16 幕間三 家族のあり方(シオリ、アレク)
今回は「月のもの」に関するお話なので、こういった話題が苦手な方はご注意くださいね_(:3」∠)_
1.
――明け方、ふと目を覚ましたシオリは異様な怠さと下腹部の鈍痛に眉根を寄せた。アレクに味見されたときとは違う、腹の奥底から滲み出るような不快感と違和感がある。
(――あ。これ……もしかして)
久しぶりの月の巡りに憂鬱な溜息が零れ落ちた。不順だった巡りが再び訪れたことは喜ばしいことなのだろうが、この不快感では手放しには喜べない。こと、外を出歩き激しく動き回ることも多いこの稼業では、仕事の質にも差し障る。
(……アレクに言っとかないとな……)
ちらりと視線を向けた隣の寝台では、アレクが静かな寝息を立てている。このところは一緒に眠ることも多かったけれど、昨夜身体の怠さを訴えたシオリを気遣った彼は別の寝台で休んでいた。
重い身体を幾分苦労して起こしたシオリは静かに寝室を抜け出し、浴室で着替えと念入りな手当を済ませ、洗い物を終わらせてほっと息を吐く。女特有の事情にも対応したエナンデル商会の商品展開に心底感謝しつつ、表面的には何事もなかったかのように再び寝室に戻った。音を立てずにそっと扉を開けると、アレクとルリィが先ほどと同じ体勢で眠っていた。大丈夫。気付かれていない。
体勢に気を付けながらゆっくりと毛布の間に潜り込む。
(あんまり重くならないといいけど……)
すぐに微睡が襲う中、ぼんやりとそんなことを考えた。けれどもこの怠さは尋常ではなく、久方ぶりの月の巡りが重いものであることを予感させた。
――そしてその予感は残念ながら現実になった。
次に目を覚ましたときには夜明けから随分と時間が立っていた。カーテンの隙間から漏れる日差しが不快なほどに強く、薄っすらと霞がかった視界を遮るように目を覆ったシオリは、細く長い吐息を漏らす。
「うぁ……これ、駄目かも……」
下腹部の不快な痛みはより強く、微かな吐き気さえ覚える。
今日は二人で請け負った依頼を一つ片付けることになっていた。日帰りで済む程度のものだったが、これだけの不調を抱えて行くには差し支えがある。
痛み止めを飲んでやり過ごすか、それとも無理せず休みを取るか。
小さく呻いたシオリの傍らで、もぞりと瑠璃色の陰が動いた。寝坊したシオリの体調を気遣ってか、どうやら様子を見ていてくれたらしいルリィは挨拶代わりにふるふると触手を振ると、そのまま這うようにして扉の隙間から出ていった。それも束の間扉が開き、アレクが顔を覗かせる。
「……シオリ。起きたか」
足早に近寄った彼は水差しとグラスを載せた盆を丸椅子に置き、武骨な手でシオリの額に触れた。
「熱はないようだが……ひどい顔色だぞ。どこか具合が悪いのか」
「……あ。うん」
日本でさえ男性に月のものを覚られるのは些か抵抗があったというのに、女特有の事情を異性に打ち明けるにはまだまだ敷居が高いこの世界では、ありのまま伝えて良いものかどうか悩んでしまう。
『若ぇのならともかく、三十も過ぎりゃあ男でも大体察しはつくからな。腹でも擦りながら具合が悪ぃって言ってくれりゃあ、それで事足りるぜ』
ザックはそんなふうに言っていたけれど、アレクはどうだろうか。
冒険者生活を長年続けているザックは当然、女性と組んで冒険に出たことが何度もある。遠征の途中、不自然な衣服の汚れに本人よりも先に気付いたことが幾度かあったと兄貴分は言った。妻や恋人のいる男なら女の事情も心得ているから、遠慮せずに言えとも言っていた。
(……そうは言っても、さすがにちょっと……恥ずかしい、かも……)
正直に言うべきなのに、つい言い淀んでしまった。それをいつもの遠慮と取ったのだろう、アレクは小さく嘆息した。
「色々あったからな。疲れが出たんだろう」
東方の客の来訪、最後まで秘密にしていた出自の暴露、アレクとザックの正体、そして辺境伯との面会。ごく数日のうちに起きた出来事と急激に増えた大きな人脈は、気疲れするには十分なものだった。
しかしこの体調不良の主な原因は間違いなく月のものだ。公私共にパートナーである以上、言い辛くても必ず伝えなければならないと思うシオリの唇に、そっとアレクが口付けを落とす。
「何か食べられそうか?」
「……ううん。飲み物だけあれば、それで」
「……そうか」
眉尻を下げた彼は、シオリの黒髪を撫でながら「今日は休んでいろ」と言った。
「俺はこれから組合に行ってくる。依頼は俺一人でもなんとかなるから心配するな。何かあったらルリィに言付けを頼んでくれ」
「あの、アレク……」
彼はもう一人で仕事を済ませる心積もりでいるようだ。何かと遠慮がちな自分を気遣って先回りしてくれているのが分かるだけに、シオリは些か慌てた。
そんなシオリの頬を撫でたアレクはいいから寝ていろといって微笑み、もう一度口付けてから身支度を済ませて出ていった。
「……どうしよう、ルリィ」
横になったまま、ぼそりと呟く。
「病気じゃないんだけど……心配させちゃった」
そう言って眉尻を下げるシオリに触手を伸ばしたルリィは、具合が悪いのは事実なんだから大人しくしてなさいよと窘めるようにぺしぺし叩いた。
2.
――夕方、早々に依頼を終え報告を済ませたアレクは足早に自宅アパルトメントへと向かっていた。道中屋台で夕食を買うことも忘れない。焦りゆえか串焼きや腸詰肉、揚げ芋などの明らかに病人向けではないものまで買い込んでしまった。
「……少しでも口にできればいいが」
あの顔色では相当に体調が悪かったに違いない。真っ白に色が抜けた顔色も、血色が悪い唇も、言われずとも立ち歩くのは辛いだろうと分かるほどのものだった。日帰りとはいえ遠出に連れ出すのは到底無理だ。
今日の採集依頼はシオリの魔法があれば随分楽だっただろうが、手間が掛かるだけで自分一人でも片付けられる類いのものだ。そう判断したアレクはルリィに彼女を任せ、一人で出掛けることを選択した。魔法を出し惜しみせずに使ったお陰で大分疲れはしたが、予定より遥かに早く終わらせることができたのは僥倖だった。
「延期したらしたであいつは気にしそうだしな……」
近頃は素直に辛いと言ってくれるようにはなったものの、それでも気後れする様子なのは相変わらずだ。自分の体調不良で仕事を延期したとなれば、またどんな無理をするか分からない。
「……俺も結構な心配性だな」
これではザックを笑えないと独り言ちながらアパルトメントの扉を開けると、エントランスを掃き掃除していたラーシュが顔を上げた。
「おや、お帰りなさい。その様子だと大分急いだようですね」
「ああ。心配だったんでな」
ルリィに留守を頼みはしたが、念のためにと出がけにラーシュにも声を掛けていた。彼はいつものように柔らかに微笑みながら、安心させるように言った。
「一度お部屋の前まで伺いましたがルリィ君からは大丈夫というようなお返事を頂きました。出掛けた様子もありませんから言い付け通り部屋で休んでいると思いますよ」
「そう……か」
それならいいのだが、あの蒼白な顔と弱々しい微笑みがどうにも気掛かりだった。ただの疲労だと思いたかったが、熱がないというのに明らかな不調を訴えるあの顔色がひどく不安を掻き立てた。
早く戻って差し上げなさいというラーシュに促されるままに、二段飛ばしで最上階まで駆け上ったアレクは急いで自室の扉を開けた。
身体の上に薬箱を載せて運んでいたルリィが、おかえりというようにしゅるりと触手を上げる。
「ただいまルリィ。シオリの様子はどうだ?」
一瞬考える素振りを見せたルリィは、くいくいと半開きの寝室の扉を指し示す。訊くよりは実際に見てみろということなのだろう。ルリィは落ち着いた様子ではあったが、その抱えている薬箱の中身を使わなければならないほどだというのなら、それなりに体調は悪いはずだ。
胸に湧き上がる焦燥感を押し殺しながら、アレクは半ば駆け込むように寝室に足を踏み入れた。寝台には朝見たときと同じように、シオリがぐったりと横たわっている。薄く目を開いた彼女は、アレクに気付くと「おかえり」と薄く微笑んだ。その顔色は朝見たときよりも一段と白い。
――血の気の引いた顔で淡く微笑むその姿に、ある女の面影が重なった。遠い昔に死に別れた、大好きだった母の顔だ。
「……医者を」
無意識にそう呟くアレクに、彼女は目を見開く。
起こそうとした華奢な身体を押し留める手が震えた。
「ア、アレク……?」
「医者を呼ぼう。すぐ手配するから――」
「そこまでしなくても大丈夫だから、ね、アレク」
慌てて言い募るシオリの手がアレクの頬に触れた。落ち着かせようとしてるのかもしれない。あのときの、母のように。
「……痛み止め飲んで寝てればそのうち治まるから。あのね、私」
「……駄目だ」
どうしようもなく唇が震えた。
「駄目だ。そんなふうに言って、薬を飲んで少し休めば良くなるからと言って、母さんは――」
始めは熱もなく、ただ怠さを訴えるだけだった。けれども日増しに寝込む時間が増え、そのうちに高熱を発した母は、「大丈夫だから」と言って微笑んだ僅か二日後、呆気なく息を引き取った。
――別れを覚悟する間もなかった。これはただの疲れや風邪ではないと子供心にも気付いたときにはもう手遅れだったのだ。
もう少し早く報せてくれればいくらでも手の打ちようがあったのにと、母を看取った町医者が言っていた。母の年頃なら正しい薬を飲んでゆっくり養生すれば決して死に至る病ではなかったとも。長い年月を掛けて蓄積した疲労と、医者に掛からず買い置きの売薬でやり過ごそうとしたことが母の寿命を縮めたのだと。
気の毒にと、そう言い添えて大人達が噂していたことを今でも覚えている。
あのときの母とシオリの容態はよく似ていた。ようやく手に入れた愛しい女が、母と同じように己の前から消えようとしているかもしれない――そんな恐ろしい想像がアレクの胸をひどく蝕んだ。
「……ごめん、アレク」
辛いだろうに、それでも身体を起こしたシオリは、その細い腕の中に己を抱き寄せて囁いた。
「これ、病気でもなんでもないの。その……月のものが重くて、それで」
「え……?」
本来異性相手には伏せるべき女特有の事情ゆえに、気恥ずかしくどうしても言い出せなかったとシオリは眉尻を下げ、「ごめんね」と謝罪の言葉を口にした。元々月のものは重く仕事に差し支えるほどだったが、この四年間は苦労と心労ゆえか巡りが悪く、軽く終えるか巡り自体がなかったがゆえに今日この日まで言いそびれてしまったのだと彼女は言った。
「ごめんね。凄く……心配掛けちゃって」
決して命に関わるものではないと知り、長い溜息と共に肩の力を抜いたアレクの足元をルリィがどこか労わるようにぺしぺしと叩く。ルリィのことだからシオリに事情は聞かされるなりして知っていたのだろうが、アレクにもまた過度に心配するだけの理由があることを察してくれたようだった。
そうはいっても、気まずさに俯くしかない。
「……俺こそすまない。早合点した」
月の巡りを病と見誤るなど、あまりにも冷静さを欠いている。
言われてみれば、同僚の女の幾人かはシオリと似たような症状を見せていた覚えがある。そのあたりはナディアも大分気を使っていたようではあるが、遠征中予定外に月の巡りがあったらしく、些か挙動不審になっていたこともあった。
古い時代には家に籠って過ごす習わしだった頃もあるというから、身体に変調を来す月の巡りはそれだけ女の身体を大事にしなければならない期間でもあるということなのだ。
「ううん、アレクは悪くないよ。ちゃんと言わなかった私がいけないの。辛いこと思い出させちゃって……本当にごめんね」
すっかり萎れてしまったシオリを静かに横たえたアレクは、優しくその身体を摩って微笑む。
「……いや。止まっていたのがまた来るようになったのなら、健康を取り戻しつつあるんだろう。むしろ安心した。次からは少しでも予兆があったらすぐに教えてくれ。仕事の調整をしよう」
このあたりの機微は所帯持ちのルドガー辺りにでも訊けば教えてくれるだろう。今度飲みに誘ってみるかと思いながら、毛布を引き上げて掛けてやった。
「……ありがと、アレク。毎月順調なら月に一度は迷惑掛けちゃうと思うけど……」
「迷惑なんかじゃないさ。身体を労わるのも大事なことだ」
恐縮しているシオリの手を緩く握った。顔色どころか指先まで白く、よほど辛いのだろうことが分かる。
(――そういえば、母さんはどうしていたんだろう)
思い起こそうと試みるも、朧げにしか思い出せないのは己が男だからなのかもしれなかった。
いや、あるいは、もしかしたら。
(やはり……巡りが悪かったのかもしれないな)
一人親という道を敢えて選んだ女としての矜持か、はたまた別に理由があったのかは分からないが、父からの援助は全て拒んでいたという母との生活は、必要最低限の生活ができる程度のものだった。実際には密かに手を回していたという父のお陰で衣食住には困らなかったが贅沢はできず、僅かな甘味を求めて街の花壇の花の蜜を吸って過ごした幼少期。
郷里との縁を切り、見知らぬ土地で女手一つで幼子を育てていた母の苦労は相当なものだっただろう。子を産んだ後、巡りが悪くなっていても不思議はない。
シオリに母と同じような苦労をさせたくはなかった。変調を隠して身体に負担を掛けるようなことをして欲しくなかった。身体を労り、大事にして欲しいと思うのだ。
無論彼女が健やかであるためには己の気遣いも必要だろうし、自分自身もまた健やかであらねばならない。
――口で言うほど簡単なことでもあるまいが、共に生きるとはそういうことだ。
「……俺の願いは第一にお前が健やかでいることだ。だからどうか、大事にしてくれ。俺も大事にするから」
噛んで含めるような言葉。
僅かに目を見開いたシオリは、次の瞬間嬉しそうに微笑んだ。
心なしかほんの僅かに色の戻った頬を撫で、その黒髪を梳くうちに微睡み始めた彼女はやがて、深い眠りに落ちていった。
「よく眠ってるな」
足元のルリィがぷるんと震え、薬箱をそっと小卓に置いてからアレクと共に「眠り姫」を覗き込む。
「このまま寝かせておこう。俺達は夕飯にするか」
シオリには消化の良い粥やスープを用意しておけばいい。幸いシオリ手製の携帯食はリゾットやスープ類が豊富にあるし、自身もパン粥程度なら作ることはできる。
「慌ててたんでうっかり重い肉料理まで買い込んでしまってな。お前、肉が好きだろう」
そう言うとルリィは嬉しそうにぷるるんと震えた。
シオリに軽く口付けてから部屋の灯りを落とし、静かに扉を閉めたアレクはそのまま台所に向かった。屋台料理を大皿に並べる横で、ルリィがぷるんぷるんと身体を揺らして待っている。
「……お前も身体は大事にして、長生きしろよ」
既に家族とも呼べる間柄のスライムだ。蒼の森のスライムの寿命がどれほどのものなのかは分からないが、できることならこの瑠璃色の友人とも長く共にいたかった。
勿論だとでも言うようにルリィが力強く身体を揺らした。
その頼もしい答えにアレクは笑う。
――温かな恋人、温かな友人。そんな彼らと共に築く家庭はきっと、この上なく温かなものになるだろう。
胸に灯る柔らかな温もりを噛み締めながら、アレクはそっと友人の瑠璃色の身体を撫でてやった。
イール「アウリン薬局では婦人系の取り扱いもしているのである。女医者の紹介もしているのである」
ルリィ「珍しく仕事してる」
書籍4巻発売から1週間経ちました。お手に取ってくださった皆様、ありがとうございます。9日には電子版も配信開始されますのでよろしくお願いいたします( *´艸`)




