06 料理指南承ります(2)
街に宵闇が迫り、薄暗くなり始めた食堂に魔法灯が灯される。
テーブルには講師役のシオリの料理の他、生徒役のヤエやデニスの試作品が並べられていく。販促のための試作料理はどの皿からも食欲を誘う香りが漂い、廊下を通りかかった同僚達が扉の嵌めガラス越しに物欲しそうな顔で覗いていく。「少なくとも香りは合格という訳だ」と言って満足そうにヤエは笑った。
「それにしても、デニスって凄く手際いいんだね。びっくりした」
以前聞いたときには缶詰を温めるか炒め物をする程度だと言っていたけれど、名門伯爵家当主の秘書官だという彼の、その料理の手際はなかなかのものだった。余暇を野営料理の研究に費やすこともあるというから、元々料理好きなのかもしれない。
「ああ……実は母の料理がいまいちでな。スープは美味かったがそれ以外がどうにもアレで、俺と父で手伝うことが多かったんだ。まぁ、そうは言っても簡単なものしかできなかったが」
「そ、そうなんだ」
実の息子に「アレ」と言わしめる彼女の料理がどのようなものだったのかは想像するしかないが、そのときの体験が今の彼の仕事に生きているということなのだろう。
テーブルに並べられた、彼の手による二枚貝の醤油バター炒めや味噌クリームディップを添えたスティックサラダを見ながらそう思う。
そうして食事の準備が整った頃、一日の締めの作業を終えたザックが合流し、夕食と親睦会を兼ねた試食会が始まった。
「融通を利かせてくださってありがとう、ザック殿。皆さんの憩いの場を占領してしまって申し訳ないわ」
当初はアパルトメントの自室でと提案したのだが、さすがに私的な場所に初対面の人間を連れて押し掛けるのはどうかとアンネリエが遠慮したのだった。
「ああまぁ……こんくれぇはな。半日くれぇはどうってこたぁねぇよ。それにこれからもご贔屓にしてくれるんだろ? 女伯殿」
アンネリエの言葉にザックはにやりと笑ってみせる。
「ええ、勿論よ。ロヴネル支部との取り引きも再開したことだし、冒険者組合とは今まで以上に懇意にさせていただきたいわ」
――ロヴネル領内の上流階級で囁かれていたデニスの父親に纏わる不名誉な噂は、結局はロヴネル家の分家、それもデニスの実の祖父によって流布されたものだった。
アンネリエ自身が当時は十代半ばという領主としては極めて未熟な年齢で、長年真面目に仕えてきた老男爵の報告を鵜呑みにするという失態を犯してしまった。
その結果、噂は事実として広まってしまったのだ。本来は単なる転落事故であったはずのものが不倫の末の心中死事件とされ、デニスは肩身の狭い思いをし、ロヴネル支部は上得意からの仕事を打ち切られることになった。多くの著名な芸術家を顧客に抱えているロヴネル支部ではあったが、それでもその地を治めるロヴネル一族に手を引かれたことはかなりの痛手になったことだろう。それも、取り引きが打ち切られた真の理由を知らないまま。
「今回、身内の問題で随分と多くの人に迷惑を掛けてしまった。必要なところには謝罪をして回ったが、やはり……しばらくは交流を控えさせてもらいたいと言われてしまったところもあってな」
多くの書き込みがなされた愛用の手帳――父親の勧めで付けるようになったという――をそっと撫でながらデニスは微苦笑した。彼は「事件」以来冒険者嫌いと移民の女嫌いを酷く拗らせ、幾度か商談相手に無礼を働いてしまったそうだ。
ほとんどは少年時代の失敗として寛大に謝罪を受け入れてくれたようではあるが、中には拒絶されたところもあるという。既に故人となった相手女性の夫は「人を傷付けるというのはそういうことだ。今の君ならそれがよく分かるだろう。信頼を回復するのは容易なことではないぞ。せいぜい頑張りたまえ」と言って、謝罪に訪れたデニスを追い返したそうだ。
「――頑張っても受け入れてはもらえないかもしれない。一度口にしてしまったことは永久に取り消せないんだ。言われた側にはずっと傷になって残るだろう。俺はそれだけのことを彼女に言った。だから俺としてはこれ以上ロヴネルの名を汚さないよう頑張るしかないんだ」
ロヴネル支部にはデニスが直接出向いて謝罪をしたそうだ。彼の実の祖父であり、問題の老男爵から既に謝罪を受けていたロヴネル支部のマスターは恐縮しきりだったようだが、こちらは幸い快く受け入れてくれたそうだ。むしろ騒動の一番の被害者として気遣いすらしてくれたという。
「もっとも、それも俺がアニーの婚約者だからというのも多分にあるだろうからな。ロヴネルの名に胡坐をかかず、今まで以上に励むことにするさ」
「そっかぁ……応援してる。でもあんまり気負い過ぎないようにほどほどにね」
ちらりと隣に横目をくれてから言ったシオリに、視線を向けられたアレクは微妙な顔をした。
「……何故こっちを見て言ったんだ」
「気負い過ぎて心配な人がもう一人いるから」
「……」
そんなやりとりをするシオリとアレクを見て何か察したのかどうかは分からないが、アンネリエとデニスは苦笑している。
「いずれにしても、冒険者でなければお願いできない仕事は沢山あるの。芸術関連の細かい注文に対応できるのは芸術都市の事情に特化したロヴネル支部でなければ難しいし、前回みたいに危険な場所に入るような依頼となると、ランクの高い冒険者と国内唯一の家政魔導士を抱えているトリス支部にお願いすることになるわ。だから、これからもどうかよろしくね」
アンネリエに手を握られてシオリは勿論と頷いた。
「さあ、では冷めないうちに頂こうか」
一通りの話が終わり、ヤエの音頭で細やかながらも楽しい試食会が始まった。
肉や魚のソテー用ソースなどの醤油ベースの料理は概ね好評だったが、味噌ベースはやはり改良が必要のようだ。ポタージュやシチューの隠し味に使ったものは味に深みがあってよいと歓迎されたが、ソースやディップ、味噌煮などは、味噌独特の風味が気になる者もいたようだ。
「この豆っぽいのがな。なんとなく舌に残るつーか、後味が気になるんだよな」
「こっちのディップソースは舌触りが良くて美味しいんだけどねぇ。でもこっちの味噌煮はざらっとした感触が気になるよ」
「うーん、そっか……」
ザックとナディアの言葉にシオリは小さく唸る。
「王国料理に使うなら、丁寧に潰すか裏ごしして豆っぽいのをなくした方が良さそう。だけど料理屋ならともかく、一般の家庭で外国の調味料にそこまでするのは面倒かも」
「だな。俺もそう思う。発酵させた豆というのが慣れないとどうも引っ掛かるからな。
ポタージュに入れたのは気にならないんだが、ソースに使うなら最初から口当たりが滑らかな味噌を使った方が良さそうだ。個人的には醤油のような手軽さが欲しいと思った」
「ふむ……ならば西の豆味噌や麦味噌は今回は見送ることにしよう。都の白味噌とシナトベの大吟醸あたりが適しているか」
「赤味噌もちょっと癖があるのが美味しいんですけどね」
「残念ながら俺は無理だった。どう料理してもあの渋味がいつまでも舌に残る感じがどうも苦手だ」
「むしろあの渋味が良いのだが、あれはミズホの民でも人を選ぶからな……」
デニスとヤエとの三人で相談する足元で、ルリィは不人気だった料理をせっせと片付けている。このスライムはどの皿もお気に召したようだ。
アレク達は一通り試食し終えると、それぞれに好みの料理にばかり手を付けている。醤油ベースの料理はどれも減りは順調だったが、味噌入りの料理は皆の手が集中している皿はだいたい限られていた。少なくともそれらの料理なら野営で出しても大丈夫そうだとシオリは心の手帳にメモ書きしていく。
「この肉味噌のパテは美味ぇな。酒に合いそうだ」
「む。ザック、少々塗り過ぎではないか。もう少し加減したらどうだ」
「そういうお前こそ柚子胡椒使い過ぎじゃねぇかよクレメンス。さっきから串焼きばっか食いやがって」
「この味噌クリームパスタ、コクがあるししっかりした塩気があって美味しいわ。クリーム系のパスタってなんとなく味がぼんやりしていてあまり好きではなかったのだけれど、これなら美味しいって思えるわね」
「味噌はクリームやチーズと相性が良さそうだな。しっかり混ぜ込んでしまえば独特の発酵臭は気にならない」
「うん。スイーツの隠し味にしても美味しいよ。デザートに味噌入りのチーズケーキ用意したから、是非試してみて」
「まぁ、それは楽しみだわ」
「某はこの大蒜味噌バターが大いに気に入り申した。もし余ったら瓶詰にしてもらえぬか。生野菜に合いそうでござるな」
「前から思っておったがそなた、まこと大蒜とバターが好きよな……」
「ああ、その二つと醤油で米を炒めると絶品だぞ。米だけで三杯はいける」
「……あんた、毎日贅沢な食生活してそうだねぇ……」
それぞれが感想を言い合いながら新しい料理を試食する様子は楽しげで、シオリはくすりと笑った。
親しい人々と美味しいものを食べながら語り、笑い合う。細やかなことではあったけれど、それすらできなかった日々を思えば、今の自分はとても幸せだと思うのだ。
――ほんの二年前は、本当にただの家政婦だった。初めはこんな風に楽しく食事をする仲だったのに、いつしかただ仲間のためにひたすら家事や雑務をし、皆が食べ終わってから後片付けの傍らに残りご飯を軽くつまむだけの日々になっていた。
食べることすら億劫になっていたあの日々はもうすっかり遠い過去のようだ。
窓越しに街路を行き交う人々に視線を流す。彼らにもまた、温かな食事を作って待つ家族がいるのだろうか。温かな食卓を囲む仲間がいるのだろうか。
――ふと、たった一人だけ――あのときの仲間だった者達のうち、たった一人だけ生き残ったという男の姿が脳裏を掠めた。年下の甘えん坊でどこか頼りなくて、でも憎めない、弟がいたらきっとこんな感じだろうかと思わせるような男だった。
でもそう思っていたのは自分だけで、いつしか彼は自分に恋情を抱いていたようだった。シオリ自身は仲間以上の感情はなかったけれど、彼は自分をまるで恋人のように扱った。そのせいか同僚の中には恋人同士なのだと誤解している者もいたようだった。
(……でも結局、トーレは私を護ってはくれなかった)
少し気弱で最後には仲間の言いなりになってしまう彼は、徐々にパーティで立場が悪くなるシオリを護ってはくれなかった。恋人のように振舞っておきながら、ただ黙って見ているだけ。後でこっそり「ごめんな」と謝るだけ。あの迷宮の奥底でシオリを置き去りにしたときですら「ごめんな、ごめんな」と、そう言って立ち去っていった、ただそれだけの男だった。
そんな気弱な彼が、すっかり心がばらばらになっていたあのパーティの最後の生き残りだった。
(……ご飯、ちゃんと食べてるのかな)
ぼんやりとそんなことを思う。
移籍先の支部でトラブルの末に登録抹消処分を受け、今はその日暮らしがやっとの生活をしていると風の噂で聞いていた。
死ねばいいとは思わないが、迷宮での一件が証拠不十分として騎士隊扱いにはならずに済んだのであれば、せめてこの先の人生は真面目に生きてくれればと思う。シオリとしては、二度と自分の前に現れさえしなければもうそれで良かった。
ランヴァルドに関しては解雇されて郷里に戻ったとだけ聞かされていた。もし報復しに戻るようなことがあればと一時期は不安に思ったものだったけれど、それはザックから「今後絶対にシオリの前に現れることはねぇ」と明言されていた。貴族だったというランヴァルドは騎士隊扱いこそ免れたものの、家名と王国貴族の名誉を汚したという理由で自由の身と引き換えに然るべき裁きを受けたと彼はそう言っていた。
許せないという気持ちは未だに消えてはいないけれど、二度と悪事を働くことがないように重い罰が課されたというのなら、これ以上彼らに望むものはない。二度と自分のような思いをする人間が出ることがないように願うばかりだ。
「……シオリ。どうした?」
いつの間にか食べる手が止まっていたシオリの肩に、アレクがそっと触れた。
「……あ。ううん。ちょっと考え事してた」
「ちょっと、か」
「……顔に出てた?」
「……まぁな。あまり愉快な考え事ではないだろうなというのが分かるくらいには」
ほんの少し眉尻を下げた彼の、シオリの背を撫でる手は優しい。
「話して楽になるのならいくらでも聞くからな。溜め込んだりせず話してくれ」
「……うん、ありがと。あのね、こうやって皆で楽しく食事するのって、本当に幸せなことだなって思ったの」
温かな食卓を大切な人達と囲むというこの幸せは、細やかだけれども得難いものだ。望んで簡単に手に入れられるようなものでは決してない。
それを自ら手放すような愚を犯してしまったかつての仲間や上司は、細やかな幸せよりも金銭や名誉の方が魅力に思っていたのだろうか。それを求めることが悪いことだとは思わないけれど、他の誰かの幸せを奪ってまで手にしなければならないものだったとは到底思えない。
「――シオリ」
アレクの顔が曇った。彼の手が肩に掛けられ、そっと抱き寄せられる。
「勿論金や名誉、名声の方が魅力に思う者はいるだろう。俺もそのこと自体は悪いことだとは思わない。だがそれを得るために犠牲にするものが、決して自分以外の人間であってはならない。他人を犠牲にしてまで得たものなど、自身がどれだけ誇ろうがそれはきっと虚しいものだろう」
「……うん」
「お前はお前自身のために自分を削ってまで努力した。その上で掴んだ今のこの幸福の貴さを知るお前こそ、この上なく貴いと俺は思う」
「アレク……」
アレクも自分も。一度はその幸福を失くした経験があるからこそ、それを理解しているのだとも思う。けれどもこれまでの努力が実を結んで取り戻したその幸福はやはり得難く貴いものだ。
「……二度と会いたいとは思わないけど、こうやって温かい食事を誰かと楽しむことも幸せだってこと、いつかトーレとランヴァルドさんも知ることができたらいいなって、今は思う」
アレクは一瞬目を見開いた。何かを言い掛けようとした口を噤み、それから食事を楽しむ仲間達をぐるりと見回し、そのまま窓の外に視線を向けて、ふ、と短い溜息を吐く。そうして浮かべた彼の微笑みは、何故かひどく苦みの目立つものだった。
「――そうだな。いつか……気付くといいな」
彼の微苦笑が意味するところを正確には理解できなかった。けれどもシオリを抱き寄せた彼の手は温かく、この幸せは現実なのだと教えてくれる。
シオリを見下ろす紫紺の瞳が柔らかく――そしてどこか切なげに細められた。
(このまま……キス、したいな)
そう思ったシオリの目の前で、ザックがわざとらしい咳払いをした。ちらりと見た兄の顔には、苦々しいとも気恥ずかしいとも言えない微妙な表情が浮かんでいた。
「……続きは家で、な」
「……うん」
二人同時に小さく噴き出してから、仲間や新たな友人達と囲む団欒の輪に戻っていった。
イール「自分は親しき友と安全な寝床と魔法回復薬があれば幸せなのである」
雪男「……出番……(歯軋り)」
まだしばらく自粛生活な地域なので週一投稿がやっとですが、なにとぞ……_(:3」∠)_




