06 幕間二 聖職者の祈り(イェンス、大司教、若草色スライム)
夜の九時前。
幼い子供達は既に床に入り、談話室には年嵩の子供が数人残るだけになっていた。日中は子供達の歓声で溢れている室内も、今は時計が秒針を刻む音が聞こえるほどには静かだった。
遊んで遊んでとねだる子供がいないこの時間帯は、年長の彼らにとっては静かに過ごせる憩いの時間。寄贈品の本を読んで過ごす子もいれば、片隅で内緒話をする少女達もいる。
しかしそんな彼らにも定められた消灯時間があり、九時には自室に戻らなければならなかった。個室が与えられる十三歳以上の子供は自室に限り十時まで起きていても良いことになってはいるが、自習や読書に費やす子供以外はほとんど大人しく床に入るようだ。
規則正しい生活が身に付いている証拠だ。
「さぁ、そろそろ部屋に戻る時間ですよ。読みたい本があるなら持っておいきなさい。その代わり、時間になったらきちんと休むのですよ」
「はぁい」
「おやすみなさい、先生」
「フィル君もおやすみー」
時計が九時になるところを見計らって声を掛けると、お喋りし足りないといった様子の子供もいたが、可愛らしい若草色のスライムに促されては反抗できなかったようだ。皆大人しく就寝の挨拶をして部屋に戻っていった。
(……トビーは随分とぎりぎりまで粘っていたものですが……さて、独り暮らしを始めて羽目を外していなければ良いのですがね)
深夜、職員に隠れて互いの部屋を行き来したりは日常茶飯事だったが、それも巣立ちの日が近付くにつれて徐々に治まっていった。もう子供ではないという自覚が生まれていたのだろう。
『休めるときにはちゃんと休むのが冒険者の基本なんだってさ。だから今のうちに練習しとく』
そんなふうに得意げに語っていた雀斑の少年の笑顔が脳裏に浮かんだ。
――彼は望まれて生まれてきた子供だった。しかしそれも父親が健在だった頃の話だ。たった十九で父親は仕事中の事故で亡くなり、良家の箱入り娘だったという母親では男手なくして幼子を満足に養育することはできなかった。そんな彼女はトビーを孤児院に預けて生家に連れ戻された後、余所に嫁いで新たな家庭を築いているということだった。
その二度と迎えに来ることのない母親の面影を、彼はシオリという女に重ねて見ていた。母親とシオリは歳の頃が同じ。微かに残る母親への思慕の念を恋心と思い込んでいたことに、トビーは気が付いていただろうか。
否、それは真実恋であったのかもしれない。しかしその恋心の危うさを見抜いていたイェンスがそれを指摘することがないまま、トビーは巣立ちの日を迎えてしまった。
人が人を想う心というのは複雑なものだ。いかに人を導く聖職者と言えども、踏み込むべきではない領域というものがある。こと、孤児院に預けられる子供の多くはその心に何らかの傷を負っている。長年子供達の面倒を見てきたイェンスですら、その心にどう寄り添うべきか、どう導くべきかを未だに図りかねていた。
今のイェンスにできることは、助けてくれと伸ばされた手を掴んでやること。そして無言の助けを汲み取り、手を差し伸べることだけだ。
「もどかしいものです。私もまだまだ修行が足りませんね……」
しかし、それでも彼らの拠り所になることはできる。彼らの心を護る最後の砦となることはできるのだ。
『……先生のこと、父さんって呼んでいいですか』
あの巣立ちの日、トビーもそう言っていたではないか。どこか縋るような目でそう訊いたではないか。
だからイェンスはここにいる。これから先も、この命が続く限りこの場所で彼らの砦として在り続けようと思うのだ。
――とはいえ。
「お……っとと」
少々足元が覚束なくなり、踏鞴を踏む。傍らのフィルクローバー――子供達が名付けた四葉のクローバーという意味だ――が、「大丈夫か?」と言うように足元をぺたぺたとつついた。
「大丈夫ですよ……と言いたいところですが、さすがに少し疲れたようです。歳ですかねぇ」
はは、と誤魔化し笑いなどしてみるが、この若草色のスライムは「それは本当に歳のせいか?」と言わんばかりにじっとりとした気配を纏ってこちらを見上げている。このところ忙しい日が続いていたことを、このスライムは知っているのだ。
「定時報告を済ませたら、今日はもう休みますよ」
イェンスはじきに四十二。少しでも疲労が過ぎると翌日まで持ち越すような年齢に差し掛かっていた。
正直に言えば今日はその定時報告すら億劫だった。誰かに代理を任せてこのまま休むか、それとももう一息だからと頑張って自ら向かうか。
疲労ゆえかいまいち回り切らない頭でぼんやりとそんなことを考えていたイェンスだったが、廊下の先に佇む人影を見つけて目を丸くした。
「――どうしたんです。こんな時間に」
「や、ちょっと忙しくしてるって聞いたからね。どんな様子かと気になって見に来たんだ」
その人影――大司教オスカル・ルンドグレンは、にこりと笑いながら手にしたバスケットを掲げてみせた。恐らく中身は彼特製の薬草茶だろう。
そんな彼を自室に招き入れながら、イェンスはじっとりと修行僧時代の同期に視線を流す。
「……毎度のことながら、貴方、本当に色んなことを把握していますねぇ。大司教になってからはますます忙しいのでしょうに、一体どんな情報網をお持ちなのやら」
「纏める立場なのだから、色々知っておいて当然だろう。あ、今日は定時報告はいいよ。言付けを頼んでおいたから。私も少し話したらすぐに戻るからね」
あっけからんと言い放つオスカルに、イェンスは苦笑いした。革新派の重鎮であるこの男に油断ならないところは多分にあるが、その本質は他者への思いやりに満ちている。今夜にしても、ほとんど腐れ縁のようなイェンスの多忙を知って、こうして見舞いに訪れているのだ。
勝手知ったるとばかりに部屋を横切ったオスカルは持参した焼菓子をフィルクローバーに与え、それから卓上の茶器を二人分取り出して薬草茶を注いだ。魔法石を用いた保温器具で程よい温度に保たれたその薬草茶が、柔らかな香りを放つ。
そっと差し出された薬草茶を一口啜った。優しい甘みが熱と共にじんわりと染み渡っていくようで、イェンスは思わず長い溜息を漏らしてしまった。
「――本当に疲れているようだねぇ」
軽い調子ではあったが、オスカルの声色には友人を労わる響きがあった。
「例の雪狼の事件、やっぱり影響が大きかったようだねぇ。せめて雪解けの頃までって、ブロヴィートの子が何人か預けられただろう?」
冬の初めに発生した雪狼襲撃事件の影響で、ブロヴィート村ではやはり観光業に少なからず打撃を受けていた。宿泊業や観光業を営むいくつかの家が、この冬はなんとか出稼ぎで乗り切りたいと子供達を預けに来ていたのだ。
もうじき三月。暦の上では春を迎える季節ではあるが、豪雪地帯であるこのストリィディア王国の雪解けはまだまだ先だ。恐らく子供達の迎えは早くとも四月の半ば過ぎ。遅ければ五月を過ぎるだろう。
「どうだい、一時的にでも人手を増やしてみるかい」
「そうですねぇ……では、男手をお願いします」
「りょーかい。一両日中には誰か寄越すよ」
毎度のことながら、オスカルの決断力と行動力は見事なものだ。問題は決して先送りにはせず、必要とあれば自ら対策案を出すことも厭わない。奇矯に過ぎると批判する向きもあるが、しかし、そんな彼を慕う者は多かった。
「……あと、ちょっと親御さんと揉めたっても聞いたよ」
「そんなことまで把握してるんですか……やれやれ、貴方の近くで悪いことはできませんね」
「おや、する予定があるのかい」
「しませんよ」
軽口を叩き合ううちに、少しずつ疲れた心が解れていくのが分かる。やはり、同じ目線で気兼ねなく語り合える相手がいるのは良い。孤児院を束ねるイェンスにとって、このオスカルという男はそういう位置付けの男だった。互いに腐れ縁などと言い合ってはいるが、実のところは友人といっても差し支えない。
促されるままに溜まっていた心の膿を吐き出していく。
「……あの双子の女の子。そろそろ成人するだろうって、親御さんが迎えに来られたんですよ」
「何度聞いても嫌な話だねぇ、そういうの。珍しくかなり強い調子で追い返したって聞いたよ。大変だっただろう?」
育てられないからと自ら手放したはずの子供を、年頃を迎える時期を見計らって迎えに来る親が一定数いる。そこに親子の情が残されているのならまだ良いが、こと娘の場合はそうではないことが多かった。
――成人した娘に客を取らせて稼ごうという、到底実の親が考えることとは思えないことをさせようとする親が、少なからずいるのだ。
親としての適性が疑わしい場合に親元に返すかどうかの見極めは、ありがたいことに施設の判断に任されていた。近年法が改正されたのだ。これで尊厳が護られた娘は多いはずだ。イェンスはそう信じたかった。
先日ひと悶着あった双子の場合もそうだった。勿論その場では決して引き渡さず、日を置いて来るように言い付けてから、親の素行調査を行った。無論そのために負う施設側の負担は大きいが、国と領主の認可を受けて運営する孤児院だ。決して間違いがあってはならない。
イェンスとしても、認可を受けていようがいまいが、彼らの父親役を引き受けたからこその責任がある。何もかもが子供達の健やかな未来のためだ。その未来を奪うようなことは、決してあってはならないのだ。
「ええまぁ……でも、あの子達にはもう真っ当な勤め先が決まっていますから。いくらご両親とは言っても、おいそれと渡すわけにはいきません。巣立つ時期を早めて、先方から迎えを寄越してもらうことになりました」
「おや、それは良かった。あそこは信頼できるからね。きっと良くしてくれるはずだ」
「ええ」
「……とは言っても、君だってあまり無茶をしないでおくれよ」
まったくだと同意するように、足元のフィルクローバーがぷるんと震えた。
「殴られただろう、君」
「幸いフィルが護ってくれましたよ。お陰様で無傷です」
もっとも、この優しい若草色があの瞬間禍々しい血の色に変わったときには随分と驚かされたものだが、それであの両親の本質が知れた。通報を受けて駆け付けた騎士隊に連行されていったその父親の方は、懐に刃物まで忍ばせていたという。
「あの子達をあのまま引き渡していたらと思うとぞっとしますよ。きっとあれ以上の恐ろしい目に遭わされていたでしょうから」
そう思えば身を張った甲斐があるというものだ。元々あの双子も預けられたときには異常なほど「大人」に怯えて酷い有様だった。ようやく癒えた心の傷を再び広げるようなことをしたくはなかった。
彼女達はじきに旅立つ。心優しい雇い主のもとで人並みの人生を送れるようにとイェンスは願うのだ。
「まぁでも、本当に君も身体を大事にしておくれよ。子供達だって父親が疲れていると心配するし、私としても友人には健やかでいて欲しいと思うからね」
言いながら薬草茶を飲み干して、さて、と立ち上がったオスカルはにこりと微笑む。普段は胡散臭くもあるその微笑みは、今は友人への気遣いに満ちていた。
「――得難い友、というものがあるのなら」
「……うん?」
ぽつりと落とした呟きを拾って首を傾げた彼に、イェンスは笑った。
「私にとってはきっと、貴方のことを言うのでしょうね」
その言葉に目を丸くしたオスカルだったが、やがて満面の笑みを見せた。
「そうであるなら、私にとっても幸いだよ、イェンス」
――教義では、心の拠り所となるものは聖典であるとされている。しかし真に拠り所となるものがあるとするならば、それは己と同じ「人」だとイェンスは思うのだ。
直に触れ合い、言葉を交わし合う。それによって確かに癒されている自分がいる。それを知っているからこそ、それを為せる相手こそが拠り所となり得ると信じている。
親であり、兄弟であり、友であり――それは人それぞれ異なるだろうが、確かに熱の通った相手との交流は、癒しとなり拠り所となることをイェンスは身を以って知っているのだ。
そうした相手が己にもいることの僥倖を静かに噛み締めながら、イェンスは自室に帰っていく得難い友の背を見送った。
その足元を若草色の触手がしゅるりと撫でる。この新たな「友」もまた、既に己の拠り所となりつつあった。
「常に寄り添う誰かがいてくれるというのは、本当に良いものですね」
そうだな、というように幸福の四葉はイェンスを見上げてぷるんと震えた。
――鮮やかな若草色は癒しの色。そして生命を育む芽吹きの色だ。
子供達だけではない、己もまたこの優しい色を持つ生き物に癒されている。
「……本当に、貴方に会えて良かったと思いますよ。私は果報者です。支えてくれる友がそばに二人もいるのですから」
願わくは、あの双子にもこの先の人生でそんな相手に出会えるように。あの子供達にもそんな出会いがありますように。
細やかで、しかし切実な願いの言葉は、夜の静寂に溶けて消えていった。
ルリィ「素敵な名前」
ペルゥ「可愛い名前」
ブロゥ「メルヘンな名前」
フィルクローバー「えっへん」
雪男「ギリィ……」
脳啜り「諦めろって」
雪狼「いつもギリィって噛み締めてるから、もう『ギリィ』で良くね?」
【速報】ギリィに決定【ネームド雪男】




