02 家政魔導士
「……か、快適過ぎる」
思わず唸るような呟きが漏れた。隣では弓使いのリヌスがしみじみと頷いている。
実のところ初日の夜にはその台詞が喉元まで出かかってはいたのだが、あっさりと称賛の言葉を吐くのがどうにも悔しく、それを口にする前に飲み込んだ。だが、三日目を迎える頃にはとうとう認めざるを得なくなった。
それもこれもシオリという女の気遣いと仕事ぶりが素晴らしく、一晩休めば前日の疲れもすっかり取れる。いかに不快な道行きと言えども、一日を乗り越えれば夜には温かい食事に風呂、そして寝床が約束されるのだ。メンバーの士気も鰻上りで気力も気合も十分。マンティコアの居る奥地まで最低でも五日の道程を、三日目にして既に目的地も間近の場所まで来てしまったのである。このまま行けば、明日の昼前には奥地に到達するだろう。
家政魔導士。魔力が低い故に戦闘職の魔導士としては役に立てず、代わりに魔法を利用して冒険中の炊事洗濯等の雑務を一手に引き受ける事から名付けた独自の職業なのだそうだ。
移動と戦闘で疲れ切ったところへもって、炊事だのなんだのというのは出来ればご免被りたいというのが冒険者の本音だ。食事などは簡単な調理をすることもあるにはあるが、全て干し肉や乾パンのような簡易保存食で済ませてしまう者も多い。それを全て引き受けるというのだから有難いと言えばそうなのだが、しかしそれでは単なる家政婦ではないかと思いきや、このシオリひとり居るだけで恐ろしく快適な休息を得られるのである。
初日の野営でまず驚かされたのが、風呂を提供されたことだった。
「お風呂の支度が出来ましたので、食事の用意が出来るまで、ごゆっくりどうぞ」
「風呂!?」
移動中の野営地、それも野外の原生林でまさか風呂を勧められることになるとは思わず、アレクは度肝を抜いた。滅多な事では動じないつもりであったが、その声が半ば裏返る。野営地の設営中に何かやっているなとは思っていたが、よもや風呂支度をしていようとは。
「洗濯物があるようでしたら、こちらに出しておいてくださいね。朝までには洗って乾かしますので」
水場も無いのにどうやって!? という疑問を差し挟む余地もなく、勝手知ったる様子のクレメンスに引き摺られて、簡易天幕の中に連れ込まれた。一番風呂は男性からどうぞという女性陣の勧めで有難くそうさせてもらうことにするのはいいとして、それにしても、風呂。風呂とは。せいぜい行水程度だろうと高を括っていたら、中々に立派な「浴室」である。天幕の中の地面に掘られた浴槽からは湯気が立ち上り、傍らには有難くも小ぶりではあるがアルミ製の洗面器とリネンのタオル、そして石鹸が置かれていた。これを使えということなのだろう。
リヌスと二人で呆然としている間に、クレメンスは湯船の中だ。ともかく装備を外し服を脱いで、湯船の縁に立つ。円柱状に硬く押し固められた地面に満たされた温かい湯に、魔力の残滓を感じ取った。
「……魔法か」
「大したものだろう?」
まるで自分の事のように自慢げにクレメンスは言った。
「土魔法で地面を整形して固化し、水魔法で満たして火魔法で適温にするのだそうだ」
「……確かに魔力こそ低いようだが、精度は上級魔導士並みだな。見事なものだ」
魔力の低さ故か湯船は狭い。とはいえ待ち時間で体を清めて交代で浸かれば大の男三人でも十分に使用に足る大きさだ。湯船にそろりと足を浸けて湯温に慣らし、徐々に身体を沈めていくと、思わず深い溜息が漏れる。温かい湯で体の凝りも解れ、蓄積した疲労も消えていくような心持ちだ。
「極楽極楽ー」
リヌスはうっとりと目を閉じ、夢心地のようだった。ひとしきり風呂を堪能し、石鹸を拝借して身体の汚れを落とす。汗と埃塗れのまま寝る事を想定していたものだから、清潔な身体で替えの服に着替えれば、すっかりと満たされた気分になっていた。
「……ん?」
辺りに漂う旨そうな香りに腹を刺激されつつ、ふとある事に気付いて首を傾げた。原生林の中でじっとりと纏わりつくようだった湿った空気が、何故かほどよく調湿されてさらりとしている。風呂上がりの汗の引きも早い。
「どういうことだ?」
「……どうかしました?」
天幕の傍らで食事の支度をしていたシオリが顔を上げた。
「いや、空気の不快さが消えているな、と」
「ああ、それでしたら」
シオリは調理の手を休めないまま、にっこりと微笑んだ。
「火魔法と風魔法で野営地の結界内の湿度を調節しました。あのままでは寝苦しいと思いましたので。除湿した水分はお風呂のお湯張りに再利用しました」
「そ、そうか」
なんとも贅沢な魔法の使い方である。思いもよらない魔法利用に感心しているうちにエレンが入浴を済ませ、食事の支度も整ったようだった。
「あのね、食事前に申し訳ないんだけど、髪の毛乾かして貰えるかしら。噂で聞いて気になってたの」
しばらく躊躇う素振りを見せていたエレンが遠慮がちに申し出る。
「いいですよ。ではそこに後ろを向いて座って頂けますか」
何が始まるのか。大人しく言われるままに地面に座るエレンを興味深く眺めていると、シオリは両の手を軽く広げて術式を展開した。右手に火魔法、左手に風魔法。微弱な二つの魔法が両の手の上で溶け合い、温かい熱を帯びた風が生まれた。
「待て待て待て待て!」
最上級難易度とも言われている魔法合成が目の前でいとも容易く行われた事に驚愕してアレクは目を剥いた。
「ちょっと待て。二種類の魔法を同時発動して合成するなど大魔導士でも成功例は少ない。お前、低級魔導士だろう。どういうことだ」
「はぁ、その通りですが」
シオリは答えながら、温風をエレンの髪の毛に向けて発動した。濡れ髪が徐々に乾き、綺麗な金髪がさらさらと風に靡く。
「細かい作業は得意なんです。低い魔力がかえって微調整しやすいらしくて、それで」
事も無げに言うが、それがどれだけ重大な事かわかっているのだろうか。歴史に名を遺す程の大魔導士の中には成功させた者も居るには居るが、複数魔法の合成は魔導士の長年の夢、永遠の研究課題だ。
シオリは温風で乾かした髪を、次は冷風を浴びせて落ち着かせる。
「凄い……噂には聞いていたけれど、本当に魔法を合成できるのね」
艶やかな金髪を指先でさらりと撫でながら、エレンは呟くように言った。
「以前同行した知人も何度か試してみたらしいがね。どうしても魔力が片方に偏って、合成どころかもう片方の魔法を消滅させてしまうのだそうだ。いずれ是非とも研究に協力して欲しいと言っていたよ」
クレメンスの言葉に照れたようにシオリは顔を赤らめたが、気を取り直したように笑って言った。
「さ、食事が冷めてしまいますから、温かいうちに頂きましょう」
釈然としないが、促されるままに皿を受け取る。アルミ製の仕切り付きの皿には、香辛料の効いた香りの飴色に輝く豚肉とピラフが盛られ、野菜屑と豚肉の欠片が浮いた黄金色のスープを満たしたカップが一緒に手渡される。誰かの喉がごくりと鳴った。
「さあどうぞ」
「いただきまーす!」
シオリの合図を待つ暇も無く料理をがっつき始めたリヌスを横目に、豚肉を口にする。まずはスープからいくのがセオリーなのだろうが、腹と食欲を刺激するこの香ばしい香りはどうにも我慢出来なかった。塩気と甘味の加減が絶妙な甘辛いソースと香ばしく焼けた豚肉の旨味が口一杯に広がった。濃厚な味わいと共に生姜と大蒜の香りが鼻を抜ける。
旨い。
咀嚼のペースも早まり、あっと言う間に平らげてしまった。皿の底に旨味の溶け込んだソースが残っている。
(――勿体無いな)
ちらりと横を見ると、クレメンスがソースをこそげてピラフに絡めていた。なるほど、上手い事を考えるものだ。これならばソースまで余さず食べ切ることが出来る。感心しながらソースを絡めたピラフを口に運んだ。ぱらりと炊き上げられたピラフととろみのある濃厚なソースが絶妙に絡み合う。これも旨い。出汁の効いたスープも具の野菜屑ひとつ残さずに啜り終えると、後には空になった皿と膨れた腹が残された。旅の最中とあって量こそ少ないものの、思いがけず温かい風呂と旨い食事に有り付けて、すっかり満足しきってしまった。
これだけでも相当なものだが、食器洗いと洗濯を済ます前に寝床を整えると言われ、まだ何かあるのかと驚く。そもそも整えるような寝床があっただろうか。せいぜい寝袋と毛布を広げるくらいなのだが。
見ているとシオリは焚火から少し離れた地面を両手で探り、此処だと決めた場所で土魔法の術式を展開したようだった。見る間に地面が平らに均され、土が柔らかく細かい粒に変化していく。そのうちに片手から風魔法が発動し、土の湿り気を飛ばしていった。それが終わるとさらりと乾いた土の粒子が徐々に押し固められ、最終的には綺麗に整地された領域が出来上がる。パーティメンバー全員が並んで眠れるだけの広さだ。触ってみると、押し固められたと思っていた地面は予想していたような硬さは無く、程良い弾力を保っていた。
「こちらで休んでくださいね。ベッドのようにはいきませんが、普通の地面に寝るよりは多少良いかと思います」
「いや、有難い。これだけでも大分違う。快適に休めそうだ」
食事を終えた他のメンバーはそれぞれの寝床を確保すると、得物の手入れと明日の支度を始めたようだった。これが終われば就寝だ。見張りは二人ずつ三時間ごとの交代で話が付いた。シオリは朝食の支度も兼ねたいということで、順番は一番最後を希望した。二人ずつだと最後の番はシオリ一人になる。使い魔のスライム――名はルリィだという――は危険感知能力があるから大丈夫とは言われたが、流石に不安が残る。そこは自分が引き受けることにした。元より一人旅に慣れているのだ。多少睡眠時間が短くともさほど問題は無い。
寝床を整えたシオリは水魔法で呼び出した水で食器を濯ぎ、排水をルリィが嬉しそうに(そう見えた)飲み干す。風魔法で乾燥させられた食器を背嚢に仕舞い込むと、次は入浴と洗濯らしい。気が乗って声を掛ける。
「……洗濯はどうやるんだ?」
「ご覧になりますか?」
興味があるのかリヌスとエレンが近寄ってきた。既に見知っているクレメンスは得物の手入れを続けていたが、仲間達の様子を微笑ましく思うのか、口元が緩い弧を描いている。
シオリは背嚢から目の細かい網を袋状に縫い閉じた物を何枚か取り出し、汚れ物をメンバー毎に分けてその網の袋に詰めていく。洗濯網というらしい。
「洗い物に多少負荷が掛かりますので、生地の保護のために使うんですよ」
言いながら水魔法で水柱を作り出し、そこに石鹸の削り滓を溶かして洗濯網を放り込む。それから水柱に魔力を流し込むと、内部で緩やかな水流が発生したようだった。洗濯網がくるくると回り、微かな石鹸の香が辺りに漂う。
「シルクとかレースのような繊細な物や泥汚れだと手洗いでなければ無理ですが、汗や埃くらいなら、これで十分綺麗になります」
数分ほど洗ってから洗濯網が取り出される。汚れた水は土魔法で作った溝から結界の外に排水され、もう一度作り出された水柱にホワイトビネガーを溶かして再び洗濯網が投入された。
「酢を入れたのは何故だ?」
「石鹸のアルカリ性を酢の酸性で中和するんです。そうすると、乾かしたときにふんわりと仕上がりますよ」
「そ、そうか」
台詞の前半はいまいち理解出来なかったが、要するに仕上がりが良くなるということらしい。再び水流の発生した水柱を眺めているうちに、濯ぎも終わったようだ。取り出された衣類は風魔法で軽く水気を切られた後に、木の枝に張られた縄に吊るされていく。
「手際がいいなぁ……」
流れるような作業にリヌスがぼそりと呟き、エレンと二人でそれに同意した。
吊るしてしまえばそれで終わりかと思いきや、風と火の合成魔法が発動され、湿った衣類の周囲に温風が発生した。薄手の物は直ぐに乾きはじめ、厚手の物も表面の湿気が飛ばされていく。再び当たり前のように使用された合成魔法にはもうこの際触れないでおくことにした。
「さすがに乾くまでずっと発動させているのは大変ですので、大まかに湿気を飛ばしたら、あとはこのまま朝まで吊るしておけば乾きます」
「すげー……」
リヌスは最早単語でしか言葉を発しなくなっている。エレンは魔法の利用法で何か思うところがあるのか、しきりに考え込む様子を見せた。
(大したものだ)
称賛の言葉は敢えて口には出さなかったが、内心舌を巻いていた。魔法をある意味完全に使いこなしている。一見大掛かりな魔法のようにも見えるが、放出される魔力量は実際にはさほど多くは無い。連発している割に疲労がほとんど見受けられないのはその為なのだろう。そして一晩休めばほぼ全快という低い魔力量が、かえって強みにもなっているのだという。自らの欠点を逆に利点に変えたその在り様は、他の冒険者の参考にもなるのではないだろうか。
「それでは私もお風呂を頂いて来ます」
そう言い置いて天幕の中に消えたシオリを見送りながら、そんなことを思った。
翌日の朝は爽快な目覚めだった。完全にとは言わないまでも、野営中という事を考慮すれば十分過ぎる回復度だ。
まだ薄暗さの残る中、寝床を片付け軽く伸びをする。身支度を整える為に一歩踏み出し――。
「うおっ!?」
足元に大きな水溜まりがある事に気付き、慌てて足を引っ込める。
「な、なんだ?」
何故こんな所に水溜まりが。雨でも降っただろうか。空を見上げ辺りを見回すが、降雨の痕跡は見当たらない。疑問に思っているうちに、その水溜まりがうねうねと蠕動を始め、みるみるうちに饅頭型に変化する。見慣れた姿のそれに、思わず安堵の息が漏れた。
「……驚かすな。ルリィか」
「あ、すみません。その子、気が緩むと元の形に戻ってしまって」
先に起き出していたシオリの声が掛かった。
「……気が、緩む」
スライムに気が緩むとか引き締まるとかそういうことがあるのかどうかは正直疑わしいが、この使い魔の主が言うのだからそうなのだろう。多分、深く考えてはいけない。
ルリィの身体の一部がしゅるんと伸びて、まるで片手を上げているような形になった。「いよぅ」と気さくに挨拶されたような気がして、思わず「ああ、おはよう」と声を掛けてしまった。その対応は間違ってはいなかったらしい。ルリィは満足げに(そう見えた)ぷるんと震えると、シオリの元へと移動して行く。
「おはようございます」
シオリは既に身支度を済ませていた。前の見張り番だったクレメンスらは既に寝支度を始めていた。シオリが小さな盥に水魔法の水を満たして差し出してくる。これで洗顔しろということらしい。短く謝意を伝え、顔を洗い口を漱いで身形を整えた。汚れた水を捨てようとしてふと足元を見ると、物欲しそうな顔で(そう見えた)見上げているルリィと目が合った(ような気がした)。
「……飲みたいなら、新しい水かスープを分けて貰え」
さすがに自らの身支度で出した汚水を与えるのは抵抗があり、その旨を伝えるとルリィは大人しく主人の元に戻って行く。このスライムと何度かやりとりして分かったが、意思疎通は可能のようだった。透明なゼラチン質の体内に小さな核を内包しただけの単純な構造のスライムの、一体どの器官で思考しているのかは全くもって不明だが、使い魔として在るのは知性の高い証拠だ。
朝食の支度を終えて魔法の明かりで読書を始めるシオリと、ふるふると身体の形を変えながら一人遊びに興じているルリィをぼんやりと眺めているうちに、夜が明け仲間達が起き出してくる。
朝食は硬めに焼き上げられたパンに昨夜の残りを温め直したスープ、そして炙った腸詰肉だった。千切ったパンをスープに浸して食べ、香草の効いた腸詰肉を齧る。簡単なものではあったが、温かい食事はそれだけで活力の源となった。
(なるほど、これが家政魔導士か)
魔法を意のままに操り環境を整え、仲間達が過ごしやすいように野営地での生活を世話する家政魔導士。シオリ独自に考案したというこの職業は、確かにこれからの憂鬱な道程の助けになるだろう。