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家政魔導士の異世界生活~冒険中の家政婦業承ります!~  作者: 文庫 妖
第1章 家政魔導士の日常

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20 急病人の看病承ります(5)

一部にやや陰惨な表現が入りますのでご注意ください。

熱が下がらないアレクの過去を断片的につらつらと。

 三度目の覚醒は昼の少し前だった。ザックは仕事に出たらしい。残されていた書置きを手渡されて開けてみると『間違っても手を出すなよ』という一文が走り書きされている。

「……こんな状況で手を出すほど節操無くはないが」

 苦笑いすると、シオリが不思議そうに首を傾げた。それに何でもないと返しながら起き上がってみる。幾分楽になった気がするが、まだ節々に不快な痛みを感じた。頭も重い。身体は丈夫なつもりでいたが、治りの悪さに憂鬱になる。あまり考えたくは無いが、歳なのだろうか。

「お腹は空いてませんか?」

 聞かれて少し思案する。食欲は、無い。首を振って見せる。

「じゃあ、熱冷まし飲みましょうか」

 水と一緒に熱冷ましの薬を差し出され、言われるままに飲み下す。それから再び肌掛けの中に潜り込んだ。




 その後は何度か眠りと覚醒を繰り返した。熱のせいか、眠るたびに取り留めも無く夢を見た。幼い頃の想い出、ごく最近の出来事。

 ――そして思い出したくもない出来事の夢も。





 『――今日からお前は此処で暮らす事になる。その身分に恥じぬよう、せいぜい励むがよい』

 父から掛けられた言葉は、九つを数えたばかりの息子に対するものとしては酷く素っ気無く、冷たい。不安に圧し潰されそうになりながら、救いを求めて辺りを見回す。だが、自分を見つめる大人達の目はどれも味方のそれではない。揶揄するような、見下すような、面白がるような――。

(助けてよ、母さん。俺を置いていかないで)

 もう守ってくれる母は居ない。女手一つで育ててくれた母は死んでしまった。無理が祟ったのか病を得て、呆気なくこの世を去ってしまった。

 父は居なかった。始めから居ないはずだった。生まれてからずっと、母と二人きりだった。なのに、何故今更。

 父が居ればいいと思ったことは、何度かある。一緒に遊んでいた友達が、父親の迎えで帰って行くのを見送る時。お使いの途中の道で、父親に肩車されてはしゃいでいる子供を見る時。そんな時は、自分にも父さんが居たらと、そう思った事は何度もある。

 でも、こんなのは望んでいない。父とはもっと温かい目で息子を見てくれるものではなかったのか。なのに、なぜこんな他人を見るような顔で自分を見る。そんな他人を見るような顔で、冷たい言葉を掛けて。にも関わらず、今日から此処がお前の家だと、そう言うのか。

 自分を取り囲む大人達の、冷たい目、目、目――。



 ――美しい娘達が笑いさざめく。

 香水の匂い。化粧の匂い。色んな匂いが入り混じったような、気持ちの悪い匂いに気分が悪くなる。

『殿下。次の休日は当家の薔薇園で御茶会を開きますの。是非お出で下さいませ』

『あら、抜け駆けは許さなくてよ。殿下、是非わたくしの御相手を』

 殿下、殿下。追い縋るように自分を取り囲み、そして熱の籠った視線で見上げる娘達の瞳は、だが自分を、アレクを見てはいない。見ているのは「殿下」という肩書だけだ。

 ああ、でも彼女だけは。

『――殿下。わたくしが側に居りますわ。ですから、泣きたければお泣きになって』

 娘達の中では一番身分が低く、目立たない娘だった。だが、その素朴な佇まいに相応しい優しい娘だった。慣れない王城暮らしで神経を擦り減らしていた自分に気付き、そっと寄り添うように側に居てくれた。情けなく泣く自分を労わってくれた。

 好きだった。

 彼女も同じ気持ちでいてくれていると、そう思っていた。

 でも。

 冷たい目。見下すようなそれに慄いた。何故? どうしてそんな目で俺を見るの?

 初恋の娘だった。

 城を出る自分では子爵家の令嬢を娶ることなど出来ないのは分かっていた。でも、それでも、心だけは通じ合って居られると――そう思っていたのに。

『――勘違いなさらないで。継承権を放棄して王族の身分すら捨てた貴方に一体なんの価値があると言うの』

 ――無残な形で結末を迎えた、初めての恋。



『本当に済まない。お前独り残して行く俺を許してくれ』

 伝えた言葉の端が微かに震える。彼に気付かれただろうか。だが、気付いたとしても見逃してくれるだろう。優しい弟だから。

『いいんだ。気にするな。そもそも僕がもっとしっかりしていれば、お前が此処に呼ばれることも無かったんだ。こんな、継承権争いにまで巻き込んで。僕の方こそ済まなかった』

 やはり、優しい。全てが自分の責任であるかのように言う。

『しかし、冒険者か。騎士団以上に荒事が多いんだろう。心配だな』

『独り立ち出来るまではブレイザック殿が付いててくれるんだ。大丈夫さ』

 己の身を案じて不安げに眉根を寄せる弟の肩を叩くと、そうだな、と小さい返事があった。

『元気でやれよ。偶には手紙を寄越せ。もし気が向いたら――会いに来てくれればもっと嬉しいが』

『……手紙は構わないが、会いに来るのは難しいかもな。だが、もしどうしても何か困った事があれば声を掛けてくれ。その時は必ず駆けつけるよ』

『ありがとう。でも、僕も頑張るよ。頑張って、いつかお前にも居心地の良い場所にして見せる。だから、その時には帰って来てくれ。お前も立派な冒険者になれよ』

『ああ。約束する』

『約束だ』

 拳が差し出される。それに己の拳を軽く打ち合わせた。金髪の下の紫紺の瞳――面差しがあまり似る事のない、だがその瞳だけは兄弟である事の証――と視線が絡み合う。

 共に過ごしたのはほんの数年だったが、まるで生まれた時からずっと一緒に育った双子のような、唯一無二の親友のような、そんな間柄の弟だった。

 血を分けた、たった一人の家族。同い年の弟。

『――じゃあ、またな』

『ああ。また』

 さよならは言わない。また会おう。そう約束して、離れた。



 ――檻の付いた粗末な馬車で運ばれていく奴隷達の死んだような目。檻越しに見えたその姿は、薄汚れたなどという表現ですら生易しいほどに黒々と汚れ切っている。すれ違いざまに鼻を衝く異臭。扱いはまるきり犯罪奴隷のそれ。だが恐らくは正規の手続きを経てすらいないだろう。奴隷の中にはよくよく見ればまだ年若い娘や幼い子供の姿も見えた。違法に連れ去られでもしたのだろうが、帝国では日常的に行われていることだ。

 と、それまで無表情だった檻の中の子供が突然我に返ったかのように泣き出した。奴隷の何人かは痛ましげに、或いは鬱陶しげな視線を向けるが、ほとんどは何も感じないかのように身動ぎもせず座り込むのみ。

『黙れ! 静かにしろ!』

 奴隷商人が手にした棒を檻に突っ込み、激しく掻きまわすように動かした。

 甲高い悲鳴。強まる異臭。

 ああ、やめろ。やめてくれ。

 耳を塞ぎたくなる。嘔吐えずきそうになるが、それを必死に押し止めて表面的には気にも留めない風を装う。今の自分は帝国貴族だ。反応してはいけない。聞き流せ。間違っても――助けようなどとは。





 眠りに落ちる度に見る夢。脈絡も無く唐突に始まり、没頭していた読み掛けの本から突然引き戻されるようにぶつりと途中で切断される夢。良い夢もあった気がするが、ほとんどが悪夢だった。やはり熱の所為で弱っているからだろうか。

 だが、悪夢に魘されれば必ずシオリが起こしてくれた。手を握り、頭を撫でて、大丈夫だと優しく囁かれれば、それだけで安心出来た。

「――独りではない、というのは、良いな」

 うとうとと微睡みながら口にした言葉に、シオリは微かに笑ったようだった。握られていた手はそのままに、もう片方の手で頭をそっと撫でられる。

「……側に居ますから」

「……本当、か?」

 安心させるための言葉だったかもしれない。けれども、側に居る、その言葉一つに縋り付かずにはいられなかった。ああ、やはり弱っているのだろう。

「はい。だから、大丈夫。心配しないで」

「……ん」

 頭を撫でてくれていた手が耳の縁をなぞり、そのまま頬に滑り降りて来る。頬に優しく触れた柔らかい手。その温もりに安堵しながら、また眠りに引き込まれていく。



 ――次はきっと、もう悪夢は見ない。

 この優しいひとが、側に居てくれるから。






 ――瞼の裏に光を感じて、目を開ける。

 閉じられたカーテンの隙間から柔らかい光が漏れていた。朝だ。随分と長い事寝てしまった気がするが、気分は良い。

 己の手を握り締めていてくれた温もりが今は無い事を多少残念に思いながら、辺りに視線を巡らす。と、枕の真横にどっしりと座り込んでいるルリィの姿が目に入り、思わず息を飲み仰け反ってしまった。多分、覗き込まれていたのだろう。こうして間近で見てみると、かなり大きい。

 ルリィがぷるんと震え、それからしゅるんと触手のように身体の一部を伸ばして見せる。前にも見たルリィなりの挨拶だ。とぼけたようなその姿に何か脱力してしまう。

「……おはよう……」

 挨拶を返すと、ルリィは満足気に震えてからぽよんと寝台の下に飛び降りた。アレクの声を聞き付けたのか、朝の身支度をしていたらしいシオリが浴室から姿を見せた。

「おはようございます。気分はいかがですか」

 言いながらもこちらの返事を待たずに額を触る。

「良かった。大分下がりましたね。顔色も良いし、今は微熱くらいかな」

 額を触っていた手が、体温を確かめるように躊躇いも無く頬や首筋にまで降りて来る。二晩の看病でこちらへの抵抗がすっかりと無くなったのかもしれない。

(喜ばしいことなのかもしれないが、理由が少しばかり情けないな)

 距離が縮まったのは嬉しいが、すっかりと面倒を掛けてしまった。そのことに少しばかり気恥ずかしさと気まずさを覚え、それを隠すように身を起こすと、背中を支えられた。そこで、空腹を覚えている事に気付く。

「何か食べますか?」

 察したらしいシオリに訊かれて頷く。

「じゃあ、軽めの物を出しますね」

 楽な体勢で座っていられるように背中の後ろに背宛のクッションを宛がわれ、それから冷えないようにと肩に葡萄酒色のショールを掛けられた。ふわりと爽やかで微かな甘さのある香りが鼻腔を擽った。ショールに染み付いた、シオリの香りだ。

 窓辺のカーテンを引いて秋の柔らかい日差しを室内に入れてから台所に向かい、手際良く作業するその背をぼんやりと眺めているうちに支度が出来てしまったらしい。深皿を乗せた盆が運ばれて来る。根菜類と鶏肉を小さな角切りにして煮込んだ、琥珀色のスープ。

「食べ切れなかったら残してくださいね。無理して全部食べなくても良いですから」

「……大丈夫だ。食べられる」

 匙を握ったところで、ふと気付いた。

「そういえば、ザックは?」

 目が覚めた時から姿が見えない。寝込んでいるうちに戻って来て、また仕事に出て行ったのだろうか。

ザック(にい)さんなら、昨日難しい案件が入ったとかで、クレメンスさんとナディア姐さんと一緒に出る事になったそうです。今日には戻れるって連絡が」

 卓の上に載せられたままになっていた書き付けが手渡された。ザックかららしい。

「昨日も何か書き置いて行きましたけど、よっぽどアレクさんの事が心配なんですね」

「……いや、それは違うと思う」

 シオリは誤解しているようだが、自分の考えは間違いではないはずだ。折り畳まれた書き付けを開くと案の定『いいか、熱が下がっても大人しく寝てろよ。間違っても手を出すなよ』という短い走り書きが出て来る。シオリが心配なのは分かるが、一体どれだけ信用が無いのだろうか。ザックの妹分に対する過保護ぶりには最早苦笑するしかない。書き付けを畳み直して枕元に置いてから、改めてスープに向き直る。

「有難く頂くよ」

「はい、どうぞ」

 匙で具と一緒にスープを掬い、口に運ぶ。優しい塩気と根菜類の滋味深い味わいが、染み渡るように口内に広がって行く。

「……旨い」

「それは良かった」

 具を咀嚼すると、舌で軽く圧し潰すだけでほろりと崩れて溶けていく。病み上がりで胃が驚かないように柔らかく煮込んであるようだった。

「これは、俺の為に?」

 返事の代わりに頷かれた。心が温かく満たされていく感覚を噛み締めながら、匙を進める。見られていると食事がし辛いとでも思ったのだろうか、シオリが気を利かせてその場を離れようとした。だが、その事に寂しさを感じて咄嗟に引き留める言葉が口を突いて出る。

「側に、」

「はい?」

「……側に居てくれ」

 シオリは少し驚いたようだったが、直ぐにふわりと笑った。ああ、これだ。この微笑みだ。強過ぎる日差しを遮り、穏やかな温かさだけを与えてくれる木漏れ日のような、柔らかい微笑みが、今まで隠し通していた、長い任務で擦り切れかけていた心を静かに癒していく。

「じゃあ、私も一緒に食べますから。少しだけ待っててください」

 シオリは台所に戻ると、二つの深皿にスープを入れ、それから小ぶりの盥を盆に乗せて引き返して来た。深皿の一つと水魔法で満たした盥をルリィの前に置き、寝台脇の丸椅子に腰を下ろす。

「いただきます」

 故国の食前の作法らしい。手を合わせて軽く一礼すると、スープに手を付けた。

 温かい日差しが差し込む室内に、匙が皿に当たる音だけが響く。会話は無くとも心地良い時間が過ぎて行く。

 すっかり空になった皿を見て、シオリは安堵したようだった。

「良かった。食欲が戻ったなら大丈夫ですね」

「――すっかり世話になってしまったな。すまな……いや、ありがとう」

 名残惜しいが、これ以上の面倒を掛ける訳にはいかない。帰宅の意思を告げると、肩に掛けられていたショールが除けられ、代わりに毛布が目の前で広げられて己の裸体を隠すように包まれた。

「良かったら、お風呂、使って行ってください。微熱程度なら大丈夫らしいですから。帰ってからでは大変でしょう」

「さすがにそこまでは」

 出来ない、そう言おうとした時、己の体臭が鼻を掠めた。寝汗は拭き取ってくれていたらしいことは朧気ながらに覚えてはいたが、それでも汗の臭いと身体のべたつきは入浴しなければ落とせないだろう。髪も脂が浮き始めている。帰ったら宿の女将に湯を沸かして貰わねばなるまい。

 一瞬躊躇った隙に、シオリは浴室へと姿を消してしまった。程無くして戻って来る。魔法で風呂に湯を張って来たのだろう。

「中に服とタオルを置いてありますから。石鹸とかは適当に使ってくださいね」

「……ああ。何から何まですまない」

「いいえ。どうかお気になさらず」

 こうなって来るともしや男として見られていないのではないかとやや不安になったが、シオリは純粋に気遣ってくれただけなのだろうという事も理解できる。大人しく好意に甘えることにした。寝込んでいる間に汚れた衣服を脱がされていたこと、醜い傷だらけの裸体を見られてしまったことにこの時初めて気付いたが、それに一言も触れないでくれたのもシオリの気遣いだろう。

 肌掛けを捲られ、促されるままに寝台から慎重に腰を上げる。不調による不快な感覚は、もう無くなっていた。

「熱いお湯だと身体に障りますから、ぬるめにしておきました。ゆっくり浸かってくださいね」

 言い置いて、浴室の扉をそっと閉めて出て行く。浴槽の脇の卓には綺麗に洗濯されて畳まれた自分の服とタオルが置かれていた。浴槽に満たされた湯に触れてみる。熱過ぎず、ぬる過ぎず。体調を気遣ってくれての温度設定。

 シオリの優しさが身に染みて、胸が痛むほどだった。

「……参ったな」

 ――まだ、気が弱っているのかもしれない。

 ああ、もう、自分は。



 ――引き返せないほどに、完全にシオリ(あの女)に、落ちてしまった。




 風呂から上がると椅子に座るよう勧められ、温かい薬湯の入ったカップを握らされた。それを啜っている間、湯冷めしないようにと濡れ髪を乾かしてくれた。シオリの温かい魔力と彼女の細い指先が己の栗毛を梳かしていく心地良さに目を細める。

 その幸せだが短い時間が過ぎれば、後は帰るだけになった。

 消化に良く栄養のある携帯食を幾つか選んで詰め込まれた包みを持たされ、身体を冷やさないようにと鴨の羽色のショールを肩に巻き付けられた。仕上げとばかりに、ショールの下に魔法で温かい空気の膜が張られる。

「……もしかしたら熱冷ましで熱が下がっているだけかもしれません。ぶり返したら大変ですから、しばらくはお仕事休んでくださいね。絶対無理しないでください」

「ああ、わかった。本当に、何から何まで世話になった。ありがとう」

 定宿まで見送るというシオリの申し出は丁重に辞退した。戸口で見送りに出るシオリに向き直る。

「シオリ」

「はい?」

 彼女の頬に、空いた方の手でそっと触れた。手のひらで、包み込むように。

「以前、俺がお前の居場所になってやると言ったが――」

 屈み込んで、その柔らかそうな唇に口付けを落とそうとして思い直し、代わりに滑らかな頬に、唇で触れた。さらりと流れた黒髪と、洗髪料を借りて彼女と同じ香りになった己の栗毛が一瞬絡み合い、そして離れる。

「――お前の方が先に、俺の居場所になってしまったな」

 名残惜しく思う指先をその頬から外す前にもう一度愛おしげに撫で上げて、アレクはその場を後にした。




 アパルトメントを出て真っ直ぐ定宿に向かうつもりでいたが、思い直して組合(ギルド)に足を向けた。ザックは戻っているだろうか。何か色々と警戒されていたような気もするが、心配も面倒も掛けてしまったことに違いは無かった。謝罪と謝意を告げ、数日は養生する旨を伝えなければ。

 組合(ギルド)の扉を開けると、ザックは戻ったばかりなのか武装を解いている最中だった。同行していたクレメンスとナディアがこちらを見た。ザックも振り返る。三人が、僅かに目を見開いた。

「あんた、倒れたって聞いたけど、もういいのかい」

「ああ。お蔭様でな。だが、二、三日は大人しくしているつもりだ。穴を開けてすまないが」

「……いや、構わねぇよ。悪かったな、俺も気付いてやれなくて。しっかり身体休めろよ」

「ああ。ありがとう」






 組合(ギルド)を後にしたアレクの背を見送る。

「……驚いたね。あいつ、あんな柔らかい顔して笑えたのかい。初めて見たよ」

 ナディアが何処か感慨深い様子で呟く。

「……そうだな」

 ザックも同意するしかない。

「あんな――満たされたような顔しやがって」

 城を出てから。否、初めて会ったあの子供の頃から今日という日まで、あそこまで心の底から満ち足りたような顔など、ただの一度でさえ見た事など無かった。

 ――シオリがほぐしたのか。

 背を向けた瞬間に栗毛から一瞬香った、覚えのある優しい匂いの正体に気付いて、片手で両目を覆い、唇を噛み締めて俯いてしまったクレメンスの肩を叩きながら、アレクが出て行った扉を見つめる。

(シオリがあいつの居場所になれたのなら、次はアレク、お前の番だ。あいつの居場所になってやれ)

 思い出されるのは、アレクに心を寄せつつあるらしい素振りを見せ始めたシオリの、あの時の姿だ。熱に魘されるアレクの手を優しく撫でていた、シオリの姿。彼女は自分で気付いていただろうか。あの時、自分がどれだけ愛しげに彼を見つめていたのかを。

(あいつを頼む、アレクセイ)

 何かに対して敗北を認めてしまったらしいクレメンスの珍しく落ち込む姿に苦笑いしながら、ザックはナディアと視線を交わした。

「……こりゃ、今夜はヤケ酒に付き合うしかなさそうだ」







 階段をゆったりと降りて行き、階下で誰かと言葉を交わしてアパルトメントから出て行くアレクの足音が遠ざかってからも、しばらくの間立ち尽くしていたシオリは、温かいものが触れて行った頬をそっと指先で触れる。

 蕩けそうな微笑みで自分を見たアレクの、甘やかに細められる紫紺の瞳、緩い弧を描いて解ける唇――その感触を思い出す。

 自分の身に起きた事柄を正確に理解し、そしてその事実がじわじわと頭に浸透していくにつれて、顔が赤らんでいくのが分かった。

「……外国の人って皆積極的だから、社交辞令かもしれないって思ってたけど」

 ぽつりとシオリは言った。

「――本気だったみたい」

 今更気付いたのかとでも言いたげな雰囲気で、ルリィはじっとりと主人を見上げた。

書きたかったシーンが書けてひとまず満足した。


クレメンスさん、思ってた以上に本気だったらしいです。

フラグ立て出来なかったようです。



次回からは後日談とか幕間とかいくつか挟んで、それから第二章に入りたいなと。


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