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05 オリヴィエルの願い

 一枚一枚目を通し、保管するものと処分するものに選り分けた書類を数枚ごとに穿孔機で穴を開け、その束に厚紙の表紙を付けて紐で綴る。そんな作業を朝から延々と繰り返していたオリヴィエルは、最後の一束に手を掛けた。

「……やれやれ、ようやくあと一冊か」

 先に寝室で休むように言い付けたペルゥはここにいると言って聞かず、結局待ちくたびれてオリヴィエルの足元に広がって眠りこけている。

 一年で取り扱う書類の数は膨大なものだ。それだけに年末に苦労しないよう日頃から書類整理を心掛けてはいるのだが、この数年は帝国絡みの案件で数が多く、こうして夜更けまで掛かることが多かった。

 ちなみに秘書官は二時間ほど前に帰宅させた。あとは自分一人で事足りると多少無理を言って帰したのだ。彼の細君は数日前に第三子を産み落としたばかり。侍女や乳母などの世話をする者はいるだろうが、夫がそばにいた方が何かと心強いだろう。

 待望の女児が誕生したと満面の笑みで報告した彼の顔を思い浮かべ、自分もそうだったなと薄く微笑みながら手元の書類に視線を落とした。短く息を吐いて気合を入れる。あと少しだ。これさえ終えれば今年の執務は終了。仕事始めの日までの四日間が休暇となる。

 そうして最初の書類に手を付けたとき、執務室の扉を叩く音がした。入室を促すと見張りの近衛騎士が顔を覗かせた。続いて金茶色の髪を楽な形に纏めた女が音も立てずにするりと室内に滑り込む。

 妻だ。夜遅くまで執務室に籠る夫を気遣っての来訪。執務で遅くなるような日には先に休むよう言い付けてはあるが、こうして時折「陣中見舞い」に訪れるのだ。勿論執務の邪魔にならぬよう頃合いを見計らい、本人は訪れずに軽食や茶菓子を差し入れてくれることもある。

「セシリィ」

 愛称で愛しい人を呼ぶと、彼女は嫣然と微笑んだ。手にしていた茶器の載った盆を卓の上に置き、静かに夫に歩み寄る。

「あとこれだけなんだ。少し待っていてくれ」

「まぁ。ちょうど良かったわ。じゃあお茶を淹れて待っているわね」

 腰掛けたままねだるようにして伸び上がったオリヴィエルの唇に触れるだけの口付けを落としたセシリアは、卓の茶器を手に取った。

 こぽこぽという柔らかな音が室内に響き、ごく僅かな間を置いて果実の甘い香りが漂う。オリヴィエルが好む香り付けされた薬草茶だ。紅茶ではないのは就寝前だからと気遣ってくれたのだろう。

 室内が優しく甘い香りに包まれていく中、最後の書類を綴り終えたオリヴィエルは深々と息を吐く。

「お疲れ様」

 書類綴りを書棚に収め、処分する書類を纏めて焼却用の箱に詰め終えたオリヴィエルの目の前に、湯気の立ち上る茶器が置かれた。小さな焼菓子を添えてくれた、その心遣いが嬉しい。

「ありがとう。君も座るといい」

「ええ」

 秘書官の椅子を拝借したセシリアはオリヴィエルの隣に腰を下ろし、同じようにして薬草茶に口を付ける。

 しばしの沈黙。だがそれは決して不快なものではない、長く連れ添った仲だからこその心地良い沈黙だ。

 茶器の中身を半分ほど減らしたところでオリヴィエルは口を開く。

「……子供達は?」

「もう休んだわ。ベルンはどうしても読みたい本があると言って夜更かししたがったのだけれど……それは明日になさいと言って寝かせたわ」

 年越しの休暇は公務に忙しい役人がゆっくりと羽を伸ばすことができる貴重なものだ。城内の業務を預かる一部の使用人や国防に携わる騎士などはそういう訳にもいくまいが、そういった者達もまた日をずらして順繰りに休暇を与えられる。

 王族もその例に漏れない。王太子に課せられている全ての修練や公務が免除されるのだから、夜更かしせずとも休暇中にゆっくりと読書を楽しめばいいだろう。

「今を時めく女性画家アンネリエ・ロヴネル挿画の小説本か。読み終わったら僕も貸してもらおうかな」

 若年層向けに書き下ろされたその小説は、血沸き肉躍る冒険物語とそれに良く合う臨場感たっぷりの挿画が人気を博した。人気画家を起用したからこその評価だと揶揄する向きもあるが、なかなかどうして肝心の物語もまた読み応えがあるのだ。春先には新刊が発売予定だという。それまでに既刊全て読み終えられれば良いが。

「とても面白かったわ。わたくし、最後は感動のあまり泣いてしまったもの」

「む、いつの間に……」

 王妃としての公務に励む彼女にもそれほど暇はなかったように思うのだが。

 先を越されて些か悔しくなったオリヴィエルは眉間に皺を寄せたが、楽しげに笑うセシリアに表情を緩める。

 穏やかな、空気。

「……来年の暮れは、皆でこうして穏やかに過ごせるといいわね」

「……そうだね」

 こうして就寝前の穏やかなときを過ごす、たったそれだけのことがひどく貴い。

 今このときを極寒の国境線で待機している騎士達を思い、オリヴィエルは僅かに表情を引き締めた。

 自国の騎士が国家規模の極秘任務を遂行中という今、王たる自身がこうして安全な場に座して温かな茶を啜っていることに抵抗を覚えない訳ではない。

 しかし、気にすることはないとエドヴァルドが言ったのだ。

『自粛なんざしねぇで、お前はいつも通りにしてりゃあいい。何も贅沢しろってんじゃねぇよ、ただ本当に普段通りの生活してりゃそれでいいんだ。あいつらを心から信用してるってのをどんと構えて示してくれりゃあいい。それで戻ってきたら全力で労ってやってくれよ』

 多分その方が連中は喜ぶから、と。

 詭弁という者もいるだろうが、公爵家の嫡子という身分を隠して叩き上げで騎士団の副長の座を手にしたエドヴァルドの言うことだ。きっとその感性は前線にいる騎士達のものに近い。

 だから、その彼の言葉をこうして実行している。

 それに彼は自粛によって起きる問題もよく知っていた。

 王家の訃報が相次ぎ父王もまた病に倒れたあの頃。上流階級の自粛によって国内の経済が鈍化し、市井の暮らし向きにも影響が出ているのだと教えてくれたのも彼だ。自由な気性の異母兄の影響を受けてか、よく市井に下りて遊んでいたエドヴァルドは直接その様子を見て知っていたのだ。

 それを聞いて、オリヴィエルはなるほどと思ったものだ。民と同じ目線でなければ実情は見えてこない。

 ――だから物事の真実を知るために直接出向いて自らの目で確かめる。後に逃亡癖がある王だと揶揄されることになる原因の一端が、まさか自身にあったなどとはエドヴァルドは思いもしないだろうが。

 今も騎士団本部に詰めているだろう口の悪い亜麻色の髪の男を思い浮かべながら、オリヴィエルは薄っすらと口の端に笑みを浮かべた。

「……選帝侯が頑張ってくれたお陰で連合軍を直接介入させずに済んだんだ。この分なら二月までには自国の兵を引き上げられそうだよ」

 ドルガスト帝国南部を治めるウラノフ選帝侯によって極秘に組織された反乱軍は、多くの下級貴族や民衆の支持を集めて瞬く間に勢力を拡大。主要都市を次々と陥落させた彼らは挙兵から僅か三ヶ月で帝都に迫り、迎え撃つ皇帝直轄軍を初戦で撃破した。

 栄華の残滓を啜るだけでどうにか長らえていた皇帝は長大な外壁に護られた帝都に籠城するも、これも数週間で陥落することになる。

 それだけ民衆の不満は大きかったのだろう。皇帝に与していたはずの上級貴族からも造反者が続出し、蜂起から半年足らずで帝国内はほぼ制圧された。

「皇帝が偽物であったことも大きいだろうな」

 セシリアの口調が堅いものに変化した。元騎士として思うところがあるのかもしれない。彼女は感情が昂ると、こうしてかつて馴染んでいた口調に戻るのだ。

「よもや嫡流が二十年も前に途絶えていようとは誰も思うまいよ。まさか傍流が嫡流に成り代わっていたとはな」

 暗殺を恐れてか神聖性とやらを盾に滅多には人臣の前にも姿を現さなかった皇帝。謁見は御簾越しで尊顔を拝謁することは叶わず、その顔を知る者はごく一部の者に限られていた。

 それが仇となり、真の皇帝はとうの昔に暗殺されて別人にすり替わっていたことに誰も気付かなかった。この事実が明るみになるや、ぎりぎりまで付き従っていた多くの貴族が離反したのである。

 事実を知っていたのは宰相に与したごく一部の上級貴族のみ。気紛れな皇帝によって取り巻きや後宮の寵妃が入れ替えられるのは珍しいことではなく、帝国内では恒例行事的に捉えられていたことも長く欺き続けられていた理由の一つでもあった。

「しかも実権を握っていたのは宰相職にあった傍流の男で、皇帝の役を務めていたのが宮廷道化師だったなんてとんだお笑い種だ。プライドの高い帝国貴族にはこれ以上はない侮辱だっただろうね」

 それは、神聖なる皇帝を護ることで矜持を保っていた帝国軍の戦意を殺ぐには十分だっただろう。

「来年中には概ね片が付くよ。これで……やっとアルファンディス大陸は帝国の悪夢から解放される。数百年に渡って大陸を支配し、弱体化した現代ですら燻った残り火のように毒を振りまき続けてきた帝国から、僕達はようやく解放されるんだ」

 ――帝国からの解放。先人たちの悲願がもうじきに実る。

 オリヴィエルは残っていた薬草茶を飲み干した。

 僅かな沈黙。

「解放されると言えば――」

 二杯目を今度は手ずから淹れたオリヴィエルは、空いた二人分の茶器に注ぎ入れる。

「アレクも、もしかしたらそろそろ解放されるかもしれない」

「義兄上が」

 温かな湯気の立ち上る茶器を受け取ったセシリアが瞠目した。妻である彼女には、婚儀の後に失踪事件の真相を伝えていた。無論、何度か顔を合わせたこともある。互いにぎこちない対面ではあったが、同じ剣士として何か通じるものでもあるのか、その都度手合わせもしているようだ。

「というと?」

「うん」

 どう伝えたものかと一瞬悩みはしたが、今現在把握している事実だけを伝えればそれで事足りると思い至ったオリヴィエルは、素直にそれを口にした。

「一緒になりたいと真剣に考えている相手がいるらしい。本人からの報告はまだだけれどね。でも……本気のようだよ。ようやく過去の色々から解放されて、前向きになれた証拠じゃないかって思うんだ。だから」

「そう……か。それは何よりじゃないか」

「うん。それにね。『リンドヴァリ夫人』が身籠ったそうだ。出産は春の終わりか夏の始め頃になるだろうということだよ」

 夫人は王国の農業開発に多大な貢献をしたリンドヴァリ前伯爵の後妻にして研究助手を務める女性だ。

 元ミス・レヴェッカ・ハロンスティン。

 ――アレクセイの、恋人だった女性だ。

「それは」

 何とも言えない表情を作ったセシリアは、やがて僅かに苦みと痛みを含んだ顔で微笑んだ。

「確か私と同年だっただろう。三十五を過ぎての初産は辛かろうが……良いことだ。祝いの品は贈るのか?」

「勿論さ。品選びは君にも手伝ってもらいたいと思ってる。もっとも」

 僕個人としては些か複雑ではあるけれども、そう小さく付け加えてオリヴィエルは苦笑した。

「喜ばしいことだと思う反面、彼女が先に幸せを手に入れてしまったなという複雑な気持ちなんだ」

「致し方あるまいよ」

 薄く苦笑いしたセシリアはしかし、一転して表情を引き締めた。

「決して彼女だけに責任があった訳ではないことは理解している。だが当時の王宮はそれが許される状況ではなかった。王家に訃報が相次ぎ、先帝陛下も病にお倒れになったあの当時は王宮内が相当に不安定だったのだからな」

 王太子と第二王子が相次いで事故死し、それまであまり目立つことのなかった幼いオリヴィエルが王位継承権第一位に繰り上がったことで、勢力図は大きく変化した。その上王が死病に倒れ、立太子して間もないオリヴィエルが国王代理として政務を取り仕切るようになった。

 この間僅か六年。

 ごく短期間で何度も塗り替えられた勢力図に多くの貴族は地盤固めに奔走することになり、政局に乱れが生じた。また、三度に渡る王族の訃報に祭などの祝い事を自粛する風潮が長く続き、国内の景気は低迷した。長く安定していた豊かな王国がここにきて政情不安に陥ったことから、帝国を始めとした近隣諸国の中にはこの混乱を好機と見て不穏な動きを見せる国もあった。

「あれはいわば国家の危難だ。そんな最中に国を護り安定させる義務がある立場の者が私益ばかりを考え、あまつさえ政務に奔走する王子を益なしと罵倒した――これは到底許されるものではない」

 有事の際には王代行として城を護り采配する立場にある王妃。その立場にあり、そしてかつては国防に携わっていた騎士にして王国南部を護るセーデルヴァル辺境伯の息女なればこそ、セシリアの言葉は苛烈なほどに厳しい。

 あの当時、若き新王の下、共に国のために働きたいと登城した令嬢は多い。無論何らかの野心を抱いていた者も少なからずいたであろうが、その多くは女官や侍女となり、現在も各々の得意分野を生かして励んでいる。

 セシリアもまた国を護る騎士だった。親兄弟とは異なる形で国防に寄与していた。

 ――だが、レヴェッカはどうだっただろうか。侍女職ではあったがただ安穏と日々を過ごすだけではなかったか。アレクセイが秘かに自身の数少ない護衛騎士を宛がってまで護らせていたということに気付くこともなく、「その日」が来るのをただ待っているだけではなかったか。

「知識も教養もなかった、教育係が付けられていなかったというのは理由にならない。平時であればそれも許されただろうが、国のご危難にただ座して朗報を待つだけの者には王族の伴侶は務まらない。自ら考え動ける者でなければならないのだ。本来は慎み深く心根の優しい女性だというのは聞いている。だが残念ながら彼女には妃としての資質はなかった――ただそれだけのことだ。王代行としてのお前の采配に何ら問題はなかった」

「……セシリィ」

 私よりも公を重んじる意思、そしてこの揺るがぬ強さ。これこそが王妃の資質だとオリヴィエルは思う。それにいざとなれば自身で身を護る術を持っている。

 この女性(ひと)となら共に国を護り支え合っていけると思ったのだ。

 だからこそオリヴィエルはセシリアに強く惹かれた。

 微笑み、そして立ち上がるとセシリアの上に屈み込む。その艶やかな唇に自身のそれが触れると思われた、その瞬間。

 す、と伸びたしなやかな指先が、押し留めるようにオリヴィエルの唇を押さえる。その瞳には夫への溢れる愛情と共に、揶揄するような非難するような、複雑な色が浮かんだ。

「――でもね、わたくしも女だもの。女として思うところはあるわ。だからもう少しだけ言わせてちょうだい」

 つい先ほどまでは強い光を宿していた瞳が微かに揺らぐ。

「どんなときでも愛した人とは共にいたいと思うのよ。そうして何でも話し合うの。悩みを共有して、互いが納得するまで話し合いたい。大事なことを何もかも全て自分一人で決めてしまうだなんて、そんなの――殿方の傲慢だわ」

 だから、ね。

 セシリアはオリヴィエルの唇を人差し指で押さえたまま呟く。

「お義兄様は今度こそ間違えないで欲しいと思うの。大切な人とはきちんと向かい合って、互いの意思を確かめ合わなければいけないわ。そうでなければそれぞれ一方的な想いを募らせて、すれ違うばかりだもの」

「……耳が痛いな」

「貴方にも覚えがある?」

「う……ん。絶対ないとは言い切れないな。いや、多分……きっとある」

 ふふ、とセシリアは笑った。

「勿論王である貴方にそれを全て望むことはできないわ。だから、できる限りでいいの」

「ああ。そうする。約束するよ」

 自身の唇を押さえ付けていた人差し指が離れた。

 穏やかに更けゆく夜の執務室で、互いの唇を静かに重ね合う。

 ――平時であれば一緒になれただろうアレクセイとレヴェッカ。

 そしてあの混乱があったからこそ出会う機会を得たオリヴィエルとセシリア。

 そういう星回りだったのだという言葉で片付けることは容易い。だが、それを良しとしたくはない。生涯に幾度となく訪れるだろう分岐点をどう選ぶかはその者次第だ。

 少なくともオリヴィエルはそう思う。

(……根気よく彼女と向き合っているのはきっと――あのときした後悔の裏返しなのだろうな)

 アレクセイは、もう違える気はないのだろう。

 ならば弟として願うのはただ一つだ。

 どうか兄に、幸あれ、と。



ペルゥ「要約すると、お忍びで出掛けるときはせめて一言言い置いていけと」

下水道のマダム「たまに時間がなくて奥さんに言わないで出ていくときがあるのよ」

ルリィ「ナルホドー」


それアカンやつ。


女としては同情するが、為政者の側に立つつもりなら失格。国家の危難の中であればなおさら。

というのは多分にあると思います。

でもやっぱり女としては思うところもある、その気持ちをファーストレディに代弁して頂きました。

最適解を出すのは難しいですが。

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