表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
188/333

07 穏やかなひととき(1)

「……うん、これでよし」

 仲間から預かっていた洗濯物を干し終わったシオリは、次は温風を起こして軽く湿気を飛ばした。冒険者向けの衣類は濡れても乾きやすい素材が多く、こうしておけばすぐに乾くのがありがたいところだ。

 ちらりと背後を振り返ってルリィの様子を見る。あの気の良いスライムの友人は、今はエレンのそばでぷるんぷるんと震えていた。空き時間で薬の原料となる花や茸を採集している彼女の護衛役を引き受けてくれたのだ。

 ぷるぷるぽよぽよしている可愛らしい護衛を見て微笑んだシオリは、手元の外套に視線を戻す。粘液塗れになっていた、アレクと自分の外套だ。さすがに洗濯魔法で洗うには躊躇われる作りのそれを前に少しだけ考え込む。

「うーん、どうしようかな」

 河羊(エルヴ・フォール)の革にトリス兎の毛皮を合わせて作られた外套。表面は汚れや水分を弾く撥水効果がある素材で、冒険者向けの冬用装備に広く用いられているものだ。軽く水洗いする程度なら問題はないらしい。水辺に棲息する魔獣河羊の革は水気に強く、多少水に浸けたくらいで傷むことはないようだ。

「もう乾いちゃってるから、ブラシでざっと落としてから水で軽く流せばいいか」

 専用の小さなブラシで撫でるようにしてすっかり乾いた粘液を落とし、水魔法で緩い水流を起こして表面に残った汚れを洗い流す。あとは軽くタオルで拭ってから風魔法で湿気を飛ばしておけばすぐに乾くはずだ。

「魔獣素材って便利だなぁ……」

 普通の毛織物や毛皮製品ならなかなかこうはいかないのだろうが。

 しみじみと呟いたシオリに、すぐそばでトリス・パーチを捌いて燻製の下拵えをしていたリヌスが「そうだねー」と返す。

「爺さんの時代はこういうのはそんなに多くなかったらしいけど、ここ二、三十年くらいで魔獣素材の研究がぐっと進んでさ。すっげー便利な装備品ができたせいか昔より冒険者人口が増えたらしいんだよね。余所の国はどうだか分かんないけどさ」

「そうなんですか」

「うん」

 元々冒険者とは、武者修行や探検、魔獣狩りなどをして各地を旅する流れ者のことだった。荒くれものや変わり者がなるというのが人々の一般的な認識だった冒険者。しかし、騎士隊には頼み辛いような荒くれ仕事や護衛なども飯の種として快く引き受けていた彼らは、人々の生活に欠かせない存在でもあった。

 そういった事情から冒険者組合(ギルド)が設立されて組織化され、立派な職業の一つとして認知されるようになったのが六十年ほど前のことだ。この頃から冒険者業はただの腕自慢だけが集う場所ではなく、様々な事情から行き場のなくなった者達の受け皿としても機能するようになった。手に職を持たずとも一定の条件さえ満たせば誰でも受け入れる冒険者組合が世に果たした役割は、実は意外にも大きい。

 訳有りや宿なしでは雇い入れる場所も多くはなく、稼ぐ術のない者達は救貧院の世話になるか身売りをするか、あるいは野垂れ死にか――さもなくば野盗に身を落とすより他はなかったのだ。

 それが冒険者になれば一定の社会的立場を得られるばかりか、食い繋ぐ手段も手にすることができるのだから、これを利用しない手はない。そういう訳で野宿者や街娼の減少にも繋がり、治安改善に幾許かの貢献があった――という経緯があるらしい。

 シオリとしても、冒険者という選択肢がなければまさに身売りをするか野垂れ死にをするかしかなかったのだから、この組織の存在と背を押してくれたザックには感謝してもしきれない。

「それに、十年くらい前かな。エナンデル商会ができてからはもっとみたいだよ。本格的に冒険者向けの装備品開発を始めたのはあそこが初みたいだし」

「え、そうなんですか? じゃあそれまでは皆さん装備品はどうなさってたんですか?」

「うん、それはねー」

 捌いた切り身に塩胡椒や香草を擦り込んでいた手を休めて、リヌスは眉尻をへにゃりと下げる。

「武器とか防具なんかはそれまでも普通に専門店があったからなんとか……だけど、服とか小物とか道具類みたいな細かいものなんかは、騎士や旅人向けとか……あとは野遊び用品を使うかしかなかったからさ。余裕がある奴は手作りとかフルオーダーメイドなんてのもやってたみたいだけど、大抵は市販品を使って、せいぜい自分好みにカスタマイズする程度かな。だから武骨過ぎたり使い勝手とか着心地が悪かったりでまぁ、色々不便だったわけー。それにその……女の子とかだとさ、特有の事情とか色々あったりするわけじゃん?」

「ええ……まぁ、そうですね」

 苦笑しながら同意すると、彼もまた自分で話題を振っておきながら少しだけ気まずそうに笑った。

「そういう細かいニーズを汲み取ったアイテムを初めて本格的に売り出したのがエナンデル商会だったんだ。あれができたお陰で元貴族とか女の子もかなり増えたみたいだよ。遠征も大分楽になったからねー」

 それでもシオリがいるときほど快適かっていうと絶対そうじゃないんだけどさ、そう言って彼はにやっと笑った。

「これで家政魔導士が本当に増えたら、もっと冒険しやすくなるよなー。実際組合(ギルド)全体からみても、最近のトリス支部の成績は群を抜いていいんだよ。難易度の高い依頼ってのはさ、ほんとにごく一部のベテランパーティじゃなきゃ満足できる成果出せなかったんだもん」

 肝心の討伐そのものは成功してもそこに全力を注いでしまい、帰路で気力が尽きて大怪我をしたり、目的地に到達するまでに疲れ切って群れの一部しか倒せず逃げ帰ったりなど、ともかく戦力的な問題以外での失敗が多かったのだとリヌスは言った。

「飯に洗濯、風呂に寝床……家では当たり前のことを遠征に持ち込んだだけで、こんなに結果に差が出るなんて思わなかったんだ。やっぱさー、人間ちゃんと食って休めるってのが分かってるだけで気の持ちようが変わるよねー。最近はせめて飯だけはちゃんとしたもん食おうって、食料しっかり用意する連中も増えたんだ。勿論俺もね。シオリがくれた野営用のレシピ、ほんと助かってるよ」

「……そう……ですか。それは良かったです」

 魔獣は毎日のようにそこかしこで発生している。棲息地が奥まった場所などの場合は討伐に長く掛かる場合も少なくはなく、長い遠征で士気が落ちて残念な結果に終わることも多い。依頼を無事終わらせるためには冒険者達の士気を保つ家政魔導士が必要――そう思う同僚は最近増えているそうだ。

 それに冒険者の増加で探索済みの場所は増えたというが、まだまだ未調査の場所は多いという。遺跡や地下迷宮、森の深部、などなど。領土奪還作戦以前の度重なる戦災で失われた歴史の解明や、魔獣研究のためにはそういった危険な場所にも踏み込まなければならないが、日数が長くなるほど探索の精度が落ちるのだ。

「ニルスも言ってたけどさ、シオリみたいに特化してなくても副業的にやってくれるだけでも助かるんだ。だから本当に講習会開くんなら、俺協力するよー」

「……ありがとうございます」

「あ、でも。家政魔導士が増えたらシオリの仕事減っちゃうかな」

 それまで積極的に「家政魔導士養成講座」の開講を後押ししていたリヌスが、途端に不安げな顔になった。

「そうですね、減るかもしれません。でも、私ももう三十過ぎですし、あとどれだけ現場で働けるか分かりませんから」

 年齢的な問題だけではなく、病気や仕事中の怪我で――という可能性も絶対にない訳ではない。たとえアレクとルリィという心強いパートナーがいたとしても、怪我をしないという保証はない。

 もし家政魔導士業を廃業することになったとしたら、それまでに築いた立場や技術はどこに行くのだろう。そのままなくしてしまうのは惜しい気がした。

「私にどこまで教えられるかは分かりませんが、培ったこの技術をどなたかが受け継いでくれるのならとても嬉しいです」

「うん、そっかー……って、あ、ほら。家政魔導士の仕事の成果が出てきたよー」

「え?」

 何のことかと振り返って見れば、ちょうどアレクとニルスが風呂の天幕から出てくるところだった。湯に浸かったせいもあるだろうが、その顔色は随分と良くなっていた。

「さっきまでは何か今にも死にそうな顔してたけど、少しすっきりしたみたいじゃん。汗と一緒に色々流せたんじゃないー?」

「だといいんですが……」


 ――あのとき。脳啜り(ヒュグド・エーター)に捕らわれて毒を浴びせられたアレクの、あの苦悶の表情が脳裏にこびり付いて離れない。絶望と恐怖、そして何もかもを諦めてしまったようなひどく虚ろなあの表情を、シオリはしばらくは忘れることができそうになかった。

 一体どんな幻を見せられたらあんな顔になるのだろう。何を見たらあの強い人があんな苦しげな表情になるのだろう。

 そんな彼の負の感情を食らうかのように、触手で絡め取ったままにやにやと笑う脳啜りを見たその瞬間――シオリの中でぷつりと何かが切れたような気がした。

 助けなければと強く思った。これ以上彼の絶望に染まった顔を見ていたくはないと、大切なあの人にあんな顔をさせた魔獣を許せないと、そんなふうに思った次の瞬間には身体が動いていた。

 リヌスに足止めを頼み、背嚢から取り出した小瓶を迷わず脳啜りに浴びせた。粘膜には刺激物、そう思って浴びせかけた唐辛子オイルの効果は絶大だった。悲鳴を上げてのたうつ魔獣を尻目に駆け出したシオリは、アレクを拘束していた個体に残ったオイルを思い切りぶちまけた。

 胸が悪くなるような絶叫と共にアレクを放り出して地面を転がりまわる脳啜りに構わず、胸元を強く押さえて何かに耐えるように震えている彼を抱き締めた――そのときの、すまない、許してくれと、蒼褪めた顔で譫言のように呟くその姿があまりにも痛ましくて――。


(……アレクのあんな顔は、もう見たくないな……)

 幻覚を見せる毒は精神的なダメージが後を引くとニルスが言っていたその通りに、野営地に着いてもまだ彼はひどく物憂げだった。

 自分が見ているからと目線で言ったニルスに従って先に入浴を済ませたシオリだったが、その間にカウンセリングのようなことでもしたのかもしれない。アレクの気が晴れたのだとしたら、自分のお陰というよりはむしろニルスの功績なのだろうなとも思ったけれど、こざっぱりとして談笑しながら出てきた彼の姿にシオリは薄く微笑んだ。

「……アレク。気分はどう?」

「ああ。お陰で悪くはない。汗を流したら大分すっきりしたよ。ありがとう」

「そっか……良かった」

 理由はどうあれ彼が元気になってくれるのならそれでいい。

 詫びるようにシオリの肩にそっと手を触れたアレクは、せっせと手を動かしているリヌスに声を掛けた。

「リヌス。風呂が空いたぞ」

「うん。これ下処理だけしちゃったら入るよー」

 彼は言いながら、綺麗に下ろしたトリス・パーチの脂がのってほんのり薔薇色に色付いた切り身に塩胡椒と香草を振りかけた。それから清潔な木綿地の上に載せて、「風呂に入ってる間、こうやって寝かせておくんだ」と言った。

「見事だな」

 リヌスの手際よい仕事ぶりに、アレクは目を瞠った。

「村にいた頃はよくこうやって保存食とか作ってたからねー。冬ごもり前の保存食作りは村総出でやってたよ」

「へぇ……」

「しかし燻製は時間が掛かるんじゃないか? 仕込みだけで何日も掛かると聞いたが」

「長期保存しようと思うとそのくらいは掛かるね。旨味も全然違うし……でも、すぐに食うんならもっと簡単なやり方もあるんだよ。日持ちはしないからほんとにすぐ食わなきゃいけないけど」

「そうなのか」

「うん。まぁそんでも水気が多いと燻したときに酸っぱくなっちゃったりするから、ある程度乾燥させるか最初っから水分が少ないものを使わなきゃいけないけどね。でも色々試した結果、トリス・パーチだけは水気があっても大丈夫。燻すと蕩けるみたいに美味くなるってことが研究の結果分かったんだ」

「……研究って」

 アレクの濡れ髪を乾かしながらリヌスの解説を聞いていると、いつの間にかその手元を覗き込んでいたニルスが苦笑して呟いた。その髪からは拭き残しの水滴がぽたりと落ちている。アレクが終わったらこちらも乾かしてやらないとと思いながら、シオリは心のノートにリヌスのレシピを記録した。後で手帳に書き写しておこう。

「冬の間は狩りするか市で売る工芸品でも作るかでもなければ、あとは食うくらいしかないからねー。美味い保存食の開発には皆結構真剣だったよ。お手軽に燻製作るんなら、トリス・パーチ以外だったらトリスサーモンとかあとは洞窟ウズラの茹で卵なんかもおすすめー」

「なるほど」

 すっかり顔色を取り戻したアレクが、ふむと唸る。

「いいことを聞いたな。後で俺にも教えてもらえるか。魚なら俺でも釣って捌けるからな」

「もっちろーん。道具もそこらへんで売ってるのでできるから、それも教えたげるよ」

「わー。なんだか酒が欲しくなりそうだね。僕も知りたい」

「燻すのに薬草使わないでねー」

「使わないよ……あ、でも待てよ? 燻製に薬効が」

「……やめろ」

 何やら男同士で盛り上がり始めた彼らを見てシオリは目を丸くし、それから一瞬遅れて噴き出した。

「……確かに、美味しい食事って大事かも」

 楽しげに語らい、笑みさえ浮かべるアレクを見てそう思う。

 旅の最中で傷付き疲れ切っていたとしても食事一つで気分が上向くのなら、今まで以上に野営地での料理研究に力を入れようと思うのだ。

 すっかり乾いてさらさらになった栗毛に指先を通したシオリは、ふと自分を見上げた紫紺の瞳を見て微笑んだ。


脳啜り「……ルリィも燻したら旨味が濃縮……」

ルリィ「やめろ」

雪男「水掛けたらもとに戻るんじゃないです?」

ペルゥ「増えるワカメか」



スモーキー・ルリィ爆誕。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] ・走れシオリ  シオリは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の魔獣を除かなければならぬと決意した。 シオリには政治がわからぬ。シオリは、家政魔導士である。 料理を作り、スライムと遊んで暮して来た…
[一言]  なるほど。キレたからこそのアノ所業。次から鷹の爪の粉末をオイルに浸けた小瓶を、トリスで配るんですね! 調味料に使うも、よし。脳啜りにぶっかけるも、よし。痴漢に使うも、よし。これぞ、万能(撃…
[一言] とりあえず「フリーズドライ」の魔道具の量産を パテント1%でも結構儲かりそうw
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ