10 苛烈な女
しばらく沈黙していたクリストフェルはシオリを正面から見据えた。無言ではあったが物問いたげな表情に、促しているのだと察したシオリは幻影魔法を繰り、虚空に浮かぶ月を映し出した。
灰色の濃淡のみで描かれた色のない大地。どんな闇よりも深い漆黒の空を背景に、雄大で歪な地平線を描いている。
「……これが、月か?」
「もっと美しいものかと思っていたが……」
「まるっきり荒れ地じゃねぇか」
戸惑うような三人の反応にシオリは頷く。
向こうの世界より百年ほど遅れているこの世界の天文学。けれども近年発展が目覚ましいという魔法工学の研究が進めば、もしかしたらいずれは向こうの世界よりも優れた成果を上げるかもしれない――そんなふうに思いながら、シオリは問われるままにぽつぽつと説明を続けた。
「月には空気がなく、気温も寒いところはマイナス百度以下、暑いところは百度以上ととても過酷な環境です。普通の生物が生きられるような場所ではないんです」
岩と砂、そして巨大なクレーターばかりの荒涼とした世界。しかしやがて、歪な地平線の向こうから、瑠璃色の星がゆっくりと姿を現す。
――日本の月周回衛星がハイビジョンカメラで初めて撮影した、あの「地球の出」だ。
豊かな水を湛えた海の青。生命の息吹を感じさせる森の緑。そして恵みの雨を降らせる雲の白。数多の生命を内包した雄大な星。
あれほどの美しい映像を完全に再現できた訳ではない。
それに、三人が三人とも――特にほぼ初対面に近いクリストフェルは、シオリの語る話を、映し出す幻影の全てを信じてくれている訳ではないだろう。
けれども彼らの口から洩れたのは感嘆の吐息だ。
「おお……こいつはすげぇ」
「なんと美しい……」
漆黒のビロードに大切に置かれた宝石のような星を、男達は食い入るように眺めている。あの星とよく似た色のルリィもまた何か思うところがあるのだろう、ぷるるんと小さく震えた。
「――あれが私達の住む星です」
瑠璃色の表面に白い雲の帯を引く美しい星。雲の下に透けて見える陸地が懐かしい故郷の形を成しているのは、きっとこの心に強く残る姿を描いたからだ。
「そして、あれが」
あれが故郷だと、そう続けようとした言葉の端が震えた。
アレクが、ザックが――そしてクリストフェルもまた振り返った。この場では絶対に泣くまいと決意していたというのに、早くもそれが破られそうになって、嗚咽を呑み込むように唇を噛み前を見据えた。
「あの島国が日本……私の故郷です」
遥か世界を隔てた遠い故郷。この世界にはないのだと思い知らされたあの小さな島国は、今でもこうして胸の内にある。幻のようにして映し出すことしかできないけれど、あの場所は確かに在った。自身が生まれ育った想い出がある、掛け替えのない故郷だ。
アレクの逞しく温かい腕に抱き寄せられながらも、シオリは日本の在ったあの世界の地球を映し続けた。
幻影のスクリーンの中にクローズアップした地球。雲が流れ、夜が訪れ、緑の幕が揺れる。
「……俺達の世界も、こんなふうに美しいのだろうか」
ぽつりとアレクが呟く。
「きっと、同じように綺麗だよ」
いずれこの世界の技術が月に到達するときが来たならば、きっとこんなふうに美しく輝く地球を見るのだろう。世界を隔てただけの、同じ星ならば、きっと。
「きっと、ルリィみたいな瑠璃色の、綺麗な星だよ」
足元のルリィが嬉しそうに、誇らしげにぷるんと震えた。
――そうしてシオリの目の縁に溜まった水滴がぽろりと頬を伝って落ちると共に、幻影は空気に滲むようにして消えた。
静寂。
しばらくの間は誰もが無言だった。あの美しい幻影の余韻に浸るかのように、ただ黙って虚空を見つめたままだ。
「――神の御坐から眺めた我々の世界があれほどまでに美しいのならば……なんとしても護らねばなるまいなと改めて思ったよ」
やがて口を開いたクリストフェルは、カーテンを引いていない窓の外に視線を流した。庭木が開けて街を一望できる窓から見えるのは、藍色の空の下に煌めくトリスの夜景だ。
彼が護りたいと言ったその世界は、きっとこの街――この国という彼の手が届く範囲だろう。けれどもその想いは十分に伝わった。この掛け替えのない美しい故郷を護り抜きたいと、彼はそう言うのだ。
「……勿論護るべき対象の中には、シオリ嬢、君も含まれている」
「え……私も、ですか」
目を瞬かせたシオリに、クリストフェルは笑ってみせた。
「そうだ」
一度そこで言葉を切り、ワインを一啜りした彼は続けた。
「王兄殿下の想い人だからという理由だけではない。今後、君の持つ技術や知識を独占しようと目論む輩が現れないとも限らん」
専門家ではないただのOLだった自分の知識や技術などたかが知れているとは思うのだけれど、その考えを察したのだろう、彼らは真剣な顔で首を横に振った。
「お前が実際には普通の人間だってことは、俺もアレクもよく知ってるよ。だがそうは思わねぇ人間は今後必ず出てくるだろうぜ」
「そうだ。生誕祭で見せたあの『神々の視点』の幻影、あれ一つだけでも既にお前を特別視する者は大勢いるんだ」
「あ……」
あれ以来何事もなく、平穏無事でいられたからすっかり失念していた。
けれども、生誕祭直後は天上界からの眺望を知る「神の御使い」の正体を探ろうと、新聞記者が随分うろついていたのだ。大聖堂を取り仕切る教団上層部では、シオリを聖女として迎え入れるべきではという意見も少なからずあったと聞く。
「それにあのフリーズドライ食品といったか。最近は騎士隊でも噂になり始めたようでな。市販されているなら導入したいという意見がいくつかの部隊から出されている。あれを作り出す技術は一見単純なようにも思えるが、極めて画期的なものだ。ああいった有用な知識をまだ隠し持っているのではないかと思う者も出てくるだろう」
フリーズドライ食品の「考案者」が「神の御使い」と同一人物と知られればどうなるか。それをアレク達は危惧しているのだ。
「勝手かとは思ったが、私の手の者を護衛に付けて――ああ、安心したまえ。私生活を覗き見はしとらんよ。ただ身の回りの安全のためだと思ってくれればいい。それに生誕祭の件については新聞社にはそれとなく圧力を掛けてある。現状、滅多なことにはなるまいよ」
生誕祭の一件以来、クリストフェルは内密に手を回してくれていたらしい。些か気が重くもなったけれど、もしアレクやザックと親密になっていなければ、もっと早いうちに良からぬ者の手に落ちていたかもしれない。そう思えば不快感などあるはずもなかった。
――まさに以前、珍しい東方の女という特異性から、ある男によって如何わしい店で「東方の姫君」として客寄せにさせられるところだったということを知る由もなく、シオリはほっと小さく息を吐いた。
「そう……でしたか。ありがとうございます」
そう言うと、何故だかクリストフェルはほんの少しだけ表情を変えた。心なしか気まずそうにも見えるのは気のせいだろうか。
「……私としてもシオリ嬢には借りがある。このくらいはしなければなるまい」
「はい?」
「いや。気にしないでくれたまえ」
「あ……はい」
釈然としないまま頷き、隣のアレクを見上げた。彼もまた微苦笑して小さく頷いただけだった。
「――ああそうだ。あのフリーズドライ食品とやら。あれはトリス支部だけのものにしておくには惜しいな。私もいくつか口にしてみたが、野戦食どころか夜食に常備したいと思ったくらいだ。どうだろう、量産してみる気は」
「あんた、いつの間に……」
すかさずアレクが指摘したが、「護衛」の話からも察するに私設の隠密部隊のようなものがあるのだろう。その中の誰かが入手したのかもしれない。
「今のところは週に一回同僚に販売する程度の量しか作れません。私一人での作業なので。使っている魔道具もごく小さなものですし……最近は需要が増えてきて、同僚に何度もお断りするのが少し心苦しくなってきているところなんです」
「なるほど」
頷いたクリストフェルは意味深長に笑ってみせた。
「たとえばだ。業者に任せて量産し、市販品にしてしまえば『考案者』の存在を霞ませることができるのではないかと思ってな」
アレクの今後の身の振り方が定まり、その恋人であるシオリのこの国での立場が確固たるものになるまでは、シオリの特異性は可能な限り秘匿した方がいいというのがクリストフェルの意見だった。それにはアレクやザックも一定の賛意を示した。
生誕祭での一件もそうだ。大司教はシオリを聖女として教団で囲うことは教義にも人道にも反すると難色を示し、衆目を逸らすために敢えてその特異性を薄める方針を打ち出した。「活弁映画」を教団の者達にも教え、その上で「神々の視点」の「上映」を音楽会で恒例行事化するというのがそれだ。
「フリーズドライ食品は売り出して一年ほどだったか」
「はい」
「クリスもさっき言ったが、騎士隊から組合にもちょいちょい問い合わせが入ってきてんだ。あとは他の支部からだな。トリス支部の連中から分けてもらったのが気に入ったから売ってくれってよ」
「え……そうなんだ。ど、どうしよう。欲しいって言ってくれるのは嬉しいけど……」
元々は自分の仕事の手間や荷物を減らすために作り始めたものだ。それが同僚の目に留まり、材料費と少々の手間賃で分けるようになったのがフリーズドライ食品販売の始まりだった。
「今んところは冒険者と騎士隊の一部で噂になってるだけだけどな。だがこの調子だと……」
「遅かれ早かれ、商人連中にも目を付けられるだろうな」
「わ……うん、そっか。ちょっと質の悪い人に知られたら厄介ってことだよね」
「ああ。そういうことだ」
知識と技術欲しさに強引な手段に出ないとも限らない。女一人、それも身寄りのない移民となればなおさらだ。そうなる前に手を打つべきだと彼らは言っているのだ。
「完全な口止めは難しいだろうが、トリス支部の諸君にもある程度の協力はお願いするとして……協力してくれそうな業者を見繕わねばなるまいな。口が堅く、なおかつ誰もが知るような名のあるところがいいが」
そんな都合のいい業者がいるだろうかと思ったけれど、アレクとザックには心当たりがあるようだ。
「それならお誂え向きのところがあるぜ」
「だな」
顔を見合わせた二人は頷き合う。
「――エナンデル商会だ」
トリスにも大型店を出店しているエナンデル商会は、王国内に数十カ所の支店を持つ冒険者用品専門店の先駆けとも言える店だ。この商会の母体はホレヴァ商会だ。多くの王侯貴族を顧客に持つ、国内最大の老舗――。
「えええ!?」
思わぬ大手の名が飛び出してシオリは飛び上がったが、しばし考え込んでいたクリストフェルは、なるほど、と唸った。
「お前達の知己にあの家の者がいたな」
「ああ。少々交渉は必要になるが、あいつの家なら信用できる。シオリとも面識があるしな」
「え……誰?」
シオリの問いにアレクはにやりと笑った。
「クレメンスさ。エナンデル商会はあいつの弟が代表を務めてる。母体のホレヴァ商会はあいつの実家なんだ」
「は――」
恋人と兄貴分の正体にも相当驚かされたけれど、親しい同僚の思わぬ大物ぶりにとうとうシオリは絶句してしまった。
この分では「ザックの古馴染みで元はいいとこのお嬢様」だったらしいナディアも、大変な身分なのかもしれない。
正直な気持ちを言ってしまえば、生まれも育ちも庶民の自分にとっては身分や社会的地位の高い人々との付き合いは少々重い。彼らが今は平民同然の身分だとしてもだ。
「揃いも揃ってなんなの……」
「おい、大丈夫か」
呻いてぐったりと肘掛に身体を預けてしまったシオリを、アレクが慌てて支えた。ルリィもまたぷるるんと震えながら足元を撫でている。
「……ルリィも実は大精霊とか土地神様とかドラゴンの化身だったりとかなんて言わないよね?」
そんな訳あるか、ただのスライムだと、ルリィが呆れ気味にじっとりと見上げた。
その様子を黙って眺めていたクリストフェルは、やがて声を立てて笑い出した。
「なるほど。神の視点を知る異世界から降り立った天女と聞いて身構えてはいたが――至って普通の女性なのだな。極めて真っ当で常識的な感覚の持ち主で安心したよ」
「……恐縮です……と言っていいのでしょうか……」
褒められたのかどうか微妙なところだと眉尻を下げたシオリに、彼は頷いてみせた。
「君が当初は我々に監視されていたことにはもう気付いているね?」
「……はい。アレクや兄さんがとても身分の高い人だと知ったときに、多分そうだろうなと……思いました」
「うむ。機密事項ゆえに詳しくは話せないが、君は実にいいタイミングでザックの前に現れた。だから何らかの目的があって彼に近付いたのではないかと複数の厳重な監視を付けた。だが私に届けられるどの報告書にも『普通の女』だと、そういった趣旨のことが記されていた」
水商売に落ちることを厭い、男にも安易に頼らず生活のために必死に働く。それはまともな感覚を持つ女なら至極真っ当な行動だ。
そして生活基盤が整うと同時に身元保証人となったザックからも一定の距離を取った。それは彼に恋慕していた同僚からの牽制もあってのことだったけれど、いつまでも衣食住の世話になっているのは心苦しく感じていたからというのが一番にあった。
恋愛絡みのトラブルを避けようと、可能な限りナディアなどの親しい女性と行動を共にするようにしたのも監視者の疑念を晴らす理由の一つになったようだ。
「これで俺に執着してべったりってんなら早々に見限るところだったが、お前は違った。本当に真面目で、女連中とも仲良くやってた」
「……人気者の兄さんやクレメンスさんと一緒にいるのが目障りだって牽制されてたからってのもあるよ。兄さん達と離れて姐さん達と一緒にいるようにしたらあんまり言われなくなったもの」
冗談めかして言えば、兄貴分は嘆息しながら赤毛の頭をがしがしと掻いて苦笑いした。
「ああ、まぁそりゃあ……ナディアだってな、俺達と組むようになった頃は色々言われてたみてぇだぜ。新入りが稼ぎ頭にべったりしてて見苦しいってよ」
「姐さんが? だって姐さんは元々知り合いだったんでしょ?」
「それでもだよ。あいつは『ただの古馴染みだってのに、おっかないねぇ。そんなに言うんならとっとと自分で口説きに行きゃあいいんだよ』って笑いながら挑発してたけどな」
「わ。さすが姐さん」
迫力ある長身の美女にそう言われれば、相手は黙るしかなかっただろう。
「……まぁ、なんにしろな。何かしらの目的があるんなら敢えて離れてく必要はねぇだろ。お前はさっさと出ていっちまって、その後はずっと働き通しで頼ってもくれねぇんだ。俺としちゃあ、むしろ寂しかったんだぜ」
「兄さん……」
シオリを見る彼の目は、よく晴れた穏やかな空のように優しい。そんな兄貴分とアレク、そして最後にクリストフェルに視線を向けた。
「――この国で生きていくためには、この国にとっての『普通』を覚えた方が早く馴染めると思いました。私のように外見からして目立つ外国人は、少しでも浮いたところがあればすぐに爪弾きにされますから。とにかく目立たず反感も持たれずひたすら普通でいることが平穏に暮らしていくコツだと思ったんです。だからこの国の『普通』でいることにずっと必死でいましたが……結果としてそれが私自身を救ったということなんでしょうか」
その努力が意図せずして監視者の警戒を緩めたということだろうか。
「お前自身の元々の性質もあるだろう」
寄り添うアレクの指先がシオリの後れ毛をそっと撫でた。
「優れた知識や技術を持ちながら驕ることなく我を通そうともせず、王国の習慣を学んで馴染もうとしたお前の姿勢は好ましい。お前の作る料理一つ見ても、それがよく現れている」
「え……? そう、かな」
「ああ、そうだ」
アレクは微笑む。
「お前の基本は東方料理だろうし、外国の料理だって何種類も作れるほどの腕前だ。だが遠征で出す食事はほとんどが王国料理だ。それも――そうだな、おふくろの味とでも言うべきか。どこか懐かしい、確かに昔こんな味の料理を食べたと思えるようなものばかりなんだ。何度も作って練習したんだろう?」
「……うん。やっぱり、郷土料理を出すと一番喜ばれるから。食堂の人達や雑貨屋の女将さんとかに習って、何度も味を確かめてもらったの」
得意料理の唐揚げや生姜焼きは皆美味しいと言ってくれるけれど、この地方の郷土料理――特にスープやシチューは誰もが喜んで食べてくれるのだ。懐かしい、落ち着くと言って――。
「お前の作る東方料理も勿論美味いが、やはり幼い頃から舌に馴染んだ味がどうしたって一番に美味いと感じるものだからな。家で口にするものと同じ料理を、異邦人のお前が頑張って覚えて作ってくれるんだ。故郷を愛する者だったら誰だって嬉しいと思うさ」
料理は郷土文化の基本とも言える。それを否定することなく受け入れ覚えようと努力した姿勢は、この国に生まれ育ちこの国を愛する人々にとってはどんな褒め言葉よりも嬉しいことだとアレクは言った。
その彼の言葉をクリストフェルが継いだ。
「……君の話を聞く限りでは、君の故国は我が国の遥か先を行く水準のようだ。だがそれで我々を見下すことなくこの国のことを学び馴染もうとした君を、私もまた好ましく思う。たとえ止むにやまれぬ事情があったとしてもだ」
シオリのグラスに冬桃の果汁水を継ぎ足しながら彼はにやりと笑った。
「だがまあ、まだ訊きたいことは山ほどある。このまま尋問は続けさせてもらうぞ」
ほどほどにしろよと牽制するアレクの横で、シオリは苦笑いした。
「う……はい。頑張ります」
その後も表面的には和やかな歓談を装った「尋問」は続けられた。
(こうやって知らないうちに色々聞き出されてるんだろうなぁ……)
アレクやザックはともかく、付き合いのなかったクリストフェルは自分に対して懐疑的なところは多分にあるだろう。友好的な態度の下で何を考えているのかは分からないのが怖いとシオリは思った。
決して悪意的ではない。けれども雑談の中でシオリの語る話の真偽を探っているだろうことは分かる。高位貴族、それも武の名門と呼ばれる辺境伯家の当主にあれこれと探られながらの会話は酷く神経を削った。決して嘘を吐いている訳ではないけれど、故郷に纏わる話全ての真偽を証明する手立てが何一つないからだ。
(アレクも兄さんも、クリストフェルさんも悪いようにはしないって言ってたけど……)
――何か一つでも疑念を抱かれれば、人知れず――アレク達にすら気付かれないように消されるかもしれない、そんな考えが何度も頭の片隅を掠めていく。
王家の信頼も厚く、その人柄と武勲で領民にも慕われる名領主。けれどもどこか底知れない、国を護る武人としての苛烈で冷徹な性質は、ただのOLだった自分にでも感じられるほどなのだ。決して向こうに回してはいけない人物。
シオリの表情に疲れが滲み始め、目敏く気付いたザックが目配せをした。頷いたアレクが口を挟む。
「おい。そろそろ……」
「ああ、興味深い話ばかりでつい時間を過ごしてしまった。すまないね」
言いながら背凭れに預けていた身体を起こしたクリストフェルはしかし、シオリを見つめたまましばしの間考え込んだ。けれどもそれも束の間、外した視線をアレクに向ける。
「アレク、ザック。すまないが少しだけ席を外してくれないか」
「なぜだ」
何があっても護ると言ったその通りに、警戒心を滲ませたアレクはシオリを庇うようにして肩を抱く。
「少々訊きたいことがあるだけだ」
「訊くだけなら同席していても問題はないだろう」
「俺も聞いてねぇぞ。なんだ、訊きてぇことってのは」
「お前達がいては訊き辛いことを訊くということだ。少々デリケートな内容になるのでな。なに、席を外せと言っても部屋から出ろとまでは言わんよ。話が聞こえない場所まで下がっていてくれれば問題ない。ああ、ルリィ君はこの場にいてくれて構わんよ」
アレクはシオリを見下ろした。
「……大丈夫。だって、悪いようにはしないって……皆言ってくれたでしょう。だから」
彼はしばらく逡巡する素振りをみせた。けれども、ややあってから深い溜息を吐く。
「少しでも妙なことになったらすぐに連れて帰るからな」
「別に取って食ったりはせんよ……」
友人二人が完全に「天女」に情を傾けてしまっている姿を目の当たりにしたクリストフェルは、苦笑気味に「さあ、向こうへ行っていてくれ」と手を振った。
渋々と二人が壁際まで下がるのを確かめ、「妙なことをしたらぺろりとするぞ」と言わんばかりのルリィを苦笑半分といった態でちらりと見てから彼はシオリに向き直った。
「すまないね。不安だろうが、どうしても一つだけ確かめておきたいことがあるのだ」
「……なんでしょうか」
「あいつが……アレクが今後、どう身を振るつもりなのかは私もまだ確かめてはいない。君もまだ聞いてはいないね?」
「はい」
「もし仮に王家に戻るとなった場合……事と次第によっては、君と一緒にはなれない可能性もある。あいつの決意は固いのは分かっているが、我々の立場は気持ちだけではどうにもならないことも多くあるということは君も分かっているね」
シオリはくっと唇を噛んだ。
「……はい」
「もしかしたら情勢が変わって、あいつにはもっと身分の高い女性が宛がわれることもあるかもしれない。高位貴族かもしれないし、他国の姫かもしれないが、それは決して流れ者の移民女性には務まらないものだ。国のため、あいつの立場を護るために別れてもらうことになるかもしれないが、それは必要なことだというのも分かるな」
「はい」
「仮にそうなった場合、君はどうする? 君の持つ知識と技術は我が国にとっても有用なものばかりだろう。だからあいつとは一緒にはなれなくとも、陛下は決して不都合がないように取り計らってくれるとは思う。アレクとは添い遂げられなくとも、君が望むならそれなりの立場や良縁を紹介する用意もある。なんなら今まで通りに冒険者として残ってもらっても構わない。だが君はそれで納得できるかね? というより納得してもらうより他はないが」
シオリを見据える目は探るようなものではあったけれど、決して冷たいものではなかった。けれどもひどく厳しく、そして真剣なものだ。多分彼は、国を護る辺境伯としてではなく、彼個人としてアレクを案じているのだ。王兄ではない、アレク・ディアとしての彼をだ。
「――正直な気持ちを言います。怒らずに聞いてくださいますか」
「ああ」
彼はこくりと頷いた。
「――私は」
ぐ、とシオリは両の拳を握り締めた。
「私は、もうこの心をアレクに預けてしまいました。私を支えてくれる人は沢山いましたが、私の心を救ってくれたのは彼でした。根気強く寄り添って、私の頑なだった心が解けるまで、ずっと待っていてくれました。私の――とても大切な人なんです。だから、心を全て預けてしまった彼と一緒にいられないのは、とても辛い」
言葉が詰まった。黙りこくってしまったシオリを、それでもクリストフェルはじっと待っていた。
「冒険者を続けるにしても、私達を応援してくれた同僚は沢山いましたから……きっと彼が別の女性と結婚して私だけが残されたのを見れば多分、私のために怒ってくれる人は出ると思います。アレクを悪く言う人もいるでしょう。きっと私は、それを聞くのは堪えられない。大切な……恋人だった人を悪く言われているのを聞きたくはありません。それに、今でも私を快く思っていない人もいますから、鬼の首でも取ったように私を詰るかもしれません。きっとそれにももう耐えられない。だから冒険者を続けるとしたら、どこか別の場所になるでしょう」
「……そうか」
クリストフェルは頷いた。
「君ならばきっと、どこに行っても上手くやれるだろう」
「ありがとうございます。でも、どこか別の場所に行くにしても、もう私にはそれだけの余力はありません」
「そうかね? 逆境にも屈せず強く生きてきた君のことだ。君ほど強い女性を私は他には知らない。君ならば男に頼らずともきっと――と思うのだがね」
「買い被り過ぎです」
一瞬目を伏せ、けれどもそれでは礼儀を失すると……否、試されているこの場においては正しい態度ではないと、シオリはすぐに姿勢を正した。
「……私はこの国に来て、もう二度もやり直しました。たった四年半で二度もやり直したんです。一度目はこの国に来たばかりのとき。何も分からず、財産の一つすらも持っていませんでしたから、完全な一から人生をやり直さなければなりませんでした」
日本で生まれ育った二十七年分の知識も技術も、家族や友人も、財産と呼べる何もかもをあの世界に置いてきてしまった。この世界では何一つ持っていなかった。赤子も同然だったのだ。そんな状況でありながら、二十七歳という子供のような甘えは決して許されない年齢だったシオリは、赤子同然でありながら大人と同じようにして生活していかなければならなかった。
そのために削った労力と精神力は血を吐くと言うのも生温いほどのものだった。
「それが一度目です。二度目は……クリストフェル様は既にご存じでしょうが、ある事件に巻き込まれて再び財産の全てを失ったときでした」
ある事件。そう言った瞬間、クリストフェルの表情が微かに歪んだような気がしたのは気のせいだろうか。痛みとほんの僅かに自責の念を含むような、そんな表情だった。
「ほとんど死人同然で、でも私はまだ生きていて……だから、今度は死人同然だった体力を元に戻すところから始めなければなりませんでした。幸い騙し取られていた分の報酬はすぐに受け取ることができましたから、経済的にすぐに困窮するようなものではありませんでした。でも、治療費を払いながら全く働かずに何ヶ月も過ごせるほどの余裕もありませんでしたから、できる限り早く復帰できるように頑張りました。仕事に復帰した私を皆は歓迎してくれましたが、やっぱり……あんな事件の後でしたから、皆どこか腫物を触るような感じで……」
これ以上の心配を掛けたくはなかった。ただでさえ赤子同然だった余所者の自分に随分と良くしてくれた人達だったのだ。もう大丈夫、もう心配ないと、そう振舞って納得してもらうまでには時間を要した。それでも、それまで築いてきた人間関係はこのときを境に、互いにどこか遠慮がちになってしまった。
そんな優しくも歪な人間関係を修復してくれたのが、四年ぶりにトリスに帰還したアレクだったのだ。
「全くの新しい環境で人生をやり直すのはとても労力が要ることでした。そうしてやっと築いたものを、たった二年でまたやり直すことになってしまった――この四年で、もうできるだけの努力をし尽くしてしまいました。それをこの上、私を救ってくれたアレクを失った状態でまた一からやり直せと言われたら……もう、私は」
耐えられない、と。
そう絞り出した言葉の端が震えた。
それでも泣くことだけは必死で耐えて、シオリはクリストフェルを正面から見据えた。
「ですから、もしアレクを諦めなければならなくなったときは。そのときは、どうか――私を、殺してください」
それまで静かに耳を傾けていたクリストフェルは目を見開き、はっと息を呑む。
足元のルリィがぴくりと動いた。
それでもシオリは言葉を続けた。正直な想いを余すことなく吐露した。
「アレクが幸せになるのなら私は嬉しい。でも、その幸せが他の女性と一緒にあるものだとしたら、私だって普通の女ですから……彼の隣にいたのは私だったかもしれないのにって、絶対思ってしまいます。アレクが王家に戻るのなら、きっとそういう話題は噂で何度も聞かされることになるでしょうし、新聞で報道されることだってあるでしょう。少なくとも王国内にいる限りは、他の女性と幸せでいる彼の噂を必ずどこかで耳にしてしまう。かと言って他の国に行って、また一人でやり直すような気力は私にはもう残されていません」
クリストフェルが身を乗り出し、その手をシオリにそっと伸ばした。けれども、しゅるりと伸びたルリィの触手がそれを静かに制止する。
「もう、辛い思いに耐えられる気がしないんです。ですからできるだけ苦しくない方法で殺してください。そうしたらきっと、この魂だけは――私の故郷に帰れるでしょう。そしてアレクや兄さんには、私はミズホの国に渡ったと、そう伝えてください」
そこまで言い切った瞬間、目尻からぽろりと水滴が零れて落ちた。それも束の間、駆け寄ったアレクの腕に強く引き寄せられる。
険しく鋭い瞳で睨みつける彼と兄貴分の視線を受け止めたクリストフェルは、長く重い溜息を吐いた。
「――アレクを見守ってきた者の一人として、君にはどうしても確かめておきたかった。私にとってもアレクは仕えるべき王族ではなく、大切な友だ。弟のようにも思っている人間なのだ。だからアレクには二度と……辛い思いをして欲しくはない。アレクと共に在ろうという女性の人となりを、よく見極めておく必要があると思ったまでのことだ」
一人親だった母親を亡くして間もなく妾腹の王子として王家に召し上げられ、望まぬ人間関係と継承権争いに翻弄され、ひどく傷付きながらもぎりぎり保っていた心を恋い慕っていた女性に完全に壊されてしまった――そんな彼を秘かに匿い療養させていたクリストフェルは、アレクの苦悩と傷の深さをよく知っていた。数ヶ月もの間面倒を見ているうちに情が移ったのだ。
彼には幸せになって欲しい。二度と辛い思いをさせたくはない。間違っても少年時代のあの日のように、女のことで傷付いて欲しくはないのだ。
だからこその問いだったとクリストフェルは白状した。
「君の気持ちはよく分かった。だがしかし、君にはひどく辛い問いをぶつけてしまった。すまなかった」
「いえ……大丈夫です」
目元を拭ったシオリはそれでも小さく笑ってみせた。
「でも、さっき私が言ったことは、どうか二人には内緒にしていてくださいね。ちょっと……過激なので」
「勿論だとも」
彼は快く頷いてくれた。
恋人と兄貴分を置いてけぼりにした会話。彼らは苦々しい顔でシオリとクリストフェルを交互に見比べている。それをよそに、二人は顔を見合わせて微苦笑を浮かべた。
彼はアレク達には明かさないでくれるだろうが、アレクの弟にしてこの国の王にはきっと報告するだろう。それを承知の上でシオリは問い、クリストフェルは肯定してくれた。
それでいい。アレクとザックには決して言えないけれど、でもあれは自分の正直な想いなのだ。
「――さて、長々と引き留めて悪かったね。これに懲りずにまた来てくれると嬉しいが」
立ち上がってシオリの手を握ったクリストフェルは、冗談めかしてそう言った。社交辞令かとも思ったけれど、彼の目は意外にも親愛の情が浮かんでいるようにも見えた。
「お招き頂けるのでしたら喜んで」
「では次は家内がいるときにでも招待しよう。『活弁映画』、是非見たいそうだよ」
「そういうことでしたら……お好みのお話を教えてください。練習してきますから」
「そうか、では伝えておこう。またいずれ」
「はい」
数時間に及ぶ会談は友好的な空気で幕を閉じた。辺境伯としては色々と思うところはあるだろうけれど、でもきっと受け入れられたのだ。別れ際に交わした固い握手と、注がれる温かな眼差しがそれを物語っていた。
だとするなら自分としては、請われれば技術でも知識でもいくらでも提供するつもりだった。それは自分の身を護るためでもあるけれど、自身を受け入れてくれただろう辺境伯へのシオリなりの忠誠でもあるのだ。
「……大丈夫か」
馬車に乗り込んだ途端、緊張の糸が切れてふらりと揺らいだ身体をアレクが支えてくれた。抱き寄せられるままに、その逞しい胸元に頬を寄せる。
「……ん。大丈夫。でもちょっと疲れた」
「ちょっとか」
本当はちょっとどころではないことに気付いていたアレクは苦笑いしている。
ちなみにザックは物問いたげではあったけれど、黙って見逃してくれた。ただ、伸ばされたその指先がそっと黒髪を撫でて離れていく。
「何を訊かれたのか気になるところではあるが……訊いても教えてはくれないんだろう?」
「……うん。だって、恥ずかしいもの」
「恥ずかしい……いや、やはり気になるな。今度あいつを問い詰めてみるか」
「やめてあげて。アレクへの気持ちを訊かれただけだよ」
「そう……なのか?」
「うん、そう。だからアレクがいないと生きていけないくらい凄く好きって伝えておいた」
「そ、そうか」
赤面して狼狽えるアレクとは対照的に、ザックは苦虫を噛み潰したような顔で腕組みをしている。
「お前らはよぉ……そういうのは帰ってから二人きりでやってくれ。最近は恥ずかしげもなく人前でそういう……」
何やらぶつくさと呟いている彼をルリィが「まぁまぁ」とつつき、それを見て二人で噴き出した。
――辺境伯邸を出た馬車は、夜更けの街を静かに進んでいく。街路に照らされた美しい街並みの中に、陽気に笑いながら歩く酔客やそれを苦笑いしながら宥める巡回の騎士の姿が見えた。平和でなければ決して見られないだろう光景だ。
平和な街。穏やかで優しい人々。それを護る辺境伯に受け入れられた今、正しくこの街の住人として認められたのだ。その事実を、恋人の腕の中でシオリは静かに噛み締めた。
夜はますます深く更けていく。
――そうして一人室内に残されたクリストフェルは、グラスに残ったワインを傾けた。
卓の上に置かれたままの、冬桃の果汁水が底に僅かに残るグラスに視線を流す。
「……アレクの恋人。天女……か」
報告書から窺い知れたシオリの人物像は、知的で穏やか、そして極めて貞淑な女性ということだった。その印象は実際にこの目で彼女の人となりを確かめた今でも変わってはいない。
だが。
「内に秘めたものは、驚くほど苛烈だったな」
ある一つの可能性を示した際に見せたあの女の想い。静謐な瞳の奥に煙るその激情はしかし、決して狂気などではなかった。
納得できないとも言わず、諦められないと縋るでもなく、ただその可能性もあると受け入れた上でのあの言葉。
殺してください、と。
そう物騒な台詞を言い放った彼女は正真正銘、正気そのものだったのだ。正気を保ったまま見せた恐ろしいまでの激情。
――あれはまさに、穏やかにして苛烈と称せられる王家の性質そのものだった。
「……なるほど。あいつが強く惹かれる訳だ。あいつに相応しい似合いの女ではないか」
全てを信じて良いものかどうかは分からない。しかし彼女と直接話して抱いた心象は白だ。限りなく白に近い灰色というザックの判断は正しかった。
「あいつに最も相応しい女がまさか、異世界より降り立った天女とは思わなかったが……」
決して交わるはずのなかった二人の人生が交差した奇跡を女神に感謝しながら、クリストフェルはこの場にいない男への祝いの言葉を述べる。
「良かったな、アレク。あれはとびっきりのいい女だ」
ワインを継ぎ足したグラスをトリスの夜景に向けて掲げ、唇に笑みを刻んだ。
「――絶対に逃がすなよ」




