15 幕間二 春は近く、されど遠く(ヤエ)
船問屋や船宿のほか、商人の屋敷が多く立ち並ぶ王都の湖畔通り。右手に青々とした水を湛えるシェーナ湖、そして左手の陸繋島にそびえ立つ壮麗なストリィド王城を臨むこの通りは見事な眺望ゆえに人気が高く、王都の外れに近い立地でありながら空き物件が出れば言い値でも即座に買い手が付くと噂されるほどだ。
その湖畔に面した屋敷の多くは眺望を楽しむために設えた専用の部屋があり、客をもてなすには極めて都合が良く、大口の顧客を持ちたい商人にとっては垂涎の的である。
そんな好条件の通り沿いに屋敷を持つ好機に恵まれた楊梅商会は、まさに大口の顧客を得て浮足立っていた。ロヴネル家は今を時めく気鋭の女性絵師が当主の名門。王都を足掛かりに王国全土に商いを拡大する野心のあった商会にとって、この上なく幸先の良い縁である。
その縁を結んだのが、商会が卸した醤油を使う東方人の女だというのだから縁とは誠に不思議なものだ。
屋敷の厨ではその東方人の女――詩織という――から指南を受けた八重が、料理人らと共に熱心に帳面を繰っていた。
「これは……なんとも斬新でございまするな。異国料理とかように組み合わせるとは」
「斬新だが理に適っている。手法としてはさほど新しいものではなかろうが……しかし」
「一見すりゃあ大したこたぁねぇように見えるが、どれもこれもありそうでなかったもんばっかりですぜ」
八重の文字で書かれた帳面には、詩織が提案した料理の数々が記されている。汁物、焼き物、煮付けから甘味に至るまで様々だ。癖の強い瑞穂の調味料を王国人の口に合うよう工夫を凝らした料理は、大陸を巡り歩きあらゆる料理を口にした彼らをも唸らせた。
「……とんでもねぇ女もいたもんだ。その姐さん一体何者なんです?」
「分からなんだ。何一つ」
花板の新吉の探るような目に八重は苦笑するしかない。どうにも只者とは思えぬ詩織の素性に関しては一切が秘匿されていたからだ。
「最初の話じゃあえれぇ苦労なすってるってぇ話じゃねぇですか。あっしはてっきり連れ帰ってくるもんだとばかり」
「私もそのつもりでおったのだが既に恋仲の男がいたのだ。機知に富み腕の立つ――女を任せるに足る立派な男であったよ。彼女を囲む者達もまた気性の良い者ばかりであった」
言い切った八重に新吉は瞠目したが、すぐに破顔した。
「そりゃあまた……良うござんした」
新吉は残念とは言わなかった。東方から大陸に渡った者、とりわけ女の多くが困窮を極める中、幸福に暮らす女がどれほど貴重かを知っているからだ。
――傾きかけた生家の料理茶屋をどうにか盛り返そうと、その切り札に珍しい異国料理を求めた新吉は、周囲の反対を押し切り妻と共に瑞穂を出た末に、彼女を病で死なせた苦い経験がある。
長く閉ざされていた瑞穂の民は、外の国で生きるにはあまりにも無知だ。未開の地の蛮族と侮られて無碍に扱われることが多い。腕は立っても対価が支払われず、その日暮らしに困って遂に大小を売り、どうにか旅費を工面して郷里に舞い戻る男は少なくはない。これといった才芸もない、か弱い女の身では戻ることさえ難しかろう。
――生きるためにはまず知恵が必要。老若男女問わず知恵を付けろ。よく学べ。
それは、国が開かれた後に異国を巡り、これから目覚ましい進化を遂げるであろう世界で生き抜くために最も必要なものは何かを悟った八重の父の口癖であった。
無知は罪。されど、世界にとって赤子同然の瑞穂の民を、国を上げて新天地へと送り出したあの時代の罪を全て当人に負わせるのはあまりに惨い。異国にて困窮する同胞を保護することこそ、まがりなりにもかつては一つの国を任された藩主であった自らの務めと決めた父を、八重は誇りに思っている。その仕事の一端を担うこともまた自らの役目であるとも。
――新吉の妻の病は、ほんの僅かの金子と幾ばくかの知識さえあれば死に至るようなものではなかった。とうの昔に治療法が確立され、薬と滋養食で数日過ごせば治癒する類のものだったのだ。
その亡き妻は、下女として雇われていた安宿で女将に言われるままに客を取って日銭を稼いでいた。気風の良い若女将として評判の妻だったが、幼子同然の拙い異国語と町人の妻女程度の才芸では堅気の職を得るまでには至らず、やむを得ずのことだった。
腕と気概さえあれば異郷の地であろうとやってゆけると驕った末の挫折と、自身が至らぬばかりに身売りまでさせてしまった妻の死。
自らの無知と傲慢を痛感した新吉は両親亡き後在所の店を畳み、放浪先で出会った八重と共に各地を巡りながら腕を磨き勉学に励む日々だ。
「できましたぞ」
早速とばかりに一品仕上げた料理人が、大皿を卓の上に置いた。醤油で炒った王国産の茸。八重手書きの指南書通りに王国産のバターと赤葡萄酒を混ぜてある。
「おお、これは……」
「なかなか腹に堪える匂いですな」
八重が箸を付けたのを皮切りに、次々と口に放り込む。
「ん!」
「美味い」
「こいつぁ酒の肴にもってこいじゃねぇか」
「もうちっと味を濃くすりゃあ、港の飯屋で受けるんじゃねぇか。連中、味の濃いのが好きだろ」
「こうも手軽なら手間もない。王国の男衆ときたら量も食うからな」
「ちっと品書き考えてみるか」
早速商いの算段を付け始めた彼らを前に、八重は小さく笑った。良い傾向だ。
「これも試してみるがよい」
バターを溶かした鍋に水切りした木綿豆腐――商会お抱えの豆腐職人の手によるものだ――を入れ、醤油と赤葡萄酒を混ぜ入れて焼き色を付ける。厨に香ばしい香りが満ち、新吉達は堪らぬといった態で八重の手元を眺めている。皿に盛り付け仕上げに柚子胡椒を添えると、彼らの喉がごくりと鳴った。
「詩織殿に教えられた。豆腐のステーキなる料理だ」
「これは荒金豆腐……でございまするか」
「近いやもしれぬな。だがそれを遥かに超える絶妙な味わいぞ」
無論各人の好みもあろうが、味の濃い食事を好む者には堪らぬだろう。実際、帰路の途中凍み豆腐で試したこの料理は、連れの者達には絶賛された。
「うん、美味い!」
「柚子胡椒の香りがよう効いておりますな」
やはり絶賛。王国では肉料理の方が好まれようが、瑞穂ならば豆腐の方が馴染みが良いだろうというのは詩織の弁だ。
「なぁるほど。こいつぁ職人魂が刺激されるってもんだ」
ほんの二品口にしたのみで唸り声を上げた新吉は、幾度も頷く。
料理人達もまた得るものがあったのだろう、指南書にある目当ての料理を諳んじた彼らは厨の各所に散った。きっと数日のうちに新たな料理ができるに違いない。
「いずれ、できれば近いうちに試食会を催したい。これぞという一品を出した者には褒美を取らす用意もあるぞ」
八重の言葉に歓声が上がった。試食会には商会にかかわる者全てが招かれる。未だ異国暮らしに慣れぬ者もあろう。そんな彼らにとってはこの上ない催事だ。
「試食会ってからには忌憚のねぇ意見を願いてぇもんだが、象乃介さんだけは何でも美味ぇと言ってくださりそうだ」
新吉の言葉に場がどっと沸いた。
「あの御仁は下っ端の飯でも高級料亭の会席膳みてぇに喜んで召し上がりなさるんで、嬉しいやら拍子抜けしちまうやらで、なぁ」
料理人達から溢れる揶揄の言葉はしかし、象乃介への好意が滲んでいた。
あの男のお陰で商談が纏まることは幾度となくあった。どうやら象乃介のあの屈託のない態度が、異国の客の頑なな警戒心を解くらしい。
元は隠密ゆえに表面を偽ることなど容易いことだろうが、こと食事に関してのそれは心からのものだということを新吉達は知っているのだ。「長ぇこと料理人してりゃあ、飯食ったときの面が世辞か本音かくれぇ見分けはつきまさぁ」というのは新吉の弁だ。
「……象乃介、か」
娘時代、象乃介を拾って間もない頃。初めて振舞った拙い手料理を美味いと言ったあの男の、屈託のない笑顔が脳裏を過ぎった。八重様、八重様と言って懐いた子犬のような顔の若侍が、ひとたび打ち合いとなれば鬼神の如き面相となる――そのどちらの顔も八重は好きだった。あの男に仄かな恋情を抱いていた時期も確かにあった。
しかし今象乃介に抱くは恋情に非ず。共に数々の「難敵」と戦った同志だ。主従、男女の枠を超えた同志なのだ。
その同志はいずれ近いうちに可愛い妻女を迎えることだろう。
だが自身はどうだろうか。
(――まだ春は先よなぁ……)
脳裏に描いた象乃介の、妻の手料理を嬉しそうに口にするその姿に、何故かある男の像が重なった。持ち込んだ珍しい東方の菓子を躊躇いもなく口にした男。美味い美味いと満面の笑みで言ったその男の、ふとした瞬間に見せた煌めく白刃の如き鋭利な眼差し。
(……そう言えばどことなく似ておったな、あの男)
バルト・ロヴネル。容姿ではないその纏う空気が象乃介に似通うものがあった。
――何故あの男をこの瞬間に思い出したか。
八重がその理由に思い至るのは、まだ先のことだ。
脳啜り「俺も食いっぷりはいいぞ!」
ルリィ「脳しか食べないじゃない」
9月2日、家政魔導士4巻が無事発売いたしました。なま先生の美麗な挿絵やザックとの遠征話、お楽しみ頂ければ幸いです。
また、9月25日にはコミック2巻も発売予定です。今回も一部店舗様にておの先生による素敵な特典イラストが付きます。アニメイトさんではフルカラーのビジュアルボード(おの先生の描き下ろしカラーイラスト&作者の書き下ろし小説)が配布されますので、興味のある方は是非( *´艸`)




