25 幕間三 聖職者のお茶会(コニー、大司教)
茶器に注がれた熱湯がこぽこぽと音を立て、ふわりと甘い花の香りが漂う。癖のない、果実のような爽やかな香りだ。乾燥した花弁がゆっくりと蒸らされて、茶器の湯が鮮やかに色付いていく。
待つこと数分。茶漉しを引き上げると、純度の高い宝石のように透き通った紅玉色の液体が小さく波打った。そこに黄金色の蜂蜜をとろりと垂らして匙で溶かし入れた男は、穏やかな笑みを浮かべて茶器をコニーに差し出した。
「さ、熱いうちに飲みなさい」
「ありがとうございます。頂きます」
茶器に口を付けてゆっくりと啜る。ほんの少しの酸味と花の香り、そして蜂蜜の甘みが湯の温かさと共にじんわりと広がった。
「……美味しい」
溜息と共に漏れた正直な感想に、男は優しく目を細めた。
「焼菓子もあるが……食べるかい?」
「いえ、お気持ちだけで」
甘いものはそれほど嫌いではないから実を言えば多少は心惹かれたが、就寝前だということを考慮してそちらは遠慮しておいた。
そうかい、と呟きながら取り出し掛けていた焼菓子の缶を戸棚にしまうと、席に着いた男は自らも茶器を取って薬草茶を啜る。
「うん、やはり今回のブレンドは大成功だ。色も香りも味も申し分ない」
自画自賛。ほくほく顔で手ずから調合した薬草茶を啜る男に、コニーはカップに隠れてひっそりと笑う。
オスカル・ルンドグレン。このほど大司教に就任したばかりの男だ。先代が急病で長期間不在になる可能性が高いとあって、トリス大聖堂の一大イベントとも言える生誕祭に最高責任者が不在というのも体裁が悪いと急遽指名されたのだった。生誕祭直前の就任にはひと悶着あったというが、どうやら先代が半ば強引に捻じ込んだようだ。
教団は教えに基づいて人々に寄り添い導く聖職者の集まり。しかし解釈や考えの違いから多くの派閥に別れ、ときには激しく対立する一枚岩ではない組織だ。
先代は革新派の重鎮だ。いかに教えが尊くとも、時代にそぐわぬのでは人々の心に寄り添うことはできない。伝統を守りながらも時代に合った教えを。時代に合わせて変化していくべきだというのが革新派が唱える理念だ。
国が豊かになるにつれて人心が信仰から遠ざかる中、トリス大聖堂が広く認知されて信者や参拝客が増加したのは革新派の努力の賜物だ。先代は革新派が推し進めてきた改革をここで終わらせたくはなかったのだろう。己の病が長引きそうだと察した彼は、早々に自身の懐刀を後継に推薦したのだ。些か強引ではあったが結果としてそれは法王聖庁に受理されて今に至る。もっとも正式な着座式は未だ執り行われておらず、正しくは大司教代行の状態であるのだが。
そんな交代劇の中心にあった当の本人は、今目の前でのんびりと薬草茶を啜っている。聖衣から寛いだ部屋着に着替え、自ら育てて調合した薬草茶をにこにこと啜るオスカルは、到底革新派重鎮の懐刀には見えない。
のほほん。
効果音を付けるなら、それが一番しっくりくる様相だ。
しかし見た目通りの男ではないことをコニーはよく知っていた。そうでなければ革新派を率いる立場に収まっていられる訳がない。
「……それで、シオリさんとはお話できたのかな?」
「ええ。新聞や雑誌の記者がうろついていてちょっと出るのには苦労しましたが、運送屋に化けて簡単に状況の説明だけしてきました」
「運送屋」
「はい」
目を丸くしたオスカルは、次の瞬間声を立てて笑う。
「はは、それは……やるものだなぁ。まさか聖職者が姿を偽って出てくるなんて思わないからね」
そうかそうかと愉快そうにひとしきり笑うと、もう一口薬草茶を啜ってから深く椅子に腰掛け直してコニーに向き合った。
「それで、彼女は何と?」
「……非常に恐縮していました。『活弁映画』の技術や『神々の視点』の幻影を提供することに同意もしてくれましたよ」
もったいぶったり出し渋ったりするような様子も見せず、いとも簡単にシオリは頷いた。そうすることがさも当然であるかのように。むしろどこかほっとした様子でもあったのだ。
(欲がないよなぁ……)
大聖堂側からの提案は、「神々の視点」は大聖堂所有の書物を再現したものとすること。即ち元からあの幻影の光景は大聖堂所有のものだということにすると、そういうことだ。つまり、彼女自身の特別性がなくなるということなのだ。
彼女が望みさえすれば、大聖堂は喜んでそれなりの待遇を与えて迎えるだろうに。
「……オスカル様は、彼女を教団に招こうとは思わないのですか」
「彼女を? どうしてだい?」
「だって、どう見てもあれはただの幻影ではありませんよ。実際に見たことがあるのでなければ描けないのではないかと思われるほどに鮮明なものでした」
高い場所から見下ろす王国の風景。それだけならば高い塔や高山から見た景色を元に思い描くことはできるだろう。しかし、徐々に高度を上げて遠ざかる大地と海の境界がくっきりと描写されたあの光景は。それすらも遠ざかって全貌が分からぬほどに水平線が巨大な弧を描く、あの恐ろしいほどに雄大な光景は。
「想像だけで描き出したものにしては、あまりにも……」
実際に天上界から見下ろしたことがあるのでなければ知ることはないだろう光景。それを知る彼女は、もしや。
「――確かに、シオリさんを取り込むべきだという意見も出てはいるのだよ。神の視点を知る彼女を聖女の再来として招き入れるべきだとね」
く、とコニーは唇を噛んだ。自分で訊いておきながら、その言葉が孕む残酷さに気付かされたからだ。
聖女として招き入れると言えば聞こえは良いが、実際には軟禁に近い状態になるだろう。神聖なものとして俗世との接触を断ち、聖女として相応しく聖域に押し込め信仰に必要なものだけを与えて、そうして祭礼や儀式のときだけ人々に顔見せさせる。
――布教のための広告塔。飼い殺しも同然の扱いだ。
そうなることが容易に予想できて、コニーは呻いた。
「彼女を聖女に仕立て上げたところで、鳥籠の小鳥にされるのが目に見えている。生きとし生けるものは自由であれ――聖女サンナ・グルンデンの教えに背く行為だ」
無論、文明社会の人間として生きる以上様々な法律に従い、立場そして柵に囚われるのは致し方のないことだ。
しかし、その魂までを縛ることはできない。縛ってはいけない。その魂の在り方まで他人が決めてはならない。
それが聖女サンナの教えの一つだ。
「そういうものを捻じ曲げて何かを神聖視させる行為、私は好きではないのだよねぇ。信仰とは本来自発的なものだ。他者に強要されるものでも勧められるものでもない。あくまで心の拠り所とするものなのだから、布教活動そのものが不自然極まりないんだ。ましてや人間を神に祀り上げようとするのはちょっとどうかと思うんだ」
時代が時代なら異端審問に掛けられかねない発言だが、近代化の進むこの時代、宗教に対するそういった考えは一般的になりつつある。神の実在の是非についてもだ。
しかし、シオリが見せたあの世界を睥睨する幻影は、そんな近代的な考えすらも凌駕するほどものだった。人々が騒ぐのも無理はない。
「――君は覚えているかな。一年……いや、二年くらい前だったか。冒険者の女性が仲間に搾取された挙句に捨てられたっていう事件があっただろう。遠征先で倒れて、足手纏いになるからとそのままそこに放置されたっていう」
「え? ……あ、はい。ありましたね、そんなことが。あれは……酷い事件でした」
新聞記事にもなったその事件は一時期大聖堂でも話題になっていた。倒れた仲間を魔獣の住処に捨てるという、人を人とも思わぬ所業に多くの同輩は憤り、深く嘆き悲しんだものだ。中にはその女性のために祈りを捧げる者もあった。幸い被害者の女性は保護され、どうにか一命を取り留めたということだったが。
「……その女性、シオリさんだったそうですよ」
「え!? そうだったんですか!?」
コニーはぎょっとして目を剥いた。
「いや、しかし、だとすれば本当に……痛ましいことです」
記憶にある彼女は常に微笑みを湛えていた。ごく最近そんな恐ろしい事件に巻き込まれた被害者にはとても見えなかった。たった二年かそこらで心の傷が癒えるような事件では決してなかったはずだ。それを押し殺して彼女は微笑んでいたのだろうか。
「パーティという『密室』で、彼女はほとんど奴隷のような扱いを受けていたそうだ。幸いにして彼女は助かったが……そんな彼女をまた密室に閉じ込めて、教団の都合で動かす人形にしようだなんて間違っても言えないよ。仮に、本当に彼女が特別な人間だったのだとしてもね」
「……そうですね。その通りです」
素直に頷く。
オスカルは、ふふ、と笑った。
「君のそういう宗教に染まり切らないところ、実に好ましいね。聖職者としての心構えを大切にしながらも、感覚は世俗に極めて近い。この開かれたトリス大聖堂に相応しい人材だ。高潔過ぎては人々の心に寄り添うことはできないのだからね」
その気持ち、いつまでも大切にしなさい。
そう言われてコニーは深々と頭を下げた。
それを見たオスカルは満足そうに頷く。
「……まぁ、彼女に関しては技術供与だけでも十分な実入りだ。生誕祭は盛り上がるし巡回僧の慰問活動も充実するし、それに何と言ってもねぇ、私達の娯楽にもなるじゃないか。『雪の姫と七人の騎士』とか『お菓子の家の人食いトロル』も良かったけど、あの『ペルシッカの騎士』、いやぁあれは迫力あったなぁ」
「はぁっ!?」
コニーはつい聖職者という立場、そして大聖堂の最高責任者の前だということも忘れて頓狂な声を上げた。
このオヤジ、ちゃっかり孤児院の慰問覗き見してやがったな。コニーは引き攣った笑みを浮かべた。
「僕だってまだ見たことないのに、一体いつの間にそんなことしてたんですか!」
先代の片腕として働いていた彼は常に忙しく、とても抜け出すような暇はなかったはずだ。それを一度や二度ならず三度までとは。
「それは秘密です」
ぐぬぬと歯軋りするコニーを前にして、オスカルはにやりと笑って言い放った。
「ま、それはさておき」
さておくなと言いたいのを我慢して、真顔になった彼を前に姿勢を正す。
「シオリさんはね、多分下手に手を出さない方がいい人だとも思うんだよ。辺境伯ほどのお人が、自分の名前を使ってでも移民女性を護れだなんて普通は言わないと思うからね」
「それは……でも、どうしてでしょうか」
「うーん、理由までは分からないけれど。何らかの事情があって元々彼の保護下にあった人なのではないかなと思う」
それはつまり、彼女自身が要人である可能性があるということだ。
「それにしてはあんな酷い事件の被害者になったりと、少し腑に落ちないところもあるのだけれどね。なんにせよ、手出し無用と暗にそう仰ったのだから、そうするより他ないね」
「……そうですね。でも」
シオリだけではないアレクも、そしてルリィも。興味深い人達だった。自分にはない考えや知識を持つ、一緒にいて楽しい人達でもあった。
「――友人としてなら、手出ししてもいいかなぁ……」
ぽつりと落とした呟きに、オスカルは静かに微笑む。
「それは勿論良いと思うよ。是非そうなさい」
その後押しに、コニーは相好を崩して頷いた。
「はい!」
何やら訳有りらしいシオリだが、どのみちこれから先もあの幻影魔法絡みで会う機会が増えるのだ。その間に友好を深めていけばいい。そうして自分が知らない世界の話を聞けたらいい。
残った薬草茶を啜りながら、今まで以上に充実するだろうこれからの日々を思ってコニーは微笑んだ。
ルリィ「大聖堂でもらったお茶美味しかったけど、シオリの魔法水はもっと美味しいよ!」
雪男「水と言えばフィブリア原生林の北側の翠蜜糖の木の実が落ちた湧水泉はタピオカドリンクみたいでオサレだと魔獣レディの間で大人気に」
ペルゥ「ナニソレ」
大司教がうっかりカミソリ〇藤並みに胡散臭くなってしまったので書き直したという裏話がございます。「皆で幸せになろうよ~」とか言いかねない有様で危なかった。
 




