02 トビーの失恋
新たな年を迎えるまであと数日の冒険者組合トリス支部。いつもは忙しく留守にしがちな冒険者達は、その談話室でのんびりと余暇を過ごしていた。
年末ともなると皆年越しの準備で忙しいのか、依頼の件数は格段に少なくなるらしい。再び忙しくなるのは大聖堂の年越し行事の前後二、三日。それまではちらほらと護衛や採集の依頼が入る程度だ。
そういう訳で今現在手隙のトリス支部では、皆それぞれのやり方で時間を潰している。郷里に待つ者がいる冒険者は家族や友人と過ごすために帰省しているようだが、こういった余暇を利用して講習会などを開催する者もおり、むしろ普段よりも賑わいを見せていた。
今日はその談話室の一角で女達による裁縫講座が催されていた。主な受講者は新人の少年達だ。講師役を務める女達に基本の解れ直しやボタン付け、破れの補修を教えられて、それぞれの課題をこなしている。
孤児院で暮らしているトビーもまたその席の一つに座り、課題に取り組んでいた。冒険者登録試験を受ける意志があれば、未登録でも特別枠で参加することができるのだ。
「ここをこうやって……こう。そうよ、上手ね」
「よっしゃ! 思ったより簡単だったぜ」
「うぁー……俺、ちょっと無理かも……」
午前の遅い時間。ギルドの片隅は年若い冒険者達の歓声や嘆き節で賑わう。
――裁縫など些末なこと、女の仕事だと思っていた。孤児院でも修道女が少女達に熱心に教え込んでいたようではあるが、少年達はといえばその時間は力仕事の手伝いや簡単な大工仕事を教わるなどして過ごしていたのだ。
しかし冒険者にとっては裁縫能力は必須……とまでは言わないものの、なるべく覚えた方が良い技能だという。遠征先での衣類の些細な汚損が死に繋がることもあるからだ。破れや解れを戦闘中に引っ掛けたり、あるいは集中力を妨げる要因となって、大怪我をしたり命を落としたりといった事例は意外にも多いのだという。
些細なことが命取りにもなる冒険者稼業。手練れともなれば衣類の破れ程度で集中力を欠くことは滅多にないが、新人のうちに不安の芽は摘んでおいた方がいい。
しかし不得手な者はいる訳で、そういった者には留め具や包帯などを使った「応急処置」も教えられていた。このあたりは男達の方が詳しいらしく、アレクやクレメンスが講師役を務めていた。
早々に自身の裁縫能力に見切りを付けた者はこちらの講座を受講中だが、その多くはトリス支部でも五指に入る実力者の二人が目当てであるらしく、少年達に憧れの眼差しを向けられた二人は照れと困惑が半々といった様子で苦笑していた。
そんな未来の同僚達を横目に見たトビーは、そのまま視線を隣のシオリに向けた。
貴族の娘が身に纏う絹のように艶やかな黒髪に、乳にバターを溶かしこんだような色の滑らかな肌、黒曜石に見紛う瞳を縁取る長い睫毛、常に柔らかな微笑を湛えた小さくふっくらした唇。
(可愛い、よなぁ……ちょっと年増だけど、でもそんなの関係ねーよ)
遥か東方の異民族が孤児院の慰問に訪れたときには、移民が面白半分に孤児を見にきたのかと不愉快に思ったものだ。けれども活弁映画という珍しい技術でお伽噺を語り聞かせ、幼い子供達の目線に合わせて膝を付いて話し相手をし、強請られるままに抱き上げて、そして新たな物語を繰る彼女を見ているうちに――揶揄する思いはすぐに憧れへと変化した。
優しくて穏やかで懐の大きな人。望めば手を差し伸べて包み込んでくれる人。訳有りらしいという噂は聞いていたが、それをおくびにも出さずに常に微笑む彼女はひどく魅力的に見えた。
理想の女だと思った。嫁にするならこんな女がいい。そう思うまでに時間は掛からなかった。
――イェンス司祭がいれば、その根底にあるものが幼い頃に別れた母親への思慕だと看破したであろうが、トビーはそのことに気付いてはいない。
ともかく彼はこのシオリという女に恋をし、未だ独身だという彼女にいずれは妻問いしようと決意したのだった。
そのためにはある程度の地位を築き、稼ぎを増やしておかなければならない。間違っても彼女に夫を養わせるような真似をさせてはならない。男は甲斐性。既に独立して所帯を持っているかつての孤児院仲間がそう言っていた。
自身の下心は棚に上げて、絵に描いたようなお姉様風美人のエレンや手練れの貫禄と見事な肢体の持ち主の妖艶なナディアを囲む少年達に揶揄の視線を向けてから、トビーは再びシオリに視線を戻した。
エレンやナディアとは系統は異なるが、シオリもまた魅力的な女なのだ。その証拠にシオリの周囲にも輪ができている。既に冒険者登録済みの先輩諸氏を差し置いてその隣の席を占領していたトビーは、並み縫いの最後の仕上げである玉留めに集中した。縫い終わりに半分だけ布地から出した針を人差し指と親指で抑え、糸を三回巻き付けてぐっと引き抜いた。
「うん。上手だね。結構慣れてるみたいだけれど……」
縫い目はばらけて見目は多少悪いものの、全体の出来栄えは悪くない。むしろ上出来な方だ。遠征先で処置するだけなら十分だねと、シオリはそう言って微笑んだ。
「冒険で必要だって聞いたから、練習したんだ。修道女に教えてもらった」
「そっか。でもこれなら講習受けなくても大丈夫だったね」
「うーん、そりゃそうかもしれないけど……冒険者ならではのやり方があるんじゃねーかって思ってさ。せっかくだから習っておきてぇじゃん。おっちゃん達の応急処置もすげー気になってたし」
参加したお陰でお下がりの携帯用裁縫道具を譲ってもらえた。シオリのお下がりではないのは残念だったが、引退した冒険者が置いていったそれは使い込まれていてトビーの手にもよく馴染んだ。まるで先達の意志を受け継いだような、そんな心持ちがして心が弾んだ。
それに、針を進める傍らでアレク達手練れの講義を盗み見して、応急処置の技術も簡単にではあるが覚えたのだ。
「やっぱ来て良かったーっ、て、あ……」
裁縫講座に集中せず、向こうにも気を取られていたことをうっかり白状してしまったトビーは気まずく頭を掻いた。
シオリはくすりと笑う。
「うーん、余所見はあんまり褒められたことじゃないけれど……でも、向こうの内容もちゃんと覚えてるんだね。視野が広いのは悪いことではないから、集中するべきところはしっかり集中して、ちゃんと使い分ければいいよ」
頑張ってね。
フォローの言葉と共にそう励まされたトビーは力強く頷いた。
二人を取り巻く空気が温かい。悪くない雰囲気だとトビーは思った。こうして今のうちに距離を縮めていけば、いずれは振り向いてくれるのではないかと思うのだ。
「……それにしても……本当に熱心だね。登録前から何回も通って、皆の話を聞いたり本を借りて行ったり、準備に余念がないっていうか」
「まーな」
へへ、とトビーは鼻の下をこすりながら笑う。
「早く独り立ちしてぇんだ」
孤児のトビーは成人して孤児院を出れば帰る場所はない。早くに生活の基盤を整えなければ、その先に待つのは路上生活か救貧院の世話になるかのいずれかだ。それだけに孤児院出身の子供は必死なのだ。院長のイェンスなら生活に困って舞い戻ったとしても受け入れてはくれるだろうが、世間体はあまり良くはない。善意の寄付で成り立つ施設なのだから当然だ。
むしろ後援者の支援が厚いトリス孤児院はかなり恵まれている方で、個人経営の小規模な孤児院などでは成年に達しなくとも合法的に働けるようになる十二歳になれば早々に追い出されるところもあるという。
トビーにはあまり難しいことは分からないが、大人達が言うには国の補助金目当てで孤児院経営に手を出す者もおり、正しく保護されないまま劣悪な環境に置かれている孤児もいるらしい。
そう、自分はきっと恵まれている方なのだ。だからこそ一度出たら戻ってはいけない。世話になるのは成人を迎える日まで。その翌日には孤児院を出ると、そう決めた。
――勿論熱心なのはそれだけが理由ではない。
ちらりとシオリを見る。いつも通りの微笑みを湛えてトビーの話に耳を傾けてくれる彼女。
いいタイミングだ。せっかくだから、今のうちにいくらかでも意思表示をしておきたい。
「俺、さ。独り立ちしたら……その、一緒になりたいって思ってる人がいるんだ。だから勉強も鍛錬も頑張って、早く立派な冒険者になりたいんだ。だから」
「えっ!? そうなの!?」
飛び上がるほどひどく驚いたシオリに、こちらもまた驚いてしまう。
「そ……そんなに驚くことかよ」
「え、いや……だって……って、そっか、私の故国とは違うんだものね」
慌てて言い繕うシオリの少し慌てる様も可愛い。
そんな彼女が言うには、故国では成人年齢は二十歳。それより前の十代のうちに所帯を持つ者はあまり多くはなく、むしろ忌避される傾向にあるということだった。
非常に豊かな国で子供が生活のために働く必要はほとんどなく、トビーの年齢までは教育を受けることを義務付けられているという。多くは卒業後も上の学校に進学するため、親元から巣立つ年齢が必然的に高くなるということだった。そういう訳で、十代は親の庇護下にある未熟な年齢と見る向きが強く、その年代での婚姻は良く思われないらしい。
婚姻は若ければ若いほどいい、特に女はそう言われる傾向が強い王国とは大違いだ。
「そっか……そうだよね。もうトビーも大人だもの。じゃあその人のためにトビーは今凄く頑張ってるんだね」
「おう! つってもまだ気持ちは伝えてねぇんだけどな。ちょっと年増でなんかライバルも多いらしいけど、俺頑張るからさ」
「うん。応援してるよ」
にっこり笑って頷いた彼女に、トビーもまた笑い掛ける。
「おう。待っててくれよな!」
「うん? うん、頑張ってね」
……いまいち伝わっていない気もするけれど、今はこれでいい。むしろ上々だ。本格的に関係を築いていくのはこれからだ。
なんとなく悪くはない雰囲気に気分を良くしたトビーは、次の瞬間射るような視線を感じて硬直した。そろりとそちらに視線を向けると、紫紺の瞳と目が合う。アレクだ。
威嚇するように目を細めてトビーを見下ろしていた彼は、不意に表情を緩めてシオリに声を掛けた。
「シオリ。そろそろ昼になるが、どうする。休憩するか」
そう言いながらも彼の手はさり気なく彼女の肩に回される。
彼を見上げるシオリの表情が柔らかく解けた。聖職者めいた微笑みではない、心からの笑み。その頬に微かに朱が差したのを見て取ったトビーは、はっと息を呑んだ。
「うん、そうだね。あんまり根を詰めるのも良くないし、そろそろ休憩にしようか」
ちらりを時計を確かめてからナディアやエレンと目配せしたシオリは、アレクに促されるままに立ち上がる。シオリの華奢な肩から移動したアレクの手は、そのまま彼女の細い腰に添えられた。
「じゃあ、一時間の休憩にしようかね。午後はおさらいするから、希望者だけ残ってくれればいいよ。お疲れさん」
ナディアの号令で少年達の何割かは道具を片付け始めた。残りは午後も残って練習していくのだろう。
「トビーはどうする? 午後も続ける?」
勿論だと頷きたいところだったが、トビーはぎこちなく笑うとふるふると首を振った。
「やりてぇところ、だけど……今日はもう帰る。孤児院の手伝いも残ってるし、な……うん」
「そっか。じゃ、お疲れ様。また今度ね。気を付けて帰って」
「……おう」
受講生の少年達にも声を掛けたシオリは、そのままアレクのエスコートで食堂へと立ち去った。それまでずっと窓辺で使い魔仲間と遊んで過ごしていたルリィが、ぽよぽよと二人の後を追いかける。
「え?」
ぽかんとしてその場に立ち尽くすトビーの肩を叩く者があった。滴るような恐ろしいほどの美貌の男、クレメンスだ。彼は苦笑いしながら無言で何度か肩を叩き、それからひらりと手を振ってその場から歩み去った。
それを見送ってしばらく後。
「……えっ?」
もう一度トビーは呻くように言葉らしきものを発した。
「ちょ……え? え?」
脳裏に蘇るのは一瞬だけ鋭くトビーを射抜いた紫紺の瞳と、シオリを抱き寄せる男の姿だ。
アレク・ディア。トリス支部のツートップの一人という実力の持ち主で、一度孤児院に慰問に訪れたこともある男だ。最近はS級昇格打診中だという噂もある手練れ。
そんな雲上人のような立場の男が親しげに意中の女の肩を抱き、彼女もまた当然のようにそれを受け入れていた。そして視線を交わし合う二人の醸し出すあの甘い空気。
事情を理解して完全に固まったトビーを眺めていた老冒険者ハイラルド・ビョルネはぼそりと呟いた。
「……なんじゃあいつ。始まる前に終わったのかのぉ」
それを聞いた若手の一人がしみじみと言った。
「まぁ仕方ねぇですよ。アレクの旦那が復帰してからこんな超スピードでシオリさん口説き落とすとは思わなかったっすし」
まったくだと連れの青年が頷く。
「あの小僧、いつからシオリさん狙ってたのか知らねぇけど……あんなのに本気出されたら敵わんわな」
「だよなぁ」
「というかあいつ、来月成人だろ? そもそもが歳の差有り過ぎるんじゃねーの」
「まったくだよ。シオリさん、若く見えるから仕方ねえっちゃ仕方ねぇが」
そう言い合う青年達を尻目に、ハイラルドは二人が向かった奥の食堂に視線を向けた。
「それにしてもあやつ……」
親子ほど年齢差のある少年相手に牽制してみせたアレクを思い出して、ほほ、と笑った。
「――思った以上に大人げないのぅ」
いやはや、青臭い青臭い。
そう言って楽しげに笑うハイラルドと立ち尽くしたままのトビーの後ろで、時計の時報が正午を告げた。
――年末まであと数日という冒険者組合トリス支部。この日、こうして一つの恋が何も始まらぬままに終わりを迎えたのである。
ルリィ「青臭い上にめんどくさい」
ペルゥ「身も蓋もない……」
ハイラルド爺さん、どこに出てた人かお気付きでしょうか。
第一章冒頭で携帯食買ってたりトリス支部新聞で入歯落としてたりした人です。




