08 穏やかなひととき(2)
ことことと茸シチューを煮込む横でトリス・パーチを捌いているアレクを、シオリはしげしげと眺めた。よく手入れされた切れ味の良いナイフで手際よくさくさくと切り分けていくその手付きに感嘆する。鳥獣類を捌くのは苦手だと言っていたけれど、魚は子供の頃から夕飯の足しにとよく釣っていたから慣れているらしい。
「そういえば、トリス・パーチって生で食べても大丈夫なの? 寄生虫とか……」
「新鮮なトリス・パーチとトリスサーモンは大丈夫だ。だがそれ以外の川魚は避けた方がいいな。特にアルファンサーモンは要注意だ。エラを取ってしっかり火を通さないと腹を壊す。よく釣れるし美味いんだが、エラに寄生してる奴が強力でな」
そう言いながら彼は内臓を取り出してボウルの水で洗い流し、骨から身を切り離していく。しばらく解体作業を続けていたアレクは、ふと眉尻を下げて苦笑いした。
「……そんなに熱心に見られるとやり辛いな。照れるじゃないか」
言われてシオリは、む、と唇を尖らせる。
「アレクだっていつも私が作業してるところ、じっと見てるじゃない」
「う。そう言われてみればそうだった」
「シルヴェリアのときだって、アレクとデニスに両脇から挟まれて凄くやり辛かったもの」
「……。それは……すまなかった」
眉尻を下げたまま再び作業を始めたアレクがなんとなく可愛く思えてくすりと笑う。
やがて綺麗な切り身になったトリス・パーチを、さらに食べやすい一口サイズに切り分けてもらった。その表面を色が変わるまで火魔法でさっと炙り、熱いうちにあらかじめ作っておいたマリネ液に漬け込む。仕込みに時間が掛かるマリネも簡単にできる、時短レシピだ。
「うーん、今度から料理用の酢も持ち歩こうかな。それかもう少し大きい瓶に入れて共用にするか……」
マリネ液用のワインビネガーは手持ちになかったから、洗濯の柔軟剤代わりに使っている酢を使った。果実酢に塩胡椒と香草、砂糖少々を加えたマリネ液の爽やかな香りが漂う。
「美味そうだな」
「でしょ」
そうして微笑み合っていると、少し離れた場所で燻製を作っていたリヌスが「おーい、そろそろ頃合いだよー」と声を上げた。
「お。できたか」
いそいそと近寄った窯周辺は燻製の香りが色濃く漂っていた。塩気と渋みを含んだ燻製特有の香ばしい匂いだ。
「開けるよー」
リヌスによって鍋の蓋が開けられる。途端に燻製の濃厚な香りと共に白い煙が立ち上り、すぐにふわりと空気に溶けて消えた。残った独特の香気が食欲を誘う。
「わぁ……」
「美味そうだな」
「すっかり飴色だわ。燻していたのは十分くらいなのに」
「うーん、この香り……ちょっとでいいから薬草酒開けようかな」
「ええー薬草酒で燻製食うのー? 変わってるなぁ」
淡い薄紅色に輝いていたトリス・パーチの白身が、今は艶と照りのある綺麗な飴色だ。リヌスはでき上がりの燻製を薄くスライスしてからそれぞれの手のひらに載せてくれた。ちょっとした試食会だ。彼が真っ先に口にしたのを皮切りに、体温で蕩けてしまいそうなその薄切りの燻製を口の中に放り込んだ。
塩気の効いた燻製の豊かな香りが口いっぱいに広がり、遅れてトリス・パーチの上品な甘みがやってくる。
「ふわぁ……蕩けそう……」
「うま……」
「これは……」
あまりの美味しさに語彙力を失ってしまった皆を見てリヌスが得意げに笑った。ちなみにルリィはぷるぷると小刻みに震えている。こちらもお気に召したようだ。
「美味いだろ?」
「何度か料理屋でムニエルを食べたことはあるが、断然こっちの方がいいな。これは癖になる。まるで高級な生ハムじゃないか」
「俺もだなー。でも料理屋だとあのきれーな薄いピンク色を生かしたいらしくて、勧めてもなかなか理解してもらえないんだよねー。せっかくの上品な高級魚を茶色くするなんて勿体ないってさ。茶色くたって別に見た目悪いわけじゃないのに」
食材の見た目の美しさを生かしたいという料理人の気持ちも分かるけれど、味だけをひたすら追求するのも悪くはない。勿論どちらも両立させられれば言うことはないが、そこまでの技術を持ち得ないシオリとしてはどうとも言い難かった。
「これ、実際に食べさせてみたらいいのではない?」
「うん。そう思うんだけどいつも味見でつい全部食べちゃうんだよねー」
「味見で完食したら意味ないじゃないの……」
あははと笑って誤魔化すリヌスをエレンが呆れ気味に小突く。
後日、なんとか取引先に試食用の燻製を持ち込んだらしいが、味はともかく茶色に煤けた塊を美しい高級魚トリス・パーチとして客に供するのは抵抗があるとして結局新メニューに載ることはなかったようだ――というのは表向きの話で、実のところその美味しさの虜になった料理人一同が「見た目に失敗した試作品」などとと称してちゃっかり賄い料理に追加していたらしい。後に上客にしか明かされない裏メニューになっていたことは秘密の話だ。
「……しかし、こんな簡単な設備で燻製ができるとは思わなかったな。小屋か丸太で燻すのは知っていたが」
普通は燻製小屋か空洞の丸太の中で吊るして長時間燻すものらしい。味付けや乾燥などの長期保存用の下処理にも日数を掛けるらしく、そんな手間暇の掛かる燻製をその日のうちに作るやり方があることに驚かされたものだ。
用意するものは常温に戻して風乾燥させた食材に鉄製の小鍋、二枚の金網、金属製の小皿、鍋蓋に燻煙チップ。この燻煙チップも特別なものではなく、果樹の木屑や小枝、手に入らなければ茶葉でも代用できるようだ。
「俺の村は結構山深い場所だったからあんまり嗜好品の類は手に入らなくてさ。長老に『贅沢品を使うとは罰当たりめー!』なんて言われてたけどね。トリスだと普通に売ってるから」
そう言いながらリヌスは笑った。
丸底の小鍋の底にこの燻煙チップを一掴み平らに敷き、その上に四隅を折り曲げて脚のようにした金網を置いて小皿を載せる。この小皿に食材を載せるのかと思いきや、これは燻煙中に食材から滴り落ちた汁気を受け止めるためのものだそうだ。最後に鍋に被せるようにして金網を載せ、その上に食材を置いて蓋をする。そのまま火に掛けて数分から数十分燻せばお手軽燻製の出来上がりだ。
「……汁気が落ちたら何か問題でもあるのか?」
「燻煙チップに汁が落ちると、煙が消えちゃったり変な煙が出て味が悪くなるんだ」
「なるほど」
「あ、食材の表面が濡れてても煙と水気が反応して酸っぱくなるから要注意だよ。だから燻す前に必ずしっかり水気を拭いて、しばらく風で乾燥させてねー。冷えた食材使う場合は常温に戻してから。じゃないと燻してる間に食材が結露しちゃうからね。トリス・パーチは特殊だけど、初心者だったらまず水分の少ないものから始めてみるといいよ。茹で卵やチーズ、ソーセージとか干物……あ、ちょっとリッチにいくなら牛肉とかアルファンバイソンもいいね」
「ほう。それも美味そうだな」
「アルファンバイソン……って、魔獣でしたっけ?」
「うん? あれ、シオリの国にはいなかった?」
会話の合間に何気なく差し挟んだ質問にリヌスは不思議そうな顔をした。どうやらかなり一般的な魔獣のようだ。シオリは慌てて曖昧に頷いた。隣のアレクが何とはなしに意味深長な視線を流して寄越す。
「なるほどー。そっか、東方くらい離れた場所になると生態系も違うかな」
しかしリヌスは一人で結論付けたようだ。興味深そうに何度か頷いてから、シオリのために解説してくれた。
「アルファンバイソンってのは平原地帯に棲んでる魔獣。大陸の北側だったらどこにでもいるみたいだね。だけど赤身肉が美味いから飼い慣らして家畜化してるところも多いんだ。領内だとブロヴィートかディマか……あとはヴィオレッテ地方まで行くと結構手広くやってるみたいだね。でも少数飼いで特定の店にしか卸してないから、買える店は限られてると思うよ。多分マリウスの店にはないんじゃない?」
「そうですね。見たことないと思います」
だからこそ知らなかったとも言える。一応魔獣図鑑の内容は一通り読み込んではあるが、名前は覚えていても細かい解説まで覚えていないものも多い。
「うーん……勉強不足……」
「シオリは真面目だな……俺が三年目のときなんて、まだ図鑑の半分も覚えてなかったぞ。名前を覚えているだけでも大したものだ」
「そうね。私なんか毒攻撃する魔獣しか覚えてなかったわよ。さすがに今はもっと覚えてるけど」
「勉強家なのはいいけど、あまり根を詰めるとパンクするよ。ほどほどにね」
ベテラン揃いの仲間達に口々にフォローされて、なんとなく微妙な気持ちになりながらもシオリは微笑んで頷いた。それでも皆の気遣いが嬉しかった。
「しかしこの鍋、かなり変色してるな。臭いも大分こびり付いているようだが」
「あー、まぁ中で煙出すわけだからね。洗っただけじゃ落ちないから、燻製専用に用意するんだ」
「それなら新品を使うよりは、要らなくなった鍋を使った方が良さそうだな」
「そうだね……」
「俺の鍋を燻製用に下ろすか。同居するなら俺が使っていたものは不要になるからな」
「うん」
「……うわぁ。独り身には地味に辛い会話」
ぼそりと呟いたニルスに皆が噴き出す。
シオリと共に熱心に手帳に書き付けていたアレクは満足そうに頷いた。
「……よし。火力の調整が少々難しそうだが何度か試してみるか。他に注意することは?」
「うーん。あと必要なのは時計くらいかな。慣れるまではちゃんと時間計ってやった方がいいよ。燻し過ぎて味がえぐくなったり、肉が硬くなっちゃったりするから」
「なるほどね。気を付けるよ。もう変な味でがっちがちの硬い肉はまっぴらだ」
「……騎士隊の飯、よっぽどだったんだな……」
硬い肉と聞いて今度は真顔を作ったニルスに、アレクが何とも言えない視線を向けている。ブロヴィートの雪狼襲撃事件で医療部隊の追加要員として参加していた彼は、騎士隊で出された失敗料理にはこりごりのようだ。
「あれは私も二度とご免だわ。でも今日はシオリがいるのだもの。どれも美味しそうよ。いい匂い」
エレンに微笑みかけられて、シオリもまた笑った。
「じゃ、そろそろご飯にしましょうか」
夜紫陽花の淡い光に囲まれた野営地に、小さな歓声が上がった。遠征でのお楽しみ、細やかな晩餐会の始まりだ。
用意周到だとニルスが指摘した通り、ご丁寧にライ麦のクラッカーやチーズまで持ち込んでいたリヌスの手で作られたカナッペが配られる。クラッカーに削ったチーズと作りたての燻製を載せた上に、エレンが香草にもなる薬草をぱらりと散らしてくれた。
その横でアレクが茸シチューを木の器に盛り、それをルリィが器用に運んでいく。器を受け取ったニルスが食卓に並べた。最後にシオリが霜降り茸のバターソテーに星屑茸とアイロラ茸の塩胡椒炒め、そしてかりかりに揚げたトリス・パーチの背骨を豪快に皿に盛って真ん中に置くと、一際大きな歓声が上がった。
美味しそうな香りに華やいだ空気、そして笑顔が満ちた食卓。
「美味ぁ……幸せ……」
薄切りの霜降り茸を口いっぱいに頬張ったリヌスがうっとりと呟く。
霜降り茸は表面にふさふさの産毛が生えた大ぶりの白い茸だ。しかし内側はまるで牛の霜降り肉のようにも見える鮮やかな赤色で、食感もまた柔らかな肉のものに近い。
口に入れるとバター醤油をたっぷりと吸い上げた霜降り茸の味が広がる。元々茸自体が旨味の塊のような食材だ。これに旨味の強い発酵食品のバターと醤油を掛け合わせると、旨味の相乗効果で段違いの美味しさになる。まるで上質な和牛料理のようだ。
「柔らかくて凄く美味しい……すき焼きにしてみたい……」
「すき焼き?」
「うん。郷里の料理。この間姐さんに味醂とお酒をもらったから作れそうなの。甘じょっぱいからアレクも好きな味じゃないかなって」
やはり甘い味が嫌いではないらしいアレクは嬉しそうに笑った。
「ほう? では次に霜降り茸が手に入ったら作ってくれないか」
「うん。あ、でも本当は牛肉で作るものだから、帰ったら早速作るね」
「お。それは楽しみだ」
春菊や焼き豆腐がなく生卵も使えないのが残念なところではあるが、それでも十分に郷里の味が楽しめるだろう。
豊かな王国だからこそできる贅沢。落とされた場所がこの国であったことに密かに感謝しながら、次はリヌスお手製の燻製載せクラッカーを齧る。ざくざくという軽快な歯触りと、チーズや燻製の濃厚でねっとりとした食感が楽しい。
「……すっごく美味しい。これ、火で炙ったらもっと美味しいかも」
「わ、やめてよー。やりたくなるじゃない」
つい落とした呟きを耳聡く拾ったリヌスが、早速熾火で炙っている。とろりと蕩けて燻製を包み込んだチーズが、ふつふつと焼き色を付けていく。頃合いを見計らってそのまま口に放り込んだ彼は「熱、あつっ」と言いながらも幸せそうだ。簡易ピザといったところだろうか。
「うまぁあああああ」
「あら、美味しそうね。私のもやってくれる?」
「俺のも頼む」
アレクとエレンがリヌスに次々とクラッカーを手渡し、ルリィまでちゃっかりそれに参加している。その様子を微笑ましく眺めていたシオリに、ニルスがそっと話し掛けた。
「――シオリ、あのさ」
「はい?」
囁くような小声。何か彼らには聞かれたくない話なのだろうか。ニルスの表情は柔らかながらもどこか真剣みを帯びていた。
「今夜は君とアレクの二人、一番最初に見張り番をやってくれないか?」
「え……と、それは構いませんけれど……でも」
アレクは先に休ませてあげたいと思う。そう切り出すと、ニルスは眉尻を下げて笑った。
「本当はその方がいいんだけれどね。でも多分……アレク、今夜は寝付きが悪いか寝ても夢見が悪いかもしれないと思うんだ」
話をして幾分は落ち着いたようではあるけれど、まだしばらくは脳啜りに見せられた幻覚が後を引くかもしれないとニルスは言った。
「大分質の悪い幻覚を見たようでね。もしかしたら君と話をしたがるかもしれないから、良かったら二人きりで話してみてくれないか。彼が何も言わなければそれでもいいから」
「……分かりました」
アレクを頼むと暗に彼は言っているのだ。自分が恋人だからか、それとも他に何か理由でもあるのか。そんなシオリの疑念を察したのか、ニルスは少し躊躇う素振りを見せてから「あんまり詳しくは言えないけれど」と前置きしてから言った。
「幻覚に君が出てきたらしいんだ」
「……え? 私が?」
「うん。それで少し参ってるようなんだ。今は皆と話して気が紛れているかもしれないけど、落ち着いたらぶり返すかもしれないから……」
医者でもあるニルスがここまで気に掛けているのなら、きっとそうなのかもしれない。あのときのことには触れない方が良いと思っていたけれど、もし幻覚で見た何かが傷になるようなら、今ここで吐き出してもらった方がいい。
「私で力になれるのなら、是非そうさせてください。あのときのアレク……ちょっと、尋常じゃなかったから」
あんなに強い人が蒼褪めて震えるほどの幻覚。そういえばあのとき口にしていた言葉も、悪夢に魘されているときの譫言と同じものだった。
そして、シオリの腕を掴んで離そうとはしなかった彼――。
「……うん。だから、頼むよ」
「……はい」
滋味深い味わいの茸シチューを飲み下しながら、シオリはアレクに視線をやった。彼は竈を覗き込んでリヌス達と何やら笑い合っている。
ふとその視線がこちらを向いた。柔らかな紫紺色の瞳を細めて微笑みかけてくれた彼。しかしその顔にはほんの僅かに憔悴の色が残っていた。
脳啜り「飲みメニューにはポテチ派。もぐもぐ」
ルリィ「何食べてるの」
脳啜り「デスレイン」
ペルゥ「ええ……」
何かひたすら作って食ってるだけの回でした。
次回、ラブシーン(※全年齢)




