04 ナディアの想い
第二街区へと繋がる橋を臨む川沿いの大通り。商館を改装した煉瓦造りの酒屋「詩の蜜酒」は多くの人々で賑わいを見せていた。併設の大衆酒場は賑やかながらも落ち着いた佇まいで居心地が良く、厨房長が腕を振るった料理に舌鼓を打ちながら世界各国の酒を楽しめるという酒好きには堪らない趣向の店なのだ。
その酒場の奥まった客席を陣取り、ナディアは銀髪の美貌の男と差し向かいで東方の酒を傾ける。
「――へぇ、美味しいじゃないか。米の酒ってどうなんだいって思ったけど、果実酒と遜色ないねぇ」
まろやかで奥行きのある甘みは口当たりが良く、つい盃を重ねてしまいそうだ。瓶のラベルには東方特有の複雑な文字で銘柄が記されている。みりん、と読むらしい。
「だろう。モチゴメという特別な米から作っているらしい。これは東方の酒の中でも甘みが特に強く、女性に人気なのだそうだ。東方では調味料としても使われているらしい」
「調味料? へぇ、なんだか勿体ない気がするねぇ。こんなに美味しいのに」
「そうだな。まぁ、王国でも料理に酒を使うのだからそれと似たようなものだろう」
「そうなんだけどねぇ……でも料理に使うってのなら、シオリのお土産にしてもいいかもね。また美味しいもの作ってくれるかもしれないよ」
言いながら店員を呼びつけて、持ち帰り用に二本頼んでおく。雀斑の浮いた笑顔が印象的なその店員は「お勘定のときにお渡ししますね」と言い置き、空いた皿を持って立ち去った。
その背を見送ったクレメンスもまた小さなグラスを傾ける。
「私には少々甘過ぎるが……たまには悪くないな」
好みとは違うと口では言いながらも、彼はうっとりと目を細めて口内で酒を転がしている。彼の手元のグラスが揺れ、蜂蜜を思わせるとろりとした黄金色の酒が小さく波打ち、照明の光を反射してきらきらと煌めく。
「それにしても珍しいね。あんたが甘い酒ばっかり続けて飲むなんてさ」
クレメンスは辛口の酒を好む。甘みの強い酒は付き合いで飲む程度だったのだが。
そう指摘してやると彼はほんの少しだけ苦みの混じる笑みを浮かべる。
「……今日はそういう気分なんだ。そろそろ区切りが付けられそうだしな」
何がとは言わなかったが、彼の言わんとすることを察してナディアは緩く唇の端を吊り上げた。
「へぇ……そうかい。そいつは何よりだねぇ」
言いながらもつい僅かに眉根を寄せてしまう。それに彼は気付いただろうか。
――この男の、何度目かの失恋。
否、今までのは失恋とも呼べない。彼と出会ってから十数年ほどの間に何度か気になる相手ができたのは知っていた。滅多に表情には出さなかったが、その相手を視線で追い掛けていたのは幾度か見たことがあった。
けれどもそれだけだ。それ以上どうするでもなく、いつの間にか何事もなかったかのように視線で追うこともなくなっていた。
どこか恋愛に淡泊なのは少年時代の出来事が原因の一つであるらしい。いつだったか彼も言っていた。自分であれ相手であれ、背負う家名が揉め事の元になるのなら初めから深入りしない方がいいと。
(出自を知った途端に目の色変える奴もいるしねぇ……)
同僚の中には貴族家や富裕層出身の者も多い。そのほとんどは偽名を名乗り自ら出自を明かすこともないが、何かの拍子に知られて友人や同僚との関係が変わってしまった者もいる。馴れ馴れしくされるか、あるいは逆に遠慮して距離を置かれるか。全てがそうなる訳ではないが、よほどのことがない限りは明かさない方が良いのだ。
(ちょいとばかり慎重過ぎるとも思うんだけれど、仕方ないかねぇ。なんたってホレヴァ商会の会長の次男坊だものさ)
王国でも五指に入る老舗。多くの上級貴族を顧客に抱えるこの大店を知らぬ者は、国内では乳幼児くらいのものだ。
それに加えて本人のこの容姿だ。ホレヴァ商会の創設者一族という肩書に加えて、男に迫られたこともあるなどという噂が立つほどの危うい美貌の持ち主。それを狙う野心的な女はさぞ多かっただろう。
目を細めて酒を楽しむクレメンスに視線を流し、ナディアはグラスの影でひっそりと苦笑いした。
慎重で義理がたく、そして遠慮がち。その性格が災いしてか、結局はシオリに対しても自ら線引きしてしまった。それどころかナディアにすらもだ。何度かそれとなく口説かれたことはあるが、それもナディアの素性を察した途端にぱったりと止んだ。
それなりに乗り気になっていたナディアとしては残念に思ったものだ。そう思うほどにはこの男に惹かれていた。その容姿だけではない、知的で紳士的な物腰、考え方、仕事に対する姿勢と矜持。見た目の優雅さとは裏腹に戦神のような強さを持つこの男に、多分惹かれていた。
(――死んだ人の面影を重ねるのは良くないけど、どことなくあの人に似てたんだものさ。そんな男に口説かれればやっぱり……その気になっちまうね)
未だ少年のままの許嫁の姿が脳裏を掠めた。落馬事故で呆気なくこの世を去った、二十五年前に死に別れた彼のその顔はもうおぼろげにしか思い出せない。けれども彼とどこか印象の似たクレメンスは、多分あの人があのまま生きていたならきっとこんな感じに年を重ねていただろうと思わせる男だった。
しかし彼は、もしかしたら王妃になっていたかもしれない女だと知った途端に身を引いてしまった。ただの親しい友人というだけの間柄に戻ってしまった。
(かもしれないってだけだし、今のあたしは亡国の貴族だった、ただの女さ。遠慮なんてそんなもの、する必要はなかったってのにさ)
じっと眺めていたことに気付いたのか、クレメンスがふと顔を上げた。
「……どうした? そんなに見られては穴が開くぞ」
彼は言いながら顔に落ちかかる前髪を払う。酒のせいか僅かに上気する顔を縁取る銀髪を気怠げに掻き上げる仕草は、恐ろしいほどの色気を孕んでいる。
「……いや、なんでもないよ」
美しい男を目の前に、ナディアは紅を引いたぽってりとした唇を笑みの形に引き上げる。
「ただ、吹っ切れたら新しい恋でも探してみるのかと思ってね」
「新しい恋、か」
クレメンスは笑った。
「この歳で新たな恋というのもどうかとは思わないでもないが……それもいいかもしれんな」
その武骨な手の中で回したグラスから甘く豊かな香りがふわりと漂う。
「誰かを好きになるのに歳なんて関係ないだろ」
ナディアもまた微笑んだ。
「気に入った女が見つかったら今度こそちゃんと口説くんだよ。遠慮するのが必ずしも正しいことじゃないってのはもう分かったんだろ」
「……ああ。そうだな。まぁ性分だからすぐにどうこうは難しいが……努力しよう」
言いながら酒瓶を手に取った彼は、ナディアの空いたグラスに注ぐ。それから自身のそれにも注ぎ足して軽く掲げた。それに応えてナディアもまたグラスを掲げる。
――過ぎた恋への献杯。新たな恋への乾杯。
触れるか否かの距離で掲げ合うグラスから、もう一度深みのある甘い香りが立ち上った。
ルリィ「これはもしや」
ペルゥ「もしや」
雪男「もやしのナムルっておつまみにいいんですよね」
雪海月「……そういうとこやぞ」
美男美女や魔獣の描写は楽しいです(゜∀゜)




