09 幻から現へ
夜、楽しい夕餉と食後のひとときを過ごした後。
最初の見張りを務めるシオリとアレクを残し、仲間達は床に就いた。ニルスは「じゃあ、アレクをよろしく。何かあったら遠慮なく起こしてくれよ」と言い置いて毛布に包まり、やがて小さな寝息を立て始める。ルリィは彼と共に務める次の見張りのために、これもまた早々に地面に広がって眠ってしまった。
寝息の他はどこか遠くで獣が鳴く声と地下水脈が流れる音がする以外に音らしい音はなく、ひどく静かだった。淡く輝く夜紫陽花と魔法灯の光が暗い洞穴を柔らかに照らし出し、そのどこか非現実的な光景を眺めていたシオリは、ふ、と小さく息を吐き出して微笑んだ。
――本来は物語の中でしか見ることができないはずだったお伽噺めいた光景。しかし今はそれが現実のものとして目の前に在る。平凡なOLから一転、冒険者として生きることになったシオリが日常的に目にする光景だ。
(……もうこういうの、当たり前になっちゃったなぁ……)
むしろ日本での生活が非現実となりつつある今、もうこの世界にほとんど馴染んでしまっているのだということを自覚する。
ちくりと胸の奥底が小さく痛んだ。でも、痛むだけだ。以前のあの激しく胸を焼くような望郷の思いは薄れつつあった。
お前はここにいる、ここに在る、そしてここにいて良いのだと強く教えてくれた人がいるから、だからこの世界にいる自分を認めてあげられるようになった。この世界で生きていくことを前向きに受け止められるようになった。
――あの世界の記憶を、想い出として受け入れられるようになった。
全力で受け止めて、支えて、想いを分け合ってくれる人がいる。ただそれだけでこうまで心が軽くなるとは思わなかった。
(アレク。アレクのお陰だよ)
アレク・ディア。全てを捧げても良いと思える人。
その愛しい彼は今、魔法で作り出した岩の椅子に腰掛けたままぼんやりとシオリを眺めていた。手練れの彼のことだから周囲への警戒を緩めてはいないだろうが、それにしてもいつもと様子が違うのは明らかだった。
一瞬だけ広範囲に探索魔法を広げて異常がないことを確かめてから、シオリはそっと彼に近付いた。
「……ね、アレク。大丈夫?」
「……ん? ああ」
アレクはどことなく焦点の定まらなかった瞳をシオリに向け、曖昧に微笑んだ。
「問題ない……と言いたいところだが、色々思い出してしまってな」
言いながら手を伸ばした彼は、シオリの腰をぐっと引き寄せる。強く抱き締めて胸元に顔を埋め、長く息を吐き出した。
「……本当に、幻で良かった」
弱々しく掠れた声。そっと覗き込んだ紫紺の瞳は、不安と怯えに揺らいでいた。
ニルスの言った通りだ。ぶり返して弱気になっている。
シオリはアレクの背に腕を回して、幼子をあやすように優しく叩いた。少し強張っていた身体から徐々に力が抜けていく。
そうしてしばらく経った頃、アレクはようやく口を開いた。
「――酷い幻覚だった。お前が俺の目の前で殺される幻覚だったんだ」
「私が?」
目の前で恋人が殺される。
それはひどく恐ろしく悲しいことだけれど、それにしてもあのときのアレクの様子は常軌を逸していた。いつも毅然としている彼が、蒼褪めて震えて譫言を呟くほどの毒――幻。それほどまでに惨いものだったのか、それとも毒そのものの影響もあるのだろうか。
そう思ったシオリの疑問を察したのだろうか。アレクは弱々しく笑って言った。
「前にも話したことがあっただろう。昔の恋人に別れを切り出したら暴言を吐かれたと」
「……うん」
――確か、貴方との想い出にもその存在にすら価値はないと、そう言われたのだったか。彼女にそこまで言わせるだけの背景があった。しかしそれを分かっていても、あまりにも惨い言葉だとそのときは思ったものだ。存在否定は確実にその者の心を削り、蝕んでいくからだ。
「幻の中で……倒れて動かなくなったお前のそばで、その彼女が俺に言ったんだ。弟も彼女も捨てた俺に、シオリと幸せになる資格なんかないってな。だからこれは報いなんだと言われたよ。シオリが殺されたのは俺のせいだ、俺の報いを受けてお前が殺されたんだと……」
シオリは口を開き掛けて止めた。言葉を途切らせた彼がまだ何かを言い淀むようだったからだ。
果たして、しばらく躊躇った後にアレクは言った。
「前にやられたときも、やはり彼女に責められる幻だった。あれはお前と出会うよりもずっと前のことだから、勿論お前は出てはこなかったが……しかし二度ともあれの毒にやられて分かったよ。あれは多分元々持っている罪悪感や恐怖感を増幅する作用があるんだ。初見の魔獣が俺の過去を映す幻覚を作り出せる訳がないからな」
「罪悪感?」
「……ああ。俺は」
そこまで言って言葉を詰まらせた彼は、やがて意を決したように顔を上げた。苦々しい笑みがその口元に浮かぶ。
「別れ際の彼女の言葉があまりにも強烈で、それで俺は……ずっと被害者面をしていたんだ。あの台詞の是非なんて関係ない。俺が原因で別れることになったのは間違いないんだ。相談もなしに勝手に別れを決めて、もう覆せない段階で打ち明けたことは疑いようのない事実だ。行き遅れの歳まで待たせて、別の条件の良い男を紹介するからなんて言ったところで納得できるはずがない。俺が卑怯で臆病だったばかりに……あんなことになったんだ。弟とのこともそうだ。弟の優しさに甘えて全てを押し付けて、楽な場所に逃げてしまった」
「アレク……」
――ああ、だから。だからあんなにも怯えて震えていたのか。
何度か聞かされた彼の過去。それを語る言葉の端々に深い悔恨の念が滲み出ていた。きっとずっと悔いて生きてきたのだろうと、今なら分かる。
自身の過ちを突きつけられ、その報いだと言って恋人を殺される――そんな幻覚を見せられて平静でいられる訳がない。
(……でもね)
シオリは両腕を伸ばしてそっとアレクの両頬に触れた。
この人の過去は詳しくは知らない。断片的に教えられただけ。それも彼の主観で語られた話ばかりだ。だから事実との間には齟齬だってあるかもしれない。
でも、だとしても、自分は今の彼しか知らない。いつだって逃げずに先陣を切って戦う強い彼しか知らない。互いに気遣い合い、支え合うのが仲間だと言った彼しか知らない。強く優しく、そして頼れる人。それでいてどこか脆いところもある、そんな彼しか知らないのだ。
その今ある彼の姿は過去の過ちを悔い続けたがゆえに形成されたものなのかもしれないけれど――でも。
「私はアレクに救われたの。色んなことに追い詰められておかしくなりそうだった心を救ってくれた……そんなアレクを、私は信じたい。どんなときでも逃げずに先陣を切って戦いにいく、強くて優しいアレクを信じたいの」
過去の人達は許さないというかもしれない。でも自分は、彼に救われた自分は彼の味方でありたいのだ。
「……シオリ」
目を見開いたアレクは、次の瞬間泣き笑いのような顔になった。もっと年若かったなら――あるいはその少年時代であったなら、もしかしたら本当に泣いていたかもしれないと思うほどのそれ。
「やはりお前は優しいな。俺に甘過ぎて……その優しさに溺れてしまいそうだ」
「……溺れてみる? 一緒に」
胸元にそっと栗毛を引き寄せて指先で梳きながら、シオリは囁いた。胸元に顔を埋めたまま彼は小さく笑う。
「夢のように甘いぬるま湯に浸って生きるのも悪くはないが……いや、むしろひどく魅力的なお誘いだがな。だが、もう色々と偽って生きるのはやめにしたいんだ」
言いながら彼はシオリの身体を引き寄せて腕の中に囲い込み、至近距離で向き合った。強い決意を秘めた瞳。いつもの彼が戻りつつある。
「シオリ。俺はお前と共に現実を生きたい。そのためにも過去に向き合うつもりではいたが、それでもどこか及び腰だったんだろうな。あの幻覚はそんな俺への警告だったと思うことにした。かなり手厳しくはあったが」
「……アレク。一緒に生きるって言ってくれるその気持ちは凄く嬉しいけど、でもあんまり気負い過ぎないでね?」
不安定だった状態から一転強い意志表明をしたその精神状態に幾分不安になったシオリは、やんわりと彼を宥める。
「……ニルスにも同じことを言われた」
そう言って誤魔化すように苦笑する彼の鼻先を指で摘まむと、ふぐ、と彼は変な声を出した。
「私もアレクと一緒に現実を生きたいよ。急に放り出されたこの場所で必死に生きてきて……でもあんまり急過ぎてどこか現実的じゃないような、ずっと悪い夢の中にいるような気分だった。それをこうやって強く引き寄せて抱き締めてくれて、何度も『お前はここにいる、ここにいていい』って認めてくれて――現実にこの場所で生きているってちゃんと教えてくれたのはアレクだもの。そんなアレクと一緒に現実を生きていけるのなら、とても嬉しい。でもそのために無理して身体を壊しでもしたら、私……辛いよ」
無理をしなくていい、辛かったら遠慮せず頼れと言ってくれたのはアレクだった。態度だけではない、はっきりと言葉でそう伝えてくれた。何度も言い聞かせるようにしてくれた、その言葉にも救われた自分がいる。
言葉は力だ。形はなくとも強い毒にもなれば薬にもなる。人を傷付けることもあれば、助けることもある――そのことをシオリはよく知っていた。
だから言の葉に乗せて届けるのだ。温かな力を、彼の心に。
「あまり無理はしないで。気負い過ぎないで。辛かったら頼って。私はアレクのそばにいるから……もう、私は」
――身も心も全て貴方に捧げたいと思っているほど愛してるから、決して離れたりはしない。だから慌てずゆっくりいこう?
その言葉に絶句して固まってしまったアレクはじっとシオリを見つめ、それからひどく狼狽えてしばらく視線を彷徨わせた。
「……お前。こんな場所でなかったら押し倒しているところだ。というか、こんな場所であることがひどく悔やまれる」
ようやくどうにか口を開いた彼は、そう言って苦笑しながらシオリを強く抱き締めた。
「ありがとな。やはり気負い過ぎていたようだ。肩の力が抜けたような気がする」
「そっか」
ふふ、と笑いながら頬を摺り寄せる。触れ合う頬はすぐに離れ、唇が塞がれた。慈しむような優しい口付け。しばらく啄み合った後に、唇を離して彼は言った。
「――帰ったら弟に手紙を出すつもりなんだ。弟とも彼女とも話をしてみようと思っている。彼女の方は断られる可能性は高いし、機会を得たとしても数ヶ月は先の話になるだろうが……その間に心の整理を付けることにするさ」
それでも年内。それだけの期間があれば十分だと彼は言って笑った。
「お前もニルスも優しいな。少なくとも二人は『今』の俺を信じると言ってくれたんだ。話を聞いてそれでも味方だと言ってくれたお前達の言葉、それだけでも……救われたような心持ちだ」
「ん。そっか……良かった」
少し進んでは後退して、そしてまた少しだけ進むことの繰り返しのこの心。彼もまた同じように自身の内面と向き合って戦っているのだろう。その先に待つもの全てが期待する結果ではないだろうけれど、それでも後悔を引き摺って生きることになるのならやるだけやった方がいい。
(現実、か)
今はこの世界に在る自分には、異世界で生まれ育ったという現実がある。シオリが何者であろうと関係ないと言ってくれた彼が、その事実を本当に受け入れてくれるのかどうかは分からない。打ち明けることが怖くないと言えば嘘になる。けれども彼が自分との未来のために彼自身の過去に本気で向き合おうとしているのなら、自分もそうありたい。自分も彼に誠実でありたい。
(私もそろそろ本気で覚悟決めないとな……)
再び絡み合う視線。柔らかく細められた紫紺の瞳が閉じ、そしてもう一度唇が重なった。今度は深い口付け。
温かいを通り越していっそ熱いくらいの舌先に唇を割り開かれ、絡め取られた舌が激しく蹂躙される。シオリの背を撫で下ろして腰に触れた熱い手のひらが、今度は脇のラインをゆっくりと撫で上げていく。その手はやがて、鎖骨をなぞってから首筋に触れた。
仲間達に聞こえないよう押し殺した声さえも吸い上げられて、その激しく情熱的な愛情表現に朦朧としながらも彼に応えようと必死に縋り付く。
やがて解放されたシオリの頬を、アレクは愛しげに撫でて「愛してる」と囁いた。
その言葉一つで身も心も満たされていく。こんなにも自分を満たしてくれる彼が心底愛しい。
だから、シオリも伝えるのだ。「私も、愛してる」と。
ペルゥ「帰宅当日だと思う」 ※性的な意味で
ルリィ「うーん、一週間はもつと思うけど」 ※性的な意味で
雪男「さすがに半月はもつのでは」 ※性的な意味で
脳啜り「こういう癖のある男は半年ももたないぜ」 ※別れる的な意味で
雪狼「あっ燻製腐ってる! 全然もたなかったよ失敗だろこれ!」 ※賞味期限的な意味で
??.。oO(全裸待機してるのにまだ来ない……)
時間の問題かと思います。




