05 魔獣の下拵え承ります?
血の気が失せて紙のように白くなった頬。急速に光が失われていく瞳。苦悶に歪められた表情がすっと抜け落ち、ひどく虚ろになるその顔に、いつもの優しい微笑みはない。もう二度と笑わない。その小さくふっくらした唇で己の名を呼ばうことも二度とない。
触手が引き抜かれ乱暴に地面に投げ出されたその身体は、打ち捨てられた人形のように力を失いぐったりと血の海に沈んだ。
「……っ」
愛しい女の名を呼ぼうとしたが、短く吐息が漏れるだけ。
起きてしまった事柄の意味は分かっているというのに、頭がそれを拒否して受け付けない。しかしその事実がじわじわと浸透してくるにつれて、この身がひどく冷えていくのが分かった。
――護ると言ったのに護れなかった。
そしてずっとそばにいると言ったのに、当の相手は己から離れていこうとしている。華奢な女の形をした器を置いて、この世の理の領域から出ていこうとしている。己を置いて、遥かな高みにある場所へ旅立とうとしている。
何故。どうして。
一歩踏み出して愛しい女の躯に近寄ろうとしたアレクを押し留める者がいた。若い娘だ。名は忘れたが、その顔に見覚えがある。
『殿下。殿下。どうか今宵はわたくしと』
甘ったるい香水の香り。べったりと気味悪いほどに赤く色付いた唇がにぃ、と弧を描く。
――継承権争いの最中、既成事実で以ってアレクとの婚姻を結ぼうと奸計を仕掛けた娘だ。
不意にこみ上げる吐き気に耐えて、しな垂れかかるその娘を振り払った。だが纏わりつく娘は離れない。絡み付くようにアレクの腕を捉えてけらけらと耳障りな笑い声を立てる。
そうしている間にもシオリの身体を気味の悪い面相の娘と青年達が取り囲む。嘲笑うように隠していく。
振り返った女が媚びるようにアレクを見た。
『――酷いわアレン。私を置いて出ていって、こんな女に浮気なんかして』
見慣れた顔の女は嫣然と微笑みかける。容姿こそ美しいが、ひどく下卑た微笑みだ。
『二度も恋人を捨てた貴方がどうして幸せになれると思ったの?』
違う。この女は恋人などではなかった。標的に取り入るための手段だった。ただそれだけだ。
『でも私は貴方を愛していたわ。女の心を弄んだ貴方がどうして幸せになれるというの?』
笑みを浮かべた顔がぼろぼろと焼け焦げて崩れていく。
――帝国の武器商人の娘。幾人もの情夫を持ち、幾人もの恋敵を手酷いやり方でなき者にした女だ。上級貴族どもと結託して甘い汁を吸い続けた女は反乱軍に捕まったと聞く。恐らく生涯牢に繋がれることになるだろうその女は、醜く崩れながらもなお微笑んだ。
『貴方が得ていいものなんて何もないわ。恋人だけじゃない、弟まで捨てたんだもの』
「――違う! いや……」
アレクは力なく呟いた。
「――違わない」
ああそうだ。事情はどうあろうが、恋人への義理を欠いて悲しませ、何もかもを弟に押し付けて逃げた事実は変わらないのだ。
『そうよ。だからこれは報いなの』
女はくすくすと耳障りな声で笑った。
『人でなしの貴方への、報いなのよ』
「――そうか」
アレクは嗤った。
「あいつを殺したのは俺か」
己の至らなさが、そして過去の過ちがシオリを殺した。この十数年何の始末も付けずにきたその付けを、愛しい女の命で支払うことになったのだ。
だとすれば。
痺れて自由の利かない利き手を強引に動かして剣を逆手に握り直す。
「あいつと同じ場所には行けないだろうが――せめてもの詫びだ」
鋭い刃を己の首筋に押し当て、そして真横に引こうとした――刹那。
「――解毒!」
女の声が呪文を叫んだ。
途端にじっとりと粘り付くような闇が晴れ、一気に視界が開ける。息苦しさから唐突に解放されたアレクは、ふらりとその場に崩れ落ちた。
「アレク! アレク、しっかり!」
開けた視界の先には己を覗き込む黒曜石の瞳。魔法の光を背にして屈み込む女の姿が徐々に像を結ぶにつれて、混濁していた意識が晴れていく。
「……シオリ」
己の恋人。愛しい女。
「……良かった。生きていたのか」
死んだと思っていたシオリの無事な姿に安堵し、そのまま抱き寄せて肩先に顔を埋めた。温かい。生きている。
安堵して力が抜けそうになったアレクの、その横合いからエレンの緊迫した声が掛かった。
「ごめんねアレク! 解毒したばかりでまだぼんやりしてると思うけど、結構危機的状況なのよ!」
彼女達を護るようにして身体を引き延ばしていたルリィが、そのままの体勢で器用にぷるんと震えて危険を伝えた。
即座に思考を切り替え周囲に視線を走らせたアレクは、数メテルという至近距離で奇声を発して地面をのたうつ脳啜りの姿を捉えた。同時に何かの刺激臭が鼻を突く。
向こう側では同じように苦しげにのたうち回るもう一体の脳啜りを、リヌスとニルスが二人掛かりで袋叩きにしていた。一方はほぼ零距離で太い金属製の弓矢を連射し、もう一方は薬草の刈り取り用の鎌を必死の形相で何度も振り下ろしている。
何がどうしてこんな状況になっているのかは分からないが、もはやなりふり構わぬ二人の様相につい一瞬だけ噴き出してしまった。しかしすぐに短く呼気を漏らして気合を入れ直す。
戦いの流儀など気にしてはいられない。なりふり構わずに攻撃しなければ絶対に勝てない相手。無限の魔力に恐るべき生命力、そして何よりも陰鬱な悪夢を見せる悍ましい毒を持った危険な魔獣だ。
「下がっていろ。片を付ける」
「うん!」
二人が一歩退き、その前をルリィが護る。
それを横目で確かめたアレクは魔法剣に最大の炎を纏わせ、敵目掛けて駆け出した。全体重を掛け渾身の力で脳啜りの脳天に剣を突き立てる。びくんと大きく痙攣した脳啜りは一瞬動きを止めたが、次の瞬間激しい勢いでじたばたと暴れ出した。それにも構わず魔法剣伝いに何度も電撃を食らわせ、遂には魔力が尽きて小さな火花が飛び散るだけになった頃――ようやくその悍ましい魔獣は生命活動を停止した。
滑りを帯びた水色の肌がふつふつと粟立ち、見る間にその姿が崩れていく。やがて水溜まりのようにぱしゃりと崩れ落ちたその身体は、地面に吸い込まれるようにして消えていった。
残りは一体。ふらつく身体を叱咤して背後を振り返ったアレクが目にしたのは、やはり同じように蕩けて消えていく脳啜りの姿だった。向こうも片が付いたようだ。
「か、勝った……」
リヌスが呆然と呟き、鎌を取り落としたニルスがぺたんとその場に座り込んだ。
それを確かめて愛剣を鞘に収めた瞬間ふらりと身体が揺らぎ、その場に膝を付く。慌てたシオリが身体を支えてくれた。
「アレク! 大丈夫!?」
「……ああ。少し気が抜けただけだ」
「ほんとに? 怪我とかしてない?」
不安げに己の顔を覗き込むシオリの肩を、エレンがそっと叩いて宥める。
「解毒はしても体力の消耗や精神的な疲労はどうしても残るの。少し休ませた方がいいわ」
「そうだね。幻覚を見せる毒は特に精神的なダメージが大きいんだ。もう少し行った先にちょうどいい場所があるから、今日はそこで野営しよう」
己を気遣ってか、予定よりも早い野営の提案にアレクは慌てた。
「少し休憩するだけで構わんが……」
「駄目だよ」
薬師にして医師のニルスが苦笑しながらも強く言った。
「精神的なダメージっていうのは馬鹿にできないんだ。アレクだって知ってるだろ」
意味深長だが己には理解できるその言葉にアレクは押し黙った。ブロヴィートの事件でシオリの傷痕を、そして彼女の心の傷の深さを知った――そのときのことを彼は言っているのだ。
「……分かった」
渋々頷くと、彼は満足げに頷いた。隣のシオリがほっと息を吐いたのを見て、随分と心配させたことに気付く。
「すまないな。無様なところを見せてしまった」
――人間にしろ魔獣にしろ、精神攻撃をする奴は苦手だ。
ぼそりと呟くと、シオリは微かに眉尻を下げてそっと背を擦ってくれた。
「……だが、皆無事で良かった」
見たところ、誰も大きな怪我を負っている様子はない。魔法によるものか多少の火傷や擦り傷はあるようだが、しっかりと自分の足で立って歩いている。支えられているのはアレクだけだ。どうやら自分が一番の「負傷者」らしかった。
「うーん、あんなに苦労したのにこれっぽっちだったよ」
戦場に落ちた矢を回収していたリヌスが、握っていた右手を差し出した。大粒の無色透明の石。無属性の魔法石だ。
「売ればいい値段は付きそうだけど……」
「属性付きよりは劣るし、あの苦労を考えると割に合わないわよね。拾えただけましだけれど」
皆で顔を見合わせて苦笑いする。
普通はいるはずのない場所にごく稀に出ることがある脳啜り。稀であるが故に遭遇した場合の対応策を用意していること自体がそもそも稀だ。地元の薬師の採集場所にもなっているこの洞穴でその希少種に遭遇してしまったことは、不運というより他はない。
「そういえば……」
シオリに支えられて歩きながら、アレクは疑問を口にした。
「あの脳啜り、気が付いたら二体ともあの有様だったが……あれは一体?」
毒攻撃を受ける直前までは危機的状況だったのだ。それが幻覚症状から脱してみれば、どういう訳かあの魔獣は苦しげに地面をのたうっていた。
「あっそうそう! 俺も気になってた」
言いながら先頭を歩いていたリヌスがシオリを振り返った。どうやら脳啜りを「あの有様」にしたのはシオリらしいが、何故か彼女は気まずそうに視線を泳がせた。
「考えがあるから足止めしてって言われたからやったけどさー……荷物から何か取り出してたみたいだけど、あれ、一体何を浴びせたの?」
「えー……と」
「……何だ。どうしたんだ」
困ったようにアレクを見上げたシオリはやがて、観念したように腰元のポーチからあるものを取り出した。
小さな酒瓶ほどの大きさのそれ。小さく切り刻んだ真っ赤な何かが油らしきものに漬かっているのが見えた。旅の初日ならもっと量があってもいいはずだったが、もうほとんど使ってしまって残り僅かの状態だ。
「……剥き出しになってた肌、粘膜みたいだったから……その、赤唐辛子のオイル漬けをかけたらどうなるかなって……」
「粘膜に赤唐辛子」
ニルスとエレンが復唱し、同時に引き攣った笑みを浮かべた。
「えっと……なになに? どういうこと?」
本当は分かっているのだろうが、理解したくはなさそうにも見える顔でリヌスが訊いた。
「――粘膜ってのは、口の中とか鼻の中とか……その、生殖器とかの柔らかくて湿った組織のことで、とっても敏感でね」
「刺激を受けやすくて傷付きやすいの」
「う、うん」
「見た感じ、脳啜りって肌がその粘膜でできてるみたいだったから……」
「……分かりやすく言うとね、全身の薄皮を剥いだところに激辛ソースを塗りたくったようなものよ。あれは相当苦しかったはず」
「ぎゃあああああああ」
エレンのあまりにも分かりやすい説明に、とうとうリヌスが悲鳴を上げた。何か想像でもしたのか、ルリィがひゅっと身体を縮めている。心なしか瑠璃色の青みがいつもよりも濃くなった気がした。
「お、お前……」
アレクは言葉もなく唸った。あれほど苦戦させられ胸の悪くなる幻影を見せられた自分ですらも、脳啜りに対して些か同情の念を抱いたほどだ。
「……あのときは必死だったけど、後から考えたらいくらなんでもえげつなかったかなって……」
「いや、まぁ……緊急事態だから気にするな。手段を選んでいられるような状況ではなかったんだ」
腕を取って己を支え、身体が密着しているのをいいことに、さり気なくシオリの肩を抱き寄せる。
「あわや全滅というところだったんだ。お前はよくやった」
褒め言葉になっているのかどうかは分からないが、彼女の機転に助けられたのは事実だ。そう言うと、彼女は気まずそうな表情をほんの少しだけ緩めて微笑んだ。
脳啜り「あ……ありのまま今起こったことを話すぜ! 嫁とぶらり旅の途中で美味そうな食材を見付けて調理しようと思ったら、いつの間にか自分が調理されていた。何を言っているのか分からないと思うが、自分も何をされたのか分からなかった……魔獣討伐だとかそんなチャチなもんじゃ断じてねぇ、もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ……」
大蜘蛛「いや、分かる」
雪男「分かりみが深い」
まぁ酷い話です。




