11 二人の覚悟
夜もすっかり更ける頃。アパルトメントの前に停車した馬車から降りた二人と一匹は、「疲れたろ。明日は休んでもいいからな」と言うザックと別れを告げて最上階の自室に戻った。ほんの数時間ぶりの自室は、この部屋の住人達を温かく迎えてくれた。
すっかり気疲れした様子のシオリをソファに座らせ、手ずから淹れた紅茶のカップを差し出す。「ありがと」と言いながら受け取る彼女の声に張りはない。
就寝前の伸縮運動を始めていたルリィが触手をしゅるりと伸ばし、シオリの足を気遣うようにゆっくりと擦った。
「……すまないな。お前には随分と負担を掛けてしまった」
疲れの滲む彼女の頬に触れる。クリストフェルの前で流した涙の跡は既に消えていた。けれどもその目は僅かに赤味が差している。
「ううん。疲れたけど……でも、必要なことでしょ? クリストフェル様の気持ちも分かるし」
大事に思われてるんだねと、そう言ってシオリは微笑んだ。
「それに、アレクと一緒になれば陛下とも少なからず付き合いができるかもしれない。そのあたりのことも気にするだろうなって思ってたから、凄く厳しいことを言われるのも覚悟してた。だから、大丈夫」
何度か昔語りをするときに聞かせた異母弟のこと。嫡子と庶子という間柄でありながら双子のように仲の良い兄弟だったと語ったその内容を、彼女は気に掛けていたのだ。国の王である異母弟とは今でも付き合いがあり、そしてその関係が良好であることを知っている彼女は、それがどれだけの問題を孕んでいるかを察していた。
「アレクの身分目当てとかアレクを通じて陛下と繋がりを持ちたいとかそういう野心がないかどうか、クリストフェル様としては確かめない訳にはいかなかったと思うもの。ただでさえ、異世界から来ただなんて言ってる女なんだから……警戒して当たり前だと思う」
己の昔語りや友人知人達が語る話、そして書店で見た王家の事件記録を繋ぎ合わせ、シオリなりに得た結論がそれだった。
「――お前。そこまで理解していて、それでも辺境伯に会ってくれたのか」
アレクとて愛した女の命を簡単にくれてやるつもりは毛頭ないが、事と次第によってはクリストフェルの采配で始末されていたかもしれない可能性がごく僅かながらにはあったのだ。それをシオリは理解していたことになる。
「本当は凄く怖かった。でも逃げる選択肢はなかったし、アレクのことで逃げたくはなかったの。嘘偽りのない自分を見てもらうしかないと思った。その上で私の話を信じてもらえなければ……もう、仕方のないことなのかなって。王族と一緒になるって簡単じゃないことくらい私にも分かるよ」
本来ならアレクとザックの二人に自身の正体を打ち明けてしまった時点で既に、覚悟しなければならないことだったとシオリは微苦笑しながら言った。
身の上話を語る上では決して避けては通れない「故郷」のことを最も近しい者に打ち明ける――それはもっと先のことだと思っていたが、彼女は思わぬ形で暴露することになってしまった。受け入れてもらえるか否かを考える間すらなくだ。
「もし駄目だったら私は殺されるんだろうなって思った。結果として二人には受け入れてもらえたから良かったけど……」
――だからこそ、最後の秘密を打ち明けた直後の彼女は死を覚悟したような顔をしていたのかと思い至る。
その手からカップを取り上げ、代わりに抱き寄せた身体は華奢でひどく頼りない。強い女だが決して無条件に強い訳ではないことを知っているアレクは、肩を抱く手に力を込めた。
「黙っているという選択肢もあったんだ。だがお前はそれを隠すことなく打ち明けてくれた。どのみちいずれは言うつもりでいたんだろう? 俺は、その気持ちが嬉しいんだ」
元よりどのような素性であろうとも受け入れる気でいた。全てを受け入れても良い、そう思えるほどにこの女を愛していた。
「アレク……」
シオリの指先がアレクのシャツを掴む。それがまるで縋るようにも思えた。
「アレクが王族かもしれないって気付いたときからずっと不安だった。だって、出身国も人種も違う、移民で庶民の……それも他の世界から来た女が王族と一緒になれるなんて普通は思わないもの。でも、アレクが絶対に護る、絶対に離れないって言ってくれたから、私はそれを信じようって思ったの。たとえクリストフェル様が信じてくれなくても、アレクや兄さんが信じてくれるなら……それでいいって」
たとえ辺境伯が信じなくとも、恋人と兄が信じてくれるのならもうそれでいいという彼女の想い、それは悲壮ともいえる覚悟だ。そのために失うものが命だと知っていても――あれほど無駄死にしたくはないと必死の想いで努力を続けてきた女の覚悟を思い知ったアレクは、その華奢な身体を強く掻き抱いた。
「万が一にもあの会談が破談に終わっていたら、俺はお前を連れて逃げる気でいた。ミズホでもなんでも、お前と二人ならどこへでも行くつもりだったんだ」
王族としてではない、友としてアレクを案じてくれていたクリストフェルならば、シオリによほど不審な点があるのでない限りは滅多な判断は下さないだろうと踏んではいた。決して悪いようにはしないと言っていたザックも、当然会談前に根回ししていただろう。しかし国防の要たる辺境伯としての冷徹さを持ち合わせている彼が、些末な不信感から彼女を切り捨てるという可能性がまったくない訳ではなかった。
だがもう決めたのだ。本気になった辺境伯や異母弟の追っ手を振り切って逃げるのはきっと容易ではないだろうが、今ここで大切なものを何か一つだけ選べと言われたら――それはもう、ただ一つきりしかないことをアレクは知っていた。
「今の俺には大切なものを護るだけの力も知識もある。もう二度と……間違えたくはないからな」
少年時代は何もかもを完璧にこなさなければと強く思うあまり、何もかもを捨てて逃げるはめになった。何一つ、己の身すらも護れずに床に伏せて、ただただ悔やみ続けたあの日々は二度と御免だった。
それに、王族としてはまったくもって不十分だろうが、出奔してから後も自分なりに国のためにと働いてきた。せめて城で世話になった分だけでも返さねばなるまいと、匿名で各所に寄付もした。クリストフェルの手引きで騎士隊に手を貸したことも何度もある。先だっては大きな役目を終えて、それでようやく――不義理をした分の「負債」は返済できたはずだ。
「もう何ものにもとらわれない。この先の人生は、他の誰でもない俺自身のために生きる。そして自身の半身とも言えるお前を護り共に生きると決めたんだ」
「アレク……」
シオリの眦から光の欠片がぽろりと落ちた。星を塗したように輝く瞳が己の姿を映し出す。
美しい涙を流したまま、彼女は唇を柔らかな弧の形に引き上げて微笑んだ。
「ありがとう。アレクがそこまで想ってくれるから、私も覚悟が決められた」
「覚悟?」
「うん。アレクと添い遂げる覚悟。アレクへの気持ちを貫き通す覚悟ができたの」
それは、アレクがこの先どんな道を選んだとしても、この想いだけは決して誰にも譲らないという覚悟だ。
その意味するところを察したアレクの胸に、熱いものが満たされていく。
彼女の覚悟は決して手放しに喜んでいい類のものではない。だがそれでも、彼女が己にそこまでの想いを傾けてくれたことがひどく嬉しかった。
何ものにも替え難いほどの貴い想いを受け止めたアレクは、シオリを正面から見据えた。
「ありがとう、シオリ。お前の気持ち、しかと受け取った。俺が思っていた以上に、お前は俺の身分を重く受け止めていたんだな。それでも俺への想いを貫き通すと言ってくれたその覚悟、決して無駄にはしない」
アレクはシオリの手を取り、強く握り締める。触れ合う手が熱い。
「――かつて俺は、何もかもを諦めて逃げ出した。だがその結果、ずっと後悔し通しの人生だった。俺は二度と後悔したくないんだ。だから俺も覚悟を決めた」
握り締めた手を引き寄せて、視線だけは彼女に向けたまま嫋やかな指先に口付ける。
「色んなことを仕方ないと諦めて後悔し続ける人生はまっぴらだ。これからは存分に欲張って生きようと思う」
黒にも見紛うその瞳が見開かれる。
「欲張る……って、なんだか凄いなぁ」
「ああ」
アレクは笑った。初夏の空のように爽やかな顔で、それでいてその瞳には盛夏の太陽のような熱い輝きを宿してアレクは笑った。
「今まで諦めてきたこと全てに手を伸ばしてみようと思うんだ」
公に王族籍に復帰し、そして自らの為すべきことをする。無論復帰するにあたっては王たる異母弟の判断が要るだろうが、許されるのならば、誰に指図されるのでもない、己の身の丈に合ったやり方で王兄としての務めを果たしたいのだ。
――勿論その傍らにはシオリを置いて。
「だが、俺はお前を必ず護ると誓った。その想いは今でも変わらない。だから万が一のときには他の何を置いても必ずお前を護る。必ず最後までそばにいる。決して独りになどしない。必ず――お前への愛を貫き通す」
嘘偽りのない己の想いの全てを打ち明けると、シオリは大きく息を呑んだ。乾きかけていたその瞳が再び潤み、温かな雫が止めどない滝となって流れ落ちる。
「……うん。うん、ありがとう、アレク。私もアレクの手伝いがしたい。私も、受け入れてくれた人達に恩返しがしたいの。何ができるかはまだ分からないけれど……でも、アレクと一緒に生きていきながらそれができたら……とても嬉しい」
「シオリ……」
「大好きだよ、アレク。私も……愛してる。私の、大切な――」
最後まで言い終えぬうちにその唇を塞いだ。優しい啄みから始めるものではない、初めから深く激しい口付け。瞬く間にシオリの身体から力が抜けた。細い腕が己の背に回され、それに応えるようにアレクもまた抱き締める腕の力を強くする。そのまま押し倒すようにしてソファに縫い留め、角度を変えて何度もその口内を貪った。
「愛してる。俺の天女。俺の唯一。お前の全てを……愛してる」
――もう離さない。
艶めかしい吐息も、熱く濡れた声で紡がれる愛の言葉も、その唇から零れ落ちる全てを口付けで受け止めて呑み込んだ。離さないでねと、そう告げられた言葉ごと――何もかも全てをだ。
この美しい星とよく似た色のスライムが見守る中、二人はいつまでも抱き合っていた。
脳啜り「信じられるか? この後雪崩れ込むのがセオリーだと思うんだがそうならなかったんだぜ?」
_(:3」∠)_