18 幕間五 或る男の分岐点(輸入食料品店店主、アレク)
醤油を三倍価格で売り付けていた店の親父さんがヒヤリとする話。
トリスヴァル領の領都トリスは移民の街だ。一時期ドルガスト帝国の占領下にあったこの地は帝国や属州であった国の血を引く者が人口の何割かを占め、彼らを頼ってこの街を目指す移民や難民は多い。彼らが持ち込んだ異国料理は長い年月を掛けてトリスに根付き、この街の食文化発展に大きく寄与した。
ゆえにトリスは食の都としても名高い。
その第三街区の移民通りに連なる煉瓦造りの商館の一つ、輸入食料品店カセロ。店主の名を冠したその店では国外――主に大陸南部の食品を取り扱い、今日も多くの人々で賑わっていた。王国人の姿も垣間見えるが客のほとんどは移民だ。懐かしい郷里の品々を求めてこの店に集うのだ。
「今日も盛況だネ」
店主のカセロ・フランコは店内をぐるりと見渡して満足げに呟いた。行商から始めた商売が随分と大きくなったものだ。
カセロは小さな雑貨屋を営む夫婦の間に生まれた六人兄弟の末子だ。両親亡き後は長兄が店を継ぎ、他の兄弟達は食い扶持を求めて各地へと散った。カセロもまた十一の歳で商家に預けられたが堅苦しい気風の店に馴染めず、見切りを付けて故国を飛び出したのが十六のときだ。
それから大陸各地を転々とし、この街に流れ着いたのがおよそ十五年前。北の外れに近い、アルファンディス大陸においては辺境と言っても差し支えないストリィディア王国のさらに北端近くの街ではあったが、多くの移民が暮らすトリスは自由闊達な気風でカセロの気質にもよく合った。
持ち込んだ異国の香辛料や雑貨類は、郷里を懐かしむ移民にはよく売れた。自慢の目利きと旅商人時代に築いた人脈を生かして仕入れた品々でひと財産築き、市場通りの住居付き店舗を借りたのが十年前だ。市内において南国系移民の顔になりつつあるカセロの次の野望は、この建物を丸ごと買い上げることだった。
「カセロさん、これお裾分け。嫁さんと食べとくれよ」
常連の男が差し出した包みを開けたカセロは、傘の縁が縮れた薄桃色の茸を見てにっこりと笑う。大振りのロサアプリコス茸は、雪の下にしか生えない野生種の茸だ。人工栽培ができない貴重な茸。
「これちょっと珍しい茸ネ。こんな高級品もらっていいの?」
「構わねぇさ。カセロさんにゃいつも世話んなってるからな」
「アリガト、ロペさん。今夜早速頂くヨ」
商売上手で陽気なカセロの元には常連となった移民が多く集う。ロペもその一人だ。トリスに移り住んで間もない頃、異国暮らしに慣れずまだ稼ぎが少なかった彼に食料を安く売ってやったことを今でも感謝しているのだ。
移民同士は助け合う。それがカセロの信条だ。その信条に助けられた移民は多く、人並みの生活ができるようになってからも定価で買ってくれる常連客となる。彼らが流した良い噂を聞きつけて、新たな移民を呼び寄せる。
――貧しい移民だけではない、裕福な移民をもだ。
ちらりと視線を向けた先、店の一角には東方の品々がある。
近年王都で成功を収めた東方の楊梅商会から仕入れた品々のうち、繊細で美しく異国情緒溢れる反物や小物類はご婦人方に人気だったが、食品類はさすがに抵抗があるのか買い手はほとんど付かなかった。しかしここ一、二年、定期的に調味料や香辛料を買っていくようになった客がいるのだ。
王都以外ではこのトリスにたった一人いるだけの東方人の女。郷里の味を懐かしんでか、高値の品を言い値で買っていった。身形は質素ながらも金払いは悪くはない。これは「上客」になると踏んだカセロは、幾度目かの来店で醤油の定期購入を求めた女に、試しに定価の三倍の値を吹っ掛けてみた。
さすがに悩む素振りを見せた彼女だったが、悩むということは払えるだけの稼ぎがあるということなのだ。どうしても欲しいがここでしか買えないと悟った女は、結局カセロの目論見通りに言い値で樽ごと買っていった。
カセロでさえ些か吹っ掛け過ぎたかと思う値で買う女。遠国からの移民、それも女ながらも稼ぎは悪くないらしい彼女は王国暮らしの日が浅く、どうやら世情にも疎いらしい。そして東方から仕入れた品の相場が分かる者は他におらず、どう値を付けたところで気付く者もいない。カセロにとってはうってつけの「上客」だった。
(金持ちから沢山取って、貧乏人には安く売る。移民同士の助け合いネ)
カセロを仲介として裕福な客から金を借り、貧しい客の支払いを肩代わりする。そしてカセロは仲介料をもらう。言わば移民同士の橋渡しだ。
真っ当なやり方でないことは自分でも理解している。近年教育が行き届きつつある王国人相手では勘付かれるかもしれないが、世情に疎く浅学な移民相手だからこそ為し得た「商売」だった。シオリと名乗ったあの女のように、同国人同士のコミュニティを作れぬほど数が少ない遠国の移民は、お誂え向きの相手なのだ。
――だが。
戸口の鈴がチリリと鳴り、見慣れない男が一人顔を覗かせた。栗毛で長身の男。容姿や小奇麗な身形から察するに、生粋の王国人だ。体格が良く、身のこなしは洗練されていて隙がないが、切れ長の紫紺の瞳や薄い唇は笑みの形に緩やかな弧を描き、全体の印象を柔和なものにしていた。
――人がよく、金を持っていそうな男。
会計がてら話し掛けてくる常連客達に愛想を振りまきながらも、それとなく栗毛の男を観察する。
店内をぐるりと見渡した男は手元の紙片に視線を落とし、やがてゆっくりと店内を歩きだした。どうやら誰かの使いで来たらしい。男はやがて、ある棚の前で足を止めた。北イシャンの香辛料を並べた棚だ。紙片のメモ書きと香辛料のラベルを見比べてから数本を手にした彼は、くるりとこちらを振り返った。
端正な顔には相変わらず柔らかな笑みが浮かべられている。人を疑うということをまるで知らないといった邪気のない様相。洗練された立ち居振る舞いと合わせて考えれば、何の苦労も知らずに育った良家の若旦那といった態だ。
(……王国人だけど、なんだか騙しやすそうな男だネ)
王国人にあまり手を出したくはないが、カセロの目には逃すには惜しい獲物に見えた。
ゆっくりとカセロがいるカウンター目指して歩いてくる男の足が、ふと東方の品を置いた棚の前で止まった。物珍しいのか、しばらく興味深そうに眺めていた男はやがて、再び歩き出した。
ことりと香辛料の瓶がカウンターに置かれる。
「……会計を頼めるかな」
見た目の印象通りに男の声や口調もまた穏やかだった。
「いらっしゃい! 初めてのお客さんだネ」
「ああ。妻に頼まれて来たんだ。手が離せないというから俺が代わりに」
「あれ、じゃあ常連さんの旦那さんかな?」
「……常連……というほどでもないかな。一、二回少し買い物した程度だと言っていたから」
ということはまだ名を聞き出すほどの付き合いはない客だ。数人の女性客の顔を思い浮かべながら合計金額を告げると、男は財布を開いて金貨を取り出した。
「すまない、今ちょうどいい持ち合わせがなくてね。お釣りは出るかい?」
「勿論だヨ。でも金額が大きいから、ちょっと待っててネ」
「悪いね」
「いいヨー。気にしないで」
さして高額ではない支払いに躊躇いもなく金貨を使う男。ちらりと見えた財布の中にも金貨が数枚入っていたのをカセロは見逃さなかった。大金を持ち慣れている。
(これはいいお客さんになりそうだネ)
男の妻が幾度か訪れているのであれば、今後も通ってくれる可能性は高い。
「奥さんは王国の人? これ全部北イシャンの香辛料だけど、使い方は大丈夫?」
「ああ。妻は北イシャン系王国人なんだ。義理の父が向こうの出身でね」
「なーるほど。じゃあお義父さん、北イシャン会社の人?」
「そうなるね。正確には社員じゃなくて船員だけれど。先年亡くなったんで、一家で義母の郷里に引き上げてきたという訳さ」
「そうなんだネ」
会計を終えて品を梱包しながらさり気なく男の情報を引き出す。王都の裕福な家の出の学者。学術書の執筆で生計を立てているらしい。男の妻も、九歳でトリスを出た義母もこの街は不案内。男自身も執筆で忙しく、王都の屋敷からほとんど出たことがなかったという。
(頭はいいけど世間知らず。悪くないネ)
早速脳内の「上客」リストに書き加えたカセロに、男は東方の品を並べた棚に目を向けて言った。
「……あそこの棚の酒、東方のだろ? いくらくらいかな。あの瓶に金色の紐が付いてるやつ」
「ああ、あれ? ほんとは酒じゃなくて調味料らしいんだけどネ」
「そうなのかい? 以前学者仲間からもらったのが美味しくってね、妻も気に入ったみたいだからできれば……って思ったんだけど」
先日王都からわざわざ視察に訪れたヤエという女が、シオリが使うだろうからと置いていった味醂だ。その際、手数料の上乗せは止むを得ないがあまりに掛け離れた値で売られては信用問題にもかかわると、適正価格での販売を念押しされていた。
カセロが東方の品を法外な値で売り付けていることを遠く離れた王都の楊梅商会がどこで聞き付けたのかは分からないが、カセロとしては適当な理由を付けて、三倍とまではいかないにせよそれなりの値で売り付けるつもりだった。
どのみちこの店でなければ手に入らないのだ。多少の経費は上乗せしても文句はあるまい。楊梅商会のお偉方らしいヤエの鋭い眼差しが脳裏を掠めて一瞬怯んだものの、カセロとて異郷の地で商売を成功させたという自負がある。
そしていかにも御しやすそうなあのシオリという東方人と、今目の前にいる気弱そうなこの栗毛の男は同種の人間だ。なんとも都合よく東方の品に目を付けてくれたものだと内心ほくそ笑んだカセロは、本来の価格の二倍の値を提示した。愛妻家らしい金持ちの男なら、多少高くとも買ってくれそうだと踏んだからだ。
果たして、男は些か驚いたようだったがあっさりと財布を取り出した。
「……思ったより値が張るんだな」
「王都で買うよりは高いかもネ。仕入れの関係で経費も掛かるから」
「なるほどね。じゃあ、あっちの変わった樽は? 妻が北イシャン料理で使う調味料に似てるって気にしてたんだ。あれもできればもらいたいんだけど」
長年この手口が露見せずにいたことで、カセロは慢心していた。慢心が警戒心に隙を作り、油断を招いた。そうでなければ王国人相手に詐欺紛いの商売など決してしなかっただろうが、完全に相手を侮っていたカセロは欲を出した。出してしまった。
「ああ、あれね。あれは金貨二枚だヨ。ほんとはもっとするんだけど、今回はおまけネ」
「――ほう。そうか」
価格を口にした途端、男の口調ががらりと変わった。
ぎょっとして男を凝視する。穏やかで気弱な学者の面影は影形もない。今カセロの前にいるのは、射るように鋭い眼差しの、研ぎ澄まされた刃物のような気配を纏う、歴戦の戦士の如き佇まいの男だった。
「話が違うな」
男は言った。先ほどまでの春風のような穏やかな口調とはまるで違う、吹雪のような冷たさを孕んでいた。
「経費を上乗せしたとしてもせいぜいが金貨一枚といったところだと聞いた。それにヤエ殿の話が本当なら小分けの瓶もあるはずだが、ここには並んでいないようだな」
「は――」
男はヤエの名を知っていた。そして取引の内容も。とすればこの男はヤエの知己か。それとも商会の手の者か。
「さすがにもう三倍で販売はしていないようだが……その様子ではどうやら常習犯らしいな。不当な値で売り付けていたのはシオリだけじゃないんだろう?」
シオリの名も知っていた。ならば男は彼女の知己だ。それどころか情夫――否、彼女の方が情婦であるかもしれない。男は妻がいると言っていたではないか。
(なぁんだ)
カセロは嗤った。
(清楚で真面目そうな女だと思ってたけど、結局やることはやってた訳ネ)
王国暮らしも日が浅いはずの辺境民族の金払いが良い理由がここに来て知れた。金持ちの妾に収まって、小遣いをもらっていたという訳だ。
男の威圧感に呑まれそうになりながらも、カセロはぐっと胸を張った。真っ当な商いではないが、決して違法ではないのだ。提示した価格に客が納得して支払いを済ませただけ。それだけのことだ。
「別に騙した訳じゃないヨ。確かに王都よりは高いかもしれない。でもこれがうちの正規価格ネ。シオリさん、それに納得した。納得して買った。真っ当な取引だヨ?」
ただ事ではない気配を察したのか、店内の客が周囲に集まり始めていた。ほとんどが常連客、つまりはカセロの味方だ。言い掛かりだと騒げば彼らは快く参戦してくれるだろう。
勢いを得たカセロは畳み掛けようと口を開いたが、言葉を発する前にアレクは声を低めて言った。
「……大声を出せば後であんたが不利になる」
「なぜ」
「まず、あの味醂。あれは既に酒として市内の酒場で真っ当な値で売られている。あんたの提示した金額の半値以下でだ。そして愛好者を増やしつつある。それがどういう意味か商売人のあんたなら分かるだろう」
カセロはぎょっと目を剥き息を呑んだ。加担しようと身構えている善良な友人達に、大事な商談中だからと言って下がらせたカセロは男をカウンターの内側に招き入れた。
「……勿論向こうの方が仕入れの数は遥かに多い。だからこの店より安いのは理解できる。だがあんたの言う正規価格はいくらなんでも高過ぎる。向こうの店にはシオリの友人だって出入りしてるんだ。いずれは勘付かれるぞ」
その酒場の名はカセロも聞いたことがあった。世界各国の酒を取り扱うと最近話題の大衆酒場だ。第二街区との境界にある目立つ立地は、市内に住む富裕層や貴族階級の者もお忍びで通うという噂だった。その店で同じ味醂が半値以下で売られている。味醂目当てに通っている者が複数いる。そんな彼らが何かの切っ掛けでこの店の売り値を知ったらどう思うかは明白だ。無知な移民を騙して高値で売り付けていると思うだろう。
南国系移民の顔役、人情家のカセロの評判は地に落ちる。
黙りこくるカセロに男は言葉を重ねた。
「それに楊梅商会はお前が思う以上に顧客を増やしている。勿論名門貴族家も含まれている。名は出せないが、辺境伯閣下と懇意の貴族だ。そして彼らは俺の知己でもある。あんたの上得意であるシオリもな。あんたが思うような如何わしいものでは決してない、真っ当な関係だ」
「そ、それじゃ……」
カセロは決して愚かではない。男の言葉が意味するところを完全に理解してしまった。
確かにカセロの商売は違法ではない。違法ではないが、決して合法でもない。やりようを一つでも間違えば詐欺罪で立件される手口だ。商人組合からの追放もあり得る。それどころか領主に目を付けられたとあれば、街にすらいられなくなるかもしれない。この地の領主はただの田舎貴族ではない。王家の信頼も厚く、公爵家と匹敵する権威を持つとまで言われるトリスヴァル辺境伯だ。
――己の所業が有力者に筒抜けかもしれないのだ。
「人の縁は馬鹿にできない。どこでどう繋がっているか分からないんだ」
カセロが無知で孤独な移民と見下した女にも有力者の知己があった。己の存在を脅かしかねない貴族との繋がりだ。
「――見たところ、あんたは皆に慕われているようだ。店だって繁盛している。汚い手口で金を稼がなくても、もうあんたには立派な居場所があるじゃないか」
すっかり言葉をなくして沈黙してしまったカセロに掛ける男の声は柔らかい。これ以上糾弾するつもりはないらしい。
「……それとも、善良な商人でいるための生贄がまだあんたには必要か?」
「……いいや」
カセロは首を振った。
「もう十分だヨ」
長く続ければいつかは必ず露見するだろうとは思っていた。だが、はじめは少しだった「無利子で返済義務のない借金」は、気付かれないことに味を占めて徐々に金額が膨らんだ。止め時を見失ったままずるずると続けた結果、今こうして初見の男に見破られてしまった。否、男は初めから不正があると承知でカセロを見極めに来たのだ。
そしてカセロは男に敗れた。
「私を訴える? 逃げも隠れもしないヨ。これでも矜持はあるつもりだからネ」
ただで済むとは思っていない。それだけの金額は稼いでしまった。一家でちょっとした贅沢が出来るほどには稼いだのだ。余分に受け取った代金も返却せねばなるまい。
だが意外にも男は首を横に振った。
「二度としないと約束するなら、こちらとしてはこれ以上どうこうするつもりはない。シオリも事を荒立てたくはないと言っているしな」
「えっ……でも」
「勿論あいつも思うところがない訳ではないようだがな。あとはあんたと他の上得意次第か」
元より悪人ではないカセロは腹を決めた。
男は居合わせた客に話の内容が漏れぬよう配慮をしてくれた。シオリも事を荒立てるつもりはないという。そして己の所業は立件できない。
ならばカセロとしては、これからの人生を自らの意志で真っ当に生きていくしかないのだ。
「もう亡くなった人もいるし、連絡取れない人もいる。けど、謝れる人には謝るつもりだヨ。家族にも謝らないとネ」
その結果はどうなろうとも自身が背負わねばならない。男は配慮をしてくれはしたが、いずれは常連客の間にも噂は広まるだろう。だが、それらは全て受け止めるつもりだ。
「……でも、家族に迷惑が掛かるのはちょっと辛いネ……」
「それは……仕方がないな。それもまたあんた次第ということさ」
自身の所業で親しい誰かにもまた被害を負わせてしまう。人と縁を繋いで生きていながら悪事に手を染めるというのはそういうことだ。
今それに気付くことができたカセロは幸運だった。今ここで気付くことができたからこそ多くを失わずに済んだことを、カセロは後に知ることになるのだ。
――このとき自身の行いを改めなければ、男の言う通りに件の大衆酒場からカセロの店の悪評が流れることになっていただろう。この酒場にはシオリの知人だけではない、カセロの常連客やその家族も出入りしていた。カセロと直接の知り合いではないが、人情家としての噂を知っている者もいるらしい。有名な酒場と客層が広く被り、そこで噂になるほどにはカセロの店は大きく育っていたのだ。
驚いたことに、カセロの常連客の中には味醂を口にしたことがある者もいた。
後日、その常連客との雑談からそれを知ったカセロは青くなった。
もし栗毛の男が来なかったら、醤油だけではない、独占販売だと思い込んでいた味醂をシオリに高値で売っていた。そして彼女は「詩の蜜酒」でも味醂が売られていることをいずれは知るだろう。同じ品が二つの店で全く異なる値で売られていると知れば、いくら大人しい女と言えどそれを周囲に打ち明けないという保証はない。
当人同士で解決するはずの問題が、多くの人に知られる危険があった。「詩の蜜酒」に出入りしている富裕層や貴族を取引先に持つ商人組合の仲間達にもだ。
まさにこの栗毛の男の訪問は、カセロの人生においての分岐点であったのだ。
すっかり落ち着きを取り戻したカセロは、改めて目の前の男を見た。
端正な顔立ちの、鋭い紫紺色の瞳が特徴的な男。
「……あなた、一体何者? ただの学者さんじゃないでしょ?」
「俺か」
男は笑った。
「俺は冒険者で、シオリのパートナーだ。いずれは彼女を妻に迎えるつもりだ」
「いずれは……って。あなた、さっき奥さんいるって」
「あれは芝居だ。無論設定も作り物さ。俺の唯一はシオリただ一人だ」
つまり男は学者でもなんでもなく、北イシャン系の妻がいるというのも全て嘘。
「……やられたネ」
カセロとしては苦笑いするしかない。
「もう二度と馬鹿な真似はするなよ。せっかく罪には問われずに済むんだ。せいぜい真面目に暮らすんだな」
「……そうするヨ」
ひらりと手を振って店を出ていく男を見送ったカセロは、遠慮がちに近付く常連客――友人達に事情を訊かれ、肩を竦めて苦笑した。
「クレームだヨ。大失敗しちゃってネ。許してはもらえたみたいだから、あとは私の頑張り次第」
この日、カセロ・フランコは再出発した。正真正銘真っ当な商売人として生まれ変わったカセロの店はその後、王国内にいくつもの支店を持つまでに至ったという。
晩年、彼はとある新聞社の取材に対してこう答えている。
「人の縁を決して馬鹿にしちゃいけない。一見無関係に思える人でも、必ずどこかで繋がっているものなんだ。その些細な縁を馬鹿にしているといつか必ず痛い目を見る」
目の前の人間がちっぽけな存在に見えたとしても、いずれは自分の客になる人かもしれない。客の大切な人になるかもしれない。直接かかわり合いにはならなくとも、噂話という名の商運をもたらす者かもしれない。
縁が縁を呼び、それがいずれは太い人脈となる。
それは、人の縁と尊厳を軽視したばかりに幾人かの友人とそれまでの評判を少々失うことになったカセロの口癖であり、戒めでもあった。
「――実を言うとね、縁なしだって見下して迷惑掛けちゃったお客さんの一人が結構な大物だったんだ。それはずっと後から分かったことなんだけど、そのお客さん、やんごとないお方の恋人で、今はその人の奥さんになってるんだ。いやもう、ほんとに肝が冷えたのなんのって。その人かい? お陰様で今でもいいお客さんだヨ」
そう言ってカセロは昔を懐かしむような顔で笑い、話を締めくくったという。
ルリィ「元工作員の本領発揮」
フェリシア「俳優の才能あるんじゃねーの?」
ペルゥ「わーっ!?」




