01 アレクの引っ越し
「下宿を畳む!?」
トリス支部からほど近い古びた下宿屋――通称蔦屋敷――の玄関口。
仕事帰り、気後れする様子の女将に呼び止められて話を切り出されたアレクは柄にもなく頓狂な声を上げた。
女将は申し訳ないといった態で、急で悪いんだけどねぇ、と眉尻を下げる。
「何度も修繕して大事にしてきた家だけどすっかり古くなっちまってね。次に手を入れてもさすがにもうあんまり長持ちしないんじゃないかって大工にも言われちまったんだよ。それに嫁に行った娘が臨月でねぇ。向こうの親御さんは両方とも大分前に亡くなっちまってて女手もないし、あたしはこの通りもうずっと一人だからね。良かったら一緒に住まないかって娘婿も言ってくれてるんだよ」
そういう訳でこれを機に下宿を畳むことにしたらしい。他の下宿人には既に話を通したようだ。急な話ということもあり、すぐにでも空き部屋に入居できるよう近隣の大家仲間には話を付けているという。三人の下宿人のうち、手荷物が少ない一人は今日のうちに旅行鞄一つを持って既に転居したらしい。もう一人はまだこれからのようだが、こちらも案外乗り気で数日のうちには出ていくだろうということだった。
そして残る最後の一人。
アレクは手渡されたリストに視線を走らせた。この蔦屋敷のような下宿屋が数件の他、多少値は張るが集合住宅や貸家の住所が書き連ねられている。中にはシオリのアパルトメントも含まれていた。どれも調度付きで、すぐにでも入居できる物件ばかりらしい。
「なるほど……な」
アレクは短く唸ると、分かったと頷いた。
「あんたも早く娘のところに行きたいだろう。なんとか明日中には次を決めるから、旅支度でもして待っててくれ」
そう言ってやると、女将はほっと息を吐いて顔を綻ばせた。
話が決まればできるだけ早く娘の元へ行きたいのだろう。土地と調度類の処分先はもう決まっているらしく、アレクさえ決めればすぐにでも旅立てる算段のようだ。
新しい年を迎えるまであと数日。馬車で一日という娘夫婦の住む村までなら、年内には十分間に合うはずだ。
それに女将が示した空き部屋のリストはかなりの軒数だ。これだけの数に話を通した彼女の誠意のほどが分かる。
そうと決まれば明日は物件巡りだ。自分としては気に入っているこの下宿も人を呼ぶとなると手狭で些か都合が悪く、いずれはもう少し条件の良い場所を探そうと思い始めていたところだった。
アレクはほっと胸を撫で下ろしている女将の肩を一つ叩いて就寝の言葉を告げ、早々に休むために階上の自室へと向かった。
――翌日。
大分日の傾き始めた領都トリスの空の下、アレクはリストを片手に深々と溜息を吐く。
「すぐ決められると思っていたが……案外難しいものだな」
元より拘りはそれほどないはずだった。しかしこれまでに見学した部屋はどれも悪くはないが決定打に欠け、即決には至らなかった。
蔦屋敷に比べればむしろ条件はどれも良い部屋ばかりだ。にもかかわらず未だに決断できないままでいるのには理由があった。
「……シオリに出会う前だったら二軒目あたりで決めていたところだったが……」
苦笑いと共に独り言ちる。
女将が紹介してくれた空き部屋のリストに紛れていた、とあるアパルトメントの名に視線を落とす。
「オースルンド・ハウス、か」
リストの中では家賃は高い部類に入るが、風呂と台所付きの広い部屋には生活に必要な調度類が一通り備え付けられ、しかも働き者の管理人のお陰で手入れはよく行き届いている。そして商店が立ち並ぶ通りに面した立地で便利なのだ。多少懐に余裕があるなら喜んで契約する物件。
――シオリが入居しているアパルトメントだ。一室だけ空きが出ているらしい、のだが……。
「……想いを交わし合って間もないというのに同じアパルトメントに引っ越すというのはあまりにも……あからさま過ぎないか?」
長身の偉丈夫が往来のど真ん中で誰もいない虚空に向かって問いかける姿はなんとも言えないものがあるが、彼は彼なりに真剣だ。
この物件に空きがあるお陰で、あれこれと適当な言い訳を付けて契約を断り続けているのである。
「いや、しかしせっかくだから見るだけは見てみるか。よし」
何が「よし」なのかは分からないが、誰に言うでもない言葉を呟きながらアレクは慣れた道を歩き出した。
冒険者組合にほど近い場所にあるオースルンド・ハウス。その扉を押し開けるとすっかり顔馴染みになった品の良い身形の男と目が合った。
「おやアレクさん、いらっしゃい。シオリさんなら今日はずっとお部屋にいらっしゃいますよ」
「ああ、いや。今日は別件で来たんだ」
当然のようにシオリの名を口にする管理人ラーシュに苦笑いする。
勿論用事が済んだら顔を見ていくつもりではあるのだが、それは言葉にせずにカウンターに歩み寄った。
「蔦屋敷の女将の紹介でな。新しい部屋を探している。なるべく急ぎたいんだ」
「おや、蔦屋敷の……なるほどそうですか、あちらにお住まいでしたか」
言いながら鍵の束を取り出したラーシュは、立ち上がって上階へと促した。
空き部屋となっているのは最上階の二部屋のうちの一つ。単身者向けの二階と三階とは異なり、この二部屋は所帯向けになっているらしい。
「もっともご家族で住むには少し不便でしてね。見ての通り最上階ですから、身重の女性や小さなお子さんがいるご家庭では暮らしにくいのですよ。年配の方は言わずもがなですね。お子さんのいらっしゃらないご夫婦か、お友達同士でルームシェアするかで使うのがほとんどです」
数ヶ月前までは新婚の若い夫婦が住んでいたらしいが、奥方の懐妊を機に転居したらしい。それ以来ずっと空き部屋になっているようだ。
「お一人で住んで頂いても勿論構わないのですが、下のお部屋よりは値が張るものですから空いたままなんですよ」
「だろうな……」
台所付きの広い居間とは別に、寝室と給湯器付きの立派な浴室。一人で住むには確かに広い。
しかし居心地が良いのは間違いない。冬の柔らかな西日に照らされた室内は広々としているが殺風景ではなく、埃除けの布が取り払われた調度類は木目が美しく深い色合いで落ち着いた佇まいだ。寝台の寝具は清潔でふっくらとしていて、今すぐにでも住めるように整えられていた。
値が張るだけに、今まで見学した部屋とは段違いの居心地の良さ。
「……悪くないな」
この部屋に決める方向で大分心が傾いているのは自分でも分かった。
しかしこうまで居心地の良い部屋に入居してしまったのでは、風呂を借りるという名目で彼女の部屋に泊まる理由がなくなってしまう。所帯向けの部屋に彼女を呼ぶのもやはり何かあからさま過ぎてどうなのかとも思うのだ。
もだもだと思い悩むアレクを見かねたのか、ラーシュが口を挟んだ。
「こういうことを言っては下世話かもしれませんが、いっそのことシオリさんとお住まいになってはいかがです? いずれは……という心積もりではあるのでしょう」
「まぁ……それはそうなんだが……」
全てにけりを付けたら彼女に妻問いすると、そう決めているのは確かだ。
だが。
「……一緒に住んでしまったら、さすがに手出ししないでいられる自信がない」
全てをもらい受けるのは、彼女の心の傷がもう少し癒えてから。己の気持ちの整理を付けてから。そう決めたのは自身だったが、正直危ういことは何度もあった。幾度となく彼女の部屋で一晩を明かしておきながら、何もせずにいた自分の自制心を褒めてやりたい。
そう呟くとラーシュは何故か瞠目し、そして次には深く考え込んでしまった。
「……おかしいですねぇ……だとするとザックさんは一体ナニを聞いてあんなに大騒ぎなさってたんでしょうねぇ……」
「ん? なんだって?」
「ああ、いえ、こちらの話です」
何やらぶつぶつと呟きながら首を捻っている彼に訊ねるが、にこやかに微笑んで躱されてしまった。
ちなみに手出しはしていないとは言ったものの、撫で回したり肌に口付けて痕を刻み付けてみたりさり気なく揉んでみたりなど、ほとんど一歩手前のつまみ食いのような悪戯は何度も仕掛けていた訳で、そんな状態で同棲など始めた日には本当に手出しをしない自信が全くない。
一緒に住むかと聞けば彼女ならはにかみながらも同意してくれるかもしれないが……。
うだうだと再び考え込んでしまったアレクをしばらく眺めていたラーシュの目が柔らかく細められた。
「……シオリさんが大事なんですね」
「うん?」
思考を中断して顔を上げたアレクに彼は微笑みかける。
「そうして彼女のことで悩んでいる貴方を見ているとよく分かりますよ。シオリさんのことを本当に大事に思っているのですね」
「まぁ……な」
初めは興味本位だったように思う。しかしそれも束の間、強く優しい彼女に惹かれるようになった自分がいた。己と似たような傷と虚を持つ彼女と共に過ごすうちに次第に強まる感情。それをはっきり恋情だと自覚したのは、熱に倒れた己にずっと寄り添ってくれたあのときだった。
「……そろそろ落ち着きたいと思っていたが、俺には一生無理だろうと諦めてもいたんだ。そんなときにあいつと会った。出会ってしまった。俺の唯一なんだ」
支え合い、癒し合い、満たし合う。そんな女との出会いが己の世界に色彩を取り戻した。
「……そうですか」
何度も頷きながら聞いていたラーシュは、そっとアレクの手を握る。
「幸せになってくださいね。お二人で」
この男との付き合いもそれほど長くはない。しかしそんな彼でもこうして行く末を案じ、祈ってくれる。それがひどく嬉しく温かい。
――トリスの街は移民の坩堝。それゆえに諍いも多いが、それ以上にラーシュのような心根の優しく温かい者が多い。だからこそ多くの移民や己のような訳有り者が集うのだ。懐の大きな街、トリス。生まれ故郷。
「……ああ。なるさ。絶対に」
アレクの強い決意を秘めた言葉に、ラーシュは満足そうに頷いた。
――結局アレクは新たな住み家としてこのアパルトメントを契約し、明日にでも引っ越してくると言って帰っていった。
ラーシュは手元の契約書に視線を落とす。力強い筆跡で書き記された、彼の署名。
王兄との付き合いはこの数ヶ月ほど。傷病兵として騎士団を退役した後も、時折王立騎士団情報部の外部協力員として仕事を請け負ってきたラーシュだったが、久方ぶりに指示されたのが帰還した王兄の監視だった。監視と言えば聞こえは悪いが、主に彼の健康や精神状態を観察して報告するという任務だ。
与えられた前情報では、見た目から受ける印象に反して女に対してはひどく淡泊で、時折娼館で過ごす以外には特定の女を作ることは一切ないということだったのだが、それがよもや天女と恋仲になるとは思いもしなかった。
初めは気紛れかとも思っていたが、熱心にシオリのもとに通い詰めて隣に寄り添うその様に彼の本気を見て取った。そして思う以上に生真面目で情の深い男なのだと知った。
――同じように深く傷付いたシオリとの恋の行く末を、いつの間にか見守る自分がいた。
そして祈らずにはいられないのだ。
母親と幼くして死に別れ、不遇の少年期を過ごした末に身体を壊して密かに療養生活に入り、その後も心の奥底の癒えることのない傷を抱えたままこれまでを過ごしてきたアレク。
寄る辺のない土地で一人必死に足掻き、傷付きながらも血を吐くような思いで生き延びてきたシオリ。
単なる男女の情欲ではない、互いに癒し満たし合い、魂の深いところで繋がり合うあの二人がどうかこの先も安らかであれ、そしてどうか幸多からんことを、と。
そうラーシュは祈らずにはいられなかった。
契約書を書類綴りに収め、街路に照らされる夕暮れの街を窓越しに眺める。
――柔らかな安らぎの夜が迫る中、次々に灯を灯していく数多の家々。そのどれもが温かい色を宿している。
ルリィ「 だ か ら 一 緒 に 住 め ば い い じ ゃ な い 」
本日からゼロサムオンライン様でコミカライズ版再掲載されるようです。
湯船の中に薄っすらと見えるアレクの足の付け根が個人的超お気に入りです。
追伸:いつもメッセージありがとうございます(´∀`*)ウフフ




