05 幕間一 これまでとこれからと(ザック、ブロゥ)
やや虫注意報。
しゅるり、しゅるんと音もなく空色のスライムが棚の下に潜り込んでいく。
この日何度目になるかも分からないこの新しい相棒氏の行動に、ぎこちなく視線を逸らしたザックはげっそりと溜息を吐いた。最初の二回ほどまでは頼もしく眺めていた彼だったが、五度目を過ぎたあたりで数えることを止めていた。どうにも駆除回数が多過ぎるからだ。
以前ルリィに根こそぎ駆除してもらったはずだったのだが、どうにもまた質の悪い入居者がいるらしく、巣となっているその部屋から各部屋に出張してきているようなのだ。
同じ棟の部屋の窓越しに見た、屋台料理の残骸や紙くずが散乱していた光景を思い出して低く呻く。
「代替わりした大家がどうもな……それなりの賃料取るならもうちっと入居者は選んでくれりゃぁいいものをなぁ」
先代が高齢を理由に隠居し、大家を引き継いだのがその孫息子である。しかしこの新人大家は金払いさえ良ければ入居者は選ばない質らしい。ろくに掃除もせず、部屋を汚れるままにするような者と契約したのは、この一年で実に三人目だ。
お陰様で「招かれざる黒い客」の訪問が増えに増えて、真っ当な入居者一同と共に苦情を出しているところである。が、どうも改善の兆しはないようだった。もともとあの孫息子は管理に手間が掛かる大家の仕事にはまったく乗り気でないらしく、いずれは売り払うつもりでいるようなのだ。
それにしても綺麗に使えば査定にも差が付きそうなものだが、最終的には業者でも入れて掃除させればよいとでも思っているのかもしれない。
「しょうがねぇ。引っ越しも視野に入れるか」
このテラスハウスに入居して既に二十年にはなる。台所付きの広い居間と書斎を兼ねた寝室に空き部屋が一つという造りは、独り暮らしで時折友人を泊めるにも使い勝手が良く気に入っていた。よほどのことがない限りはこの先も住み続けるつもりでいたが、ここに来て雲行きが怪しくなり始めた住宅事情に深い溜息を吐く。
「次はどうするかな……」
身軽さという点においては賃貸物件の方が都合がいい。
しかし、四十という自分の年齢を考えればそろそろ屋敷の一つでも持っておいてもいいのではないかとも思うのだ。これまでずっと独り身を貫いていたせいか、貯えは十分すぎるほどにある。元気いっぱいの同居人のために、庭付きの物件を探してみるのもいいかもしれない。
ある程度の規模になれば使用人を置く必要もあるだろうが、それはクリストフェルか実家を頼れば信頼のおける者を見繕ってもらえるだろう。巧妙に隠してはいるが、書斎に置いてあるかなり際どい類の書類の管理を任せても良い。
「屋敷か。悪くねぇな」
一度口に出してみると、案外それも現実的だと思えてくる。
――正直に言えば、過去にも一度だけ引っ越しを考えたことがある。まさに使用人付きの屋敷へだ。
「……シオリ、か」
今となっては随分昔のことのようにも思えるが、一時的にシオリと同居していたことがあった。あの暁の事件の後、かつての仲間に下宿を勝手に解約され、僅かな財産すら処分されて行き場を失くしていた彼女に空き部屋を与え、しばらく療養させていたときのことだ。
病み上がりで体力が戻り切らず、独り暮らしをさせるにも心許ない。そして生真面目な彼女は色々と理由を付けては働きたがるのだから気が気ではなかった。
無論それは寄る辺もなく貯えすらもなかったからこその焦りからくるものでもあっただろうが、身元引受人――否、兄貴分としては、遠慮などせずゆっくり身体を休めて欲しいと思うのは当然のことだ。
「だがまぁ……小綺麗に片付いて出来立ての飯がある家に帰るのも悪くはなかったな」
お帰りなさい、と。エプロン姿で微笑む彼女に出迎えられたあの日のことは、今でもよく覚えている。
――否、忘れられない想い出だ。
本人にしてみれば妹としての行動であっただろうが、あれはまるきり新妻そのものだった。あまりの衝撃に息が止まったほどだ。
抱き寄せて唇を塞ぎたいという衝動を何度堪えたことか。抱き上げて寝室に連れ込みたいという浅ましい衝動を何度堪えたことだろうか。
それでも己は彼女の兄で在ることを決めたのだ。たとえ血の繋がりのない間柄であったとしても、決して兄妹としての一線を越えないようこれ以上はないほどの自制心でもって耐え続けた日々は確かにあった。
それも徐々に落ち着き、ようやく己の心の中にも「兄」としての自覚が芽生え始めた頃――シオリはこのテラスハウスからあのアパルトメントに移っていった。
多少は賃料も高いが入居者や近隣の評判も良く、組合にもほど近いアパルトメントは大切な妹を住まわせるには都合が良かった。
どこぞの下宿のように、間違っても初対面の「代理人」などに勝手に契約解除される心配もないと苦虫を噛み潰したような顔で言っていたのは食料品店のマリウスだ。
難民として王国に入国し、その後移民としてトリスに受け入れられたマリウス一家も大分苦労したようではあるが、それだけにそういった事情には詳しかった。帝国出身の移民コミュニティで情報が共有されているらしい。
そして「入居者だが東方人」のシオリよりも、「初対面だが人の良さそうな王国人」の代理人の言葉を全て信じて当人の許可もないまま解約手続きをし、あまつさえ私物までその代理人に言われるままに処分してしまったあの下宿の女将には、あのマリウスでさえ激怒していた。同じ訳ありの異邦人としては多分に思うところがあったのだろう。
『あのアパルトメントは移民でも偏見なく受け入れてくれるって評判だよ。管理もしっかりしてるし、冒険者も何人か入居してたはずだ。シオリちゃんにもお勧めだと思うぜ』
実際管理人の人柄は申し分なく、ザックとしてもこれなら預けても大丈夫だと安堵したものだ。途中でラーシュ・レクセルという男に管理人が変わったことは誤算ではあったのだが、幸いそのラーシュも温厚で実直な男だった。なによりあのルリィが懐いているのだ。少なくともシオリを預けておくには問題はないだろうとザックは判断した。
「もっとも……胡散臭ぇっちゃ胡散臭ぇがなぁ」
そう言うわりにはどこか諦めにも似た苦笑いをザックは浮かべた。
シオリに「一時期冒険者だったことがある」という過去を打ち明けたことがあったというが、密かに調べた結果は欺瞞であった。少なくとも国内でラーシュ・レクセルという名で冒険者登録していた男はここ数十年遡ってもただの一人もいない。
代わりに見つけたのが、二十年近く前に傷病退役した王都騎士隊のとある騎士だった。姓こそ違うが名は同じ、年の頃も一致する。
片足を悪くして退役したその騎士は、その後郷里のトリスに引っ込んだということだったが、恐らく今の身分は情報部の臨時外部協力員といったところだろう。
「エディか……多分陛下あたりの差し金だろうな」
近いうちに帰還予定のある王兄を監視するついでに、どこからともなく現れた怪しげな東方人の女をそれとなく見張ってもいたのだろう。
――もっとも、まさか帰還後の王兄がその東方人の女に夢中になるとはさすがに思いもしなかっただろうが。
「……本当に、世の中何があるか分からねぇもんだな」
思えば己の人生もまた数奇なものだった。
物心付くまで孤児院で過ごした、名無しだった幼少期。
ある日突然「父」だと名乗る男に引き取られ、立派な名を与えられて豪奢な屋敷で暮らした少年期。
仕えるべき主にして生涯の友となるはずだった少年との死別、そして冒険者としての旅立ち。
死別した友の異母弟と幼馴染みの二人の少年の保護者役になった青年期。
長らく消息不明だった友の許嫁との十年ぶりの再会。
そして――一度は女として愛し、後に妹分となる「天女」との邂逅。
――あのまま二人の友が夭折しなければ決して辿ることがなかった人生の、その先にあったのもまた得難き出会いだ。人が人として生きていく限り、数多の人々と人生が交差する。それを身をもって体験した半生であった。
「あいつらと歩む人生も経験してみたかったが……これが俺の人生だってんなら、せいぜい精一杯生きてやるさ」
あの得難き友、素晴らしき仲間達と共に歩んでいこう。
――これまでの半生と、これから送るだろう人生に想いを馳せていたザックの足元を、ぺたぺたとつつく者があった。
ブロゥだ。まさに今日迎えたばかりの使い魔。新たな友だ。
「お前ともなぁ。シオリとルリィに会ってなけりゃ、きっとなかった縁なんだろうな」
爽やかな夏空のような色の身体を武骨な手でそっと撫でる。その色に反して以外にも温かな身体を嬉しそうにぷるんぽよんと揺らしたブロゥは、「そうだ!」と我に返ったようにはっとすると、「見て見て! 凄いの捕まえたよ!」と言わんばかりにしゅるんと触手を掲げた。
心なしか得意げにも見える新しい友人の、その触手の先に視線を向けたザックは、次の瞬間ぎょっと目を剥きそのまま座っていた長椅子から転げ落ちそうになった。
なにしろブロゥがドヤ顔で掲げていたのは手のひら大の蜘蛛だったのだ。あの愛しい妹分によると「あ、それ、益虫だよ。兄さんが大嫌いなあの虫を食べてくれるんだよ」ということらしいが、残念ながらザックにとっては何がどうあっても「忌々しい虫」なのだ。
「……いや……こういう出会いは……要らねぇかな……」
ずりずりと長椅子の端まで後退したザックは、「悪ぃが虫全般が駄目なんだ」と引き攣った顔で同居人に告白した。
「……できれば……俺の目の届かねぇところにやってくれるか……」
わかった! とでも言うように大きくぷるんと震えたブロゥは、大事そうに大きな蜘蛛を抱えて外に出ていった。それでようやく緊張が解けたザックは、長椅子にぐったりと身体を沈めた。
「いくつになっても、こればっかりはどうにも駄目だな」
天性の虫嫌いは恐らく死ぬまで治らないだろう。どうやらこの性質はフォーシェル家の遺伝らしく、父も異母弟も大の虫嫌いなのだ。幼少期には虫好きであったらしい養母の血を受け継ぐ異母弟は、黒い虫や蜘蛛などのごく一部を除いては案外平気らしいのだが、父はザックと同じように虫全般がいけないらしい。
『ああ、これはまさしくフォーシェル家の子だな』
普段は何があっても決して泣き言を言わない孫息子が虫を見て半泣きになっているところを見た祖父が、そう言って苦笑いしていたことをふと思い出す。
フォーシェル家にはあり得ない目立つ赤毛を初めの頃こそ疎んでいた彼も、あのことが切っ掛けで距離を詰めてくれたような気がする。そして幼いザックを膝に抱き上げてくれた――そんな想い出が確かにあった。
残念ながらその祖父は他界して久しいが、幸い父も養母も未だ健在だ。
「たまには顔を出しとくか」
二人ともじきに還暦を迎える。あと何度会えるかも分からないのだ。元気な顔を見せてやることもまた孝行であろう。父にはトリスヴァル領特産の果実酒を、最近とみに寒さが堪えるようになったという養母にはトリス兎の毛織物を土産に、雪が解けたら帰省しよう。
そんな楽しい計画を練りながら、ザックは外から戻ったブロゥを膝の上に抱き上げて微笑んだ。
ルリィ「新刊告知!」
活動報告やTwitterでもお知らせしましたが、4月30日にコミック3巻、5月1日に書籍5巻が発売予定です。2日続けての発売となりますので、GWのおともにして頂けたら幸いです(*´Д`)
コミック3巻ではそれはもうイッチャイチャな二人が、書籍5巻では聖夜の歌姫編の可愛い女の子たちが挿絵付きで登場です。
どうぞよろしくお願いいたします( *´艸`)




