02 ホレヴァ家の兄弟
兄弟水入らず。そうは言っても支店長のパウルには午後の予定がある。今回はほとんどシオリとの商談のためだけにトリスに出向いてきたといっても過言ではなく、明日の朝には王都に向けて出発する予定なのだという。ゆえにゆっくり外食に出る余裕はなく、クレメンスの贔屓の店から運ばせた料理での食事会になった。
応接室のテーブルに湯気が立ち上る料理が並べられていく。
「パイ料理とシチューは皆で食べてくれ」
給仕代わりの事務員が微笑みながら礼を述べて下がるのを見届けてから、クレメンスは弟に向き直った。
弟のパウルは髪色と面差しこそクレメンスと似通っているものの、肌色や表情が異なるせいかあまり血縁者には見えないらしい。それに助けられて二人が血を分けた兄弟であることに気付く者は多くはなく、こうして向き合っていてさえ先ほどの事務員もそれとは見抜けなかったようだ。この食事会も会長と上客の会食だと思ったに違いない。
「――ああ、これこれ。やっぱり一角兎はトリスヴァル地方のものに限るね」
一角兎のシチューを頬張るパウルは嬉しそうだ。
昼食のリクエストに「トリスヴァル地方の胃腸に優しい家庭料理を」と言われたときには驚いたものだが、最近は身体を気遣って胃腸に負担の少ない料理を選ぶことにしているそうだ。仕事上会食が多く、王都の美食家揃いの顧客相手では胃が疲れるのだと言って彼は苦笑した。
「向こうの一角兎は脂身がくどいからね。こっちで初めて食べたときは臭みも脂っこさも全然なくてびっくりしたよ」
「王都周辺は天敵がほとんどいない上に食性が違うようだからな。脂肪が付きやすいんだろう。あれを高級品と見る向きもあるようだが」
「兎肉は食べやすいのが売りだと思うんだけどな。大叔父さんが言うには昔は王都の辺りでも鳥肉みたいに淡泊で上品な味の一角兎が獲れたらしいけど」
「外壁周りにも随分と町や村が増えて、昔とは大分環境が変わったようだからな。害獣は減ったが、その分弊害もあるだろうさ」
合間にぽつぽつと世間話をするパウルは、ゆっくりと噛みながら時間を掛けて食事をしているようだった。身体を気遣うようになったというのは本当らしい。以前は食欲が旺盛だった彼も、今年で三十五。目尻や口元には笑うと微かな皺を刻み、銀髪は鈍くくすんだ色合いに変化している。
兄弟三人、商会の未来を語り合いながら食事を共にしたあの頃から二十年近く経った。幾分年嵩の長兄は孫を持つような歳となり、己と弟もまた四十代も間近の年齢に差し掛かっている。
――歳を取った。お互いに。
「……クレム兄さんはさ。やっぱりもう家に戻る気はないのかい」
いつの間にか食事の手を止めていたパウルはぽつりと言った。
「兄さんだっていい歳だろ? 三十代も半ばを過ぎたら引退か転職を考える人だって多いらしいじゃないか。冒険者としてはもう大分名前も売れたし、商会にそれなりの席も用意できる。その気があるならどうかなって思うんだけど」
昔馴染みが多い――かつての事件を知る者が多い王都が嫌なら、今後設立予定のエナンデル商会海外本部代表の席だってあるんだ、と。そう言った弟の目には期待もあったが諦念の色もあった。
年子でほとんど双子のように寄り添って育ったパウルは、本当は訊かずとも兄の答えが分かっているのだ。ただ、ほんの幾ばくかでも可能性があるのなら――そう思ったに違いなかった。本音では戻ってきて欲しいのだ。少年時代、これからの商会をどう維持し育てようかと大きな夢を抱いて幾度となく語り合った二人。当然その未来も共に在るつもりでいたのだろうから。
(……そういえば、家を出るとき最後まで引き留めてくれたのもパウルだったな)
幼馴染みの娘の「ちょっとした出来心」でホレヴァ家の名に傷が付いた、あんな奴のためにクレメンス一人が泥を被る必要はない、取引全てを打ち切るべきだと、少年特有の潔癖さと正義感で激昂した弟。普段は温厚な弟が見せた激しい怒りが、密かに想いを寄せていたその娘への失望を少なからず孕んでいたことをクレメンスは知っていた。
――人を大きく突き動かすもの、それは愛と金、そして名誉欲だ。それさえなければ世に犯罪というものは起きないとさえ言い切ったのは誰だったか。
彼女もまた聡く理知的な娘であるはずだったがしかし、その愛と欲のために誰もが驚くような愚行を犯した。
あのとき何も起こらなければクレメンスは自身が好いていた下流貴族の娘と、そしてパウルは彼の幼馴染みとの縁談が進められていたはずだ。
しかしパウルは気乗りしないのなら婚姻を無理強いはしないと彼女にも伝えていた。彼女には別に想う相手がいると察していたからだ。取引関係のある商家の生まれで、物心付いた頃からの付き合いだったからこそ、彼女の想い人が己ではなく兄の方だとパウルは気付いていた。それは双方の親も承知していて、彼女の気持ちを優先すると話は付いていた。
しかし彼女は天秤に掛けてしまった。否、天秤に掛けた結果、両方を手に入れたいと欲を出してしまったのだ。
彼女が好いていたのはやはりクレメンスで、けれども当のクレメンスには別に想う相手がいて先方の感触も悪くはなく、縁談が持ち上がるのも時間の問題。憎からず想い合う二人の間に割り込む余地はなく――しかし王国屈指の老舗を経営するホレヴァ家との婚姻を蹴るのも惜しい。
クレメンスだって生涯を共に生きるなら、貴族のお嬢様よりも同じ平民同士で気心の知れた幼馴染みの自分の方がずっといいに決まっている。
今ならまだ間に合う――。
焦りゆえか、愛と欲が判断を狂わせたのか、そう思った彼女は事を起こしてしまった。
クレメンス自身にも、幼馴染みだから、ホレヴァ家主催の夜会だったからという油断があった。彼女から手渡されたさして強くもないはずの酒に酔い、介抱と称して連れ込まれた部屋で酔い覚ましを重ねて飲まされた――その後の数日分の記憶は実のところは曖昧だった。
ただ、凄まじい高揚感と恍惚感にひたすら抗っていたこと、『ずっとクレムが好きだったの、だからお願い、私を選んで』とあられもない姿で縋る娘、そして『よく耐えた』『大丈夫、二人とも身綺麗だったよ』という大人達の言葉を漠然と覚えているだけだ。
――結局、彼女は兄弟どちらの婚約者になることはなく、彼女の生家は社交界から追放された。罪に問われなかったのは用いた「媚薬」が合法的な不妊治療薬――無論それ自体に妊娠させる効力はなく、閨事を円滑に進めるための催淫剤の一種だったからに過ぎない。しかし故意に濃度を高めた薬を相手の同意を得ないまま用いたことについては当然見過ごされるはずもなかった。量や用法を誤れば毒にもなるのが薬なのだ。
上流階級の若者の間で密かに取引されていたこの「合法的な媚薬」は如何わしい目的のために用いる者が後を絶たず、当時は問題視されていたものだった。クレメンスのようにの前後の記憶が飛ぶほど寝込む者もいれば、激しい頭痛や吐き気を催すなどの体調に悪影響を及ぼす者もあり、その後まもなく規制が強化されたはずだ。この出来事の数ヶ月前に失踪して世を騒がせた第三王子を含む、良家の子息にこの薬物を用いた事件が相次いだという背景もあったようだ。
いずれにせよ彼女自身は罪に問われなかったものの、社会的な立場を失うという相応の罰を受け、そしてほとぼりが冷めた頃に王都から遥か遠方の商家に嫁いでいった。
彼女自身は不本意であっただろうが、社交界への出入りを許されたホレヴァ家と生家の双方に泥を塗ったのだから致し方のないことだった。しばらくの間、媚薬を用いた枕営業をしているのではないかという悪評が、彼女の生家はおろかホレヴァ家にすら付いて回ったほどだ。
ホレヴァ家の次男はあの美貌で顧客や同業者を食い物にしている、枕商売の道具なのだという悪意ある噂は、当時十八になったばかりの少年には到底耐え切れなかった。表舞台から姿を消すしかない――家を出るより他はないと思い詰めるまでにそう時間は掛からなかった。
『ねぇ、クレム』
そう己を呼んだ彼女の声も顔ももうよく覚えてはいない。ただ、幸いなことに今ではそれなりに幸福にしているというから、時間という名の薬が効いたのだろう。
そして、恐らくは、自分も。
「……兄さんやお前にはすまないと思っている。私一人のために随分と迷惑を掛けてしまった。だが、ほとんど思い付きのように選んだこの仕事が案外気に入っているんだ。それに思った以上にトリスの水が合うようでな。体力が許す限り、この稼業を続けたいと思っている」
知己だった赤毛の青年の冒険者姿に抱いていた少年らしい憧れは、そのままクレメンスが進む道になった。『興味があるならやってみるか? ちょうどお前と同じ年頃の奴を教えてるところなんだ。せっかくなら一緒にどうだ』そう言って誘ってくれた彼と、そのとき引き合わされた栗毛の少年とは生涯の友となった。一度は愛した黒髪の同僚も今では妹のようなものだ。
そして、あの妖艶なストロベリーブロンドの魔女も――。
「この地で築いた人の縁を、このまま手放したくはないんだ。離れがたくてな」
パウルは蒼い目を見開き、それから数度瞬いて、そして薄く微笑んだ。
「――そうか。もうクレム兄さんにとってはここが『家』なんだね。それなら……うん。もうこれ以上は言わないよ」
そう言って幾分寂しそうに笑いながらも、パウルはクレメンスの想いを理解してくれた。
「その代わり、これからもまた耳より情報を頼むよ。兄さんのお陰で珍しい技術が手に入って、おまけに東方との繋がりもできたし、あとはほら、あの謎めいた迫力ある物凄い美女。彼女にもまたモデルを頼みたいんだよね」
上得意のナディアは、一度だけ取り扱いブランドの着用モデルを務めたことがある。その関係でパウルとも知らない仲ではない。
「……ナディアか」
グラスの底に残った葡萄酒を飲み干したクレメンスは薄く笑った。
「私としてはあまり大衆の目に触れさせたくはないのだがな」
「なんだよそれ」
彼女は随分と乗り気だったのにと小首を傾げたパウルはしかし、次の瞬間何かを察したのかにやりと笑う。
「もしかして、クレム兄さん……彼女のこと」
「……否定はしない」
いい女だと素直に思った。姐御肌で気風が良い、清々しい女だ。身形や口調こそ蓮っ葉だったが、隠しきれない教養の高さや所作の美しさがあり、その容貌を更に際立たせていた。そして感情の機微にも聡い彼女は面倒見が良く、慕う者は多かった。無論惚れる男もだ。
クレメンス自身、若い頃は幾度かそれとなく口説いたこともあった。彼女にも気があるような素振りはあったが、その高貴な素性に気付いて己が身を引いてしまったためにそのまま自然消滅した仲だった。ただの親しい仲間という肩書だけを残して。
(それに、恐らくは――彼女にも負い目があった)
時折どこか遠い目で己を見ていることには気付いていた。「あんた、昔の知り合いにどことなく似てるんだよ。腕っぷしのいい男前でねぇ」と過去形で語った彼女のその視線が意味するところを理解したのは、ザックとの会話から彼女の過去を察したときだ。
『あいつはな、俺の死んだ親友の許嫁だった女だ』
ザックが「死んだ親友」と称する男はただ二人きりだ。とすれば、その許嫁のおよその身分も察しが付く。
――自国の王家に嫁ぐ予定のあった元侯爵家の令嬢、その新たな恋人役が平民である己に務まろうはずがない。そう思うほどには若く未熟だった。
そしてナディアもまた、曰くのある自身の過去に引け目を感じていたようだった。その上死別した許嫁の面影を生者に重ねて見ていたとなれば、負い目すらもあっただろう。
互いにまだ若過ぎた。清濁併せ呑む器量のない未熟者だった。だからこそ、淡く育ちかけていた恋情はそこで一度途切れてしまった。
だが今は違う。数多の経験を経た今ならば、彼女の手を取れるという自信があった。
一度はその気にさせておきながら一方的に想いを断ち切ってしまった己に、再び機会を与えてくれるというならば――次こそは違えないと、クレメンスは誓うのだ。
「……そうか。そうかぁ……」
感慨深げにパウルは何度も頷いた。そして葡萄酒の瓶を差し出しながら言った。
「その男前ぶりであまりにも奥手だから心配してたんだ。ああいうことがあったから余計にさ。でも、本当に良かったと今は心から思えるよ」
「腹を括るまでに随分掛かったがな……というか、まだ気持ちを伝えてもいないが。実は去年失恋したばかりでな」
ぎょっと瞠目し、次の瞬間小さく噴き出したパウルはにこやかな笑みの形に表情を作り直した。
「――いいんだよ。兄さんがこの先の人生を一緒に歩みたいって思える人が、沢山いるってことが分かったんだから。僕はまずそのことを祝いたいんだ」
注ぎ足された葡萄酒を互いに掲げ、乾杯する。
互いと、そしてかかわる人々全ての前途が温かなものであるように。そんな願いと祈りを込めた杯の葡萄酒は緩く波打ち、グラスの縁で弾けて豊かな香りを放つ。兄弟の朗らかな笑い声が響く中、その甘苦い香りは深い余韻を残して消えていった。
ルリィ「ヘタレにも春」




