19 急病人の看病承ります(4)
アレクの過去を少しだけ。
熱のせいで取り留めも無く色々思い出してる冗長回です。
夢を、見ていた。決して愉快とは言えなかった、たった三年暮らしただけの帝国の。
『――地味だと思っていたけれど、よく見ると綺麗な顔してるのね、アレン』
強い香水の匂いを撒き散らして娘が言う。美しい娘だが化粧に依るところも大きいだろう。しな垂れかかる娘の顔から、己の胸元に剥がれた白粉が零れ落ちる。
『光栄です御嬢様』
全く好みではない娘だが、それを巧みに隠して甘やかに顔を綻ばせる。娘の好みは調べ上げて熟知していた。甘い顔立ちと優雅な仕草、そして少しばかり遊び人風の佇まい。その好みに合わせて振る舞えば、いとも容易く娘は落ちた。意味有りげに娘の唇を指先で撫で上げると、娘はやや幼さの残る顔で嫣然と微笑む。
『いいわ。お父様に取り立てて頂けるように頼んであげる』
自らの手引きで彼を家に引き入れた娘は、自らの好みに何もかもがぴたりと当てはまり、まるで姫君のように己に尽くしてくれる彼に、すぐに夢中になった。娘の父親もまた、軽薄そうな見た目に反して真面目に勤め上げる優秀な彼を次第に重用するようになった。帝国軍に防具や馬具を卸す大商人。その側近候補として大きな商売を任されるようになるうちに、帝国軍の配置や規模、進軍予定に詳しくなった。
此処まで来れば己の任務はほぼ終わったようなものだ。後は潜入している仲間達に情報を送り、彼らが反乱軍を扇動するのを待てばいい。
そうすれば。
『アレン! アレン! どこに居るの!?』
反乱軍が屋敷に放った火の手が迫る中、娘が彼を呼ばう。だが、彼は振り返らない。彼はアレンではないからだ。
アレンなど居ない。辺境の田舎領主の子息、アレン・シュリギーナなどという男は最初から存在しなかった。居るのはアレク・ディアという――ストリィディア国王直属の工作員だ。
これで、やっと帰れる。
――この差別と汚職、そして搾取に塗れた帝国から、あの優しく穏やかな故国へと。
ふと、誰かに名を呼ばれたような気がして、ゆるゆると意識が浮上する。ぼんやりと霞みがかって上手く物が考えられない思考を持て余しつつ、うとうとと微睡む。と、近くに幾つかの気配を感じ、目を閉じたまま急速に意識を覚醒させた。
(――いつの間に接近を許した)
接近を許すほどに深く眠り込んでしまっていたのか。油断し過ぎだ。内心歯噛みし、身動ぎしようとして気付く。身体が熱く、重い。関節が軋む。さては薬でも盛られたか。しくじった。そろりと肌掛けの下の腕を動かし、枕の下を探る。いつも眠る時には必ず其処に忍ばせているはずの短剣は無い。
(くそっ)
丸腰、しかも自由の利かない身体で複数の敵を相手にするのは辛い。だが、やるしかあるまい。利き腕に意識を集中させる。接触の瞬間を狙って魔法を放てば、少なくとも一人は確実に――
「――アレク! ここは帝国じゃねぇ。そんな殺気立つんじゃねぇよ」
「――っ!」
唐突にかけられた声。それが聞き慣れた男の声であることに気付いて臨戦態勢に入っていた身体を弛緩させる。
「大丈夫か? 魘されてたぞ」
何か面白くも無い夢を見ていたような気もするが、あまりよくは覚えていない。
額に乗せられたタオルが除けられ、代わりに手のひらを押し付けられる。
「……下がんねぇな」
溜息を吐いて傍らの水桶でタオルを洗うザックを横目に、ぼんやりと辺りを見回す。光量の落とされた魔法灯で仄かに照らされた室内は見覚えのないものだ。否。
「シオリの……部屋?」
掠れた声で呟くと、仏頂面のザックと目が合った。
「倒れてここに担ぎ込まれたんだ。覚えてねぇか」
言われて思い返してみるが、記憶が曖昧だ。確か、ザックの申し出を固辞して組合を出て、それからシオリに――
そこまで考えて、自分がシオリの寝台を占領している事に気付く。
「……シオリは?」
「ソファで寝てるよ。さっき交代したところでな」
視線を巡らすと、ソファで毛布に包まり丸くなって眠るシオリの姿が見えた。
「いいか、明日までに熱下げてそこどけろ」
独り身の男が妹分の寝台に寝ているのが余程気に入らないらしい。
「……善処する」
一晩寝て下がれば良いが。自分としてもシオリの前で見苦しい所を見せてしまったのは不本意だ。喉の渇きを覚え、ゆるゆると身体を起こす。軋む関節と鈍い頭の痛みに呻くと、水の満たされたグラスが差し出された。口を付けると、仄かに果実の香りと甘味、そして酸味を感じた。果汁水だ。
「わざわざお前の為に作ったんだと。有難く飲めよ」
シオリの心遣いに心に灯が灯るのを感じつつ、果汁水を飲み干す。乾いた身体に水分が綺麗に染み渡って行く感覚に、ほっと息を吐いた。
「さあ、寝ろ。もう神経擦り減らしながら寝る必要はねぇんだ。しっかり休めよ」
「……ん」
言われるままに横になると直ぐに眠気が襲ってくる。アレクは目を閉じた。額に冷たいタオルが乗せられ、それからくしゃくしゃと頭を撫でられた。まだ駆け出しの頃、こうして看病して貰った覚えがある。そして、そういう時は決まって子供にするように頭を撫でられた覚えも。
(――もう子供じゃないんだがな)
懐かしく思いながら、再び眠りの淵に沈んだ。
次に目が覚めると、既に外は明るかった。窓の外で荷馬車の通り過ぎる音が聞こえる。人々が起き出し活動を始める時間のようだった。
未だに頭はぼんやりと霞みが掛かったようにはっきりしない。身体も熱い。
「――下がんねぇな……」
アレクの額に手を押し付けて苦虫を噛み潰したような顔でザックが呻き、それを見てシオリは苦笑している。
「……面目ない」
一晩寝ても熱が下がらないのは久しぶりだ。我ながら情けない声が出る。
「気にしないで休んでてください。私は構いませんよ」
有難い申し出だが、さすがに交際もしていない女の寝台を二日も占領するのは気が引けて、怠さの抜けない身体をどうにか起こすと、優しく背中を支えられた。水の入ったグラスを持たされる。
「ここに居て貰った方が看病しやすいですから。ゆっくり休んでください」
「しかしお前、独り身の男を二日も部屋に」
言い募るザックに、シオリはにっこりと笑って見せた。その笑みが何故だか凄みを帯びているように見えるのは気の所為だろうか。
「……泥酔して乱入してきた挙句に二日酔いでここを二日も占領した人よりは遥かにマシだと思う」
「うぐっ」
どうやらザックの事らしい。思わぬ反撃に彼が呻いた。確かに、酒に酔って独り身の妹分――あくまでも妹ではなく妹分だ――の寝台を占領するのは頂けない。
水を飲み干すと、そっと横たえさせられる。肌掛けを掛けられ、冷やされたタオルが額に乗せられた。その冷たさが心地良い。
「……すまないな。何日も熱が下がらないのは久しぶりだ」
「いいえ。きっと身体が休めって言ってるんです。無理……しないでくださいね」
いつも自分がシオリに掛けている言葉だ。苦笑するしかない。
目を閉じる。随分寝たつもりだったが、それでも程無くして再び睡魔が襲ってくるのはやはり身体が休息を求めているのだろう。
柔らかな手が幼子を寝かし付けるように自分の無骨な手を撫でる。
(そういえば、母さんもこうして手を撫でてくれたんだったか)
幼い頃、寝付けない自分の手を優しく撫でるように握ってくれた母。
決して豊かとは言えない暮らしだったが、優しい母と過ごしたあの日々は、今でも大切な想い出だ。
「……母さん」
懐古の念から口にした言葉は、心の中の呟きか、それとも口に出してしまったか。それすらも曖昧なまま、アレクは意識を手放した。