02 東方の商人
二月の半ば過ぎ。この頃になると七時半より少し前には日の出を迎える。まだ雪は多いが徐々に長くなる昼の時間に人々の心は浮足立ち、遊ぶ時間が増えたと外を駆け回る子供の姿が多く見られるようになった。
「こんなに寒いのに子供は元気だなぁ」
「そうだな」
街路で歓声を上げて鬼遊びに興じる子供達を母親らしき女が大声で叱りつけ、元気に返事したというのにそのまま駆け出して行ってしまった小さな後姿にがっくりと肩を落とす光景を見て、二人で顔を見合わせて笑った。
窓辺に張り付いていたルリィは羨ましそうにぷるんと震えている。
ひとしきり笑ってから再び窓の外に視線を向けたシオリの横顔には、微かな不安と期待が浮かんでいた。友人に会えるのは嬉しいのだろうが、見知らぬ異国の客を迎えることには不安もあるのだろう。それがたとえ「故郷」かもしれない場所からの来訪者だとしても。
(――故郷、か)
姿形は遥か東方の民族の特徴を有してはいるが、本当に東方出身なのかどうかは疑わしい。シオリはかつて、故郷は手が届かないほど遠い場所にあると言った。東方は確かに遠い。しかし手が届かないというほどではない。現に今日会う予定の東方系の商人は、年に一度の頻度で本国と行き来しているという。つまり、遠いことに違いはないがその気になれば行けないこともない距離なのだ。
(それに、落ちてきた……とも言っていたしな。そもそもが東方人ではないのかもしれんが)
つい口を突いて出たのだろうその言葉を指摘したときには、蒼褪めて訂正もせずに狼狽えるばかりだった。
神の視点を知る――落ちてきた、女。
案外、東方人ではないと知れることが怖いのかもしれないのではないか――そんな益体もないことも考えていたアレクは、馬の嘶きと馬車が停まる音に顔を上げた。背後で些か興奮気味な小さな歓声が上がる。
組合前で停車する馬車が二台。片方は紋章こそないものの立派な作りの雪馬車で、富裕層が乗っていることが分かる。
もう片方は大型の荷馬車だ。幌布には大きな花を模った珍しい意匠の紋章が刷り込まれ、御者台にはゆったりとした異国情緒溢れる不思議な型の外套を纏った男が座っていた。
ふと男が顔を上げた。視線が合う。黒々とした眉の下の黒い目は鋭く、薄い唇は意志の強さを表すかのように強く引き結ばれていた。王国人と比べて顔の造形こそ起伏が少なく平坦ではあるが、黒い瞳や髪色、そして鋭い表情が濃い陰影を生じさせ、全体の印象を強いものにしていた。
――東方人。とすればあの男が件の商人か。
そう思ったが彼は帯刀していた。飾りや護身用などではない、使い込んだものだということが分かる剣だ。身のこなしにも隙がなく、商人というよりは手練れの剣士と言った方がしっくりくる。
男が御者台から降りるとほぼ同時に似たような風体の男達が幌の中から顔を見せた。王国の冒険者らしい者も数人交じっているのは護衛役だろうか。
彼らが幌を上げて荷を下ろし始めると、同僚のざわめきが一層大きくなった。珍しい舶来品が手に入るかもしれないという期待で興奮しているのだ。
実はシオリへの手紙とは別に、数日遅れでトリス支部のマスター宛にもロヴネル家からの封書が届けられていた。東方の商人との連名の手紙には、冒険者向けの特売会を開きたいと記されていた。王国内で東方の酒や装飾品などの受けが存外良く、特に売れ行きが良いトリスでの取り扱い品目を増やしたいのだということだった。
意外な申し出に驚きはしたものの、冒険者達の気晴らしにもなるだろうとザックは快諾したのだ。
「せっかくだ。話が済んだら俺達も見て回るか」
「……うん? ああ、うん、そうだね」
気がそぞろなシオリの背を苦笑しながら撫で、アレクは再び窓の外に視線を向ける。
もう一台の立派な雪馬車からも乗客が降りようとしていた。開いた扉から見覚えのある赤毛の男が姿を現し、プラチナブロンドを緩く結い上げた女の手を恭しく取って降車を手伝った。デニスとアンネリエだ。どちらも身元が知れぬように裕福な商家の若夫婦を装った身形だった。気品や立ち居振る舞いまでは隠しようもないが、普段とは異なる髪型や化粧などで巧妙に雰囲気を変えている。間近に接したことでもない限りは正体を見抜かれることはまずないだろう。
(――シルヴェリアの旅のときには、女主人が旅館の食堂に出入りすることすら渋っていた男が、変われば変わるものだな)
そう思っているうちに中からもう一人姿を現した。荷馬車の男女のような東方風の出で立ちの――。
「……少年……いや……女、か?」
「……うん。侍みたいな格好だけど、女の人だと思う」
サムライというのが何を示すのかまでは分からなかったが、東方人を自称するシオリがそう言うのなら間違いはないのだろう。風体は御者の男とそう変わらなかったが、ゆったりとした衣服の上からでも分かるほどに華奢で小柄な身体つき、そして強い光を宿した切れ長の鋭い瞳は一見すると少年のようにも思えた。
しかし葡萄酒のように深く美しい赤色の地に肩から胸元にかけて大振りの花の柄を散らした東方風の外套と、その足元に見えるたっぷりとした濃紺の裾は細かな葉模様の縁取りが施されていて、色柄からして女物だと分かる。頭の高い位置で一本に括った漆黒の長髪にはやはり、東方風の花を模った髪留めが飾られていた。腰元に刺した剣にも紐を花の形に編み込んだ房飾りを付けている。
落ち着いて見れば確かに大人の女だ。しかし服装によっては少年にも見紛う容姿だった。
「……ほんとに東方人ってのは若く見えるんだねぇ……」
「そうだな。見掛けは二十かそこらのようにも思えるが、立ち居振る舞いからするとシオリのように案外歳はいっているのかもしれん」
すぐそばで同じように外を眺めていたナディアとクレメンスが小さく唸った。
今目の前にいる東方の者達は女も男も小柄で、やや丸みを帯びた起伏の少ない顔立ちが若々しく、いまいち元の年齢が分からない。先ほどの御者の男も思うよりは背丈は低い。ようやく百七十を超えるかどうかといったところか。
通行人が足を止めて物珍しそうに見守る中、デニスの手を借りて女が雪の石畳に降り立つ。御者の男がその場に膝を付いて首を垂れた。上位の者に対するそれは女主人と御者という立場の差を考えても些か大仰に過ぎるのではないかと思ったが、女は当然のように鷹揚に頷き、アンネリエに促され並んで歩き出す。
「もしかしてあの人かな。私に会いたいっていうの」
「だろうな。彼らの代表といったところか」
女武芸者の成りをした東方の商人。
気を利かせて扉を開いて待ち構えていたザックが客人を招き入れる。
「――本日は私どもの企画にご賛同頂きましてありがとうございます、ザック様」
商家の女主人アニー・ロヴェーン――以前旅先でアレク率いるパーティに助けられたという設定だ――に扮したアンネリエがおっとりと微笑みながら言った。その夫に扮するデニスも当然のようにすまし顔で控えている。演技まで得意とは意外だったが、芸術の一門、そしていざとなれば化かし合いもやってのける立場にある彼らのことだ。案外手慣れているのかもしれない。
後ろに大人しく控えていた東方の女商人の視線が彷徨い、ある一点で止まった。こちらを――シオリを捉える。無表情とも違うが感情の読めない顔つきだ。
シオリが一瞬どきりと身を竦ませたが、そのまま女商人に小さく会釈をしてみせる。その肩を抱いて引き寄せ、宥めるように二の腕を摩った。強張っていた肩の力が抜けていく。
それを見ていた女商人の漆黒の瞳がす、と細められた。薄く紅を挿した唇が緩い弧の形になる。微笑んだようだった。時折シオリが見せる表情とよく似ているとアレクは思った。
ザックとの挨拶と軽い雑談を済ませたアンネリエが振り返った。女商人を伴って歩み寄った彼女は軽くシオリに抱き付いた。
「シオリ、お久しぶり。また会えて嬉しいわ。皆さんも」
「二人とも元気そうで良かった。もう一人は元気?」
「ええ、相変わらずよ。そうそう、シオリの携帯食がいくつか欲しいって言っていたの。融通してもらえるかしら? お夜食にしたいのですって」
「……できれば腹には溜まるが脂分の少ないものを頼めるか」
「……あ、うん。野菜たっぷりの選んでおくね……」
このやりとりから察するに、留守番役のあの青年も相変わらずのようだ。アレクはシオリやクレメンスと共に苦笑いし、ナディアは愉快そうに噴き出した。彼と妙に気が合っていたルリィも楽しげにぷるんと震える。
「――紹介するわ。貴女に是非会いたいって仰ってた方よ」
ひとしきりの挨拶を交わした後、アンネリエの言葉に促されて女商人がするりと前に進み出た。微かな衣擦れの音と共に異国情緒溢れる香の不思議な香りがふわりと漂う。
「お初にお目に掛かる。ミズホより参ったヤエと申す」
深い葡萄色の手甲に覆われた白い手がシオリに差し出される。シオリはおずおずとその手を握った。
「初めまして。シオリと申します。あの……」
気後れする様子に気付いたのだろう、ヤエと名乗った女商人は切れ長の目を緩く細めて微笑み、シオリの手を柔らかく握った。
「驚かせたかもしれぬが、アニー殿から話を聞いてそなたに会いたくなったのだ。遥か異郷の地で健気に生きる同胞がいると聞いてな。しかもなにやら醤油の愛好者だというではないか。我が国の調味料で東方風の王国料理を料理を作ると聞いて、これは是非とも会わねばならぬと参った次第だ」
「ヤエさんはね、醤油を使ったレシピを知りたいのだそうよ」
「勿論ただでとは言わぬ。指南料を支払う用意もある」
酒や装飾品などとは違い、調味料は国が違えば口に合わないものも多い。駄目元で販売していたが案の定不評であった醤油が調理法によっては受け入れられるのだと知り、是非にということだった。
「……そうだったんですね。私でお役に立てるのなら是非」
どうやら興味本位に会いに来た訳ではないようだ。ほっと胸を撫で下ろしたシオリは快く頷いた。
「……もっともそれだけではないのだが。シオリ殿、少々時間を頂けるか」
やや硬い口調で呟くように言ったヤエはちらりとアンネリエを見た。彼女は戸惑いながらも頷き、ザックに目配せする。込み入った話をしたいのだと察したザックは一瞬瞳を眇めてみせたが、すぐに事務員に商人達の案内を指示してから「こっちで話すか」とマスター室の方向を指し示した。
同僚の何人かは会話が気になるのかそれとなくこちらに視線を流していたが、東方人達が談話室の隅で荷解きを始めると我先にとそちらに移動していった。
アンネリエ達と挨拶を交わしたクレメンスは、遠慮してか「我々も見てこよう」とナディアを伴い同僚達と共に離れていった。
「――さて」
応接室を兼ねたマスター室のソファに腰掛け、その場の全員に紅茶と茶菓子が行き渡ったところでザックが口火を切った。
「じゃあ用件を聞こうか。俺としちゃあ……あんまりシオリを刺激するような話は避けてもらいてぇが。単なる商談ってのならともかくな」
「……兄さん」
きついものではないにせよ、牽制するような物言いのザックをシオリが苦笑気味に窘める。しかしアレクとしてもザックには同意せざるを得ない。ここ数日、シオリが少々不安定になっていることに気付いていたからだ。今も出された紅茶に手も付けず、どこか不安げにしている様子が見て取れた。
「ごめんなさいね、シオリ。ヤエさん、レシピのお話をするだけだと思っていたのだけれど――もし私の友人を困らせるようなことになるなら、会談はここで切り上げなければならなくなるわ」
やや困惑気味のアンネリエに言われたヤエは、きりりとした柳眉を僅かに下げて微笑んだ。
「無論困らせるつもりはない。いくつか確かめたいことがあるだけだ。だが極めて個人的な内容に話が及ぶやもしれぬゆえ人払いを頼んだのだ」
手元の紅茶を上品な仕草で一口飲んで唇を湿らせたヤエは、一拍置いてから切り出した。
「実はな。我が 楊梅商会は交易だけが目的の組織ではない。この十数年で世界各地に散った同胞を保護する役目も担っている」
「役目? というと、そのミズホの国の指示で動いているのか」
「いや。それなら資金援助も受けられて良かったのだが――残念ながら我が藩……ああいや、失礼、我が商会が独自に動いているだけだ。各地を回るうちにどうやら異国で困窮している同胞が少なからずいるらしいことに気付いてな。不憫に思った先代が故郷に連れ帰るようになったのが始まりだ」
ミズホの国を含めた東方諸国は、一部の大国を除いてこれまでずっと閉じた地域とされていた。異民族の文化と宗教、そして侵略を嫌って国交は近隣のごく限られた国のみに制限し、独自の文化を築いてきた地域だった。この数百年でも東方諸国と大陸北西部の国々が行き来した記録はほとんどない。
だが近代化の波に押されて国を開いた二十年ほど前、多くの東方人が豊かな異郷の地に憧れを抱いて大陸各地に渡った。ミズホの国もその例に漏れなかった。
ある者は交易のために、ある者は勉学のために、またある者は新天地での冒険を夢見て、そして――多くの娘達が異国の紳士に請われて養女や妻女となり旅立っていった。
しかし長く閉ざされた国で暮らして来た彼らは世界では世間知らずも同然だった。成功する者はごく一握り。ほとんどは大した成果も得られず失意のままに帰国するか、それすらもできずに口にするのも憚られるような仕事をして食い繋ぐかのどちらかだった。
「大陸の紳士の中には本気で東方人の娘を愛した者もいただろう。だが物珍しさゆえに連れ帰った者も多かったようでな。結局言葉や文化の違いから上手くいかず早々に放り出されるか、あるいは自ら飛び出した者もいたようだが、いずれにせよ……不遇な暮らしをしている者が多かった。我らはそういった者を保護し、故郷に送り返しているのだ」
もっとも身売り同然に出された者も決して少なくはなく、帰る場所すらない者は本国で勤め先を斡旋するか、さもなくば商会で雇うこともあるらしい。
「なるほどな……」
アレクは唸った。ヤエは明言を避けてはいたが、小柄で若々しく下手をすれば十は若く見える東方人の娘をいかがわしい目的で連れ出した外国人は多かっただろう。実際シオリに手を出そうとしたあのランヴァルド・ルンベックもその類の男だった。
――結局シオリはどうなのだろうか。落ちてきた、とは言っていたが、やはり記憶にないだけで幼少期に国を出た娘の一人なのだろうか。物心つく前に身売りされた娘も多いと聞く。
しかしそれでは温かい家族がいたという彼女の話に齟齬が生じる。
ちらりと見た彼女の横顔はどこか遠くを見るような虚ろな表情で、感情が読めない。ただ、ヤエから手渡された名刺に視線を落としたままだ。
「シオリ殿。容姿と名前からしてミズホの国出身に相違ないと思うが、どうだろうか。もしそなたが望むなら国に連れていく用意がある。聞けば故国を恋しがっているというではないか」
シオリは亡国の出身ではないかとも言われていた。彼女自身もそれを敢えて否定はしなかったし、シルヴェリアの旅でもアンネリエ達にはそうとも取れるような説明をしていたと記憶している。
ミズホの国は開国時の混乱で多くの領地が解体され地図上から消えた。領民や特権階級の一部は各地に散って行き方知れずになっているという。シオリもそんな中の一人なのだろうか。
だが。
「――いいえ」
ずっと黙っていたシオリが口を開く。
「残念ですが……私は日本という国の生まれです。王国に来る二十七の歳まで日本で暮らしていた記憶がありますから、それは間違いありません。なにより、この頂いた名刺……」
差し出したヤエの名刺を裏返す。裏面にはミズホの国のものだろう、独特な形状の東方文字が描かれていた。ミズホ語で書いた商会とヤエの名だという。
「ここに書かれている文字が読めません。日本語と似てはいますが違います。ですから……」
残念ながら自分はミズホの国の人間ではないと、そうはっきりと言い切った。
「ニホン……」
ヤエは唸った。目配せした御者――兼用心棒のショウノスケと名乗った男も静かに首を振った。
「ミズホにそのような場所はなかった。近隣にもそんな名の国はなかったように思う。その、よほどの小国でもなければ、だが」
「……シオリ」
シオリは真っ直ぐヤエを見据えていた。しかし蒼褪めた彼女の肩は小刻みに震えている。
それを見たアレクははっきりと悟った。やはり出自を明かしたくはないのだ。まるでそれ自体が大きな秘密であるかのようだとアレクは思った。そう――己と同じようにだ。
ヤエがミズホの国出身に相違ないと言い切るからには、シオリにはミズホの民の特徴がはっきりとあるのだろう。だが本人はそれを否定した。地図にもない国の出身であると、そう言ったのだ。
しかしこの場でそれを口にするには相当な努力が要っただろう。
今ここにいるのはヤエとショウノスケを除けば要人といってもいい者ばかりなのだ。名門ロヴネル家の当主とその婚約者に、恐らくシオリも既に気付いてはいるだろうが、王族に名を連ねる自分。それにその古馴染みとくればザックもまたただの民間人ではないと薄々察してはいるだろう。
しかもただの要人ではない。恋人や兄同然の男に大切な友人という心を通わせた者が同席する場で、地図にも載らない存在が知られていない国の出身――つまりは身元を明かせないと言うことは、その者達の信用を失う危険性を孕んでいる。彼女が最も欲していた、そしてようやく手に入れた居場所を失うことになるかもしれないのだ。
――長い沈黙が場を支配した。
俯きもせず、ヤエをじっと見据えたままのシオリの肩を静かに抱き寄せた。ルリィは気遣うように足元をさすっている。
「……すみません。本当はきちんとお話するべきなのでしょうが、故郷のことをどう説明したらいいか、私自身が答えを持ち合わせていないので……」
「シオリ。言いたくないのなら言わなくてもいい。少なくとも今はその機会ではない」
毅然とした態度ながらもすっかり血の気の失せたシオリがあまりにも痛ましかった。
「……ごめんね、アニー。せっかく仲良くなったのにもしかしたら警戒させちゃったかもしれない。アニーの身分を考えたら、身元不明な私とかかわるのは」
「いいの。いいのよ。気にしないで」
申し訳なさそうに言葉を絞り出したシオリをアンネリエが押し留める。
「私は貴女の人柄が好きになったの。身元がどうとかなんて関係ないわ。ロヴネル家の歴代当主の中には生国不明の流浪の画家と結婚した人もいたくらいなのよ。私にもその血が流れてる。だからシオリ、貴女はそんなことを気にする必要はないわ」
「その通りだ」
デニスも言葉を継いだ。
「色々と思うことがない訳ではない。しかし俺だって似たようなものなんだ。なにせ父方の四代前は帝国人だったということ以外何も分からないんだからな。そういう意味ではシオリと大して変わらん」
「デニス……」
変われば変わるものだとアレクは瞠目した。無礼を水に流して友人関係を結んだにせよ、一度はシオリに対して「得体の知れない移民」とまで言い放った男がここまで言い切るとは思いもしなかった。
理解があるのは彼らの人柄の良さもあるだろう。しかしシオリが必死の努力で築いた信用と信頼が彼女自身を助けているのは間違いない。
「……ヤエさんよ。同胞を助けてぇってあんたの気持ちはよく分かった。だが本人が否定してるんだ。悪いがあんたの申し出は……」
ザックが言い、シオリが「すみません」と頭を下げる。
「……いや。こちらこそすまなかった。ミズホの民ではないものを無理に連れていく気はない。それに」
ヤエは笑った。
「随分と大切にされているようだ。互いに想い合えるような相手が幾人もいるのならば、敢えて我らが手を貸さずとも良いのだろうな」
シオリと似た黒髪の女は美しい笑みを浮かべた。異国の地で必死に生きようとしている同胞、否、同胞と同じ容姿を持つシオリを心底案じ、そして安堵したのだということが分かる。
「いいえ、こちらこそ気遣ってくださったのにあまりいいお返事ができず……申し訳ありません」
シオリは未だ蒼褪めたままだったが、それでも微笑んでみせた。
正直に言えばやはり些か腑に落ちない点があることは否めない。しかしひとまずはこの場が丸く収まったのだ。緊張していた場の空気が弛緩する。
「……騒がせた詫びと言ってはなんだが、ミズホの調味料をいくつか受け取ってはくれまいか。味噌や黒砂糖、胡麻油、粉山葵、柚子胡椒……ああ、海の塩もあるぞ。この辺りでは岩塩が主流のようだから貴重だろう」
ヤエの申し出にシオリは目を見開いた。
「え……あ、いいんですか? でも、そこまでしていただくほどのことでは……」
「良いのだ。私の気持ちだと思って受け取ってくれ。後日、調理法の指南のときに纏めてお渡ししよう」
そこまで言われてしまえばシオリとしては断りようもなかったようだ。彼女は素直に頷いた。
指南の日取りは二日後と決まった。今回は数日滞在する予定だというアンネリエ達も同席することになった。彼女達にしてみればもう少しゆっくり語らいたいこともあっただろうが、未だ顔色の戻らないシオリを気遣ってか早々に部屋から引き下がっていった。
――部屋に静寂が戻る。扉の向こう側から談話室の賑やかな声が聞こえた。きっと同僚達が東方商人による特売会を楽しんでいるのだろう。
「……ごめんね。なんか変な空気にしちゃって」
ロヴネル家の二人と東方人の主従が消えた扉をしばらく黙って見つめていたシオリがぽつりと言った。
「気にすんな。誰しも言いたくねぇことや知られたくねぇことはある」
ザックが兄らしくシオリの黒髪を撫でた。ルリィも触手でぺたぺたと背中をつつく。
あの場はあれで収まりはしたが、彼女の内心はまださざ波立っているのだろう。艶めく髪が黒々としている分、顔色の白さがより際立って見えた。
「……シオリ。大丈夫か」
そう声を掛けたその瞬間だった。
どうにか冷静さを保っていたシオリの顔がくしゃりと歪んだ。堰を切ったかのようにぽろぽろと涙が溢れ出す。
「シオリ!?」
慌てて抱き寄せたその身体は大きく震えていた。やはり過去を探られたあの会見が酷く堪えていたのだろうか。親しい者達の前で、その信頼を失うかもしれない曖昧な答えしか返せなかったことを気に病んでいるのだろうか。
しかしシオリは首を横に振った。
「ううん。違うの。それもあるけど、違うの」
しゃくり上げながら彼女は言った。
「……本当はどこかで期待してたの。地図に載っていないだけで――私が知らないだけで、もしかしたら本当はどこかに日本があるんじゃないかって、心のどこかで期待してたの。日本に近い文化の場所があるって知ったときから――醤油や味醂みたいに日本で食べ慣れた味があるって知ったときから、もしかしたらそこに日本があるんじゃないかって期待してたの。でも!」
己を見上げたその瞳には涙と共に深い失望と激しい悲嘆の色が浮かんでいた。
「なかった! ヤエさんはないって断言した。日本は小国って言われてたけど、実際には言うほど小さな国ではなかったの。世界で三番目の経済大国だなんて呼ばれるくらいにはとても豊かな国だった。そんな国を知らないなんてあり得ない。だから、本当にないんだって――この世界にはないんだって思い知ったの!」
己が心の底から愛した静かな凪のような女の身の内に秘められた凄まじい慟哭は、アレクの胸を焼いた。だがそれ以上にその言葉に潜む核心を敏感に感じ取り、はっと息を呑む。
「シオリ、お前――」
涙に濡れた瞳が真っすぐにアレクを貫く。黒曜石に見紛う瞳が己の姿を映し込んで激しく揺れた。
「……アレク、兄さん。今まで黙っていてごめんなさい。私、本当は――この世界の人間では、ないの」
ルリィ「新章開幕二話目にして爆弾発言」
色々考えた末、ちょっと前倒ししまして……。




