姿を消した悲劇の姫君。それが「爆炎の魔女」ナディアの過去の姿だ。
彼女についても触れられている手紙を読むシオリの表情は、驚きと切なさ、そして喜びがない交ぜになっている。
先日、ナディアが毎年恒例だった次兄の墓参りを済ませたこと。区切りの年が過ぎた今、墓参りはこれを最後にするつもりらしいこと。そして親しくしている男との将来を考えていると打ち明けられたこと。
オリヴィエルの手紙にはそれらのことが淡々と、けれども気遣いと喜びに満ちた言葉で綴られていた。
「そっかぁ……姐さんとクレメンスさんも……うん、そっかぁ……」
上手く感情を表現する言葉が見つからないのだろう。けれども彼女の言わんとすることは、アレクにはよく分かる。
二人の友に幸あれ。
それがアレクとシオリの共通する想いだ。足元のルリィも、祈りにも似た気配を滲ませて、ぷるるんと震えた。
――王国歴九五二年は悲劇の年であったと言われている。この年の春に領海内で起きた豪華客船の沈没事故は、当時の王太子含む多くの命を奪った。その後も第二王子の事故死や王妃の病気療養と凶事が続き、さらに当時同盟関係にあった旧リトアーニャ王国で内乱が勃発。亡き第二王子の元婚約者が生死不明となった。
あの年、あまりにも多くの人々が家族や友と永劫の別れに引き裂かれた。
だがそれも今、ようやく過去のものとなろうとしている。悲劇の渦中にあった人々にも雪解けが訪れようとしていた。
「いつか、二人のお祝いができたらいいね」
「そうだな。そのときは盛大に祝ってやろう」
「うん。でもその前に、アレクのお祝い。アレクの好きなもの、沢山作るから」
「それは嬉しいな。それまでになんとしても体調を戻しておかねば。その後は……お前の誕生日だ。確か、夏だったか」
「……うん」
祝い事が続きそうな予感に、ルリィが楽しげにぽよんぽよんと飛び跳ねる。
――雪が解けて大地は鮮やかな若葉の色に染まり、静かに芽吹いていた蕾が一斉に花開いていく様子を、雪深い北方の国々では「春の祝祭」と呼びならわしている。
生きとし生けるものに遍くもたらされるという春の祝祭の恩寵は、どうやら己や親しき友にも等しく与えられることになりそうだ。
春の星座が輝く夜空を眺めながら、愛しい恋人を抱き寄せたアレクは静かに微笑んだ。
脳啜り「あれ? スライム連中は?」
ユル蛇「春の粛清に行ってる」
ギリィ「……害虫の卵駆除……」
あたたかくなる前にね_(:3」∠)_




