10 シオリの年越し
一年の最後の日、大晦日。ストリィディア王国では古い時代から、この日の夜は家族やごく親しい友人と過ごす習慣があった。それぞれが持ち寄ったご馳走を食べながら夜遅くまで語らって過ごし、そして日付が変わる頃に外に出て、祝砲代わりに空に放たれる光の魔法を皆で見ながら新しい年を迎えるのだ。
王都に次ぐ規模である北部の領都トリスでは、トリス大聖堂の聖魔導士隊が打ち上げる「光の環」を見るために毎年近隣から多くの信者が集まってくる。
ルリィやアレクは勿論、ザックなどのいつもの顔ぶれで大晦日のご馳走を楽しんだシオリは、食後のひとときを窓の下に見える雑踏を眺めて過ごしていた。
ほとんど夜中とも言える時刻ではあるが、「光の環」目当ての人々が楽しげに大聖堂や広場、公園などの広い場所を目指して歩いていく。空高く打ち上げられる聖なる光は市内のどこからでも見られるが、周囲にあまり建物のない広い場所で見るのが一番いいのだ。
幸い今日は晴れ。夜空にもふんわりとした薄い雲が少し浮かぶ以外に遮るものは何もなく、星々が煌めている。
「――俺達もそろそろ出るか?」
香辛料をたっぷりと入れたホットワインを飲み干したアレクが、シオリの背中越しに通りを見下ろして言った。窓際の棚に張り付いたルリィもぷるぷると震えながら、夜の楽しい外出を楽しみに待ち構えている。
「うん、そうだね。どこで見る?」
「せっかくだから大聖堂まで足を伸ばしてみるか」
大聖堂までは多少距離はあるが、歩いても十分に行ける距離だ。
「うん。行ってみよう。コニーさんに会えるかな」
「どうだろうな」
アレクは笑った。
「毎年あそこは混雑するからな。外には出ているだろうが、近寄るのは難しいかもしれん」
「そっか。そうだよね」
そんな取り留めもない会話をしながら防寒具をしっかり着込んでアパルトメントを出た二人と一匹は、大聖堂に向かって歩き出した。
ザック達はこの場にはいない。無粋な真似はしたくないと言って、夕食を済ますと後片付けを手伝ってから引き上げていった。二人に気を使ってくれたのだろう。きっと彼らはまたどこか別の場所で楽しんでいるはずだ。
アレクに肩を抱かれて歩きながら、ぽよんぽよんと嬉しそうに弾んで歩くルリィを見て二人で笑う。
「あっルリィちゃんだ!」
父親に肩車されている小さな少年が声を上げた。組合近くに住む顔見知りの一家の末っ子だ。いつもは早く寝るように言い聞かされている子供達も、生誕祭と大晦日だけは夜更かしを許されている。彼らも連れ立って「光の環」を見に行くのだろう。
「……平和、だな」
歩く人々をしばらく無言で眺めていたアレクが、ぽつりと言った。言葉だけを見ればこの平和な光景を喜ぶようでもあったが、その声色はどこか憂うる響きを含んでいるように思えた。
「……ああ、すまない」
この楽しい雰囲気に水を差したように思ったのだろうか。アレクは小さく謝罪の言葉を口にした。
「今年の夏まで何年か国を離れて仕事をしていてな」
「ああ……うん」
確か四年ほどだっただろうか。自分がこの世界に来るよりも少し前に、上得意の依頼を受けてトリスを旅立ったのだと聞いていた。そうして数年ぶりに帰還した彼が最初に受けた依頼で、自分とアレクは出会ったのだ。
(でも、そんなに何年もかかる仕事ってなんだろう?)
遠い国で仕事をしていたのだろうか。
「……少し難しい案件でな。あまり治安の良くない貧しい国で仕事をしていたんだ」
「貧しい国……」
と言っても、この世界に来て僅か数年の自分には王国以外の事情はあまりよくは分からない。貧しいと聞いて即座に思い浮かぶのが、隣りのドルガスト帝国くらいだ。
「その国は貧富の差が激しくてな。潤っているのは一部だけで、庶民の暮らしなどそれはもう……口に出すのも憚れるほどに酷いものだった」
「……うん」
アレクが言う貧しい国というのがどの国のことなのかは分からないが、帝国出身だという食料品店のマリウスが言っていた。
一部の特権階級を潤すために民に課せられた税は尋常ではなく、自らが育てた農作物ですら口に入れることを許されなかったという。雑草が付けた僅かな実や柔らかい木の根を井戸の水で煮込んだだけの、味のない粥で食い繋ぐ日々だったと。
――終わりの見えない絶望の日々に見切りを付け、どうせこのまま死を待つだけならと、妻と生まれたばかりの赤子、老いた父親を連れて逃げてきた――シオリが知る朗らかなマリウスからは想像もできないほどの壮絶な過去だ。
残念ながら父親は越境して間もなく力尽きたと言うが、生き延びた彼の妻と娘は時折店先に立って元気な姿を見せている。子供が四人に増えて笑顔が絶えない賑やかな日々を送っているマリウスは、きっと今は幸せなのだろう。
夏の太陽のように明るい彼の笑顔が脳裏を過ぎった。彼もまた家族と共に、市内のどこかで「光の環」が打ち上げられるのを待っているのだろうか。
「……衛生的とは言えない水と雑草を煮炊きして食い繋ぐのが精一杯のあの国では、人々がこうして年越しを楽しむなんて余裕は全くなかった。年を越すために今年は家族の誰を間引くか……そんな相談をするほどだったんだ。あの国に行って笑顔らしい笑顔など、あの数年で数えるほどしか見たことがなかったよ」
大分言葉を選んではいるが、実際にはもっと酷いものだったのだろうということが彼の表情からよく分かった。
そんな顔をするほど酷い国で、アレクは一体どんな仕事をしていたのだろうか。
自分を抱き寄せるアレクの胸元に、そっと頬を押し付ける。シオリの肩を抱く手の力が強まった。
「守秘義務に関わるからあまり色々は言えないが、ともかく酷い場所だった。それに引き換えこの国は平和だ。豊かで活気に溢れている――そんな国の民であることを、俺は誇りに思うよ」
「……アレク」
――もしも彼が推測通りに本当に王族なのだとしたら。この国を豊かにするために民の先頭に立って改革を推し進めてきた歴代の王の血が流れているはずだ。特に先代、先々代の王は近年の歴史書に名と功績が載るほどだという。
先代、先々代の王。多分、アレクの父と祖父だ。
ちらりと見上げた彼の顔は、穏やかで優しい。
「……私も」
温かな色の光を放つ魔法灯に照らされるトリスの街並みと、新たな年に期待を膨らませて大切な誰かと歩く人々の顔を眺めてシオリは呟く。
「私も落ちてきたのがこの国で良かった。兄さんに拾ってもらえて、兄さんや姐さんや、クレメンスさんやルリィや……親切で優しい人達に巡り合えて良かった。皆に会えなかったら、私――きっとアレクにも会えなかった。きっとどこかで野垂れ死にするか身売りでもするしかなかったと思うから」
身一つで落ちてきた何一つ持たない自分が、豊かで優しい国の穏やかな気性の人々に会えたからこそこうして生き延びることができた。
そう言うとアレクは目を丸くした。しばらく考え込むようにじっとシオリの顔を見つめる。
ルリィもまた何か言いたげにぷるぷると震えた。
「……それ。また言ったな」
「え? 何?」
アレクの言葉の意味を掴みかねて訊き返すと、魔法灯の光を映して不思議な色になった瞳に見下ろされる。
「落ちてきた、と。アンネリエ殿との旅の最中にも言ったぞ、お前」
「えっ……」
その旅路の、いつどのタイミングでその台詞を言ったのかは思い出せない。けれども、さっきは何の気なしに口にしたことは覚えている。
確かに言った。無意識に、落ちてきた、と。
(いけない。やっちゃった)
シオリは慌てた。無意識に口にするにしても、あまりにも無防備で意味深長な言葉だ。
「……あの、ええと……」
どう説明――否、どう言い訳したものかと狼狽えたシオリを、アレクが苦笑気味に抱き寄せる。
「今すぐにも部屋に引き返して問い詰めたいくらいには気になるところだが……いつか教えてくれるんだろう? 俺の、天女」
(――あ)
シオリは紫紺の瞳を持つ彼の頭上の、彼と同じ柔らかな紫紺色の夜空を振り仰いだ。
――この人は多分、気付いているのだ。
自分が人知の及ばぬ領域からやってきた、異質な存在だということに。
「……シオリ」
温かく優しい低い声がシオリの鼓膜を震わした。
「前も言ったが、俺はお前が何者であろうとも、お前を手放すつもりはない。それに」
彼は微笑む。
「多分お前も俺の正体に気付いているんだろう。それでいながら聞かずにいてくれている」
だからお相子だと、そう言ってシオリの額に口付けを落とす。
――人々がどよめき、温かな乳白色の光が空を駆け上る。音もなく空高く上がったその光はやがて、ぱっと弾けて光の環を夜空に描き出した。街が照らされ、人々の瞳に星の瞬きのような輝きを宿す。
歓声が上がった。
「む、しまった。間に合わなかったか」
大聖堂前の広場のような開けた場所ならもっと綺麗に見られるのだけれど、それでも建物の合間から見えるその「光の環」は美しかった。
否。特別な場所ではないこの街中の、人々の息吹が感じられる場所で見るからこそあの光は尊いのかもしれないとシオリは思う。あの聖なる光は、信者もそうではない人々も、この地に住まうもの全てを遍く照らし出しているのだから。
「……最初の年は一人で見たの」
「うん?」
唐突に落とした言葉の意味を計りかねてかアレクが訊き返した。
「光の環。初めてここで迎えた年末は、王国に来て二ヶ月くらいしか経ってないときだったから……だから、最初の年は一人で見たの」
ここでの生活に慣れるのに精一杯で、夜は勉強しているか疲れ切って眠っているかのどちらかだった。あのときはナディアが気遣って声を掛けてくれたけれど、まだお互いに距離感を模索している時期で、遠慮して断ってしまったのだ。親しい人と一緒に過ごす慣わしだという大晦日に、来て間もない余所者である自分が入っていくことが憚られて断ってしまった。
勉強中に外の喧騒が気になって窓から覗き見た、光の環。新年の到来を親しい人々と喜び合う彼らが上げる歓声が響き渡る中、ぽっかりとその場から切り抜かれて捨て置かれたかのように、部屋で一人佇む自分。何の縁もなくただ一人きりであるということに胸が圧し潰されそうになっていた――あの日のことは今でもよく覚えている。
「次の年からは兄さん達と一緒に見たの。でも実家に帰ったり古いお友達のところに行ってたりして、誰かがいない年もあったから寂しかった。いつかは兄さん達も実家に戻ったり家庭を持ったりして、その人達と年末を過ごすようになるんだろうなって思ったら凄く寂しかった」
それに、ベテランの彼らと新米で余所者の自分が親しくしていることをよく思わない同僚が一定数いるらしいことに気付いてからは、そして【暁】の事件が起きてからはより一層新たな人間関係を築くことに臆病になった。
――人は一生のうちに幾度も出会いと別れを繰り返すもの。皆が皆と仲良くできるなどとは思ってはいない。多分、数えきれないほどの出会いと別れの中で、生涯に渡って長く付き合えるような友垣に出会えることはそれほど多くはないだろう。それは理解はしていた。でも。
「色々あり過ぎて、誰かと仲良くなってもまた良くないことになるんじゃないかって、それが凄く怖かった。何度も人間関係を築き直すって凄く労力がいるから、それくらいならいっそ自分一人でいる方がずっと楽だった。寂しいけどその方が楽だったから、ルリィや兄さん達以外とはあまり深くは付き合わないようにしてた」
「……シオリ」
「でもね」
気遣わしげに見下ろすアレクを正面から見つめる。
「そんな気持ちを変えてくれたのがアレクだった。人間は人とかかわらずに生きていくことなんてできないんだって、色んな人達と支え合ってこそ生きていけるものなんだって……支えてくれる人達がいたからこそ、私は一人で立っていられたんだって気付かされたの」
だから。
「ありがとう、アレク。この世界に生まれて、私と出会ってくれてありがとう。私の心を開いて、一緒にずっといてくれるって言ってくれてありがとう。色々大切なことを思い出させてくれて……、一緒に新しい年を迎えてくれて、本当にありがとう」
――私の愛しい人。
「愛してる、アレク。今年も……これからもずっと、よろしくね」
「――ああ。こちらこそ」
黙って話を聞いていてくれたアレクは破顔し、シオリを力強く抱き締める。
「俺も愛してる、シオリ。生きていてくれてありがとう。俺と出会ってくれてありがとう。俺の心を癒して……過去と向き合う勇気をくれてありがとう」
頬に手が添えられ、引き寄せられるままに口付ける。
すぐそばで、わぁ、と小さな歓声が上がったけれど、それもすぐに喧騒の中に溶けて消えていった。
多くの人々が家族や友人達と祝いの言葉を交わし合う中、挨拶代わりに口付けを交わす恋人達もいる。そんな彼らに紛れて二人もまた、熱く溶け合うように唇を重ね合う。
足元のルリィが嬉しそうにぷるるんと震えた。
再び光の環が打ち上げられ、新たな年を迎えたトリスの街を明るく照らす。
――柔らかで温かい光に満ち溢れたこの街は、シオリにとって第二の故郷だ。そんな街で愛しい人と出会えた僥倖を、そして共に新年を迎えられたことの喜びを静かに噛み締めてシオリは夜空を仰ぐ。
「シオリ」
「うん?」
「いい一年にしよう」
「うん」
足元で陽気にぷるんぷるんと身体を揺らしていたルリィが、しゅるりとアレクの肩によじ登った。まるで肩車をしているようで、シオリはくすりと笑う。
(――まだ気持ちの整理は付けていないけれど、でも、それでも……とても幸せ、だな)
二人で見上げる夜空は優しく穏やかな紫紺の色だ。その空に数多の光が打ち上げられ、これまで以上に大きな環を描き出した。
最高潮に達した大通りは人々の歓声と笑顔で満ち溢れている。
(詩郎兄さん、父さん、母さん、皆……明けまして、おめでとう。色々あったけれど、私はここにいて……ちゃんと幸せでいるよ。こっちでの兄さんもできて、友達も増えて、今年は恋人もできたの)
自分を忘れてとは言わない。けれども幸せでいるから、だから、どうか。
皆も心安らかに、新しい年を迎えてほしい。
幸あれと願いながら、シオリはアレクの腕の中で飽きることなく夜空に咲く光の花を眺め続けた。
ルリィ「ちょっと早いけど良いお年を!」
雪男「まだだ、まだ終わらんよ!」
ペルゥ「……いや、雪男はとっくに終わってるから」
これにて間章終了です。ようやく物語の折り返し点に漕ぎ着けることができました。応援してくださった皆様のお陰です。ありがとうございます(*´Д`)
次話からは新しい章に入ります。
また冒険しながら心の整理を付けていく二人をどうぞ見守ってやってくださいませ。




