06 ルリィの仕事納め
――今年は色んなことがあったなぁ。
ぽよぽよと一人遊びをしながらエナンデル商会の使い魔用焼菓子をつまんでいたルリィは、そんなことを考える。
シオリと一緒の日々は楽しかった。知り合いが増えて、友達も沢山できて、個人的な仕事も増えて、色んなことを見聞きして知識と経験を蓄えて、とても充実した日々だった。
でも何よりも嬉しい出来事だったのが、大切な友達のシオリに番ができたことだった。
アレク・ディア。ザックの古い友達でとても強い人だ。王国人ではないシオリを最初は警戒していたようだけれど、すぐに気に入ったみたいで熱心に口説くようになった。
真面目で仕事熱心で穏やかで優しくて、傷を抱えているのに強く生きようとしているシオリに強く惹かれたらしい。
自分が知る限り、アレクほどシオリに寄り添おうとした人はいなかった。だからシオリもアレクを好きになるのにあまり時間は掛からなかった。
……それでも彼の気持ちを受け入れるのには随分と悩んでいたみたいだけれど。
本気で痛みを分かち合い、支え合えるアレクと一緒にいるシオリは、とても幸せそうだ。
ぷるんぽよん。
身体を震わせてから、ルリィは目の前に寄り添って座る二人の男女を見上げた。
ルリィの友人。シオリとアレク。その二人は長椅子に並んで座り、食後のひとときを楽しんでいた。シオリは甘酸っぱい林檎酒を、アレクは少し度数の強い葡萄酒を片手に取り留めもない会話をし、時折口付けを交わしては微笑み合っている。
二人と一匹で就寝前のひとときを過ごすのは、ここ数週間でできた習慣。アレクがシオリの部屋に泊まったときのお楽しみだ。
いつもと少し違うところがあるとすれば、それはここがシオリの部屋ではなくアレクの部屋だということだ。シオリが暮らしているアパルトメントの最上階の部屋。
アレクが元々住んでいた下宿は古くなって女将が引き払うことにしたから、新しい部屋に引っ越してきたらしい。その最初の夜、シオリが引っ越し祝いの手料理を振舞って、そのままお泊りすることになったのだけれど。
――うーん。
ルリィはぷるぷると身体を左右に揺らしながら、シオリが着ている真新しい部屋着を眺めて考え込んだ。
柔らかい生成り色の生地のワンピースの襟元と裾には、紫紺色の糸で雪菫の花が刺繍されている。
王国伝統の意匠のその服にはきちんと意味があるのだとルリィは知っていた。
ナディアが言うには、雪の中でも力強く可憐に咲き誇る雪菫の花は王国の女性を象徴するものだという。生成り色の生地にその雪菫の刺繍をした衣装は、古い時代には婚礼衣装として使われていたらしい。
男がその年に織り上げたばかりのまっさらな生地を意中の女に贈り、それを受け取った女が雪菫の花から作った染料で染め上げた糸を使い、その生地に花模様を刺繍する。それを村の女達が総出で婚礼衣装に仕立て上げるのだ。
花婿にはシャツとベルトを。花嫁にはドレスと髪飾りを。
婚礼衣装を仕立てられるだけの量の新しい生地も、染料を作るために多くの原料を必要とする染め糸も、どちらも庶民にはとても贅沢なものだった。だからドレスと言っても裾が少したっぷりした程度の簡素なワンピースだったらしいのだけれど、生涯に唯一自分のためだけに持つことが許される贅沢品だったのだ。
大切に保管したその衣装は祭や我が子の婚礼のような特別な日に身に付けて、そうして生涯を終えるときに一緒に埋葬される。
まだ王国が貧しかった時代の婚礼衣装。
豊かになった現在ではごく一部の地域にのみ残された風習で、今では伝統工芸として伝えられているそれ。
ルリィもずっと昔、まだ他の個体から分裂したての頃にブロヴィート村で二、三度見たことがある程度のその風習を、アレクは知っていてシオリに与えたのだろうか。
――アレクのことだから、あり得るなぁ。
焼菓子の最後の一欠けらをぺろりと呑み込みながら、ルリィはそんなふうに思った。
アレクはそういう少し面倒なところがあるのだ。シオリを物凄く気遣って大事にしているのは分かるけれど、変に遠慮し過ぎて言葉にはしない癖に態度には出してしまっていて訳が分からない。
たとえば今のように、明らかに何か言いたいことがあるのにそれを口にできずにうだうだもじもじしている様は最たるものだ。
ルリィはじっとりとアレクを見上げる。
一見しただけではシオリと一緒に酒を楽しみながら談笑しているだけだ。けれどもじっと観察していると、何か言おうとしては躊躇って口を噤んでしまうようなことが何度もあった。
何を言い出すつもりなのかおよその察しがついていたルリィは、また何か言い掛けてやめてしまったアレクの足元をぺしりと叩く。シオリを口説き落とすまでの押せ押せの態度はどうしたと口があったら言ってやりたい。
ぺしぺしと足元を叩き始めたルリィを、アレクが驚いて見下ろした。
「ん? どうしたルリィ」
どうしたはこっちの台詞だと言わんばかりにルリィはぷるるんと震えた。しゅるりと伸ばした触手をシオリに向け、次に意味深長に彼女に着せているかつては婚礼衣装だった服を、そして最後に寝室を指し示した。
傍から見れば謎の踊りを踊っているようにも見えるルリィにシオリは目を丸くしたが、アレクは察したらしい。取り繕うようにして彷徨わせた視線をシオリが身に纏う服に向け、それから口元を押さえて黙りこくる。
古い時代の婚礼衣装だったそれは、初夜の衣装でもあった。婚儀を終えた夫婦が正式な番になるための儀式にこれを着たまま臨むのだ。
シオリにこれを着せたアレクは、彼女と番になりたいと本気で考えているのだろう。
――そこまで考えてるなら、さっさと一緒に住もうって言えばいいじゃない。
じっとりと見上げられたアレクは、ますます気まずそうな顔になった。
彼がシオリを大事に想うあまりに自らに制約を課していることは知っている。シオリの心の傷がもっと癒えるまでは、そして自分の過去を清算して気持ちに区切りをつけるまでは手を出さないと決めていることは知っている。一緒に暮らすことになったらその制約を早々に破ってしまいそうだということを危惧していることも理解している。人間には世間体とか物事の順序とか、色々な面倒があることも。
けれども一番大事なのはお互いの気持ちだ。
――気持ちを通わせてるのなら、ちょっとくらい順番が違ったって別にいいじゃない。
人の理からは外れた魔獣であるルリィとしては、そんなふうにも思うのだ。
ルリィと奇妙な睨み合いを続けていたアレクはやがて、ふ、と息を吐き出して苦笑した。
「……分かったよ。お前のお陰で決心がついた。そういえば昔も一人で考え過ぎて大失敗したんだったな」
ある程度は成り行き任せでもいいんだよなとアレクはそう独り言ち、それからシオリに向き直った。
「――シオリ」
「うん?」
急に改まったアレクにシオリは目を瞬かせる。その手を取ったアレクは、そっと指先に口付けた。
「多少順番が前後するが――とりあえず一緒に住まないか」
「……えっ?」
アレクの申し出にシオリは驚いたようだった。驚いて目を見開いたまま固まってしまったシオリの手を強く握り締めて、アレクは続けた。
「勿論無理にとは言わない。お前にも色々思うところはあるだろう。だから抵抗があるなら断ってくれて構わない。本来なら妻問いするのが先なんだろうが」
「妻問い……」
覿面に狼狽えたシオリは視線を彷徨わせた。
「すまない。急な話で驚かせたとは思う。だが俺としてはいい機会だからお前と一緒に住めればと思っている。今は……恋人として」
「……アレク」
「……こういうのはあまり好まないか?」
二の句を継げずに口を僅かに開いたまま押し黙ったシオリの頬に、アレクは静かに手を添えた。
シオリは小さく首を振る。
「アレクの気持ちは嬉しいよ。私もアレクと一緒にいられる時間が増えれば嬉しいもの。ただ、あんまり急だったから……」
そう言ってシオリは眉尻を下げて微笑んだ。その頬を愛おしげにアレクは撫でる。
「そうだな。俺ももう少し先の話だと思っていたが、思いがけずにこうして広い部屋に引っ越すことになったんだ。だからいい機会だと思った。いずれはそうしたいと思っていたからな」
言いながらアレクはシオリの深い色合いの瞳を覗き込んだ。
「とりあえずは恋人として一緒に暮らさないか。その上で互いに気持ちの整理を付けたなら、そのときは正式に妻問いしよう。お前も――言えずに隠していることがあるだろう」
はっと息を呑んだシオリを落ち着かせるようにしてアレクは柔らかく微笑んだ。
「俺は、お前が何者であろうともシオリはシオリだと思っている。たとえ――天上から降ってきた天女であろうとも」
ぎくりと身を竦ませたシオリの身体をアレクは抱き寄せた。
「誰であるかなんて関係ないんだ。俺はお前という女に出会い、強く惹かれてそして惚れた。もう俺にとって唯一の存在なんだ」
強く抱き締めたまま、シオリの頤に手を掛けて上向かせる。
「――愛してる。愛してるんだ。お前を心の底から愛している」
何か言い掛けたシオリの口の端が震え、言葉にならないまま吐息となって空気に溶けた。
「シオリ。俺の唯一」
「……うん。うん。ありがと、アレク」
どうにかそれだけ言葉を絞り出したシオリの双眸から温かな雫が流れ落ちた。
「私も」
見上げるシオリの瞳が光を滲ませたまま、笑みの形に細められた。
「私も好き。愛してる。だから」
一緒に、暮らそう?
囁くように、でもはっきり届く声で告げた言葉に、彼は顔を綻ばせて頷いた。
固く抱き合ったまま、唇を重ね合わせる。溶け合う吐息の合間に何度も愛を囁いて、二人は思いの丈を確かめ合った。
やがて身体を離した二人は小さく微笑み合い、足元でずっと成り行きを見守っていたルリィを見下ろした。
「ありがとな、ルリィ。後押ししてくれて」
アレクの言葉にルリィはぷるんと震えた。嬉しくなってぽよんと跳ねる。
――良かった。
ルリィは思った。
――今年一番の仕事を片付けられたみたいだ。
ぷるんぽよんと身体を揺らすルリィをシオリが撫で、アレクは礼だと言ってエナンデル商会の焼菓子をもう一包み出してくれた。喜んでそれを受け取ると、彼もシオリと一緒に身体を撫で始める。
――うーん、幸せ。
大切な友達が二人とも幸せ。そんな二人を見ている自分もとっても幸せ。
嬉しいことと楽しいことが大好きなスライムにとって、何よりのご馳走だ。
――年の瀬の夜。
温かで幸せな空気が満ちる部屋に、楽しげな笑い声が響き渡った。
ルリィ「アレクの理性がどこまで持つか。一人我慢比べ大会が始まったわけですが、これはどうですかねぇ解説のペルゥさん」
ペルゥ「無理じゃない」
雪男「無理ですよね」
雪狼「まぁ無理だな」
雪海月「無理無理」
満場一致。
あ、前回うっかり入れ忘れたペルゥの一文をこそっと追加しました。
足元で寝こけてるだけですが。




