10 家政魔法と攻撃魔法への転用6「昼休憩」
初めはどうなることかと気を揉んでいたこの家政魔法講座も、受講生の熱心さに絆されて次第に一コマの時間が長くなり、前半三時間の予定を大幅に過ぎてようやく昼休憩を迎えた。
ここは家政魔導士として皆に温かい昼食を振る舞いたいところではあったが、それは付き添いとして参加していたロヴネル家の料理人が用意することになっていた。
軽食とはいえ名門貴族家の料理人が作る食事だ。庶民なら生涯口にすることはないだろう料理が配られ、そこかしこで小さな歓声が上がっている。
前夜から手間暇掛けて滑らかに仕上げられた根菜のポタージュスープは、疲れて食欲がなくとも栄養補給ができるように。そして、スパイスと塩胡椒が効いた炙り肉と茸ソテーのサンドウィッチは、働き盛り食べ盛りの者達の舌と腹を満たせるように。
どちらも食欲をそそる香りと絶妙な味付けでそのうえ腹持ちが良く、少量でも満足できるようにと配慮されていた。
「美味しい……有名な伯爵家の料理が食べられるなんて、夢みたい」
「あたし、家族に自慢しちゃう」
名門貴族家の料理を味わいながら沸き立つ同僚の後ろで、ポタージュスープだけを口にしてげっそりと横たわっているニルスを見下ろしたシオリは苦笑いした。
「お疲れのようですね」
「うん……ほんと、しんどい。凄く疲れるとは聞いてたけど、これほどだとは思わなかったよ。なんか、経験したことのない変な疲労感……生命力をまるっと抜かれた気分」
魔力量は少ないながらも元々適性はあったのか、初心者同然の割には器用に魔法を繰っていた彼だったが、数時間に及ぶ連続での使用には耐えられなかったようだ。持参した魔法回復薬は全て空にしてしまい、憐れんだ同僚達からの「お裾分け」がまるでお供え物のように彼の枕元に並べられている。
「おまけに回復薬飲み過ぎてお腹苦しい……」
彼の使い魔イールは、呻いている主を甲斐甲斐しく看護している。無論それはあくまでイール基準で、端から見れば実に気怠げで面倒くさそうなのだが、頭上の葉を自ら千切り、搾り汁を一、二滴ほど主の口に含ませていた。
ごく少量であれば気付け薬になるらしく、ニルスはそれでいくらか回復したようだ。けれども周囲に並ぶ薬瓶と顔色悪くぐったり横たわるその様が、まるで二日酔い中の酔っ払い男のようだ。
医師資格を持つ薬師とは思えない体たらくには、周囲も苦笑気味だ。
魔力回復薬は様々な素材から抽出した高濃度の魔素を、特殊な薬液に溶かしこんだものだ。この薬液は魔素を吸着しやすく逃しにくいという特徴があるが、いかんせん味に癖があって飲みにくいという欠点がある。これを補うために甘味料を添加しているのだが、その分、腹に溜まるという訳だ。これほど短時間で何本も消費していたのでは、それは腹も膨れるだろう。
(ゲームとかだと固形の回復薬をがんがん消費してたけど、本当にやったらお腹いっぱいになっちゃうよね)
ゲームのように回復アイテムが肉や穀類だったなら、摂取カロリーも荷物も大変なことになってしまう。回復アイテムが肉で嬉しいのはスライムくらいだろうなと、足元のルリィを眺めながらそんなことを考えてしまった。
「……まぁでも、回復薬の必要量がだいたい分かったよ。それにこれ……多分、慣れたとしても疲れることは疲れるだろ? 魔力もだけど、体力配分も考えないと、肝心の野営地で使い物にならなくなるね」
思案するように眉間に皺を寄せたニルスに、シオリは頷く。
「ええ、そうですね。道中は皆と同じように歩きますし、戦闘中だって後衛職とはいってもそれなりに動きますから。それに、今の職業と家政魔導士を兼任したい人は、魔力や体力の配分に気を付けた方がいいと思います。特に前衛の人はどうしたって運動量が多いですから、気力体力が持たないんじゃないでしょうか……」
「あぁー……」
「考えてみたら、そりゃそうだよな」
前衛職の同僚達は揃って唸り声を上げた。
道中では戦闘をこなし、その上野営地での仕事も待っているとなれば、その疲労具合はこれまで以上のものになる。どれだけ仲間を癒せたとしても、自分が疲れ切ってしまっては意味がない。
――かつての仲間と旅をしていた頃は、野営地での家事のほかにも後衛職の護衛――囮役ばかりか、場合によっては戦闘参加まで強いられていた。役にはほとんど立たなかったが、それでも彼らと同じように動き回った日の野営地での仕事は、この上なく辛かった。
「……なので、できる仕事の範囲を自分の働き方に合わせて考えておいた方がいいと思います」
「そうだな。家政魔導士として何ができて何ができないのか、あらかじめ周知しておく必要もあるんじゃないか」
横で昼食をすっかり平らげたアレクが口を挟む。
「家政魔導士はシオリ独自の職業だ。イコールシオリという図式が成り立っている以上、家政魔導士を名乗れば、少なくともトリス支部ではシオリの水準を期待する奴も多いだろう。いざ野営地に着いて、風呂が作れないとか食事がいまいちとかということになったら、正直がっかりするだろうからな……」
「それは……そうね。確かにその通りだわ」
エレンも頷く。
「世間一般に浸透した職業ではないのだもの。まずは家政魔導士を定義しておく必要があるかもしれないわね」
「そうだなぁ……しかし、基準をシオリレベルに設定されるとさすがに困るかな」
「――実際、シオリ殿はどれだけの仕事をするんだ?」
横合いから口を出したのは、騎士のレオ・ノルドマンだ。
「ええと……野営地での家政婦業に限れば、炊事洗濯、お風呂や寝床の用意でしょうか。あとは季節によっては空調魔法で結界内の温度や湿度を調整しています」
「寝床の用意? 敢えて挙げたということは、天幕を張るのとは違うのか」
「ええ。寝ているときの身体の負担を少なくするために、地面の湿気を飛ばして少し柔らかくするんです。土や雪に干渉して簡易ベッドを作ったりもしますね」
「土で簡易ベッド……というと、ああ。報告書にあったな。事件のときに救護所で作ってくれたという」
「はい、それです。ベッドは起き上がるときの身体への負担が少ないので、遠征中は結構受けが良くて。怪我をしたときや疲れが酷いときは特に」
ブロヴィート村の雪狼襲撃事件では多数の負傷者を収容できる場所がなく、駐屯騎士隊の備品も足りず、領都からの救援部隊が来るまでは野外に間に合わせの簡易ベッドを作って凌いでいた。
「なるほど。仲間の疲れを癒し気力を回復させ、戦力を維持する、それが家政魔導士の本分という訳か。兵站術に通じるものがあるな」
現代日本の普通のOLだったシオリには軍事の知識などほぼないと言っていいが、彼が言わんとすることは理解できた。
「軍事のことはあまりよくは分かりませんが……仲間が全力で戦えるようにサポートするのが私の仕事だと思っています」
目を細めてシオリを眺めていたレオは、幾度か小さく頷きながら遠くに視線を向けた。森林が広がるその先には細い煙が幾筋か棚引いている。きっと近隣の村のものだろう。
抜けるような晴天の下に広がる穏やかなその光景は、平和そのものだ。
「――後方支援職は前線には立たずあまり目立つこともない、決して華やかとは言えない仕事だ。しかし部隊を縁の下で支える、なくてはならないものだ。だが、ストリィディアは平和な時代が長く続いて、大規模に部隊を展開するような戦争経験がある騎士はもうほとんど退役してしまって、ほんの一握りしかいない。三十年勤めた私でさえ、若い頃――もう二十年になるか――国境地帯の小競り合いに何度か駆り出された程度だ。今では遠征と言っても短期日程の魔獣討伐や野盗狩りがメインなせいか、補給部隊を必要とする場面があまりなくてな。だからだろうな……特に若い世代に兵站を軽視する騎士が増えているんだ」
傷病兵として止むを得ず後方支援部隊に配置換えとなったレオは、そのことに改めて気付かされ、危機感を抱いたそうだ。
「確かに今の国内は平和だろうが、二つ先の国や海峡の向こうでは内乱や領土争いが続いているところもある。帝国は解体されたばかりで、しばらくは不安定な状態が続くだろうし、この国だっていつ巻き込まれるか分からないからな。備えておくに越したことはないだろう」
ここまでの講義を受けて、余裕があるうちに家政魔導士を育成して部隊に組み込んでしまえば良いのではないかと思ったそうだ。
「まぁ、今の私にそこまでの権限はないから、自分自身で示して働き掛けていくしかないだろうがな」
ベテラン騎士であるレオの話は若年層にはいまいち理解できなかったようではあるが、何人かは兵站術に興味を示したようだ。それを見たアレクが言った。
「興味があるならザックに訊いてみるといい。分かりやすく教えてくれるだろう」
「――え、兄さんって軍事に詳しいの?」
訊くとアレクは声を潜めて教えてくれた。
「あいつは武の名門の跡取りだったからな。そっち系の教育は一通り受けているらしい。結局あまり使うことはなかったようだがな……」
「あ……そっか」
武の名門の元跡取りで王子の側近でもあったというから、一通りどころか全網羅しているかもしれない。若くして亡くなったというその王子達が健在だったなら、もしかしたらそちら方面を取り纏める役職にでも就いていた可能性だってあるのだ。
(何が切っ掛けで人生が変わるか……本当に分かんないな)
二人の王子が健在ならザックはそのまま城勤めを続けていただろうし、前王の庶子であるアレクは城に召し上げられることもなく、それまで通り庶民として暮らしていただろう。冒険者にだってなっていなかったかもしれない。
そうしたら異世界から落ちてきた自分はザックに助けられることもなく、アレクにも、ルリィにさえ巡り合えないままそこで命を落としていたかもしれない。
ここに集った全ての人々にもあっただろう膨大な数の分岐点の先が、今ここでこうして一つに交わることになった――少なくとも今この場においては、その切っ掛けの一つを作ったのが家政魔導士だとするなら、巡り合わせとは本当に不思議なものだとシオリは思う。
(もしかしたら、今日ここで大きく人生が変わる人だっているかもしれないんだな……)
それが「良い分岐点」であればいいと、シオリは切に願う。
あの日、後に兄となる男に拾われ、良き友となる人々――勿論魔獣も含む――に出会い、そして唯一となる男に巡り合えた自分のように。
「……ご馳走様でした」
名門ロヴネル家の料理人謹製スープの最後の一滴を飲み干し、給仕役を率先して引き受けていたバルトが「美味かったでしょ」と得意げに笑う。
「あ、そういえば」
水魔法を繰ってルリィと共に皿洗いを手伝いながら、ふと思い出したシオリは訊いた。
「挿絵画家さんって、どうやってお願いしたらいいんだろう? 私みたいな外国人でも依頼ってできるものなのかな」
「挿絵画家ならいくつか伝があるよ。なんなら俺が口利きするけど。なに、本でも出す予定あるの?」
「うん。野営料理とか家政魔法の本を出せればなって思ってて。まだ具体的には全然なんだけどね」
野営料理の本と聞いて、後ろで黙々と作業していた料理人の男がぴくりと反応した。聞き耳を立てているその男が、まさかロヴネル家の名料理長と名高いアロルド・クロンヘルムだとは、シオリは知る由もない。
少しずつ積み上げた信用の「種」が芽吹き、蔓を伸ばして人脈を手繰り寄せている――それは、著名な冒険者として名を成す条件の一つだ。冒険者に限った話ではないが、表面的な力だけで渡っていける世界ばかりではないことに、ヴィヴィを含めた「挫折者」達は、まだ気付かないでいる。いずれは気付く者、そして気付かないままの者もいるだろうが、きっとそれもまた数多の分岐点の一つなのだろう。
「――魔法書はともかく、料理本は伝の伝を頼ることになるけど、それでも良ければ声掛けしてよ。力になるからさ」
「わ、ありがとう。じゃあそのときにはよろしく。そうだ、お礼ってどのくらい払えばいいもの? 仲介料……」
「依頼料は内容や量にもよるけど、俺に礼がしたいってのなら」
バルトはにやりと笑った。
「友達価格ってことで、お手製携帯食の詰め合わせでも送ってくれたら嬉しいな。あれ、夜食にちょうど良くってさ」
「そういうのでいいなら。あ、でも、デニスには脂っ気の少ないのをって念押しされてたんだけど、それでいい?」
二月の訪問では、彼の従兄弟にして同僚のデニス経由で注文がなされたが、何か含むところがある様子で「腹には溜まるが脂分の少ない携帯食を」と言われていた。夜食代わりに携帯食を食べるバルトの健康を気遣っているらしいのだが。
それを聞いた彼は「うへぇ」と呻いた。
「あいつ、俺の母上かよ。いやまぁ、最近ちょこっと目方増えたのは確かなんだけどさ……」
彼の祖父が犯した罪の後始末や、仕える主の婚姻準備などで野外活動がめっきり減り、書類仕事ばかりで身体を動かす機会がすっかりなくなってしまったようだ。
「運動しろ……と言いたいところだが、時間が取れないほど忙しいとなると、そのために外に出るのも億劫だろうな」
城で暮らしていたこともあるアレクには覚えがあるのだろう。言葉の端々には同情が溢れていた。
「そうなんだよね。かといって屋敷内で走る訳にもいかないから、階段を上り下りしてみたりはしてるんだけどさ。なんかすぐ疲れちゃって長続きしないんだよ」
「外に出るのが難しいなら……踏み台昇降とかどうかなぁ。階段の上り下りよりはずっと楽で長続きするよ」
「踏み台昇降? なんだいそれ」
「その名の通り、踏み台を上り下りする運動。部屋の中でできて凄く簡単だけど、意外に効くんだよ」
子供達の世話で気軽に運動に出掛ける訳にもいかず、ストレスで過食に走ってしまった義姉が辿り着いたダイエット方法だ。シオリ自身も半信半疑でこっそり試してみたが、思いのほか効果があって驚いたものだ。なにより、テレビを見ながら気軽にできるのがいい。
「階段の段差より低い踏み台を使うから、あんまり疲れないし。大体二十センチメテルくらいの高さの踏み台を、一回十分くらいずつ上り下りするの。本当は二十分以上がいいみたいだけど、あんまりハードル上げるときついから、最初は一日十分くらいから始めるといいと思う。慣れたら少しずつ時間を延ばすといいよ」
実践を交えて解説すると、多少は興味を持ったようだ。
「部屋の中でできるってのはいいね。ちょっとやってみよ……っと、なんだ?」
話途中で不意にバルトが言葉を切った。
微かなどよめきが上がり、何人かがある方角を指差したのだ。
彼らが指し示す方向、前方の山の中腹から巨大な白煙が上がっていた。雪崩だ。往路で見掛けた、兆候が出ていたあの山だった。
「あっ……!」
「……崩れたか。誰か巻き込まれていなければいいが」
アレクが唸る。あの山の麓にはいくつかの村が点在しているのだ。
「危険性は知ってるだろうけど……」
この国の民、それも山に近い地域に住む者にとっては常識だ。雪崩自体もさほど珍しいものではなく、雪の白煙が薄れた頃には興味をなくしたのか、ほとんどが談笑を再開していた。
それでもこの土地を治める家としては把握しておく必要があるのか、辺境伯夫人が兵士に命じて伝書鳥――それも高速通信用の特別な魔獣――を飛ばしている程度だ。
シオリは懐から取り出した懐中時計を見る。そろそろ昼休憩が終わる時刻だった。
講義予定の魔法はあと二つ。深呼吸して少し緩んだ気持ちを引き締めると、一瞬だけ山の方に視線を向けてから、シオリは講義の再開を告げた。
ルリィ「なんとなく不穏な気配」
ギリィ「そういえば昔、波乗りならぬ雪乗りだーとかいって雪崩に突っ込んだまま帰ってこなかった同胞がいましたね」
脳啜り「……それでいいのか雪男一族……」
いけませんよ。
※第240話部分、フードプロセッサーの回につきましては、感想のお返事を控えさせていただいております。その節は沢山の温かいメッセージをいただきまして、ありがとうございました。




