01 薬師の依頼
年が明けて二日目の昼前。
前日に荷造りと掃除を済ませていたシオリは、アレクと共に引っ越し作業に追われていた――と言っても備え付けの家具がある部屋から部屋へ運び入れる荷物はそれほど多くはなく、ごく短時間で終えることができそうだった。
空きが目立っていた台所の棚に調理器具や食器類を収め、食材やお手製保存食の入った瓶詰を並べていく。それが終わると寝室の衣類棚に仕事着と普段着をしまい、二つある寝台には上掛け代わりに王国伝統の刺繍が施された大判のショールを掛ける。
最後に筆記用具を入れた装飾の美しい菓子缶を書き物机の引き出しに収めると、居間の棚に本や書類を並べていたアレクが顔を覗かせた。
「終わったか?」
「あ、うん。ちょうど今終わったとこ」
引っ越しの荷物を運ぶために使った食材保管用の木箱に何も残っていないことを確かめたシオリは、恋人を振り返って微笑んだ。物珍しそうに部屋のあちこちをうろうろしていたルリィも、「探索終了!」とばかりにぷるんと震える。
「そうか。こっちも終わったぞ」
「うん、ありがと、アレク。手伝ってくれて」
「構わないさ。当然だろう」
「……うん」
空いた木箱を二人で台所に運び、ざっと手を洗って清めてから顔を見合わせて微笑み合う。そのままシオリを抱き寄せたアレクは、室内をぐるりと見渡して満足そうに笑った。
「殺風景だった部屋が居心地よくなったな」
自分もそれほど荷物は多くないつもりだったけれど、アレクは本当に私物が少なかったようだ。着替えと冒険用の荷物以外に物らしい物はほとんどなく、棚はほぼ空だった。数年前、長期の仕事に出掛ける前に私物のほとんどを処分していたというから、仕方のないことなのかもしれない。
「……これからはずっと一緒だ。想い出を増やしていこう」
ここで彼と生きていく中で、いくつもの想い出ができていくのだろう。物であれ、記憶であれ、それはきっと得難いものになるはずだ。
「うん……そうだね。一緒に、増やしていこう」
そっと啄むような口付けを交わし、それから静かに離れて見つめ合い、微笑み合う。
「さて……」
シオリを腕の中に囲い込んだまま彼は、時計に視線を向けた
「昼食は外で済ますとして、午後はどうする。組合に行ってみるか」
新年を迎えて最初の日は挨拶がてら顔を出してみたのだが、大聖堂の年越し行事に参加した人々の帰路の護衛程度で目立った仕事もなかった。オロフ達出稼ぎ組が今季は遅れた分多めに働くからと細々とした仕事は率先して引き受けてくれたお陰で、シオリを含めた中堅以上の冒険者は例年よりゆっくりさせてもらっている状況だ。
もっともシオリとアレクに限っては、それより引っ越しを先に済ませてこいと早々に帰されてしまったのだったが。
「そうだね。そろそろ何か依頼が入ってるかもしれないし」
「ああ、じゃあ一休みしたら出るか……っと」
何気なくシオリの手に触れたアレクが眉を顰める。握り締めた手を目線の近くまで引き上げた彼は、痛ましげに目を細めた。
「……また荒れ始めてるな」
「ん? ああ……冬は水仕事するとどうしても」
先日エレンに「特別」と言って治してもらった手荒れが早くも再発していた。洗い物などは魔法を使って済ませられるけれど、仕事上料理をする機会が多いシオリは手が荒れやすい。冬は特にだ。
「軟膏は持ってるけど、つい塗り忘れるときもあって……」
治癒魔法でもあればと思うかもしれないが、本人の自然治癒力を増幅して治癒しているだけに過ぎないあの魔法は、掛ける回数が過ぎると本来持っているその治癒力が低下してしまうという欠点がある。大袈裟な話、治癒魔法を掛けても傷が治らないという事態になりかねない。魔法研究が進む前の戦乱が多かった時代には実例もあり、治療術師の指南書では度を過ぎた施療は絶対禁止と記されているようだ。
手荒れのような小さな傷なら自然治癒に任せた方が身体のためにはずっといい。
これは一般常識としても知られている――ということになってはいるが、教育が行き届いていない時代に生まれた古い世代の一部にはこれを理解していない者もおり、ごく小さな擦り傷やちょっとした風邪を治して欲しいと診療所を訪ねて治療術師を困らせる老人もいるらしい。
(……魔法も万能じゃないんだよね)
だからこそ人々は研究を重ねてより良い利用法を編み出している。
そんなことをぼんやりと考えながらじっと荒れた指先を眺めていると、アレクがふっと溜息を吐いた。
「組合に行く前に薬屋に寄っていくか。ニルスに頼めばお前の肌に合うものを調合してくれるかもしれん。薬効の高いものがいいな」
「えっ? そこまでしなくても……」
そう思ったのだけれども、アレクの中ではもう行くことが決定事項になっているようだ。
「お前の手は働き者の証でもあるが、どうにも痛々しいからな。支払いは俺がするから気持ちだと思って受け取ってくれ」
そう言われてしまえば断れるはずもなく、おずおずと頷いたシオリに彼は満足げに微笑んでみせた。
――薬師ニルス・アウリンが経営しているアウリン薬局。家族との団欒を楽しむ者が多い年始とあってか、いつもは薬を買い求める者で賑わっている店内は人も疎らで静かだった。
扉を開けたときのドアベルの音で振り返った店主のニルスが、人のよいふんわりとした笑顔を浮かべて片手を上げた。
「やぁ。新年おめでとう。今年もよろしく」
「おめでとう。互いに実りの多い年になるといいな」
「おめでとうございます。こちらこそよろしくお願いします」
短いけれども心の籠った挨拶を互いに交わして微笑み合う。穏やかで優しく、そして清々しい新年の空気がシオリは好きだった。世界を隔ててはいてもこの空気は変わらない。それが、嬉しい。
「珍しいね、年明け早々ここに来るなんて。もしやどこか具合でも?」
その柔らかな表情を曇らせたニルスに、アレクが手を振ってみせる。
「ああ、いや。シオリの手荒れが酷くてな。彼女に合う軟膏があればと思って来たんだ」
彼は言いながら掴んだシオリの手をニルスに差し出す。
失礼、と前置きしてからその手を取ったニルスは、つぶさに患部を調べ始めた。カウンターによじ登ったルリィが興味深そうに手元を覗き込んでくる。
「痒みはあるかい?」
「いいえ」
「痛みは」
「切れたところが少し」
「うん。そうか」
やがて顔を上げたニルスは微笑を浮かべた。
「……うん。皮膚病の心配はなさそうだ。だけどやっぱり水仕事が多いだろうからね。悪化させないように、寒いとは思うけど洗い物はなるべくお湯は使わないようにして、保湿をしっかりやってもらうとして……っと、保湿ならこれがおすすめかな。去年売り出したばかりの軟膏だよ」
季節柄、手荒れの相談が多いのだろうか。すぐ手が届く位置に置いてあった木箱から軟膏の缶を取り出して蓋を開けてくれた。淡い乳白色の、バターのような軟膏だ。一瞬だけふわりとベリーのような香りが漂う。
「保湿力が高い水苺と向日葵の種子油に雪蜜蜂の蜜蝋を配合した軟膏だよ。肌を柔らかくする成分も含まれてる。手荒れを繰り返すと皮膚が固くなってひび割れができやすくなるからね。予防に小まめに塗るといい。僕も使ってるんだけど試しに塗ってみるかい?」
「あ。はい」
頷くと小匙で少量掬ったそのクリームを手の甲に乗せてくれた。薄く伸ばしながら全体に塗り広げた感触は、こってりとした見た目に反してさらりとしていた。あまりべたつく感じはせず、すぐに肌に馴染んでいく。
「わ……使用感は軽いですね。べたべたしない。水みたい」
「だろ? いくら保湿力があってもあんまりべたつくと不快だからね。水苺の成分で軽い塗り心地になってる。ご婦人方にも人気なんだ。香りは果実系だから料理の邪魔にもならないし」
言いながらニルスもまたその軟膏を手に擦り込んでいる。採取した薬草の洗浄や調合などで荒れやすいはずの彼の手は、指先や関節部分が多少荒れてはいるが全体的には滑らかで綺麗だった。シオリのような両手全体に及ぶようなかさつきはほとんどない。
「悪くないならひとまずはこれをもらうか」
「うん」
「あとはあかぎれの治療用だな。なるべく薬効が高いものを頼む。なければ調合してもらえると助かる」
シオリへの過保護ぶりに対してか、それとも他の理由でなのかはよくは分からないが、アレクの言葉にニルスは苦笑した。
「手荒れは職業病みたいなものだからね。この時期は料理人とか洗濯屋とか、農夫さん達もよく来るんだ。各種取り揃えてるよ。値は張るけど効きのいい薬草を使った調合も承って……っと、うん? あれ?」
今度は後ろの戸棚を漁っていたニルスが、言葉途中で顔色を変えた。そのまま少々慌て気味に上下左右の箱も覗き込んでいる彼に、シオリはアレクと顔を見合わせた。ルリィが何事だとぷるんと震える。
「……どうしよう。うっかりしてたよ」
やがて困惑気味に振り返ったニルスは、眉尻をへにゃりと下げて情けない顔になった。その髪から薬草の欠片がぱらりと落ちる。
「十一月のブロヴィートの事件でほとんど使い切ってたんだった。滅多に出さない薬草だからつい在庫確認を怠ってたよ。とんだ失態だぁ」
あー、と呻きながら頭を掻き毟った彼の肩を、しゅるりと伸びたルリィの触手が慰めるようにぽむ、と叩く。
「……ま、まぁ、失敗は誰にでもあることですから」
几帳面なように思えたニルスでもそういうことはあるらしい。些細なことが命取りになる――それも高ランクの冒険者に言ったところで何の慰めにもならないかもしれないけれど、自己嫌悪に陥っている彼につい慰めの言葉が口を突いて出る。
「それで、何が足りないんだ? 聞いても分からんかもしれんが」
「……マンドレイクだよ」
苦笑気味に訊ねるアレクに、カウンターに突っ伏していたニルスが答えた。
「なるほど、マンドレイクか。場所が限られるな」
アレクが唸る。
マンドレイク。薬効成分が多く含まれあらゆる薬品の原料になるという、薬草としては最高級の部類に入る――植物系魔獣だ。
人参程度の大きさで、たまに養分を求めて歩く以外は土に埋まって過ごしているマンドレイクは見つけにくく採集が難しい。しかも土から引き抜かれるときには発声器官から恐るべき絶叫を上げて、それを聞いた者をしばらく行動不能状態にしてしまうという厄介な代物だ。
植物が絶叫するというのはシオリにはいまいちよく分からないが、一度だけその絶叫を聞いたことがあるというザックが言っていた。
『なんつーか、こう……金属同士を擦り合わせたような音を耳元で大音量で鳴らされたみてぇな感じでよ。聴覚がやられてしばらく音が聞き取れなくなっちまう』
個体によっては女の断末魔の悲鳴のようにも聞こえるというそれは、聞く者によっては恐怖で身が竦んでしまうという。行動不能状態というのはそういうことだと兄貴分はそう言った。ともかく想像を絶する金切り声だという。
「……でさ、ものは相談なんだけど」
ニルスは申し訳なさそうにへにゃりと笑って言った。
「緊急依頼……引き受けてもらえるかい?」
ペルゥ「薄い本が売ってるとかいう……」
ルリィ「……似てるけど違うと思う」
何 情 報 。




