03 往路にて
暦の月が変わって四月に入ると晴れ間が覗く日が増え、積雪はますます嵩を減らしていた。雪が降ってもさして積もりはせず、翌日の日差しで新たな積雪分がすっかり解けてしまうことも珍しくはない日が続いた。
その日も前日の大雪が嘘であるかのように綺麗に晴れ渡り、雲一つない空は水の精霊が棲まう湖水のように透明で美しい青色に輝いていた。
そんな青空の下、領都から数台の馬車が連なって出発した。組合の雪馬車二台を先頭に辺境伯家の私設兵団やロヴネル家の馬車が続き、殿を北方騎士隊が務めている。冒険者組合トリス支部が率いる「家政魔法講座」の受講生一団が乗り込んだ馬車の一隊だ。
二十名強という受講生に加えて、参加者である貴族家の護衛や受講生の警護を務める魔導士を含めると、四十人近くの大所帯だ。何事かと瞠目する人々だったが、御者の表情や冒険者組合と騎士隊の馬車があるのを見て合同訓練だと理解したのだろう、頼もしそうに見送っている。
そんな中で先頭の馬車に乗り込んでいたシオリは、緊張を含んだ吐息を漏らした。参加者リストを見て覚悟はしていたものの、集まった人数を実際にこの目で見たときには眩暈すら覚えたものだ。
今だって、同乗している同業者の視線に居心地の悪さを感じている。同僚はともかく、他の支部の冒険者などは東方人そのものが珍しいらしく、興味深そうにちらちらと視線を流しているのだからどうにも落ち着かなかった。
そんなシオリを気遣ってなのかどうかは分からないが、ルリィとブロゥ――せっかくだから外の空気を吸って来いとザックに送り出されていた――が、ぽよんぽよよんびよよよーんと面妖極まりない踊りを披露して彼らの注意を引いてくれている。お陰で何人かの注意が逸れ、怪しげなスライムの踊りに苦笑していた。
「……慣れてたつもりだったけど、やっぱりちょっと落ち着かないかな」
ぽそ、と呟いたシオリだったが、ふと見たアレクが幾分不安げに見ていることに気付いて、微笑んでみせた。
「でも、私も慣れる練習だと思うことにする」
気後れしていると見透かされたら、侮られてしまう。後ろ向きの態度は、ある種の者達にとっては付け入る隙になり得るからだ。虚勢であっても堂々としていた方がいい。
「――お前」
アレクは瞠目した。
「芯が強いとは思っていたが、なんというか……脆さを包み隠しているような頑なな印象だったが、今では衝撃を吸収してしまうようなしなやかさがある。本当に……強くなったな」
強く在ろうとするがゆえに、根元から折れてしまいそうな脆さがシオリにはあった。しかし、それも今ではほとんど感じられなくなったと彼は言った。
「強くなれたのは、皆のお陰だよ。私をちゃんと見てくれていて、支えてくれる人が沢山いるって気付いたから。なにより、私の全部を丸ごと受け入れてくれたアレクがいるんだもの。だからもう、大丈夫」
シオリ・イズミという人間を見守ってくれた人達がいる。
和泉詩織という本来の姿を受け入れてくれた恋人や兄、そして瑠璃色の友人がいる。
自分は一人ではない。この世界に住まう多くの人々がそうであるように、自分にもまた自分という存在を認めてくれる人がいるのだ。
不安がないと言えば嘘になるけれど、もうこの心は――この自分という存在が揺るぐことはない。もう揺るがないと決めた。
だから、今更「遥か辺境の異民族」である容姿を殊更に注目されようとも気にすることはない。「家政魔導士とやらのお手並み拝見」とばかりに幾許かの悪意を持って参加している者がいることだって、「よくあることだ」と受け流せるだろう。
そう言って微笑むシオリの肩を、アレクはそっと抱き寄せてくれた。
――その「お手並み拝見」するつもりでいるらしい幾人かの同僚をそれとなく眺めていたヴィヴィは、彼らから視線を外すと小さく溜息を吐いた。
正式に認められたB級というランクこそあれ、所詮は低級魔導士だろう、大したことがなければ指摘の一つくらいはしてやるぞという底意地の悪い考えを抱く、その気持ちはヴィヴィとしてはよく分かる。
何しろシオリ・イズミという女は、正式に登録されている魔導士の中でも低級、しかもその最下位に位置するとまで言われるほどの低魔力だ。攻撃魔法などCランク以上の魔獣はほとんど満足に倒せないほどだという。そんな彼女を胡散臭く思っても致し方のないことと言えた。
だからヴィヴィとしてもそのことについてとやかく言うつもりはないし、そもそもそんなことを言える道理もない。
ただ一つ言えることは、理由はどうあれ「弱者」を見下して嘲笑うその面構えは、驚くほど醜悪だということだった。
「……私もあんな顔してたのかな……」
思わず落とした呟き。
それを拾った物凄い美女――ナディア・フェリーチェが、苦笑気味に肩を竦めた。
「そうさねぇ。あんな顔だったよ」
可愛い顔が台無しになるほどだったねぇと付け加えられて、もう一度同僚魔導士達の表情をちらりと見たヴィヴィは、「うぇぇ……」と低く呻く。
どう控えめに見ても品性のない下卑た顔付き。能力的な数値はどうあれ、人間性が最悪なことは確かだ。あんな表情をしていたのでは、「対人関係能力に難あり」として査定を通してもらえないのも頷ける。自分だったら、あんな顔付きの人間に仕事を依頼したくはない。
半年前まではよく理解していなかったけれど、つまりはそういうことだったのだろう。C級になると、依頼人との直接交渉や貴族からの仕事が増える。B級以上は有力者から指名依頼が入ることも多いというから、わざわざ火種となるような態度を取ったり、相手によって露骨に態度を変えるような人間では務まらない。
(そりゃそうよね……大した人じゃないって舐めた態度取ってたら、貴族だったなんてこともあるかもしれないんだもん。組合にも仕事来なくなっちゃうかもしれないんだし)
依頼人の中には素性を隠している者もいる。無礼な態度であしらった相手が実は有力者だったなんてことになったら目も当てられない。実際、これはいくつか実例があるようだ。
あのシオリにしても、有力者の知己が何人もいるらしい。受講希望の使用人達を率いて訪れた、名門貴族のロヴネル姓を名乗る青年とも随分と親しげにしていた。彼の主人である女伯とは愛称で呼び合うほどの仲だという。自分が知らないだけで実はシオリ自身も由緒ある家柄の出なのかもしれない。ともすればこちらの首が物理的に飛びかねないほどの太い人脈に、田舎娘のヴィヴィなどは震え上がったものだ。
――否、相手が誰であろうと最低限の礼儀を払うということは当たり前の常識なのだ。その礼儀を欠いたがゆえの失敗例はいくらでもあるというのに、知っているつもりでそれができない者は案外多い。
(……そういえば、薬師みたいな専門家がいないとできないような仕事、足手纏いを連れてたら効率悪いからって全部省いちゃってたな……)
戦力こそ低いが採集の知識が専門家並みに豊富だという者や、土地勘がなければ入れない場所の道案内には自信があるという地理マニアの同僚の申し出を素気なく断ったこともある。言うべきではない余計な言葉を添えた断り文句で撥ね退けてしまった。勿論彼らがヴィヴィ達に声を掛けることは二度となかった。
万事が万事そんな調子だった上に、高い戦力に胡坐をかいていたヴィヴィ達がC級に昇格した頃には、選べる仕事が半減していた。末期の頃は、やり手の冒険者様が依頼を受けてやっているという態度で依頼人の心証を悪くしていた覚えもある。
その後の顛末はあの通りだ。
今目の前で嘲笑を浮かべている彼らは皆良くてもC級という者ばかりだったが、どうやら単純に能力値だけが問題で昇級できない訳ではないかもしれないと当たりを付けたヴィヴィは、かつての自分を思い出して「あー……」と頭を抱えた。
「客観的に見てこそ理解できることもあるってことさ。どうだい、ご感想は」
ヴィヴィにとっては手厳しくおっかない姐さんという印象が強いナディアではあるが、最低限の礼節さえ弁えていれば案外面倒見が良く気さくだということが分かる。そんな彼女に指摘されて、たとえ苦笑でも笑ってもいいものかどうか分からずに軽く目を伏せた。
「……控えめに言っても、凄くみっともないなって。あの人達も自分が気に入らない相手が『本当は自分よりずっと駄目な人』って理由が欲しいだけなんだろうなって」
いくら粗探しをしようが、自分の価値が上がる訳でもあるまいに。上がるとしてもそれは相対的なもので、ひどく虚しい。
「も、ねぇ……。なるほど」
ナディアは苦笑気味だ。
「まぁでも、今は違うんだろ?」
「……そうですね」
ヴィヴィは頷いた。
「正直言うと、あの人のこと、まだ苦手です。でも」
恐るべき底無しの絶望を可視化し、戦力を上回る三人の自尊心を一瞬で潰して見せた腕前の持ち主が、実践ではどのように魔法を繰るのか。それに興味があったヴィヴィは、この講習会への参加を決めた。闇を纏う女へのトラウマを解消したいという意味合いもある。
「そうかい」
ナディアは笑った。
「何か得るものがあるといいね」
かつては素直に従うことができなかった――従う気もさらさらなかった先達の、その優しい励ましの言葉に一瞬瞠目したヴィヴィは、小さく頷いた。
――やがて馬車は、トリスからほど近い山麓の村を通り過ぎ、目的地の森林地帯へと差し掛かる。魔獣が少なく開けた場所がいくつかあるこの地帯は、魔法の練習場所としては最適なのだ。
「おっ。新人はよく見とけよー」
幌の垂れ幕から森林越しに見える低山地帯を眺めていた武闘家、カイ・シャンヴァリ――魔導士から転職した異色の経歴の持ち主だ――が指を差す。彼の使い魔、吹雪猫のシグルドも、主を真似てか尻尾で同じ方角を指し示している。
促されて見たその山の中腹、木々が疎らな場所の雪に不自然なジグザグの影が差していた。まるで亀裂のようだとシオリは思ったが、実際亀裂なのだとアレクは言った。
カイの解説を聞くまでもなく、あ、と察したような声を上げたのはヴィヴィを含めた山育ちの者達だ。
「でけーな……」
「黙ってても崩れるよ、あれ」
どうやら雪崩の兆候らしい。
「あんなふうに亀裂が走ってるところや、皺が寄ってるようなところは絶対近寄っちゃ駄目だ。あとは斜面の上から雪玉が転がってきてるような場所も避けてね。ああいう急斜面だとか、草木が疎らな場所は特に雪崩が起きやすいんだ。障害物がなくて歩きやすく見えるだろうけど、巻き込まれたら一巻の終わりだから面倒でも迂回するようにね」
新人相手にカイの解説が続く。
彼らの背後ではルリィやシグルドが新人使い魔相手になにやら指導しているような仕草を見せ、それを皆で微笑ましく見守った。
そうこうしているうちに目的地に到着した一行の馬車は、木々の合間の開けた場所に滑り込んでいく。
いよいよ講座の始まりだと深呼吸すると、アレクが勇気づけるように背を叩いてくれた。
脳啜り「俺だったら家政魔導士には絶対近付くなって指導する」
ルリィ「完全にトラウマになってる」




