14 幕間一 異国の春(ショウノスケ)
湖に面した王都は厳冬期の湖面で冷やされた低温の風が吹きすさび、象乃介はふるりと身を震わせながら襟元を掻き合わせた。強い日差しが容赦なく降り注ぐ盛夏であろうが、戸口の際の水瓶に薄氷が張る真冬であろうが、寒暖に耐える鍛錬を続けてきた身にもこの寒さは辛い。
瑞穂の遥か西、このストリィディア王国は北の果てに近いという。ゆえに極寒の地と言われる愛瀰詩よりさらに寒さ厳しく、先達には凍えて肉が黒く腐り落ちるゆえ決して鋼の物の具は身に付けるなと厳しく言い含められていた。この国に訪れた当初は、名のある武人でさえ皮鎧や毛織の支度ばかりで随分驚いたものだ。
無意識に小袖の襟元から手を差し入れ、古籠火の毛で編んだ鎖帷子をそっと撫でる。
仄かな熱を発している火妖の物の具で冷えた指先を温めつつ向かう先は、楊梅商会の店を構える屋敷より数軒先の、煉瓦造りの町家だ。間口は狭いが奥行きは存外に深くそこそこの広さがあり、長い廊下を抜けた扉の先には小奇麗な庭まで設えられていた。
一階は店を兼ねた工房に小さな厨と湯殿、二階より上は職人や奉公人の寮となっているその建物の戸口の上には、東方の刀剣を模った木彫りの看板が下げられている。元は王国の剣匠の工房であった空店を商会が買い取り、現在は刀剣を商う店となっている。
「御免」
扉に下げた鈴がちりりと鳴り、奥の卓で談笑していた二人の男が顔を上げた。片方は店の主を任されている同胞の弥兵衛、もう片方は王国の常連客だ。どうやら商談中であったらしいが、客の男は気を利かせて立ち上がると、軽い挨拶を交わして出ていった。
「すまぬな。取り込み中だったか」
「構いませぬよ。商談はとうに終えて世間話に興じておりましたゆえ。先様も良い切り上げ時と思われたまでのことでしょう。しかし」
刀剣を商う店の主にしては優しげな顔立ち――と言っても内面は相当な曲者の弥兵衛は、些か呆れたように表情を崩して鼻をひくつかせた。
「女子との逢瀬にそのような臭いを漂わせて参られるのは如何なものかと」
「な、何を言う。決してそのような用向きでは」
逢瀬と言われて覿面に狼狽えた象乃介に、今気にせねばならぬのはそこではありませぬと弥兵衛は苦笑いした。そうして奥の扉を指し示す。
「お磯はここ数日休みも取らずにずっと詰めておりますよ。そろそろお戻りになると踏んでのことでございましょう」
言うなり弥兵衛は相好を崩した。揶揄うような人の悪い笑みだ。
「――ああ見えてあれも恋する女子でありますれば」
その言葉にとうとう象乃介は年甲斐もなくさっと顔を赤らめた。
弥兵衛にひと睨みくれ、顔に上った熱を些かのときを過ごして覚ましてから、象乃介は扉を押し開けた。途端に熱気が肌を焼く。奥の窯には火が入れられ、商会お抱えの刀匠が象乃介には目もくれず熱心に玉鋼を熱していた。
この熱気ならばわざわざ熱を冷ましてから入らずとも良かったかと独り言ちる象乃介の横から、女の低く落ち着いた声が掛かった。研師のお磯だ。
「ミスリル鋼が手に入ったのです。原石はまるで月のような光を――おや、象乃介様。少々召されましたか」
やはり臭うていたか。微かに漂う大蒜の香りを指摘され、象乃介は口元を押さえた。
それを見たお磯がにやりと笑う。女人が浮かべるには些か野性的に過ぎる笑みはしかし、涼やかな眼差しと肉付きの薄いすらりとした身体つき、そして凛々しい立ち姿にはよく似合っていた。それが男物の着物を着込んでいるのだ。若武者にも見紛う容姿である。
しかし薄く紅を引いた艶めく唇やしなやかな手首は間違いなく女のもの。艶やかな唇と小袖の合わせから覗き見える白い首筋にごくりと喉を鳴らした象乃介は、慌てて視線を逸らした。
「……お帰りなさいませ。無事のご帰還、何よりでございました」
「ああ。少々予定を過ぎたが良い旅であったよ」
「それはようございました。八重様は」
「長旅に少々お疲れのご様子。だが気力は十分、帰って早々厨に籠ってしまわれた」
「まぁ。相変わらずでございますこと」
言いながら差し伸べられた手に綿入りの分厚い羽織を渡すと、お磯は甲斐甲斐しくそれを受け取り片隅の衣桁に掛けた。その一連の流れはほとんど夫婦のそれであったが、気付かぬのは――否、気付かれてはおらぬと思い込んでいるのは当の二人のみであった。
――互いに恋い慕う心はあれど、想いを秘めたままの関係。
象乃介は羽織を脱いで少々身軽になった利き腕を動かし、懐の内に隠したものに触れて逡巡した。旅の土産を手渡すには、こちらには一切目もくれぬとはいえ刀匠の存在が些か気になるところだ。
(――後にするか)
適当な理由を付けて裏庭に連れ出せば良い。
そう思い、もう一つの用件を先に片付けることにした。この用件とて決してついでではない。帰路では代用の刀――これも業物だ――で凌いだが、やはり使い慣れた愛刀には替え難い。
腰元の暗月刀を差し出すと、お磯は表情をきりりと改めて受け取った。鞘から抜き、刀身を改める。見逃しようもない明らかな刃毀れに、瞳がすぅと細められた。
「……真っ向から受け止めましたか。研ぎ直しには少々お時間を頂きとうございます」
「ああ。恐るべき手練れであったよ。流す間もなかった」
恋仲であろう女を見る目は砂糖菓子のように甘かったあの栗毛の男の、剣を打ち下ろす瞬間の猛き龍の如き眼差しが脳裏を過ぎった。射竦められるとはまさにあのことを言うのだろう。
あの瞬間、確かに象乃介は怖気付いた。風巻立つ凛烈な朔風の如き冷徹さの内に、火龍の放つ烈火の如き烈しさを秘めた男。噂に伝え聞いた王家の血筋が受け継ぐ苛烈さとは、ああいったものを指すのだろうか。
市井で身を危険に晒す生業の男がまさか王家の血筋とも思いはせぬが、あの栗毛の男の纏う気配は己とは違う別格の何かがあった。
「稲妻の如き速さの重い斬撃、あまりの烈しさに手が痺れてつい刀を取り落としてしまった」
「象乃介様ほどの使い手がそこまで仰るなど……そのような相手と斬り合ってよくぞご無事で」
「ああ、なに」
蒼褪めたお磯に、慌てて手を振り否定した。
「商談先で思わぬ知己を得てな。手合わせをしたのだ。滅法腕が立つだけではない、情に厚い良き御仁であった」
元は男の連れの女との会談が目的だったが、この女もまた月から舞い降りた天女のような、いとも不思議な女であった。利発で才芸に長けた女の訳有りの風情が、なお一層その類稀な魅力を際立たせていた。
まるでかぐや姫のような佇まい。
象乃介の言葉に僅かにお磯の顔が曇った。
「……それほどまでに魅力的な方でございましたか」
その声色に微かな憂いと嫉妬が滲んでいるのを感じ取り、象乃介ははっと顔を上げた。
新雪のような白い肌に翠玉の如き瞳、朝焼けの空を切り取ったかのような色合いの髪。そのどれもが東方の民には有り得ぬ色ではあったが、お磯は正真正銘瑞穂の民だ。何代も前に大陸の血が混じったその名残が、先祖返りという形でその身に現れただけにすぎない。
かぐや姫とは言わずとも、異国のお伽噺の姫君のような容貌は人目を引いた。
だがこの異人めいた容姿は瑞穂では悪い意味で目立ち、大名家お抱え研師の跡目には相応しからぬと、先代亡き後あろうことか自身の良人――婿養子に売られたという経緯のある女だった。早い話が乗っ取りである。
しかしながらその腕前は先代を凌ぐとも言わるほど。噂を聞き付け、好色な年寄りの妾にするのはあまりにも憐れと拾い上げたのが八重だった。その手助けをしたのが象乃介だ。
――男装をしているのは何も仕事に差し支えるからというだけではないことを象乃介は知っていた。良人に純潔を捧げておきながら、他の男にまで明け渡さねばならなかったその身を憂い、恥じてのことなのだ。
故に、お磯から想いを打ち明けることは決してない。
そして、そうさせてもいけない。
――訳有りらしい様子の詩織を受け入れ、惜しむことなく愛情を注いでいたアレクの姿が脳裏を掠める。
象乃介は覚悟を決めた。
懐から三日月を模った銀細工の髪飾りを取り出し、一本に結い上げた色の淡い赤毛に飾ってやった。それはまるで、東雲色の夜明け空に浮かぶ銀の三日月のようだと象乃介は思った。
明けの女神。某の女神だ。
目を見開くお磯に、穏やかに微笑み掛ける。
「お磯。某の妻になってはくれまいか。なに、そなたの務めは続けて構わぬ」
「……象乃介様」
翠玉の瞳に水滴がふっくりと膨れ、溢れてほろりと流れ落ちた。
「どうだ。嫌か」
「いいえ。いいえ」
ふるりと首を振ったお磯は涙を流したまま微笑む。
「嬉しゅうございます。もし許されますならば……どうか貴方様の妻にしてくださいまし」
「ああ!」
強く抱き寄せた男装の女の身体は柔らかく、甘い香を放っていた。
――故郷より遥か遠い異国の地。ここにもまた一つの春が訪れようとしていた。
ルリィ「ニンニク臭させてプロポーズかぁ……」
脳啜り「マジか……おいマジか……」
東方の残念なイケオジ。
書籍化記念SSの方に、少しオカルトっぽいお話を短期連載中です。
よろしければお暇つぶしにどうぞ くコ:彡
オリヴィエの城の幽霊騒動です。




