08 新たな縁
森の一角を切り取ったかのようにぽっかりと開けた広場。雪の白と木の幹の黒、そして薄曇りの中落ちる影の淡い青の三つの色だけで描かれたその場所で、アレクは東方の剣士と対峙していた。
男の体格は小柄。身の丈は百七十あるかないかと言ったところか。袖や裾のゆったりとした東方特有の衣装に身体の線が隠れているがゆえに全体の印象は華奢で、遠目にはようやく成人したかどうかという年頃に見える。しかしよく見ればややくすんだ色合いの肌には浅い皺が刻まれ、その眼光はよく使い込んだ剣のように重く鋭い。戦い慣れた者の目だ。決して若造、それもただの商人などでは持ち得ない佇まいだ。
男――ショウノスケは東方式の礼をすると、刀身の反った片刃の剣を鞘からすらりと抜いた。闇の魔力を吸着した金属で作られた剣――暗月刀。黒い刀身が鈍い光と闇の波動を放つ。
ショウノスケはゆったりとした動きで腰を低く落として前後に足を踏み開き、ぐっと腕を引いて刃先を上に構えた。
(これは……やり辛いな)
自身も構えながらアレクは正直な感想を口の中で呟いた。
その構え自体は王国の流派とさほど変わらないようではあるが、こちらに向けてほぼ垂直に構えた黒い刀身が布地をたっぷりと使った暗色の衣装に紛れ、相手の得物が視認し辛い。ひとたび腕を振るえば背景の雪景色と対照的な色はくっきりと見えるのだろうが、その立ち姿にはどことなく闇に紛れるような印象があった。
(食事中の姿とはまるで別人だな)
出された料理を美味そうに平らげ、残り物の大蒜味噌バターの瓶詰を受け取って嬉しそうに顔を綻ばせていた男とはまるで別種の存在のようだ。
確かな殺気が漂っているというのに、その気配は奇妙に希薄だ。ともすればその存在ごと景色に溶け消えそうなほどのそれ。
(――人とやり慣れている……それも間者の類いか)
いいところまで行ったんだがと、そう言って苦笑いしたクレメンスの横顔が脳裏を掠めた。裏で情報部と繋がる己やザックとは違い、クレメンスは人を斬ったことはほとんどない。せいぜいが出先で野盗や無頼漢に会うかしたとき程度だ。闇に紛れて標的を討つ、そういった手合いとやり合ったことは恐らくないだろう。
ショウノスケと向き合った瞬間クレメンスが些か戸惑うような色を浮かべたのは、彼の「闇」を感じ取ったからかもしれない。無論ショウノスケは正々堂々と戦った。しかしどこか惑わすような動きにクレメンスは大分難儀したようだ。善戦はしたが、最後の最後で負けてしまった。
(もっとも俺だってやり慣れているわけではないがな……)
情報部に属したのはほんの四年。諜報活動の要の一つ、帝都の武器商の屋敷に潜入する役目――密かに連合国側に与したウラノフ選帝侯の親類縁者に近い容姿を持ち、なおかつその役に就けるだけの技量を持つ者がおらず、瞳の色や体型、姿形がどことなく似ているアレクに白羽の矢が立った。ただそれだけのことだ。本職には到底及ばない。
だが、ショウノスケはどうなのだろう。
――ぴんと張り詰めていた空気が、僅かに揺れた。
(来る!)
低く構えたまま肉薄したショウノスケの暗月刀が昏い稲妻を放つように空を薙いだ。剣光が閃き、ぎん、と重い音と共に火花が散る。至近距離で交わる視線。黒々とした瞳には光と闇が交互に揺れた。
しかしそれも束の間、二人同時に間合いを取った。
男女ほどもある体格差ゆえに、単純な力比べではショウノスケが競り負ける。しかし刀捌きの鋭さと速さ、太刀筋の正確さは向こうが上だ。正確にこちらの急所を狙ってくるのだ。命を取る気でやり合えば恐らくこちらが負ける。
何度か鍔迫り合いの接戦を繰り返した結果、下した判断がそれだった。
互いに腰を低く落としたままじりじりと間合いを詰める。
ミズホにも雪があるのか、それとも王国に来て長いのかは分からないが、東方の剣士の危なげのない足運びは雪の上でも戦い慣れている様子が窺い知れた。
(――隙らしい隙もない、か)
そう思った瞬間だった。ショウノスケの表情が僅かに曇る。それはどこか困ったような苦笑交じりのようにも見えた。決してアレクを侮ったものではない、自嘲気味の笑みだった。
おや、と思う間もなくアレクは本能的に踏み込んだ。彼のそれを隙と取ったからだ。
果たして、それは正解だったようだ。彼は素早く斬り下ろしたアレクの剣をどうにか受け止めた。しかし体重を乗せた重い一太刀が堪えたのだろう、続く二刀目に耐え切れず、ぎん、という音と共に暗月刀が弧を描いて飛んだ。
その眼前に切っ先を突き付けられたショウノスケは「悔しいなぁ」と言いながら、差し出されたアレクの手を借りて立ち上がる。
「本気で命を取るつもりなら間違いなく俺が負けていただろうがな。どうしたんだ。急に隙ができて驚いたぞ」
「貴公、某の素性に気付いただろう。そう思ったらつい、な。やはり誤魔化せんかと些か悔しゅうなった」
彼は暗月刀を拾い上げて様子を確かめ、鞘に戻しながら苦笑いした。
「某、元は陰の者ゆえ――遣う相手には勘付かれてしまうのだ」
陰の者。具体的に何を示すのかまでは分からなかったが、その含む意味を薄々察したアレクはやはりと頷いた。
「しかしいいのか。出会って間もない俺なんかに話して」
「何、構わぬよ。遥か遠国の事情、しかも見習いのうちに解体されてほとんど活躍することなく日向に戻ることになった身ゆえ」
闇に染まりきる前に日向に返されたその身。陰よりも日向で生活していた期間の方が長くなって久しい。しかしながら幼少期より馴染んだ癖がそう容易く身から抜けるはずもなく、ややもすれば陰としての自分が見え隠れしてしまうのだという。
「……ああ、それでか。どうも判然としなかったのは」
「それは貴公もであろう」
音が吸収される雪の中、それに天幕の中で見守る見物人からは相応の距離はあったが、それでもショウノスケは遠慮がちに声を潜めて言った。黒曜の瞳がじっと己を見据え、アレクは短く息を呑んだ。
クレメンスやナディアなどは薄々勘付いている様子ではあったが、まさか会って間もない異国の男に見破られるとは思わなかった。自身でも気付かぬ些末な癖でも出ていたのだろうか。
「いや、なに。確証はなかったが、どこか陰に紛れるような気配がしたゆえ」
アレクの心の内を読んでか、ショウノスケはそう言った。まさに彼に対して抱いた疑念を彼もまた己に抱いていたという訳だ。
「……臨時でほんの一時期在籍しただけだ。本職には到底及ばんよ」
見習いのまま役目を失った彼とは言え、隠密であっただろうショウノスケを誤魔化すことはできないと踏んだアレクは、逡巡の後に正直に頷いた。
大分薄れたとは思っていたが、臨時とはいえ四年の間諜報員として働き染み付いた「匂い」は未だ抜けきってはいなかったのだろう。
「ああ、それゆえか。どうも判然としなかったのは」
先ほどの己の台詞と全く同じ言葉を返されては苦笑いするしかない。
「某とどことなく似たような匂いを感じたゆえな。だから貴公に話してみる気になったのだ」
言いながらショウノスケが視線を流したその先には、天幕の中で談笑しながら二人を待つ女達の姿があった。シオリとナディア、そしてヤエと供の女が一人。手合わせの見物がてらに情報交換といったところだろうか。
そんな彼女達を見ていたショウノスケの眦が僅かに緩む。
「太刀筋や身のこなし、佇まいから遣う相手にはどうしても元の素性が知れてしまう。ゆえに些か身の置き所がなくてな。国許に戻ったはいいが居辛くなって途方に暮れておったところをヤエ様に拾われた。異国であれば妙には思ってもそう咎めだてする者もおらぬ。それに培った技を役立たせることもできたのだ」
「……そう、か」
諜報活動に必須の情報収集能力を思わぬところで発揮したようだ。単なる用心棒などではなかったという訳だ。
不意にヤエの視線がこちらを向いた。嫣然と微笑んだ彼女の視線が捉えているのはショウノスケだ。
「ヤエ様は某を疎まず雇うてくださった。朋輩も訳有りばかりゆえ、余計な詮索をする者もござらん。ゆえにあの方の周りは居心地が良い」
「ああ……そうだろうな。俺も同じだ」
冒険者組合は訳有りの集まりだ。とくに王都から遠く環境の厳しい国境地帯のトリス支部はよりその傾向が強い。シオリはともかく、素性を多くは明かしていないクレメンスやナディアも恐らくは己の出自やそれどころか裏の仕事にも気付いてはいるようだったが、何も言わずにいてくれる。時折気遣うような言葉を掛けてくれる程度だ。
アレクは天幕の脇に腕組みをして佇む友人にちらりと視線を向けた。シオリ達の会話に時折混じりながらも、クレメンスの目線はこちらに向いていた。何やら話し込んでいる二人に気を使ってか、敢えてこちらに近寄ってはこなかった。
その彼の碧眼がふっと緩む。
「良き御仁だな」
「ああ。捻くれ者で付き合い辛かっただろう俺にも良くしてくれた。俺の理解者の一人で……親友なんだ」
「……そうか」
「ああ」
しばしの沈黙が降りた。
女達の楽しげな笑い声が響く。それに対してクレメンスは苦笑を浮かべ、その足元をルリィがぺしぺしと叩いている。
どうやらナディアが何か言ったらしい。思えばあの女とも長い付き合いだ。
訳有り仲間の一人。故郷を追われ、許嫁の眠るこの国に流れ着いた女。
――異母兄が生きていたならば、己の義姉になっていただろう女だ。
(もっとも兄さんが生きていたなら、俺は城に呼ばれなかったかもしれないが)
そうなっていたら、きっと異母兄弟やザック、そしてナディアの存在も知らずにいただろう。自分は名を伏せた父によってどこかに囲われ、今とは異なる生活を送っていたかもしれない。
平穏無事でいたなら決して交わることのなかっただろう三人の人生が、異母兄の死によってこのトリスという街で交わった――そう思えば巡り合わせとは不思議なものだ。
思いを馳せるアレクに、ショウノスケはぼそりと言った。
「――貴公は歯痒く思ったことはないか」
「何をだ」
唐突な問いに瞳を瞬かせると彼は言葉を重ねた。
「お国のために働いたというのに、それを口にできぬどころか後ろ指を指されることがだ。……いや、理屈では分かってはいるのだ。だが某、それがどうにも歯痒くてならぬ」
見習いの身分で終わりはしたが、組織が解体されるまでには何度か仕事をし、人を斬ったこともあるようだ。身元を偽り人を騙して情報を集め、人知れず国のために戦いその手を血に染める――それが陰の在り様。
それは正々堂々を貴ぶ者には忌むべきものとして映るに違いない。だが決して私利私欲のためではない、あくまでも国のためだった。それを悪し様に言われることがこの男には辛かったのだろう。
気持ちは分かる。
確かにそのような愚痴を漏らした同僚もいた。目には見えぬ場所から護られて安穏と暮らしておきながら、口さがなく言う輩は好きになれぬとそう言っていた。互いに身元を明かせぬ立場ゆえに多くは語らなかったが、どうやらその男は騎士である実兄にそう言われたようだ。同じ騎士でありながら騎士服を纏って表舞台に立つ兄と、一度も騎士服に袖を通さないまま裏で騎士団、ひいては国を支える彼。弟の役目を知らないままにその立場を糾弾してみせた兄に、あの男は憤りとやるせなさを感じたのだろう。
だが。
「……歯痒いとは思わなかったな。幸い俺の周りには理解のある者ばかりだった」
しばしの間考えてから、アレクはゆっくりと口を開いた。
「それに、そのために俺が最も護りたかったものが護れたんだ。俺はそれで満足だ」
命じたのは己が最も護りたかった異母弟だった。それを一つ返事で受けたのは――否、それどころか自分を使えと積極的に売り込んだのは、城に一人置き去りにした異母弟への贖罪でもあった。彼は国そのもの。彼のために働くことで国が護れるのならば、兄として――王家の末席に名を連ねる者として、これほど喜ばしいことはない。
無論、それをそのままショウノスケに語りはしなかったが。
「だがショウノスケ殿。あんたの気持ちを否定する訳じゃない。誇りを持って務めた仕事、それを無下に扱われたあんたの悔しさは分かる。しかし今あんたの身近にいる人間は、皆ショウノスケ殿を認めているんだろう?」
「……アレク殿」
雇い主であるヤエは勿論、今日供として連れている女も初日に会った商会の者達も皆、ショウノスケと親しげにしていた。疎んじている様子は微塵も見られなかった。この男を受け入れているのだ。
アレクに向けられていたショウノスケの視線が再びヤエに向いた。
「――ヤエ様に初めてお会いしたのは役目を解かれた後だ。それまではただただお国のためと思うて働いていたが……ああ、だが、そうだな」
彼の口元が柔らかく緩む。
「いずれ会うあの方や朋輩を護るためにこそ働いていたのだと思えば――確かに、その他大勢の雑言など些末なことか」
全てを納得した訳ではないだろうが、その言葉にはもう憂うる響きはなかった。
彼の彫りの浅い横顔を眺めていたアレクは口の端に薄い笑みを浮かべ、談笑しながら待っているシオリに視線を向けた。
――これもまた奇妙な巡り合わせだ。似たような経歴を持つ異国の男と手合わせをし、今こうして昔からの知己であるかのように語り合っている。
断ち切った縁もあれば、こうして新たに結んだ縁もある。シオリと結ばれなければ決して紡がれなかったであろう東方との縁だ。
「……さて、そろそろ行くか。些か小腹が空いた。なにやら良い香りが漂うてきたではないか」
鞘に戻した暗月刀の柄を撫でたショウノスケは、先ほどまでの愁いを帯びた表情から一転人好きのする笑顔を浮かべて言った。
日陰仕事を請け負っていたとはいうが、本来の彼の性質はどちらかと言えば陽に近いのかもしれない。いそいそと天幕に向かっていくその後姿を追いながらアレクは思った。
――その日シオリが用意した弁当は、魚介好きだという東方の客人を意識したのか魚介料理が中心だった。勿論調味料には醤油や味噌を使うことも忘れていない。保温用の布を取り払った籠の中から出てきた二枚貝のグラタンと鮭の解し身のパイに歓声が上がる。
「む……このパイ料理、大蒜とバターが効いていて大層美味いでござるな」
「……そなた、実は大蒜とバターが入っていれば何でもよいのではないか……」
大蒜醤油バターで炒めた鮭の解し身をマッシュポテトに混ぜ込み、生地に包んで焼き上げたパイ料理を美味そうに頬張るショウノスケの横で、些か呆れ気味なヤエがぼそりと呟く。
アレクはシオリから受け取ったグラタン料理を一口食べてから、ふむ、と唸った。
「お。このグラタンは前にも食べたことがあるな」
「うん。シルヴェリアの塔でアニー達のお祝いに出したのだよ。前は味付けに塩を使ったけど、今回はホワイトソースに味噌を使ったの」
「味がしっかりしているように思えたのはそのせいか」
「そうだね。塩気は抑えめだけど、旨味が強いからよりはっきり感じるんだと思う」
「なるほど……これは白ワインによく合いそうだ」
そう呟いて腰元のポーチから小瓶を取り出したクレメンスに、アレクはじっとりとした視線を流す。
「クレメンス、お前まさかとは思うが……その中身」
いつぞやのようにまた不吉な銘柄の酒でも詰めているのではあるまいか。
そう思ったが、さすがにもうやめたと言ってクレメンスは苦笑いし、ヤエ達にも勧めている。
「ノルドランデルのヴァンスケープだ。この場には相応しいだろう」
ヴァンスケープと言えば、ヴィンテル・ベリーから造られた白ワインだ。魔獣に畑を根こそぎ食い荒らされて収穫どころかその後のワイン製造すら危ぶまれたこのノルドランデル地方に、同系統のワインを造るライバル地域から苗木が贈られたという逸話が残っている。この苗木から収穫したヴィンテル・ベリーで造ったワインに「友情」を意味する「ヴァンスケープ」という名を付けた――これがこの銘柄の由来だ。
「ほう……クレメンス殿、なかなかに粋な計らいではないか」
甘く爽やかな口当たりが気に入ったらしいヤエは、愉快そうに破顔した。
この友人は遠征でも常に酒の小瓶を数種類忍ばせている無類の酒好きだ。気付け薬代わりということもあるが、こと依頼人が同行する仕事にはこうして話の種にと吟味した銘柄を持ち込んでいるらしい。
(だからと言って、俺に不吉な銘柄を飲ませようとしたときにはどうしたものかと思ったが)
惚れた女を横から攫って行った意趣返しにと、親友に失恋絡みの銘柄を飲ませようとしていた男をじろりと見ると、クレメンスは妙な含み笑いをしてみせた。
そんな二人の奇妙なやり取りを見たシオリとナディアは首を傾げている。
「――まぁ、新たな友情に乾杯といこう」
微妙な面持ちのアレクを尻目に、クレメンスは盃代わりのカップを掲げた。
(案外こいつも調子がいい)
苦笑しながらもアレクはカップを手に取る。
「新たな縁と友情に――乾杯」
クレメンスの音頭でいくつものカップが掲げられた。
外は極寒、しかし春のように温かな天幕の内。その敷き布の上の小さな食卓を囲む人々は皆笑顔だ。
この笑顔と紡いだ縁がこの先もずっと続けばいいと願いながら、アレクはヴァンスケープを啜った。
そうして手合わせと細やかな宴を楽しみ、固く再会の約束をして東方の人々との別れを済ませたその日の夕方。
組合前でクレメンス達に別れを告げて帰路に就こうとしたアレクとシオリをザックが呼び止めた。
「どうした。急な依頼か?」
そう訊くと「いや」と彼は首を振り、若干声を低めて言った。
「……辺境伯からお呼び出しだ。三日後の夜に来いってよ」
シオリがはっと息を呑む。
「服装は普段通りでいい。仕事ついでに知人と飲みに行くって態で構わねぇ。迎えの馬車は出してくれるらしいからそのつもりでな」
「分かった」
アレクに抱き寄せられてもなお不安げなシオリの頭を軽く撫でたザックが「アレクも一緒だし俺も行くから心配すんな」と付け加えると、彼女はそれでようやくほんの少しだけ肩の力を抜いた。




