20 標の星
区切りの良いところでペンを止め、背凭れに身体を預けてぐっと背筋を伸ばす。それで凝り固まった身体が多少ながらも解れていく。
シオリはほっと息を吐きながら、窓の外に視線を向けた。
いつの間にか外には夕闇が迫っていて、夕映えの街並みは黄金色に煌めいている。
けれども時刻は既に午後八時過ぎだ。夏至の頃でさえ午後七時には日没を迎えていた日本育ちのシオリにとって、この時間まで日が沈まない環境は未だに珍しくもあり慣れないことでもあった。
これから一ヶ月半を掛けてさらに日照時間が伸び、最終的に日没は午後十時を過ぎることになる。
――午前四時半には夜が明け、午後九時近くに日が沈む五月を迎えたストリィディア王国は今、生き物達が最も活動的となる季節に突入していた。
日中の気温が十度を超える日も珍しくはなくなり、木々や草花が一斉に芽吹き始めて枯れ葉色だった大地を鮮やかに彩っていく。森の動物達は出産期を迎え、人々は農作業や大工仕事に精を出す。
勿論魔獣も例外ではなく、その大多数は雪解けとともに活発化する。冬眠や出産を終えた魔獣が餌を求めてうろつき始め、人里に下りて撒いたばかりの種や芽吹いた若芽、生まれたばかりの家畜の仔を食い荒らすようになると、冒険者組合にもまた多くの依頼が寄せられる。
冒険者の繁忙期到来だ。夜明けが早く夕暮れが遅いこともあって、意識して時計を見なければ自然と活動時間が長くなってしまうこの時期は体調を崩しやすい。王国より南方から来た移民の場合は特にだ。
「冬に気鬱症になる者は多いが、夏は夏で働き過ぎて身体を壊しやすいからな。切りのいいところで終わりにしておけ」
昼過ぎから個人的な用件で辺境伯家へと出掛けていたアレクは、いつの間にか帰ってきていたようだった。
苦笑しながら蜂蜜入りのホットミルクを差し出した彼は、魔法書や文献をさり気なく脇に寄せていく。
「原稿は大分進んだんだろう?」
「うん。あとは纏めを書いたら終わりかな」
「随分と早いんだな。やはり文章慣れしていると違うか」
「収録する魔法の数自体、元々そんなに多くはないもの。それに日本では書類仕事がメインだったし、ある程度型にはまったものなら作るのはそれほど苦ではないよ」
いわゆる専門書とされる魔法書の執筆は、専門教育を受けていなければ難しい。けれども、あらゆる階級の人間が集まる冒険者組合での配布を主目的とした冊子であれば、ある程度の体裁が整っていれば組合経由で比較的簡単に出版することができるのだ。
「先月の講習会で作った資料をたたき台にしたから、思ったより作業は楽だったよ。今月中には纏められそう。月末に挿絵画家さんと打ち合わせする予定なの」
「ほう。例の、バルトの紹介のか」
「うん、そう。ロヴネル支部の冒険者の本も何度か担当したことがある人みたいで、学校の教本の実績もあるんだって」
「そういう伝手もあるのか……さすがだな」
「だね。それでね、月末にアニーの仕事でまたこっちに来る用事があるから、そのとき一緒に連れて来てくれるって」
「なるほど。ロヴネル女伯もなかなか忙しそうだな」
「ね。身体壊さなきゃいいけど……」
「お前もな。来週には遠征もある。余裕を持って日程を組んではいるが、くれぐれも身体は大事にしてくれよ。勿論俺も気を付ける」
もともとそういう体質なのか、少年時代の無理が祟ったのかは分からないが、意外に寝込みやすい体質だというアレクは、自分に言い聞かせるように言って苦笑いした。
「さぁ、日程に余裕があるのなら今日はもう終わりだ」
心配性だとも思う。けれども根を詰めて良いことはないのは身をもって知っているし、アレクがこれほど恋人の体調を気に掛けるのは、若くして亡くなった母親がいるからだと気付いているシオリは、素直に従うことにした。
サイドテーブルに置かれた温かなカップを手に取り、ゆっくりと口に含む。乳の香りの後に花の香りがふんわりと抜け、蜂蜜独特の甘さが広がった。
「……美味しい」
「それは良かった」
微笑んだアレクは、机の横のベッドに腰を下ろすと自分もホットミルクを啜る。
ルリィも蜂蜜を増量したものをもらってご機嫌だ。
――就寝前の時間が、蜂蜜の甘い香りと共にゆっくりと過ぎていく。
特製ホットミルクを飲み干したルリィは、満足そうに震えながら床に広がり、うとうとし始めた。
徐々に日が落ちて夕闇に沈みゆく景色を眺めながら、二人はぽつぽつとこれからのことを語った。
「――今すぐって話ではないけど、大聖堂のコニーさんからも少し話があったの。教団の方でも年内に一度、幻影魔法を教えてくれないかって。あとは年末の生誕祭も、そのつもりでいてくれって」
「お、いよいよか」
「うん。大司教様の着座式が終わって、ようやく落ち着いたみたいだから」
「そうか……あそこも一枚岩ではないようだし、なにより四十代で大司教だからな。色々面倒事も多そうだが」
「そうだね……でも相当なやり手らしいから、そこは安心していいって。その代わり生誕祭では思いっきり花を添えて欲しいって言われた」
「はは、なるほどな。そういう思惑も多分にあるか。まぁ、こっちもありがたく利用させてもらおう」
「うん」
「……俺の方は、六月の末か七月の頭くらいには異母弟に会えそうだ。リンドヴァリ夫人の方はまだ先になりそうだが」
「そっか。じゃあ予定を空けておかないとね」
「ああ。そのあたりはザックも協力してくれる。だからオリヴィエに急な予定が入らない限りは大丈夫だろう。お前にも同席してもらうかもしれないが……それは構わないか?」
「うん。勿論だよ」
「ありがとう。それから物件の方だが、なかなか条件に合うのが見付からなくてな。第二街区まで行けばいくつかはあったが、どれも第一街区に近い物件ばかりでちょっとな……」
「組合からはちょっと距離があるし、富裕層が多いから冒険者だと浮いちゃうもんね……っていうか、あんなところの物件、共同経営にしたって私には買えないよ?」
「その辺は気にしなくていい。小貴族の邸宅二つ三つくらいなら買える程度の余裕はあるからな」
「へぁっ!?」
露店で林檎でも買うような軽い口振りだったが、シオリはぎょっと目を剥いた。「時折寄付をするくらいで、使う機会はほとんどなかったからな」とアレクは苦笑いしている。
高位貴族や富裕層からの指名依頼料は、リスクや難易度そのものが高いこともあって驚くような金額になる。そのうえ彼は辺境伯や異母弟からの仕事も個人的に受けていたというから、十数年分が積み重なってかなりの資産になったそうだ。
「確かにアニーからの指名依頼、びっくりするような金額になってたけど……」
伯爵家当主の婚姻にかかわる重大な案件だったこともあって、報酬にはかなりの金額が上乗せされていた。桁を間違えているのではないかと思わずザックに確かめたほどだった。
「お前だって、それなりには貯めてるんだろう。それこそ、シェアハウスの運営を考えるくらいには」
もともと指名依頼は高くつく。基本的に組合や仲間からの「指名依頼」という形で家政魔導士の仕事をこなしていたシオリには、当面の生活には困らないだけの貯えがある。そのうえロヴネル家やトリス大聖堂の仕事で、第三街区の片隅に小さな家を買えるほどにはなっていた。
けれども買った後も余裕がある訳ではない。
「うん、まぁ……だけど、大きくてもこのアパルトメントくらいのを考えてたから」
「そうだな……まぁ、いずれにせよ大きい買い物になるからな。急いで良いものでもないから、これはじっくり吟味することにしよう」
「……うん」
その間に考えなければならないことは沢山ある。冒険者としての仕事もあるから、図書室のほか、シェアハウスそのものの管理も誰かに頼みたいところだ。
「――クリスにもシェアハウスの件を少し話したが、管理人が必要なら人を貸してくれると言っていた」
「クリストフェル様が?」
「ああ。俺とお前の事情を気に掛けてくれてな。管理や警備だけでなく、不届き者の監視と辺境伯家との連絡役も請け負えるそうだぞ。勿論お前が嫌でなければとは言っていたが」
いくら同僚とはいえ、内側に不特定多数の人間を入れることになる。そのあたりのことをクリストフェルは気遣ってくれたようだ。
「わぁ、そっか……そういうことなら、お願いしたいかも。向こうとしても都合がいいだろうし、私も安心できるもの」
「そうか。それならそう返事しておく」
「うん。ありがとう。閣下にもよろしくお伝えしてくれる?」
「ああ、任せておけ。まぁ、例の携帯食の融通を利かせてもらいたいという下心もあるようだが」
「それは勿論だよ」
重ねていく会話の合間に、シオリは「ふふ」と小さく笑った。
「なんだ、どうした急に」
「忙しいけど、なんだか楽しいなって」
去年の今頃は、今後何があっても困らないようにと、ただ生き延びることだけを考えていた。
けれども今は、この世界に根を下ろして生きているという実感がある。
――広くなった視野で眺める世界は、明るく色鮮やかだ。
語るシオリの頬を、アレクの指先が優しく撫でる。
「楽しいと思えるのは心が健康な証拠だ。本当に……良かった」
感慨深く言う彼の声には実感が籠っていた。この胸に抱えた膨大な闇が晴れつつあることを、心から喜んでくれていることが分かる。
彼の指先をそっと手で押さえたシオリは、ふわりと微笑んだ。
「ルリィや兄さんや、姐さん達……それになによりも、アレクのお陰だよ。アレクが沢山温めてくれたんだもの」
優しく触れて、ゆっくり温めて、沢山の言葉をくれて、そして溢れんばかりの愛情を注いでくれた。
彼は、温かな場所に戻るための、道標になってくれたのだ。
穏やかで優しい夜空の色の瞳に映る魔法灯の光が、北極星のように輝く。
――標の星。このひとは、私の標の星だ。
「……シオリ」
微かに掠れた低い声が、自分の名を呼ぶ。
「俺にとってもお前は標の星だ。後ろばかりを見て生きてきた俺に、前を向いて歩こうと……一緒に生きていきたいと思わせてくれたお前は、俺の導きの星なんだ」
シオリの手からカップをそっと取り上げて机の上に置いたアレクは、そのまま唇を塞いだ。蜂蜜の香りが混じる口付けは甘く優しく、ゆっくりと溶け合っていく。
「……ね、アレク」
唇が離れ、それでも鼻先が触れ合うほどの距離で見下ろしている恋人を見上げたシオリは、熱い吐息交じりにねだった。
「最近は忙しくてちょっとご無沙汰だったから……」
今夜は、沢山触れて欲しい。
その言葉に目を丸くしたアレクは、やがてくつくつと笑い出した。
「あれほど今日はもう休めと言ったばかりなのにな」
「……触れてくれないの?」
上目遣いに訊ねると、彼は「いいや?」と首を振った。
「珍しくおねだりしてくれたんだ。勿論、隅々まで愛してやるさ」
覚悟しておけと獰猛に笑った彼は、押し倒したシオリの上に覆いかぶさると、再び唇を塞いだ。
――照明が落とされて柔らかな闇に沈む室内には、二人の息遣いだけが響いている。
脳啜り「これでもまだ触るだけで済ましてるよ!!!!!! 恐れ入るよ!!!!!!!!」※性的な意味で
ユルムンガンド「こっちは身体の隅々まで余すとこなく暴かれてるのにー」※解剖的な意味で
マンティコア「首だけ箱詰めにされたままの我の立場は一体」※コミカライズ第1話参照
これにて第7章終了です。
あとは幕間いくつか投下してから新章突入します(´∀`*)




