28 幕間六 誰そ彼の王子(シオリ、アレク)
第二街区の公園通り沿いにあるバリエンフェルド書房。庶民でも読書を楽しむようになってから数十年ほどだという王国の出版事情はシオリにはよくは分からないが、それでも北部最大の都市トリスのこの書店はなかなかの盛況ぶりだということは分かる。訪れている客はそれぞれに目当ての棚の前に陣取り、熱心に本を物色していた。
規模は日本の個人書店ほどではあるが、読み書き計算ができればそれで十分という教育水準のこの国では立派な部類に入るだろう。読書家の増加から近年数が増えつつあるという小説本を始め、旅行記や随筆、図鑑や辞典、画集のほか、マナー教本や自己啓発本のようなものまである。あまり数は多くはないが、店の一角に児童書や絵本のコーナーも設けられていた。さすがに学者や学生が読むような専門書の取り扱いまではないようだったが、一般人が読むには十分な品揃えだ。
そんな書店に数ヵ月ぶりに訪れたシオリを目敏く見つけた老店主は、鼻眼鏡を押し上げてにっこりと微笑んだ。それに会釈して返したシオリは、ぐるりと店内を見回した。
「……死角は少ないし、これなら多少は離れても問題なさそうだな」
当面は一人で歩くのは危ないと護衛役を買って出てくれたアレクは思案しながらそう言った。背の高い棚は壁面のみで残りの棚はシオリの背よりも低く、アレクほどの長身なら難なく隅々まで見渡せそうだ。
「うん。ごめんね、付き合わせて」
今後は上流階級との付き合いも増えるだろうからと買いにきたマナー教本。元はどこかのご令嬢だったらしいナディアに直接教わる方が勿論良いが、それとは別に手元に置いていつでも復習できるようにしておきたかったのだ。
それならこの著者の教本が良いと勧められて来たのだが、ほかにも料理本やアンネリエが挿画を手掛けたという児童書も欲しかった。選ぶのに少し時間が掛かるかもしれない。
「いや、構わんよ。たまにはこういうところも悪くない」
彼は彼で目当ての本があるらしく、目星をつけた棚から視線を戻すとシオリに微笑んでみせた。
ちなみにルリィは害虫駆除に借り出されて不在だった。パン屋のベッティルの酵母蔵に厄介な黒い虫が出たらしく、今朝方店主直々に迎えに来たのだ。
「じゃ、またあとで」
「ああ」
それぞれに目的の棚に散り、目当ての本を探す。
ナディアお勧めの教本とアンネリエの児童書はすぐに見つかった。料理本も何冊かぱらぱらと試し読みして候補を絞り、その中からさらに厳選して二冊を棚から抜き出す。
ちらりと背後を振り返ると、アレクは選びかねているのかまだ思案しているようだった。視線に気付いたのか、ふと振り返った彼が声を出さずに「終わったのか」と問いかけてくる。それに首を振って答えると、彼は頷いてから再び手元の本に視線を戻した。
「せっかくだから、もう少し何か買おう」
棚を移動し、背表紙の題名を眺めて本を物色する。
と、ある一冊の本が目に留まった。手に取りぱらりと頁を捲る。男女別の名前の一覧に、その由来についての解説が細かに書かれていた。
「名付け辞典かぁ……こういうのって、どこにでもあるんだなぁ」
ところどころに名前や名付けに関するコラムが添えられている。神話由来の名にはそれにちなんだ神々の逸話を。動植物由来の名にはそれに関する解説を。昨今の名付け事情やここ数年の名付けランキングなどもある。
「このランキングって、どうやって統計取ったんだろ。住民台帳とかあんまり正確じゃないって言うし」
なかなかに興味深く、いくつか拾い読みしているうちにあるコラムの頁で手が止まった。
――ミドルネームに関する記述だ。
「ミドルネームって、日本人にはあんまり馴染みがないけど……海外では結構多いよね」
なんとなく身分の高い人や由緒ある家柄の人が持っている印象があるけれど。
そういえば、アレクにもミドルネームがあると言っていた。今は名乗ることのない、隠していた名。こっそり教えてくれた名。フレンヴァリ。
興味を惹かれて読み進める。
平民にそうした風習はないが、かつては貴族階級の者全てがミドルネームを付けていた時代があったようだ。代々嫡子だけが受け継ぐ名を付ける場合や、嫁いだ娘が旧姓をミドルネームとして残す場合、他には古い神や英雄などの著名人の名を願掛けのようにして付ける場合と様々だ。
しかし現在ではそれも廃れ、王族かごく一部の上級貴族のみに残された風習のようだ。そして公的には名乗らないことの方が多いらしい。
――公に名乗ることがあるのは現在では王族のみ。
「……王族か、ごく一部の上級貴族……って、やっぱり身分が高いよね」
アレクの実家は家格が高いとは聞いていたけれど。思う以上に身分が高いような気がして、シオリはきゅっと唇を噛んだ。
続くコラムには王家の名付けに関する内容が記されている。
王家の婚姻の際には迎える王族が婚姻相手に自身で考えたミドルネームを贈る。そして王家の子は父親がファーストネームを、母親がミドルネームを付ける習わしだ、と。
「父親がファーストネーム、母親がミドルネーム……」
――覚えがある風習。ごく最近聞かされたばかりだ。
アレクは言っていた。実家の習わしでファーストネームを父親が、ミドルネームは母親が付けたと。
「アレク……」
吐息の端が震えた。
本を閉じ、そっと棚に戻す。
他にも同じような慣わしの家があるのだろうか。それとも。
「……あの」
「おや、どうしました?」
カウンターで書類を繰っていた老店主に声を掛けると、彼は目尻に皺を寄せて微笑んだ。
「えと、その……貴族とか王族の名前が分かるような本ってありませんか。それか、王族の記録のような……」
「王侯貴族の、ですか?」
老店主はぱちくりと目を瞬かせる。
「あ……その、この国に永住するつもりなので、少し王侯貴族のこととか、歴史とか勉強したくて。私の故国には貴族制度がなかったものですからあまりよく分からなくて、仕事柄知っておいた方がいいかなと」
できれば最近のものをとそう付け加えると、彼はふむ、と小さく頷いた。
「なるほど、それは良い心掛けですね。王国に馴染むつもりなら、それもまた大事なことでしょう」
どれ、と腰を上げた老店主は店の奥の棚に案内してくれた。
「ここですね。あまり多くはありませんが……ああ、これだ。それからこれと、これが分かりやすくていいでしょう。ここ二十年ほどのものですから、今でも通用する常識です。単純に王侯貴族の名前を調べたいのでしたら、こちらのヘンネバリ貴族年鑑がいいですね。あとは……この本は貴族家で起きた出来事や逸話なんかを纏めてあって、読み物としては面白いですよ。まぁ、ゴシップ記事のような些か品位を欠く内容も含まれているので積極的にはお勧めしませんが、近年の王侯貴族の事情を知るには多分一番分かりやすいのではないかと思います」
「ありがとうございます。ちょっと見てみます」
ぺこりと頭を下げたシオリに目を細めて笑うと、彼はゆっくり選んでくださいと言い置いてカウンターに戻っていった。
その背中を見送って、案内された棚に視線を戻す。
勧められた本の中から王国の現代史と貴族年鑑を選んだ。現代史には近代から現代にかけての王国内での出来事や歴代の王の功績のほか、ロヴネルやエンクヴィストなどの見知った家に関する記述もある。
貴族年鑑は今年度版。これは貴族の社交に必須らしく、毎年更新されているようだ。参考資料として見るには確かに良さそうな内容だった。
しかし手元に置くにはいいけれど、今すぐに知りたい情報は試し読みしてみた範囲には見当たらず、シオリはもう一冊の本に目をやった。
「新聞記事で読む王国現代史・王侯貴族の事件簿」というタイトルが示す通り、どことなく醜聞の臭いを感じさせる。些か品位を欠くという老店主の言葉通りだ。
「ゴシップ記事……か」
でも、それなら知りたいことはすぐ見つかるかもしれない。というよりも、載っているだろうという確信があった。心当たりがあったのだ。
――十数年前に王家で起きた失踪事件は、王国民にはかなりの衝撃を与えたはずだ。きっと、載っている。
『二十年近く前、父が病に倒れ、庶子の俺と嫡子の弟のどちらが家督を継ぐかで周りが揉めて収拾がつかなくなって、それで俺が家を出て――』
アンネリエ達との旅の終わりに、アレクが口にしたあの台詞。
そしてアンネリエが話題に出した十八年前の王位継承権争い。王が病に倒れて庶子の兄王子と嫡子の弟王子をそれぞれに擁立した貴族が争い、その果てに兄王子が失踪したとそう言っていた。
アレクの身の上話と兄王子失踪事件には符合点が多い。そして王家に残るミドルネームの名付けの風習――。
本を手に取り、目次に視線を走らせる。目的の記事はすぐに見つかった。
「第三王子失踪事件――失踪か、暗殺か――か」
緊張ゆえか、冷えてじっとりと汗ばんできた手で頁を繰り、その事件の記事の写しと解説を読む。内容は概ねアンネリエ達から聞いた通りだ。対立する立場ではあったが二人の王子の兄弟仲は非常に良く、事件直後の弟王子の落ち着いた態度から彼が手引きして兄王子を逃したのだろうという見方が有力だとその新聞記事は伝えている。
そして、その問題の兄王子の名前。
「……アレクセイ。アレクセイ・フレンヴァリ・ストリィディア――」
手が、震えた。
添えられた姿絵は要人の特定を避けるためか鮮明ではなく、顔形はいまいち判別できない。しかし記載されている人相特徴は、栗毛に鋭い紫紺の瞳。そして事件の日付と失踪時の年齢から計算したその王子の現在の年齢は三十四。
アレクやアンネリエから聞いた話とこの本から得られた情報。どれもこれもあまりにも一致点が多過ぎて、むしろ否定するのが難しいほどではないか。
導き出された答えは、ただ一つ――。
「シオリ? どうした、顔色が悪いぞ」
突然背後から声を掛けられて、シオリは咄嗟に本を閉じた。不自然に見えないように気を付けながら、そっとその本を棚に戻す。
「……ん、ちょっと疲れたみたい。そのせいかも」
薄く微笑みながら言うと、彼は眉尻を下げてシオリを支えるように肩を抱いた。
「仕事帰りだからな。目当ての本が見つかったなら、もう帰ろう」
「うん、そうだね」
そっと背を押されるように促されて、シオリは本を抱え直した。
棚から離れる間際、アレクはちらりとシオリが戻した本に視線を向けた。戻し損ねて僅かに棚からはみ出たその本のタイトルには「新聞記事で読む王国現代史・王侯貴族の事件簿」とある。
(……なるほど、な)
タイトルからして品が良いとは言い難いその本のおよその内容を察してアレクは目を眇めた。埃の被り具合や色褪せのない背表紙から察するに、ごく最近発行されたものだと分かる。とすれば、現代史として取り扱う「事件簿」とやらの中には己の事件も含まれているはずだ。
――実のところを言えば、一部始終を見ていた。目当ての本を選び終えたシオリが棚を移動し、ある一冊の本を手にした後に顔色を変え、そして店主と何やら話し込んでいたところを全て見ていた。店主と話しているその隙に、彼女が見ていた名付けの本も。
(……俺のミドルネームから……察したのだろうな)
聡い彼女ならいつかは気付くかもしれないとは思っていた。だが思う以上に早い段階で気付かれて、アレクは苦笑いを浮かべた。
(話す時期を早めなければならないかもしれないな。多少……怖くもあるが)
だが。己が何者であろうと、もう彼女と共にいると決めた。
(そして彼女が何者であろうとも、俺はもうあいつを手放せない。シオリはシオリであることに変わりはないんだ。あいつは俺の――)
全て。何者にも代えがたい、唯一の存在。
支払いを終えてどこか躊躇いがちにこちらを見るシオリに微笑みかける。肩を引き寄せ、並んで歩きながら店外に出た。
黄昏時。夏よりもずっと早い時間に訪れる夕闇が、トリスの街を呑み込もうとしている。
「シオリ」
「……うん?」
「この先何があっても俺はお前と一緒にいるからな。俺とお前が何者であっても、それは変わらない。色々話すにはまだ覚悟ができてはいないが、何があってもこの決意だけは変わらないと約束する」
「アレク……」
シオリは目を見開いた。何か言い掛けて口を噤み、足元の石畳に視線を落としてしばらく考え込んでいた彼女はやがて俯けていた視線を上げる。柔らかい笑みを湛えたその顔は、いつものシオリのものだ。
「ありがと、アレク。私が欲しい言葉をすぐに察して言ってくれるアレクのこと、本当に私……」
続きは音にはならなかった。ただ、唇が動いて一つの言葉を形作る。
「……俺もだ」
アレクは笑い、華奢な身体を強く引き寄せる。
「俺も、お前を」
彼女を真似て続きの言葉は音にせず、ただ唇を動かしただけ。
もどかしい、けれども恋人同士の他愛のない遊戯はアレクの胸を満たしていく。
――ひらりと目の前に白いものが舞った。綿のような雪が黄昏の街に舞い落ち、道行く人々は歩速を速めて家路を急いだ。
「俺達も急ごう」
「うん」
宵闇に沈んでいく街を歩く二人の上に、大粒の雪が舞い落ちる。容赦なく肩に積もっていく雪は冷たい。
だが、それでも。
寄り添う二人の周囲は、不思議と暖かだった。
雪男「最近あちこちの砂糖蔵が溢れて後片付け大変なんですよ!!!!」
ルリィ「二人がご迷惑を……」
ペルゥ「今年も砂糖大根大豊作」




