12 描く未来
翌朝の空はよく晴れ渡っていた。空気の澄み切った爽やかな朝は人々の心を浮き立たせ、夜明け前から街路は活気付いていた。
明け初める空は王家の象徴にして国花の雪菫のような紫紺色から淡い薄紫色に変化し、東の空から徐々に美しい薄紅色へと色付いていく。濃い蒼色の陰影を落としていた雪は空の色を映して淡く色付き、やがて地上に顔を出した朝日に照らされてダイヤモンドのようにきらきらと輝いた。
薄明の頃に目を覚まして朝の微睡みを楽しんでいたシオリは、自身を抱擁するアレクの腕をそっと除けて片腕を伸ばした。捲り上げたカーテンの隙間からこの美しいトリスの夜明けを眺める。
(……綺麗)
煉瓦や石造りの街並みは故郷とはまったく違うものだけれど、雪の混じりけのない白さや朝の清廉な空気、そして夜明けの空の美しさは何一つ変わるところがない。
――故郷とは隔絶されたこの世界で望郷の思いを募らせ、懐かしいあの世界の面影をこの空に見出す日々。これからもきっと空を見るたびに、同じように故郷を想うだろう。
けれども、絶望と諦念に満ちていたあの日々とは違う。愛しい人と可愛らしい友人と共に清廉な朝を迎えるこれからの日々はきっと、温かで優しいものになるだろう。
新たな故郷を得たシオリが見上げる王国の雄大な空は、静かに人々を見下ろしている。
(……まだもう一人に認めてもらわなきゃいけないけど……でも)
アレクの異母弟、この国の王に認めてもらうのは容易ではないかもしれない。しかしアレクは何があっても最後は必ずシオリを選ぶと言ってくれた。護ると言ってくれた。だからもう寂しくはない。孤独ではないのだ。
シオリを抱き締めたまま眠るアレクが身動ぎした。瞼がゆるりと開き、透き通った紫紺色の瞳がシオリを映す。寝起きゆえかしばらくぼんやりしていた彼は、何度か瞬きしてから薄く微笑んだ。
「……おはよう、シオリ」
寝起きのほんの少し掠れた低い声が、シオリの鼓膜を優しく震わす。たったそれだけの何気ない挨拶だけれども、それがひどく貴い。
「おはよ、アレク」
シオリもまた笑みを浮かべて囁くように返しながら、彼の唇にそっと口付けた。触れ合う温かい唇から微かな笑い声が漏れ、そのまま引き寄せられた。啄むような口付け。小鳥同士の朝の挨拶のようなそれは、柔らかで優しかった。
「起きるか」
「うん」
先に身体を起こしたアレクに助けられて起き上がり、そうしてもう一度軽く唇を触れ合わせてから床に足を下ろす。既に起きていたルリィが朝の伸縮運動をしながら、しゅるりと触手を伸ばして挨拶した。
「おはよう、ルリィ」
「今日も朝から精が出るな」
ルリィは返事代わりにぴこんと身体を揺らし、再び伸縮運動に集中する。
そんなマイペースな同居人の可愛らしい姿に微笑み、身支度を整えて居間へと続く扉を開けた。カーテンを開いて朝の陽ざしを取り込み、浴室で洗顔を済ませてから台所に立つ。
雑談を交わしながらアレクと二人、食事の支度をするこの穏やかな時間。小さな幸せを感じるこのときがシオリは好きだった。でも今日のこの瞬間は、今まで以上に貴く温かなものに感じられた。
自分のルーツを恋人と兄に受け入れられ、この地を治める辺境伯に認められた――心の重石が取れたことで、それまで薄ぼんやりと視界を覆っていた霧が晴れ、目に映る景色の全てが鮮やかに色付いていく。
(自分を認めて……そしてその自分を他の誰かに認めてもらう。それだけでこんなにも世界の見え方が違うなんて)
感慨深く息を吐いたシオリの頬に、大きな手が触れた。そっと上向かされて、優しく口付けされる。
「……どうした。ぼんやりして。まだ眠いか?」
「ううん。ちょっと考え事してただけ」
「考え事か」
ほんの少しだけ眉尻を下げて気遣うような表情になったアレクに、シオリは微笑んでみせた。
「悩み事とかそういうのじゃないよ。凄く嬉しいなって、そう思ってたの」
互いを認め合い、共に在ること。在り続けること。その貴さを噛み締めていたのだとシオリは言った。それを聞いて微笑んだ彼は、再び口付けを落とす。
何度も啄み微笑み合って、静かに想いを確かめ合っていた二人の足元をちょいちょいとルリィがつついた。お腹空いたとでも言いたげで、それを見下ろしたシオリはくすりと笑った。
「すぐ支度するから待ってて」
愛用の木皿に炙りベーコンと茹で卵を載せ、窓辺の鉢植えから千切った雪見レタスと作り置きのピクルスを添える。その間にアレクがベリーシロップのお湯割りを作り、雑穀パンをスライスしてくれた。
テーブルにバターと手作りジャム、瓶詰の保存食を並べると、うきうきしながらルリィが椅子の上に飛び乗った。
「お待たせ。じゃあ食べようか」
ルリィはぷるんと嬉しそうに震える。
「いただきます」
「いただきます」
手を合わせて軽く頭を下げる、日本式の食前の挨拶にすっかり慣れてしまったアレクを見て微笑みながらカトラリーを手に取った。
いつも通りの――アレクと暮らすようになってからは当たり前のようになった、二人と一匹の食事風景。楽しい雑談をしながら笑顔で食卓を囲む、この細やかで貴い光景がいつまでも続くといいとシオリは願う。
そのために越えなければならない試練はまだいくつもあるだろう。
でも、それでも、この愛しい彼らと一緒ならばきっと乗り越えられると思うのだ。
育んできた想いと絆――兄から始まり、同僚、友人、そして愛しい恋人と紡いできたそれは、孤独だったシオリを確かに支えていた。この絆がある限り、決して一人ではない。そしてこれから先もずっと、少しずつ増やしていくのだろう。この国で――この世界で紡ぎ続けていく、絆をだ。
「そうだ、シオリ」
「うん?」
「後でまた手紙を出してくる。弟にお前のことを報せようと思う」
「あ……うん」
彼らに明かした最後の秘密。それを弟――王に報せるというのだ。
「当然クリスからも報告は行くだろうが、俺からも直接言っておいた方がいいだろうからな」
「うん。そっか。ごめんね、なんだか色々騒がせるけど……」
普通の素性ではないばかりに、彼らには色々と手間を掛けさせてしまっている。それを気に病んだシオリに、アレクは気にするなと言って笑ってくれた。
「むしろこれからは俺のことで騒がせることになるだろうからな。俺としてはそちらの方が心配だ」
今後の身の振り方を決めた彼には、それに伴う根回しや手続きなど、やらなければならないことは山ほどあった。勿論シオリとしても出来うる限りの協力をするつもりだし、自分自身の地盤固めや心構えもしておかなければならない。覚えることも沢山あるだろう。
ただ幸せなだけではないだろうこれからの道行きを思って自然と身を強張らせたシオリの手を、向かいに座るアレクがそっと握った。
「あまり気負い過ぎないようにな。俺も、お前も。急がなくてもいい。ゆっくりと着実に進めていこう」
「……うん。ありがとう、アレク」
この人はいつだって元気付けてくれる。不安なときにはそばにいて、欲しい言葉をくれる。本当に心から寄り添ってくれているのだということが知れて、シオリは顔を綻ばせた。
「……王家関連は俺やザックがやるからお前はあまり気にしなくていい。どれくらい掛かるかは分からないが、年単位は掛かると思った方がいいだろうな。だが進捗状況は逐一報せるから安心してくれ」
「うん。分かった。じゃあ何か一緒にできることはある?」
問いに僅かに思案した彼は、そうだなと言って頷いた。
「当面は冒険者活動を続けよう。そして冒険者として名を上げ地盤固めの基礎としたい。俺もお前もいいところまで来ているとは思うが、まだまだ立場は弱いからな。だが急ぐ必要はない。今まで通り地道に着実にいこう。功を焦ってもろくなことにはならないからな」
「うん」
「幸い俺はS級昇格の打診を受けている。今までは色々都合があって辞退していたが、次に打診があったら遠慮なく受けるつもりだ。だが俺個人の意見としてはS級を受けるほどの功績はまだ上げていないと思っているんだ。だからと言って危険な依頼ばかりを選んでやる必要はないが、まぁ……これも地道にやるさ」
「ん、そっか……でも」
頷いてから、シオリは疑問を口にした。
「そのS級になる条件ってなんだろう? B級に上がるときみたいに、やっぱり単純に依頼件数とか討伐数とかだけが条件じゃないんでしょ?」
「そうだな。といっても、俺も詳しい条件までは分からないんだ。俺に打診が来ている以上、既に条件は満たしているんだろうが……」
幾分考え込んでいた彼は、食後の紅茶を啜ってから言った。
「同期で相棒として組んでいたクレメンスとはほとんどの依頼を一緒に受けた。が、あいつには打診が来ていないことを考えると、俺だけがかかわった大きな依頼が条件になっている可能性はある」
ドラゴンやワイバーン、ベヒモスなどの難易度が特Sランク指定されている討伐依頼が条件の一つだろうという噂はあるようだ。事実、これまでにS級昇格を果たした冒険者には全て、特Sランクの魔獣討伐経験があるという。
けれども、アレクやザックと同様これらの魔獣討伐に参加した経験のあるクレメンスやナディアには今のところS級昇格の打診はないらしい。
それゆえに、心当たりがあるとすれば、世間を騒がせた魔獣絡みの事件の解決に尽力したことくらいだと彼は言った。
「B級になったときも思ったけど、昇格の条件ってやっぱり非公表なんだね」
「ああ。公開されていないがゆえにマスター次第だとか不公平感が出るという批判も多いが、まぁ……これは仕方がない面もある」
「そうだね……」
条件が分かってしまえば、査定に都合の良い依頼ばかりを選り好む者が出かねない。事実、査定に大きく影響が出そうな割の良い依頼は取り合いになる場合もあるからだ。
「うーん……でも、その話を聞く限りでは、少なくとも補助職はS級昇格は無理そうだね。シルヴェリアのときみたいに幻獣に止めを刺せたのも、皆に譲ってもらったからってのが大きいし」
「それはまぁ、今のシステムでは残念ながら……」
苦笑した彼は茶器を置いて表情を引き締めた。
「とはいえ、そういう依頼が来るかどうか、そのとき都合良く予定が空いているかどうかは運もある。だが、信用と信頼があれば指名で依頼が入ることも増える。S級ではなくとも、指名があるということはそれだけ周囲に認められている証拠だからな」
運を引き寄せることもまた能力の一つだと彼は言った。周囲と信頼関係を築けば、そこから良い縁が生まれる。その縁が運――大きな仕事を引き寄せるのだ。
「縁もゆかりもない名門ロヴネル家がお前を指名したのもそういうことだ。大聖堂からの依頼も、お前の人柄と仕事ぶりを見て知っていた者がいたからこそだ」
きっとそこからまた繋がる縁もある。そうして手繰り寄せた縁がこの地での自身の評価を高め、地盤固めにも繋がるのだと彼は言った。
「今のお前にはロヴネル家、大司教、辺境伯という後ろ盾がある。それにロヴネル家との縁を作ったエンクヴィスト家の覚えもめでたい。これだけでもかなりのものだが、ヤエ殿の楊梅商会も今後国内で目立つ存在になるかもしれないからな。この調子でお前のこの国での確固たる地位と居場所を築くんだ。なに、気張る必要はないさ。今まで通りのペースで丁寧な仕事をすればそれでいい」
「アレク……」
彼は自身の王族という身分に寄り掛かるつもりはないのだ。自分自身の手で地位と名声を手に入れ、その立場を確かなものにしようとしている。それを足掛かりにして元の身分に戻ろうと、そう言うのだ。
そして彼はそれをシオリにも求めている。身寄りのない異邦人という立場の自分が王兄である彼の隣に並び立つには、皆を納得させられるだけのものが必要なのだ。無論それでも認めてはくれない者も多いだろうが、それにも揺らがない心構えをすることもまた必要なことなのだろう。
「何十年、何百年という長きに渡って王家や国を支えてきた連中に比べたら俺の功績なんて微々たるものだ。功績というのも烏滸がましいだろう。だが、それでも俺はあいつの……オリヴィエの……兄弟でありたい。胸を張って俺はオリヴィエの兄弟なんだと言いたいんだ。俺なりのやり方で、王兄の務めを果たしたい」
彼が冒険者という道を選んだのは、少しでも民のためになればと彼なりに考えてのことだったという。まだ少年で無力だった彼が、身分を隠しながら選べる唯一の仕事だったのだと。国が護り切れない細々としたものを護ることができたらと、そう願った彼の精一杯の「務め」だったのだ。そうして彼はザックの手引きで冒険者の道に足を踏み入れた――。
「――視点がきっと……民に近いからこその選択だったんだね」
そんなことを思ったシオリはぽつりと呟く。
「うん?」
首を傾げたアレクに、シオリは言葉を重ねた。
「偏見かもしれないけど、根っからの貴族だったら、多分……護り切れない人達がいるって気付かなそうだなって。それが悪いことだとは思わないけど、大きいものを護るために小さなものが見逃されたり切り捨てられたりって沢山あると思うから……そういうものを護ろうっていう気持ち、凄くいいなって。いつだったかもアレクは言ってたでしょ?」
民は貴族のための消耗品ではない、と。
あれは、疲れ切っていたシオリを当主を助けるために無理にでも連れていこうとしたエンクヴィスト家の従者に対して彼が言った言葉だ。あの従者の「悠長なことを言っている場合ではない、若様の身にもしものことがあれば」という、その考えも決して間違いではないけれど、それでも魔力切れで本当は立つのもやっとだった自分を気遣ってくれた、その気持ちが嬉しかった。
ああいう視点もまた国を治める立場にあっては必要なものだろう。多くのものを護らねばならない立場にある王侯貴族にとってそれは難しいことではあるけれど、王家の庶子として生を受け、これまでの人生のほとんどを市井に投じていたアレクだからこその視点だとシオリは思う。
「シオリ……」
話を聞いていた彼は目を見開いた。しばらくの間考え込み、そして何かを決意したかのように何度も頷く。
「……実のところ、王兄としての務めを果たすには何をすべきかは俺もまだ明確には定まっていなかったんだ。オリヴィエの――国のために何かしたいとは思っていたが……だが、そうだな」
アレクはじっとシオリを見据えた。
「俺もお前も、この国では弱者だったがゆえに知ったことが沢山ある。俺達のような者のために何かをしていくのも悪くはないな」
「うん。私も、生活魔法とか料理の知識とか……あまり活躍できなくて、地味だなって思って悩んだりもしたことは何度もあったけど、それでも知りたい、覚えたいって言ってくれる人が結構いて……ああいうの、何かに役立てたらなって最近思うようになったの」
デニスに教えた醤油がロヴネル家の料理長の目に留まり、そこからヤエとの縁ができた。自分の持っていた知識をもとに東方の調味料を王国内に売り出そうという彼女達の意気込みを見ているうちに、自分が持つ技術や知識を教え広めるということもまた、世話になった人々への恩返しになるのではないかと思うようになっていた。
「ああ、そうだな。今度の生活魔法講座……成功したら、教本にでも纏めてみたらいいんじゃないか。組合を通して発表することもできるぞ。見たところお前、文章を書くのはそれほど苦でもなさそうじゃないか」
「えっ……ちょっとそれは」
教本作成などと言われてさすがに尻込みしたシオリはしかし、しばらく考えてから頷いてみせた。
「すぐには難しいと思うけど、でも……そうだね。考えてみる」
三十過ぎという自分の年齢と体力を考えれば、冒険者として活動できるのも長くて十年といったところだ。多くの冒険者も、おおむね四十までには身の振り方を考えるようだ。どう鍛えようとも、加齢による衰えだけは止めることはできない。それに若い頃の無理が表出し始める年代でもある。
体力勝負のこの仕事、衰えによって思うように身体が動かないようになる前に、次の仕事を考える者、故郷へ戻る者、内勤へと移る者、指導者としての人生を歩む者と様々だ。
自分もまた冒険者を辞めた後、アレクの隣に並び立つために何ができるか、「務め」を果たそうという彼と共に何ができるのか――そう考えたときに、今の自分にできることはそう多くはない。ないからこそ、その持っているものを最大限に活用すべきなのだと思う。
「知識や技術を教える、か……」
曖昧だった未来の像が、薄ぼんやりと見えたような気がした。
「シオリ」
席を立ち、背後に立ったアレクの腕がシオリの身体を抱き寄せる。
「ゆっくりでいい。共に……歩いていこう」
背中越しに聞こえた、低く温かな優しい声。
自分もいるよ! とでもいうように、ルリィがぷるるんと震えた。
「うん」
優しく頼もしい愛しい恋人、可愛い友人と共に歩む先の未来はまだ霞み掛かってよく見えないけれど、それでもきっと温かなものになるだろう予感があった。
その歩む道筋が細くとも確かなものになるように、これからも小さな努力を積み重ねていくのだ。
肩を抱くアレクの大きな手に自分の手を添えたシオリは、肩越しに与えられた優しい口付けを受け入れて小さく微笑んだ。
脳啜り「……」
イール「…………」
ペルゥ「あの二人なにやってんの」
ルリィ「朝チュンの痕跡探してる」
今日明日あたりにお知らせができればなぁと思っています。




