01 雪解けの季節
冬が長く雪深いストリィディア王国も、三月を過ぎ、じきに四月を迎えようという頃には日照時間が格段に伸びる。日中の気温も上がっていくらかの温かさを感じるようになると、あれほど積もる一方だった雪が表面から解け始めて徐々にその嵩を減らしていく。
雪解けの季節だ。春が近い。
若葉が芽吹き花が咲き乱れる時期までにはまだ間があれど、日増しに強くなる春の気配は人々の心を躍らせた。王国一雪深いトリスヴァル地方に住まう人々はなおさらだったが、こと領都の冒険者組合の一部の冒険者達にとっては、今年の春はとりわけ待ち遠しい季節であった。待望の「魔法講座」が開催されるからだ。
「積雪になるような雪はそろそろ終わりそうだな」
「そうだね。いつも雪掻きされてる街道沿いはすっかり地面が見えてるし」
「そろそろ頃合いか?」
「うん。兄さんに告知してもらうよ」
手元の資料を覗き込んでいたアレクに、シオリは微笑み返す。足元のルリィもぷるんと震えた。
以前から要望の多かった家政魔法講座の開催時期は、晴れ間が増え雪が解け始める春先と決めていた。受講予定者の多くがそう希望したからだ。すっかり雪が解けて夏期の活動が本格化する前に習っておきたいという訳だ。
「あとは緊急依頼が入らないことを祈っておこう。人手を割く訳だからな」
春先には冬眠明けの魔獣が食料を求めて活発化する。しばらくはこれらの討伐依頼がちらほらと舞い込むことになるだろうが、できれば自警団や騎士団に頼りたいところだ。講習会に集中したい。
「思ったよりも希望者が膨らんじゃったし……上手く進められるといいけど」
当初は六、七人程度の予定だったのだが噂が噂を呼び、他の支部や北方騎士隊、そして辺境伯家などからも問い合わせがあり、最終的には組合内外含めて二十人強という大所帯になってしまった。
参加希望者には冒険者以外にロヴネル家の料理人や辺境伯家の私兵、そして利き腕の故障で後方支援部隊に配置換えとなった騎士が含まれている。中にはブロヴィートの雪狼襲撃事件で重傷を負って前線から退いた元隊長だという騎士の名もあった。
「……あのときの隊長殿か。結局剣を手放すことになったか……」
アレクの表情が微かに歪む。同じ剣士として何か思うところがあるのか、その手は利き腕を撫でている。
あの重傷だった元隊長殿は腕の筋を切り、治癒魔法を以ってしても元のように剣を振ることは難しいだろうという話だった。隊長職を務めるほどであれば、それなりに腕は立ったはずだ。本人の意志か周囲の勧めなのかは定かではないが、家政魔法を習いに来るということはやはり、剣を手放さざるを得なかったのだろう。
「……どこまでお役に立てるかは分からないけど、私の技術を役立ててもらえたら嬉しいな」
痛ましげに希望者の名簿を眺めていたアレクはふと顔を上げ、そして微笑んだ。
「俺達も全力でサポートする。だから安心してくれ」
自分もいるよ! とばかりにルリィもぷるるんと震える。
「うん、ありがと、二人とも。頑張るよ」
受講希望者の目当ては決して家政魔法だけではないだろう。これまで多くの魔導士が挑戦して玉砕した複数魔法の同時発動――合成魔法に多大な期待を寄せているはずだ。実際、これに期待した幾人かの上級魔導士が参加したがったが、それでは本来の目的である家政魔法の講習から大きく趣旨が外れてしまう。
だから今回は丁重にお断りして、合成魔法談義はまた別の機会にという話で纏まった。その代わりに彼らは見学を兼ねて会場の警護を引き受けてくれた。合成魔法は暴発の危険があるからだ。
アレクやナディアもまた彼らと共に警護に当たる。皆、魔法に関してはベテランばかりだ。暴発の気配を察してすぐ動いてくれるだろう。
「……だが、お前は一人で練習したんだったか」
「私の場合は魔力が凄く低いから。暴発してもちょっと火傷するくらいだったし」
応用を利かせなければ大蜘蛛一匹倒せないような魔力だからたかが知れている。暴発したところで鍋が噴きこぼれた程度のものだった。だからこそ創意工夫が必要だったのだけれども。
「ちょっと、か」
魔法の失敗で手に切り傷や火傷を負いはしたけれど、勿論そのときの怪我は完治していて綺麗だった。それでもアレクは気になったのだろう、そっとシオリの手を取り気遣わしげに眺めている。
そんな彼の手を撫でて大丈夫と微笑むと、彼は眉尻を下げたまま微苦笑した。
「――それにしても、中級魔導士が案外多いんだな」
「うん、そう。私もちょっとびっくりした。けど、この人達も結構深刻みたいで」
中級魔導士の中には魔力の伸びしろがなく、上級職に至れない者もいる。いわゆる中級止まりとされる者達だ。
B級保持者ではあるが、魔導士としては低級の中でも最下位に位置するシオリにとってはそれでも羨ましいの一語に尽きる。
けれども戦闘が魔法頼りの魔導士にとって、中級止まりは憂慮すべき問題だった。高ランクの魔獣を相手にするには圧倒的に魔法の威力が足りず、一定ランク以上の依頼を受けることができない。依頼の選択の幅は格段に狭まるだろう。パーティに入ったとしても足手纏いになりかねなかった。レベルも冒険者ランクもそれ以上の昇格が望めないというのは、冒険者業を生涯の仕事と考える者達にとってはまさに死活問題であった。
「幸い俺は剣との相性も良かったから魔法剣士としてやってこれはしたが、そうだな……魔法だけだったとしたら、多分中級止まりの魔導士だっただろうな」
上級魔法を使えはするが、主力になれるほどの威力はない。そして範囲魔法を苦手としている。だから魔道士になったところで中級程度だっただろうと彼は言った。
「恐らく冒険者のランクもいいとこB級だっただろうな」
「そっか……」
アレクのように攻撃手段が別にあれば話はまた違ってくるのだろうが、彼が言うように武器にも相性がある。シオリ自身、適性検査を受けたときに、例え鍛錬したとしても恐らく護身程度の剣技しか身に付けられないだろうと言われていた。勿論魔獣には敵わない。だから低級魔導士の地位に甘んじるしかなかったのだ。
しかし幸い自分には家政魔法という強みがある。研究を重ねて魔法を家事に転用した家政魔法という付加価値があるからこそ、最下位の低級魔導士でいながらB級の資格を得ることができたのだ。
だからこそ、中級止まりの彼らは今回の講座に期待を寄せている。もはや魔導士としてこれ以上の活躍が望めないのであれば、いっそシオリのように完全な後方支援職として上を目指すのも悪くはないと考えているのだ。
「勿論、家事にも得手不得手はあるもの。だから無理に家政魔導士を目指さなくても、何か自分ならではの働き方を考える切っ掛けにでもなればって、そう思うの」
組合に登録する冒険者数は年を追うごとに増え、寄せられる依頼は多様化している。今までのような既存の職業だけでは対応しきれないものも多い。
これまで高ランク保持者のみで構成したパーティでなければ満足のいく結果を出せなかった難易度の高い依頼が、中堅パーティでも一部対応できるようになったのは家政魔導士の補助によるところが大きいという説が真実であるならば――きっとこれから新たに生まれるだろう特別職もまた、どこかで活躍することになるかもしれない。
薬師のニルスも兼任家政魔導士を目指して、既に野営地用の薬湯と薬膳料理の開発を始めているらしい。あとは家政魔法の習得だと彼は笑いながら言ったものだ。
「薬膳料理か。薬臭い食事にならなければいいがな……」
アレクは苦笑いしている。一度飲まされたことがあるニルス謹製栄養剤がよほど不味かったらしく、あれ以来適当な理由を付けて避けているようだ。
「そんなに……な味だったの?」
「ああ……」
アレクは遠い目をした。
「……枯れ葉と泥を安ワインで煮詰めたような味だった」
「う」
A級保持者の薬師が滋養強壮剤と言っていただけのことはあってまずまずの効果はあったらしいが、何度も口にしたくはない味だとアレクは呻いている。
「……いきなり野営地で振舞われる前に、試食会を開いてもらった方が良さそうかも」
「だな。いくら効くからと言っても、精神力と引き換えにするのは御免だぞ」
ニルスの料理の腕前は未知数だが、味は大事だ。食事一つでその後の士気に影響が出ると知った今ではなおさらそう思う。
顔を見合わせて苦笑いしながら書類を纏めた二人は、ルリィを伴って組合に向かった。講座の具体的な日程を詰めるためだ。
温かな日差しで、溶けかけたシャーベットのようになった舗道の雪を除けて歩く。馬車が泥水を撥ね上げながら通り過ぎ、歩いていた娘達に悲鳴を上げさせていた。
「こういう中途半端に溶けた雪って、かえって真冬よりも面倒だよね」
「だな。整備されてない道なんぞはひどいものだ。そんな道を通るような依頼は避けたいところだな。現地に着く前に泥だらけだ」
いくら春が近いといっても夜はまだ氷点下にまで下がる。日中溶けた雪が今度はザラメ糖のように凍り、足元を取られて歩きにくいのだ。歩くだけで疲れてしまう。
「この時分は雪崩も起きやすいからな。新人達にもよく注意しておかなければ。特に街育ちの連中にはな」
「うん」
ぽつぽつと会話しながらやがて着いた組合の扉を開けると、カウンターの上でぽよんぽよんびよーんと弾んでいたブロゥがしゅるりと触手を掲げた。先日ザックと使い魔契約したこのスライムも、今ではすっかり組合のマスコットとして馴染んでいる。
そんなブロゥに応えてルリィが嬉しそうに触手を振り返している。
二人もまた手を振って挨拶を返したがしかし、室内の妙な雰囲気に気付いて眉を顰めた。談話室や掲示板の前に陣取ってひそひそと囁き合っていた同僚達が、二人に気付いた瞬間「あ」というような表情を作ったからだ。それどころか事務員が二人を見るなり、形ばかりのノックをして慌ただしくマスター室に飛び込んだのだ。
この妙な空気の理由がどうやらこちらにあると気付いて、シオリは不安げにアレクを見上げた。同僚達の表情から察するに、あまりいい理由ではないことは明らかだ。けれどもどこか気遣うようでもある。
「……えっと……なんだろう?」
しかしシオリと同じように事情が分からない彼もまた、眉を顰めたまま首を振っただけだ。
異様な雰囲気に身を縮めるシオリの肩をアレクがそっと抱き寄せる。
そんな二人に同僚が何か言い掛けたそのとき、マスター室の扉が開く。渋面とも当惑顔とも言い難い表情のザックが顔を覗かせた。
「――おう。ちょうどいいとこに来たな」
赤毛をがしがしと掻きながら大きな溜息を一つ吐いた彼は、後ろ手に扉を閉めるとシオリを手招きした。
「……何? 兄さん」
「お前に謝りたいって奴が来てる。だが、嫌なら断ってもかまわねぇ。あいつもそんならそれで構わねぇとは言ってる」
「あいつ? 謝りたい……?」
思い当たる節がない――そう言い掛けて、不意にかつての仲間の姿が脳裏に浮かんだ。アレクもそれで察したのか、肩を抱き寄せる手の力を強めた。
そんな二人に、「ああいや、言い方が悪かったな。多分思ってる奴じゃねぇよ」と言って苦笑いしたザックは、吐息とともに一つの名を口にした。
「――ヴィヴィ・ラレティだ。覚えてるか? 去年の秋口に問題起こして辞めた、C級の魔導士の」
「ヴィヴィ……あ」
あまり馴染みのない名のはずだったが、去年の秋口にという言葉に頭の片隅に追いやっていた記憶が蘇る。かかわったのはほんの一瞬だった。顔と経歴こそ噂で知っていたけれど、名前を記憶するほど親しくしていた訳でも決してない――ただ一方的に敵視された挙句に「攻撃」された、それだけの関係だった。
魔力が低く、家政婦紛いの仕事をしているだけのシオリがB級認定されているのはおかしいと糾弾し、口論の果てにシオリを武器と魔法で以って害そうとした新人の娘達。その中の一人がヴィヴィ・ラレティだ。
――自分達の有能さを鼻に掛けて周囲に迷惑を掛けたばかりか、同僚の忠告や先輩の苦言の一切に耳を貸さず、誤った正義感を暴走させた末の愚行。シオリが抵抗しなければ危うく騎士隊案件になるほどのものだった。
それなりに痛い目を見たはずだったが、しかし、首謀者の娘は経験から何も得なかったのだろう。謹慎期間を経てもなお傲慢な態度を改めることなく、手に余る依頼を受けて残念ながら命を落とすことになった。
ある程度の反省の色は見せていたものの気の強い彼女に逆らいきれず、結果として彼女を見捨てて生還したもう一人の娘は、大きな後悔を抱えて移籍していった。
そして最後の一人――このヴィヴィという娘は、ほとんど逃げるようにして組合を脱会し、郷里に戻った――というのが昨年秋の事件の顛末だ。
「シオリ」
気遣わしげなザックの声。
はっと我に返ったシオリは、兄貴分の顔を正面から見つめた。空色の瞳が不安げに揺れている。この優しい兄貴分は、シオリの「正体」を知ってもなお、こうして気遣ってくれるのだ。
――この世界での兄。優しくて頼りになる、最愛の兄だ。
それに、シオリの事情を全て受け入れてくれた恋人も、頼もしい瑠璃色の友人もいる。
シオリは微笑んだ。もう自分は独りぼっちではないのだ。
「……ちょっと怖いけど……でも、会ってみる」
恐らくは上級魔導士になれる可能性を秘めていただろう彼女に、杖を向けられたあの瞬間の恐怖を忘れた訳ではない。けれども、およそ半年という月日を経てヴィヴィの心境になにがしかの変化があったのであれば、会ってみたいという気持ちが勝った。
苦笑気味に頷いたザックが、部屋の扉を開けた。
俯きがちに長椅子に座っていた小麦色の髪色の娘が、はっと顔を上げた。正面から視線が絡み合う。気まずそうにぺこりと小さく会釈した彼女の、その揺れる瞳に浮かぶのは悔恨と困惑と恐怖――様々な感情が入り混じった複雑な色だった。
ギリィ「見守ってあげてくださいね」




