03 クレメンスの大掃除
組合にほど近い、大通りに面したアパルトメント。煉瓦造りに漆喰を塗ったその建物は、築二百年ほどで元は有力商人の住居であったという。大幅な改修が施された現在では各部屋に台所や浴室が設置され、居心地の良い部屋になっていた。
その三階の一室。部屋の主であるクレメンスは一年の締め括りの作業――年末の大掃除の最中にいた。
ストリィディア王国を含めた北の国々の冬は厳しく、本来は極寒の中で大掃除をする習慣はない。冬の終わり、春告鳥の飛び始める頃が大掃除の季節とされる。しかしクレメンスの実家のような商家では、一年の仕事の締め括りとして書類整理の傍らで大掃除をする習慣があった。
幼い頃から手伝わされていたこの習慣は、実家を出て冒険者稼業に足を踏み入れてから十数年経つ今でさえも失われてはいない。一人住まいで部屋を空けることも多く、日々の掃除程度で十分なのだが、身に付いた習慣は未だに抜けない。
ふんわりと広がる水晶孔雀の白い羽で作られたはたきで棚を撫でると、軽やかな音と共に薄く降り積もった埃がはらりと落ちた。それぞれの棚を上段から順に払い落し、床に落ちた埃を箒で集めて塵取りに取る。
「……こんなものか」
後は調度類を軽く水拭きすれば、さほど大きくもない部屋の大掃除は終了だ。
そう思いながら書棚に視線を向けたクレメンスは、暫し考えてからそれに歩み寄った。
「この棚もそろそろ整理するか……」
実家から持ち出した本が数冊。それ以外は全て今の仕事を始めてから買い集めたものだ。冒険者向けの指南書や図鑑の他、ビジネス書や貴族年鑑、社会問題や政治関連の書籍、そして少年時代から好んで読んでいたシリーズ物の小説など様々だ。
それらの数冊を手に取り、数頁を繰りながら思案する。
「このあたりはもう処分してもいいかもしれんな」
新人時代に師事した老冒険者から譲り受けた指南書や剣術書、心得の本などは大分読み込んで擦り切れてはいたが、まだこれを必要とする者はいるだろう。これから迎え入れる新人達のために、組合に寄付してもいいかもしれない。
そう思いながら書棚から何冊か引き抜いたそのときだった。
指南書からはらりと紙片が落ち、それに気付いたクレメンスは腰を屈めて拾い上げる。見覚えのない二つ折りの紙片の内側には何かを書き付けてあるのが透けて見えた。メモ書きだろうか。首を傾げ、開いて視線を走らせたクレメンスは、次の瞬間はっと息を呑んだ。
ひどく拙く、一見すると子供の書き取りの練習のようにも見える筆致のそれは、想いを寄せていた女からのものだった。この国に来て一年ほどの頃に彼女に貸し出した、その礼を認めたものだ。
「……気付かなかったな。こんなものを書いてくれていたのか」
拙いながらも一文字一文字を丁寧に書いたということは分かる。これを書き綴る彼女の真摯な姿が目に浮かぶようで、ふ、と口元を綻ばせる。同時に微かな痛みが胸を刺した。
「私も女々しいな」
じわりと痛みが滲んで消えた胸元を押さえて苦笑いする。
ふとした拍子に胸が痛むのは止められない。しかし、シオリへの想いを断ち切るまであと僅かだ。幸せそうに己の親友と寄り添う彼女の姿を思い起こしながら、クレメンスは紙片にもう一度視線を落とした。
「あと少しなんだ。君とあいつとの仲を心から祝ってやれるまで、もう少しだ」
指先で拙い文字をなぞりながら呟く。
あの事件を境に生まれたシオリに対する遠慮が彼女との距離を生んでしまった。愛していたのならアレクのようにもっと寄り添うべきだったのだ。それどころか、愛していたという自身の想いに気付かないふりさえしていた。だからこそ、ザックを除けば恐らく最も近しい場所にいながら肝心の一線を越えることができなかった。
それは他の誰でもない、己の失態だ。シオリと、そして己と同じく彼女を想っていただろうザックへの遠慮など、ただの言い訳に過ぎない。
「……臆病なのかもしれんな、私は」
――大店の次男坊の婚約者に収まろうとした女の策に嵌り、薄衣一枚のその女と密室で一晩過ごすことになった少年時代の苦い想い出が恐らく、臆病な心を生んでしまった。
家族や親しい友人達は、何もなかったというクレメンスの言葉を信じてくれた。医師の診断でもその女は正真正銘の処女だと証明された。
しかし一度世間に流れた醜聞は簡単には消えはせず、それによって仄かな恋情を抱いていた娘に軽蔑の眼差しを向けられた――あの日のことは、小さな棘となって胸の奥底の柔らかい部分に突き刺さったままだ。
下流貴族の娘だった。身分は違えど、大店の子息になら嫁ぐ気があるらしいという噂がある娘だった。何度か言葉を交わして良い関係を築いていたはずだったが、結局あの出来事以来素っ気無くなった彼女とはそれきりだ。
あのときもきちんと話し合っていればもしかしたら違う結末があったのではないかとも思う。貴族の娘らしく潔癖なきらいがあった彼女との隙間を埋めることができなかったのは、自身の不甲斐なさの所為だ。
シオリとのことも同じだ。踏み出すことができなかった。
遠慮などせず踏み出していれば。もっと寄り添っていれば。
「――臆病ゆえの、この結末だ。だからもう本当に断ち切らねばならんな」
そしてもし次があるのなら、そのときはもう間違える気はない。
「ああ、だが、そうだな。最後に一度だけ。一度だけだ」
開いた紙片の、シオリの署名が綴られたその部分に、そっと口付ける。
「――君を愛していたよ、シオリ」
過去形にして告げた、この場にはいない女への想い。
それは終わりを受け入れるための儀式だ。
その言葉は柔らかな午後の日差しが差し込む室内に静かに溶け、そして消えていった。
そうして暫しの間瞑目した後、クレメンスは紙片を火にくべようとした手を止め、思い直して手帳に挟んでしまい込む。このくらいは想い出として残してもいいだろう。
手帳を書き物机の上にそっと置いてから、処分する本を纏めて紐で縛り部屋の隅に置く。後日組合に持ち込めば、ザックがいいようにしてくれるはずだ。
それから仕上げの水拭きをし、洗った雑巾を固く絞って干しておく。
これで気持ち良く新年を迎えられるはずだ。
満足げに室内を見渡したクレメンスは、ほっと息を吐く。
「……ひとっ風呂浴びるか」
大掃除の後の細やかなお楽しみ――と言えば少しばかり大袈裟かもしれないが、先に掃除を済ませて湯を張っておいた浴室に向かう。埃除けに被っていた手拭いと埃っぽくなった衣類を脱いで籠に放り込み、ざっとシャワーを浴びて汚れを洗い流す。
それから温かい湯を張った湯船にゆっくりと浸かった。
湯船の外で汚れを落とし、沸かし湯をたっぷりと張った浴槽で身体を温める異国式の入浴法は、水道設備が当たり前のように敷設され生活魔導具の開発が進んだ三十年ほど前から急速に普及した。
水が豊かな王国では古くから入浴の習慣があるにはあったが、それでも沸かし湯を盥に入れて軽く身体を流す程度のものが主流であった。貴族ですら浴槽に浸かるのは週に一度程度のものだったのだ。
それが近年ではこの清潔な水をふんだんに使った入浴法が主流になりつつある。
歴代の王と施策に携わった人々の努力の賜物。その一端を祖父や父が担っていたことはクレメンスの誇りだ。自身は家を出た身ではあるが、その誇りがあるからこそ冒険者という別の道を歩みながらも家業に幾許かでもかかわり続けている。
それは自身の油断が招いた醜聞で家名に傷を付けた、自分なりの贖罪でもあるのだが。
ふ、と息を吐いて、自身の身体を見下ろした。王国人にしては地黒の素肌に付いた、いくつもの傷痕。家を出なければ決して付くはずのなかったものだ。それをそっと指先でなぞる。
失敗の戒めでもあり、生還した証、勝利の証でもあるそれ。
「……君にとっては不本意だろうが……君の手足の傷は、君なりに戦った証でもあるんだ。だから恥じなくてもいい。きっと……アレクも」
あの男もそう思っているはずだ。あれは良い男だ。シオリが恥じているあの傷痕、それごと彼女を受け入れるだろう。
「だから――」
幸せに、なれ。アレクと共に。
――銀糸の前髪から滴り落ちた雫が湯に波紋を作り、水面に映り込むほんの僅かな痛みに顔を歪めた男の顔を隠していった。
小一時間ほど後。
入浴を終えて清潔な服に着替えたクレメンスは湯上りで火照った身体を鎮めようと、保冷庫の冷水をグラスに注いで一気に飲み干した。水分の抜けた身体に染み渡っていく感覚にほっと息を吐いた彼は、ふと傍らの小瓶に目を留めた。
携帯用にと東方の酒を移し入れていた数本の小瓶。アレクやザックに不吉な銘柄だと揶揄された酒の入った小瓶だ。
「……これもさすがにそろそろ処分するか。いくらなんでも自虐的に過ぎたな」
苦笑しながら蓋を開けて中身を流しに捨てる。ついでに大瓶にいくらか残ったものも、銘柄はともかく味は良かったと多少の未練を感じながらも全て空けた。
行きつけの店ではもっと縁起の良い銘柄も取り扱っていたはずだ。東方産の辛口の酒は好みに合ったが、次は甘口のものを試してみても良いかもしれない。
そんなことを思いながら空き瓶を漱いでいると、部屋の扉を叩く者があった。
「いるかい、クレメンス」
やや低めの艶っぽい声が扉の向こうから己を呼ばう。
ナディアだ。
「――どうした?」
「時間があるならちょいと飲みに出ないかい? 他の連中は予定があるとかで振られちまってね」
扉を開けて訊きながらも用件のおよその見当が付いていたクレメンスは、案の定の答えに小さく噴き出した。その様子にナディアが柳眉を吊り上げる。
「なんだい。急に笑ったりなんかして」
「いや」
長身の美女を宥めつつ、クレメンスは言った。
「妙な野心もなく飲みに誘う女はお前くらいだと思ってな」
人よりは多少整っているという自覚があるこの容姿に惹かれてか、意味深長に誘う女は多いのだが、この女に限っては決してそのような品位を欠く真似はしない。
人目を惹く派手な身形ながらも決して下品にならぬのは、この女の品格が真に優れているからなのだろう。
「少し待っていてくれ。支度するから」
美しく気品ある女と差し向かいで飲むのはやぶさかではない。
湯上りの濡れ髪をもう一度しっかりと拭い直してから防寒具で覆い、外套を羽織って内ポケットに財布を突っ込む。
そうして部屋の扉に鍵を掛けたクレメンスは、ナディアを促して外に出た。
「店は決まっているのか」
「いつもの店――もいいんだけどね、たまには違う店もいいかと思ってねぇ。どこかいいところ、知らないかい?」
「それならいい店がある」
外は雪もなく、雲間から月が覗いていた。身を切るような寒さの中でも、年の瀬の領都は賑やかだ。飲食店が立ち並ぶ通りは、温かな光と食欲を誘う良い香りで満ちている。その店内から漏れ聞こえる楽しげな笑い声が通りに響く。
「各国の酒を取り扱う店でな。色んな銘柄を少しずつ試飲できるんだ。酒に合う拘りの料理も美味いし、気に入った酒はその場で買うこともできる。多少賑やかだが雰囲気は悪くない」
「へぇ」
紅を引いた艶やかな唇を綻ばせて、ナディアは嫣然と微笑んだ。
「そいつはいいねぇ。それじゃ、あんたお勧めのその店にしようかね」
「では決まりだな」
クレメンスは笑った。
美貌の男の滴るような色気が滲む笑みに、道行くご婦人方が頬を染めて振り返る。
「今夜は飲みたい気分なんだ。付き合ってくれ。飲み代は私が出そう」
「おや。気前がいいこと。それじゃ御馳走になろうかね」
今夜は飲み明かそう。そして楽しい酒にしたい。
楽しげに微笑む美女をエスコートしながら、クレメンスは雪道を歩き出した。
ルリィ「不吉な酒処分祭」
雪男「……焼酎はお掃除にも使えるのに……」
ペルゥ「不吉な酒で大掃除して迎える新年はどうなるんだっていう不安があるんだけど」
ですよね。




