05 料理指南承ります(1)
自らの出自を明かし、アレクとザックの素性を打ち明けられたあの日から二日後。あれからたった二日ではあったけれど、ずっと内に秘めていた故郷の真実を打ち明けてから随分と心が軽くなった。自分という人間を形作る根幹に当たる部分を認めてもらえたのだ。たったの二人――否、二人と一匹に自分のルーツを認めてもらえた、そのことがひどく嬉しかった。
二日前とは違って多少浮足立つような心持ちで今日を迎えたシオリは、昼食の後片付けを終えた女達を見送り、午後の残りの時間全て借り切ったトリス支部の食堂に客人を招き入れた。
些か不安げな表情でトリス支部を訪れた自称ロヴェーン夫妻は、シオリの明るい表情を見てほっと安堵の息を吐いた。随分と心配させてしまったと眉尻を下げるシオリを軽く抱き締めたアンネリエは「貴女が元気ならそれでいいのよ」と微笑む。
先日会ったときよりは多少居心地悪そうにしていたヤエは、約束通り詫びの品だと言って多くの手土産を持ち込んだ。
「わ、これ……本当に全部頂いてもいいんですか」
商会の紋入りの風呂敷に包まれた木箱の中には、香り豊かな味噌や胡麻油、深みのある甘さの黒砂糖、爽やかな香りの粉山葵に柚子胡椒の他、海水を煮詰めて作ったしっとりとした海塩や由緒ある門前町で評判の七味唐辛子、ミズホ北部の良質な昆布や乾麺に凍み豆腐など、ミズホの国の食品が沢山収められていた。この木箱一つでこのまま献上品にできるのではないかと思えるほどだ。
「是非もらってくれ。中には船に積み込んだはいいが思った以上に売れず我々で消費するより他はなかったものもあるのだ。このまま駄目にするよりは同胞に使ってもらった方がきっと食材も喜ぶだろう」
そう言い添えられて少し気が楽になったシオリは、保管用だという木箱ごとそれを受け取った。
「……貴重なものをありがとうございます。大切に使います」
「ああ。こちらこそすまなかった……と、そうだ。そなたが使っている醤油だがな」
「え、はい?」
「次からは適正価格で買えるようにした。それに樽買いしたのでは鮮度が持たぬだろう。瓶でも小分け販売する予定だ」
普段愛用しているミズホの醤油はトリス市内の輸入食品店「カセロ」で買ったものだ。店主の話では小分け販売はできず、樽でなら仕入れが可能ということだったのだが――。
「あの店主め。ちまちまと瓶で取り寄せるよりは樽で売った方が手間が省けると思ったようでな。しかも随分と価格を上乗せしてそなたに売り付けておったようだ」
醤油の定期購入を希望している東方人がいることは店主とのやり取りで把握はしていたらしい。そのときヤエは、同胞相手ならば面倒は言わず、希望通り是非小瓶で売ってやってくれと頼んだようだった。
しかし店主は多少値を吊り上げてもシオリならきっと買うと踏んだようだ。最終的に客は樽買いを希望したと言って小分け販売を断り、樽で取り寄せておよそ三倍近くの値でシオリに売り付けていた。
「さ、三倍!? それにしても高いなと思ってたら……」
量が量だし国交がない国からの輸入品、しかも王都からの取り寄せとなれば仕方ないとは思っていたが、まさかそこまで値を吊り上げているとは思わなかった。
「凄く人が良さそうだったから騙されたぁ……」
脳裏に南国系の陽気な店主の顔が浮かんだ。「移民同士、助け合いヨ!」などと調子のいいことを言って値引きしてくれたはずだったのだが、そもそもが大幅に上乗せした価格だったのだ。彼にしてみれば値引きしたところで痛くも痒くもなかっただろう。もう既に何度か買ってしまっているのだから、そこそこ稼いだに違いない。
「……次からその店には俺も一緒に付いていく。いや、是非連れていけ」
「アレク……」
笑顔でいながらまったく目が笑っていないアレクとうっかり店主を闇討ちしかねない気配のルリィを宥めつつ、再度ヤエに礼を言った。彼女は少々ばつの悪そうに苦笑いする。
「いや、私こそすまなかった。卸先をいつかは視察せねばなるまいとは思っていたが、王都から距離があるゆえ予定を見送っていたのだ。まさかそんな法外な値で売り付けているとは……」
適正価格で販売しなければ商品の印象を損なうばかりか商会の信用問題にもかかわる。カセロに限らず念のため他の卸先も視察回数を増やした方が良いだろうと彼女は言った。
「特にこれからは醤油の需要が増えるやもしれぬ。販路拡大を目指そうとしている今、印象の悪化は避けねばならぬからな」
「え、醤油の需要が増える……んですか?」
携帯食作りや野営料理で需要が増している醤油ベースの東方風料理だったが、利用者がほぼシオリしかいない状況でこれ以上どう増えるというのだろうか。
その疑念を感じ取ったのだろう、横からデニスが言い添えた。
「実は一族の新年会で醤油を使った料理を出したんだが、これが予想以上に好評でな。是非うちでも使いたいという者が多かったから、いっそロヴネル家で定期的に一括購入しようという話になったんだ」
分家や傘下の家が多いロヴネル家で本格的に定期購入するとなると、きっとそれはかなりの量だ。国内でも有名な名門伯爵家が抱える名料理長が愛用しているとなれば、いずれは領内から王国全土にも広まるかもしれない。ロヴネル家の影響力はそれほどまでに大きいということだ。
「うわぁ……なんだか壮大な感じになってきたなぁ……」
依頼人に振舞った野営料理から随分と話が大きくなったものだ。
「なるほど、東方の商人との商談とはそういう訳か」
「ええ、そうなの。そこでシオリの話になって、会ってみたいということになったのよ」
人と人の縁とはどういう風に繋がるか分からないものだ。けれどもこうして少しずつ知人が増えていくことが楽しいとシオリは思う。
――そうして少々長めの挨拶を終え、ヤエのための料理指南が始まった。ミズホの料理人にでも教えるのかと思っていたが、意外にも「生徒」はヤエだった。楊梅商会の幹部を務める彼女ではあったが、時間があるときには自ら厨房に立つことも少なくはないのだという。
「昔は自ら包丁を握るなど考えもしなかったが、やってみると存外楽しくてな」
どうやら元はどこぞの姫君だったらしい彼女はそう言って屈託なく笑った。
アンネリエは手荷物から画材を取り出して指南風景のスケッチを始め、アレクは用心棒として同行していたショウノスケの話し相手を買って出た。ここに手が空いていると言って顔を出したクレメンスとナディアが加わり、東方の剣術論から始まって経営活動論や政治論などのなにやら小難しい議題でしきりに意見を交わし合う。彼らに出す飲み物はナディアが紅茶を淹れてくれた。
勿論デニスはシオリとヤエの横を陣取り、料理指南の内容を手帳に熱心に書き付けていた。ルリィはそれぞれの合間を行ったり来たりしながら、ぷるぷると震えて楽しそうだ。
「醤油と味噌を使った東方風の王国料理ということでいくつかレシピを持ってきました。醤油は同僚に好評だったメニューばかりなので、多分王国の他の地域の人でも大丈夫なんじゃないかなと。でも味噌の方はアレク以外にはほとんど出したことがないので、皆に試食してもらいながら考えましょう」
「相分かった。確かに味噌は腐った豆ではないかと酷評されてな……それでもまだ醤油の方は、魚醤を使う沿岸部では抵抗が少ないのか受け入れてはもらえたのだが」
「ああ……発酵食品は本当に好き嫌いが分かれますからね。私はチーズやバターが大好きなんですけど、祖父母は石鹸か蝋燭みたいだって嫌がっていましたし」
発酵食品は地域の独自性が強い。だからこそ、その地で幼少期からその食品を食べて育った人々にとっては、身体を作った食品――自身の一部とも言える。それを強い言葉で否定されるのは悲しいことだとシオリは思う。
「口に入れるものゆえ、合わぬものを強く拒否する気持ちは分からぬでもないが……個性や文化を否定されるのは辛いものよな」
「そうですね……」
「……まったくだ」
東方人のヤエと帝国人の血を引くデニス、そしてシオリ。異文化に所縁のある三人で顔を見合わせて、誰からともなく苦笑いした。
「さて……じゃあ始めましょうか。まず醤油を使った料理から。やっぱりバターやワインと組み合わせて加熱して使うのが一番いいと思います。そのままだとちょっと抵抗がある人も多いので」
「ああ、そのバターとワインを入れた醤油ソースが食事会で大絶賛されてな。料理長は他にも色々混ぜていたようだが、その三つを混ぜただけでも素晴らしい味だった」
「その醤油ソースをどう使ったのだ?」
「アルファンバイソンのステーキに」
「ほう……というと赤身肉か」
ヤエは興味を持ったようだ。
それならとシオリは持ち込んだ食材から赤身肉の薄切りを取り出し、軽く塩胡椒して焼いた。焼き上がった肉を皿に移し、赤ワインと醤油を脂の残ったフライパンで手早く煮詰め、仕上げにバターを落として香りと光沢を付ける。
食堂内に漂う焦がし醤油の香りに、歓談していたアレク達が顔を上げた。きっとこの匂いは堪らないだろう。後で彼らにも試食してもらおうと思いながら、シオリは説明を続けた。
「大体の分量は、醤油が一に対して赤ワインが三、バターが一くらいです。あとはお好みで量を調節してみてください」
焼いた赤身肉に出来立ての醤油ソースを回し掛け、フォークを添えてヤエに差し出した。彼女は手慣れた手付きでフォークを手に取り、最初に醤油ソースを少量付けて味見した。それから肉を口に運ぶ。
「む、これは……なるほど。割下に近いものを感じるな」
何度か咀嚼して飲み下したヤエは小さく唸った。
「異国の料理は食べ慣れはしたが、同胞には香草やバターの香りを少々苦手とする者も多くてな。だがこれは食べやすい。食べ慣れた味に近くなったというべきか……なるほど、我が国と異国の調味料を組み合わせるとは思いもよらなんだ」
つまりは裏を返せば癖のあるミズホの調味料が、王国の調味料と混ぜることによって王国人の口にも合うようになるということだ。
「淡泊な魚介料理だったら醤油とバターだけか、白ワインと合わせるといいですよ。たとえばムニエルや酒蒸しだとか」
この近隣では魚料理と言えばトリスサーモンが主流だ。切り身にしたトリスサーモンに軽く塩胡椒と小麦粉を振り、果実油を入れて熱したフライパンでこんがりと焼く。その上にバターを落として溶かし、醤油を回し入れて切り身に手早く絡めたら完成だ。
「バターと醤油は焦げやすいので、最後に入れるのがコツです。焦がしそうだったら醤油を入れる前に魚を取り出してから、残った脂分と醤油でソースを作って回し掛けると失敗が少ないです」
二枚貝の酒蒸しには白ワインを使い、仕上げに醤油とバターを入れた。
どちらもヤエは気に入ったようだ。
「はじめは王国で醤油を広めることばかり考えておったが、これならばミズホの国でもバターが受け入れられるやもしれぬな」
ミズホでは開国前のままの質素な暮らしをしている民も未だに多いらしいが、富裕層では異国の料理や調味料を取り入れる者も増えたそうだ。しかし馴染みのない異国のレシピをそのままミズホ料理に取り入れるには予備知識の少ない料理人達には難しいらしく、まだまだ研究途上らしい。
「以前兄上がバターを持ち帰ったはいいが、料理人はどうやら珍しい豆腐だと思ったようでな……汁物に入れて大変なことになった」
塊を全て賽の目切りにして鍋に入れてしまい、味噌汁だったはずのものが恐ろしく乳臭い脂汁になったそうだ。無論脂でぎとぎとの汁物は食べられたものではなく、鍋を洗うにも固まってこびり付いた脂に相当に苦労したらしい。
「うっ……それは……」
しかし量さえ間違えなければ美味しいはずだ。味噌とバターの相性も抜群だからだ。
「ほう、味噌バターか」
「はい。味噌汁に少し落とすと風味とコクが出ます。汁の実に根菜や肉を使ったものがおすすめですよ。でも味噌汁は出汁と味噌の香りが強く出るので、王国人にはやっぱり合わない人もいるかもしれません」
元いた世界では健康的な和食ブームとやらで海外でも味噌の利用者が増えていたようではあるけれど、こちらの世界ではまだまだ未知の調味料だ。醤油以上に合わないと感じる者は多いかもしれない。
試しにとお手製の煮干しで出汁をとったじゃが芋の味噌汁を作り、それにバターを一匙落とす。味噌とバターの豊かな香りがふわりと漂った。
「味噌ベースの鍋料理にもいくらか入れると美味しいですよ」
「なるほど……ほう、確かに隠し味程度であれば悪くはないな。美味い」
ヤエは二度三度と口を付けては頷いていたが、デニスには少々厳しかったようだ。
「う……魚臭いというか豆臭いというか……妙な発酵臭が気になるな」
テーブルで談笑中のアレク達にも味見として振舞うと、こちらもはっきり好みが分かれた。同居を始めて東方風料理を食べ慣れていたアレクはバター入りの味噌汁を美味いと言って飲み干した。しかしクレメンスとナディアはデニスと同じ感想を述べ、アンネリエとショウノスケは意外にも気に入ったらしく、それぞれに味噌とバターの独特の風味が悪くないと言った。
「――という訳で、味噌を前面に押し出した料理は人を選ぶので、隠し味で使った方がいいかもしれませんね。個人的にはドレッシングとかディップソースに使うのが好きなんですけど……王国人ならポタージュやシチューの味付けに使うのがおすすめかなぁ」
澄んだスープでは味噌を入れると濁りが目立ってしまうけれど、ポタージュのような不透明のスープならあまり気にならないだろう。
得意の時短料理でじゃが芋やかぼちゃのポタージュを作り、通常は塩を使うところを味噌に置き換えて味付けした。使った味噌は、ヤエからもらったばかりの滑らかで甘みの強い白味噌だ。
「お……美味い。さっきのような豆臭さが全くない。それに味に奥行きがある」
恐る恐る口を付けたデニスも今度は太鼓判を押した。
「ふむ……異国の料理ながらどこか懐かしい味わいだ。馴染みの調味料を使うと舌に合うようになるのだな」
異郷に暮らす同胞も喜びそうだとヤエは呟く。
「スープやシチューにはちょっぴりだけ柚子胡椒を入れると味が締まって美味しいですよ」
「おお、なるほど。味噌汁に七味唐辛子を入れるようなものか。面白いな」
試しにと自らの皿に柚子胡椒を入れて試食を繰り返すヤエの横で、同じように試したデニスはしばらく沈黙してから「……取引リストに加えておこう」と手帳に書き付けていた。
「柚子胡椒は串焼きに少し付けて食べるのも美味しいんです。シンプルに焼いた鳥肉や牛肉によく合いますよ」
「そうか、牛肉にも合うのだな。焼き魚や鳥肉料理には使っておったが、ミズホではまだそこまで牛を食す習慣はなかったゆえ気付かなんだ」
「あ、そうなんですね」
「うむ。肉用牛の飼育を始めたところは増えたが、まだまだ役牛として大切にする者が多くてな。農民や商人などは貴重な牛を食うなどとんでもないと抵抗感を示す者も多いのだ。私も時折献上される三つ目牛の肉を口にする程度であったよ。」
三つ目牛は東方固有の魔獣らしい。討伐難易度が高い三つ目牛の肉は霜降り肉に近く、極めて美味として富裕層には珍重されているようだ。栄養価も高く、以前は滋養強壮の薬として食べることもあったという。
「王国では柑橘類は貴重品ですから、柚子胡椒も富裕層の人には喜ばれるんじゃないでしょうか。さっぱりしているので女性受けもいいと思います」
「なるほど、あえて貴重なものとして売る、か。考えてみよう」
シオリの指導を受けながら試作を始めるヤエの横で、試食しつつ黙々とシオリの弁を手帳に書き写していたデニスが長い溜息を吐く。
「しかし……前にも思ったが、シオリの知識量には驚かされるな。料理や食材に関する知識はまるで世界を巡った歴戦の料理人のようだ」
「歴戦の料理人って」
名門ロヴネル家当主の婚約者になにやら物凄く強そうな称号を頂いてしまったシオリは、なんとも言えない気分になって眉尻を下げた。
「だってそうだろう。各国の料理に精通している人間なんてそうはいないぞ。見た感じ作っているのは王国や東方の料理だけじゃないだろう。帝国風や南国風もあるじゃないか。それどころか西の大陸風料理も作るってシオリの同僚が言っていたぞ」
「うーん……それは」
躊躇って一瞬口を噤んだシオリはしかし、思い直して微笑んだ。
「私の国は凄く食事にこだわってるところだったから、料理研究が盛んだったし、色んな国の料理店も沢山あったの。だから私が特別な訳じゃないよ」
和食、中華、イタリアン、フレンチ――。
あの国では料理に慣れた者なら誰でも、少なくとも三、四ヶ国の料理くらいは作れるのではないかと言うと、デニスは勿忘草色の目を丸くした。
「は……いや、なんというか……まさか楽園の生まれなどとは言わないだろうな」
「ええー……うーん……食の楽園ではあったかもね。あっ、大衆文化の楽園でもあったかなぁ」
呆れとも驚愕ともつかない顔でしばらく黙りこくっていたデニスはやがて、苦笑いとともに肩を竦めてみせた。
「――まぁ、いつかはその楽園の話を詳しく聞かせてもらいたいものだ」
聞かせてくれるんだろう、と。言外に友人にそう言われた気がしたシオリは、ほんの一瞬瞳を俯けてから小さく微笑み頷いた。
「……うん。今はまだちょっと話せないけど、気持ちの整理が付いたそのときには……聞いてもらいたいな」
勿論全ての人に明かすつもりはないし、その必要もないだろう。けれどもデニスは自分を認めてくれた人だ。素性は分からずとも信用できると言ってくれた友人なのだ。親しい人には知ってもらいたいとも思うから、いつかは。
ふとこちらを見たアレクと目が合う。
――自分を見つめる紫紺色の瞳は、いつものように優しかった。
アレク「……」
脳啜り「……おい、あの旦那どうしたんだよ」
ルリィ「シオリ成分が切れたってー」
……ラブシーンまではしばらくお待ちください。




