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家政魔導士の異世界生活~冒険中の家政婦業承ります!~  作者: 文庫 妖
第4章 聖夜の歌姫

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22 聖夜の歌姫

章構成とサブタイトルいじりました。

第四章をまるっと聖夜の歌姫編にして、サブタイトルも分かりやすく変えました。

 夜の帳が落ちて生誕祭を祝う魔法灯が暖かい光を放つ中、多くの人々や馬車が行き交う街路をゆっくりと走っていた雪馬車は、やがて組合(ギルド)の前で停車した。

 アレクの手を借りて雪馬車を降り、その後ろからルリィがぽよんと弾むようにして地面に着地する。雪馬車が再び走り出すのを見送ってから、シオリは大きく溜息を吐いた。それからアレクにじっと見下ろされていることに気付いて、はっと口元を押さえる。

「あ、ごめん……つい」

「いや、構わないさ。なかなかの強行軍(・・・)だったからな」

 戻ってきたら気が抜けたのかさすがの俺も疲れたと、そう言いながら彼はシオリの背をぽんぽんと叩いた。

 組合(ギルド)は既に終業時間を過ぎていたが、窓からは煌々と明かりが漏れていた。窓越しに同僚達がまだ多く残っているのが見える。

「やっぱり忙しいんだね。皆まだ帰ってないみたい」

「そうだな。もうしばらくは忙しい日が続きそうだ」

 生誕祭の前後は観光客の道案内や近隣の村までの護衛依頼が多く、組合(ギルド)は遅い時間まで開いている。もっとも当日の新規依頼の受け付けは終業時に締め切っているはずだから、中に残っているのは依頼を終えて帰還したばかりの者か、あるいはこの後連れ立って街に繰り出すために同僚を待っているかのどちらかだろう。

 扉を開けて中に入ると、親しい何人かが振り返って軽く手を振った。それから再び話の輪に戻っていく。話の中心になっているのは、オロフを始めとした出稼ぎ組のようだ。

「いやぁ、あの音楽会は凄かったな」

「だなぁ。歌にはあんまり興味はなかったが、俺ぁ感動してうっかり泣いちまったよ」

「道案内のついでに一緒にどうだって会場まで引っ張り込まれたのには参ったけどねぇ。噂のフェリシアちゃんの歌も良かったが、あの幻影魔法……だよな? は凄かったよなぁ」

 どうやら依頼のついでに音楽会にも顔を出したようだったが、会話が幻影魔法に及んでシオリはついぎくりと身を竦ませた。

 幻影魔法を本格的に使うようになったのはここ一年ほど。だからシオリがそれの使い手であることを知っている同僚は、実はまだそれほど多くはない。活動期間が冬の間だけのオロフ達はなおさらだ。

 なんとはなしに耳を傾けていたザックが意味深長にちらりと視線を流した。彼はしばらく考え込む素振りを見せてから、やがてがしがしと赤毛の頭を掻きながら短く息を吐いて苦笑いする。心配性の兄貴分は、妹分がまた無理をして大掛かりな魔法でも使ったのではないかと思っているようだった。

 アレクと二人で顔を見合わせて苦笑してから、ザックが待ち構えているカウンターに歩み寄った。

「お疲れさん……っと、なんだお前、髪なんか整えて」

「ん? ああ、これか」

 シオリは結い上げていた髪を降ろしていつも通りの後ろに一本束ねた姿に戻っていたけれど、アレクは大聖堂で整えたままになっていた。整髪料で前髪を緩く流した、社交界で流行りの髪型。

「依頼で正装させられてな。直すのも面倒なんでこのまま帰ってきた」

「正装ってお前ら……幻影魔法がどうとか言ってたが、まさかその音楽会とやらに出たのか?」

 ザックはどことなく気遣うような、物問いたげな表情だ。初めは東方系のシオリが目立つ場所に引き出されでもしたかと心配したのかと思ったけれど、もしかしたらむしろそれはアレクを気遣ってのことだったかもしれない。

 ――身分を隠しているらしい彼を。

「出るには出たけど、舞台の袖に隠れてたから大丈夫だよ」

「参加者の護衛と舞台演出の手伝いをしただけだ。ただ……」

 依頼でかかわることになった出来事には、事件のことなど公にできない事柄が含まれている。多くの同僚が残るこの場所で報告するには差し支えるとアレクが目配せし、ザックは一つ頷いてみせてから顎でマスター室を指し示した。個室で報告を聞くということらしい。

 二人と一匹は彼に促されて、ザックの代になってからはあまり使われることがないマスター室に足を踏み入れた。


「……なるほどなぁ。まさかそんな事件に巻き込まれてるたぁ思わなかった」

 一通りの話を聞き終えたザックは、眉間を揉みながら長い溜息を吐いた。囮捜査紛いのやり方で下手人を捕らえたと聞いたときにはさすがに腰を浮かせたが、騎士隊の包囲が完璧であったこと、危険はないという確信があったことを伝えてどうにか分かってもらった。

「今回は私が囮になるのが一番いい方法だと思ったし、それに護ってくれる人が沢山いたから立候補しただけだよ。何もないときに素人が首を突っ込むようなことは絶対にしないから安心して」

 そう言うと、過保護な兄貴分は渋々ながらも納得してくれたようだ。シオリの身を心底案じている――否、危険が及ぶことを何よりも恐れているザックが、本当は彼自身が護りたいと思ってくれていることは薄々察していた。

 ――それが、あの事件から護れなかったという罪悪感からきているということも多分にあるだろうとも。

 四年前、保護されたばかりの頃は薄っすらとした警戒心を見せることも少なくはなかった。けれども一年を過ぎる頃には態度が軟化し、兄のように接してくれるようになった彼。

 異世界でたった一人という心細さを緩和してくれた彼に感謝こそすれ、恨む気持ちなど微塵もないというのに、この世界での兄はあの事件を境にそれまで以上にシオリを気に掛けるようになった。

(――でもね)

 シオリは膝の上に置いた手を握り締める。

「……あのね、兄さん。今まで色々嫌なこともあって、正直辛いって思ったことも何度もあるよ。でも、今の私は結構……ううん、とても幸せなんだよ。兄さん達みたいに見守ってくれる人が沢山いて、可愛い友達もできて、それに……こうしていつでも寄り添ってくれる人がいるんだもの」

 ぽつぽつと言葉を選ぶように伝えた想い。

 ザックは小さく息を呑み、隣のアレクが背を優しく撫でてくれた。ザックに与えられた焼菓子を嬉しそうに取り込んでいたルリィが、ぷるんと震えながら足元をぺたぺたとつつく。

「四年前は何も持っていなかった私が、今はこんなに沢山大切なものができたんだよ。色々失くして空っぽになってた心を満たしてもらったの。そうしたら自分を見つめ直す余裕ができた。もう少しで自分を取り戻せそうな気がするの。それに、そばにいて護ってくれる頼もしい人がいてくれるから。だから、ね」

 あまり心配しないで。

 シオリの言葉に彼は目を見開き、それからしばらくの沈黙の後に苦笑しながら頷いてくれた。

「――ああ、分かったよ。悪かったな。もっとお前を信じてやるべきだった」

「ううん、私にも皆を不安にさせるようなところが沢山あったと思う。私の方こそごめんなさい」

「いや、絶対にそれはお前のせいだけじゃねぇからな。だから気にすんな。お前がお前らしくいられるんなら、俺は……兄として、嬉しい」

 兄として、と。その部分を妙に強調してそう言ったとき、ザックの空色の瞳が微かに揺れたような気がした。夏の抜けるような青空の色をした瞳を揺らめかせ、そして緩い弧の形に細めて笑う。

 腰を上げたザックはシオリとアレクの肩を一つぽんと叩くと、冷めかけた紅茶を淹れ直してくれた。

「それにしても……」

 湯気の上がる紅茶を一口飲んだ彼はふっと短い息を吐く。

「嫉妬で同僚に毒を盛るなんざ、恐ろしい女もいたもんだな」

 嫉妬心を拗らせた末に、心の隙に付け込まれて犯した罪。主犯ではなかったけれど、あの事件でカリーナが果たした役割は大きい。この国の刑法がどうなっているかは分からないが、それなりの罰は与えられるだろう。

(……早く出てこれるといい)

 根からの悪人ではないだろう彼女が最後に流した涙、そして「ごめんなさい」と言った、その言葉を信じたい。

 無関係な人間を多く巻き込んだ彼女を許せないという者は多いだろうけれど。

 ――ごめんな、ごめんな、と。口では何度もそう言いながらもシオリを捨てた、恋人気取りだったあの男が今目の前に現れたら、自分でもやはり許せないと思うだろう。

 けれど、罪人となった彼女にはそれでもきっと待つ人(フェリシア)がいるから。

 罪を償う機会を与えられ、それを受け入れる気持ちがあるのなら、きっといつかは。

「……それでその、辺境伯のことなんだが」

 一度途切れた会話をアレクが再び繋いだ。我に返ったシオリは居住まいを正す。

「おう、幻影魔法な」

「うん。なんか思ったよりもずっと反響があって……色んな人に興味を持たれちゃったみたいで」

 些か気まずい思いで話を切り出す。

「俺も何度か見せてもらったことはあるけどよ。あれは確かに結構な娯楽になるぜ。それにしてもクリ……辺境伯が出てこなきゃならねぇほど凄ぇ幻影だったのか?」

「……まぁ、一言で言えと言うなら、凄いな。恐らく最後の合唱で出した幻影、あれが決定打だ」

 俺は少しほかのことに気を取られていてそのときはあまり気が回らなかったが、そう前置きしてからアレクは続けた。

「――神の視点から見た世界」

「神の視点だぁ!?」

 彼の言葉にザックは目を見開き、あんぐりと口を開けた。何かを言い掛けて口を噤み、それから顎先に手を当てて考え込んでしまった。

 そんな兄となんとも言えない表情で自分を見下ろしている恋人を横目に、シオリは頭を抱えた。

(あのときは何の気なしにやっちゃったけど……)

 よくよく考えてみれば、あれはいくらなんでも無謀だった。

 空から見下ろす視点、そんなものはドラゴンにでも乗らなければ見られない風景だ。しかし今のところ飛行魔獣に乗る技術も空を飛べるような魔法もないと聞く。せいぜい風魔法の応用で多少身体を浮かせることができる程度なのだ。飛行用の大掛かりな魔導具を作ろうと試みる者もいるらしいが、まだまだ道楽の域を出ないようだ。

 そんな技術水準の場所で空撮映像を見せるなど、刺激が強過ぎるにもほどがある。

「既にいくつかの貴族家から問い合わせが来ているらしい。ついでに大司教も相当に感銘を受けたらしくてな。異国出身の冒険者の身でそんな連中の相手をするのは荷が重かろうと、辺境伯閣下自らが依頼を出されたお気に入りの冒険者だから、手出し無用という方向に持っていくつもりのようだ」

 唸り声を上げて黙りこくったままのザックに、アレクは続けた。

「……辺境伯には俺から礼を言っておく。しばらく会ってなかったからな、挨拶がてらご機嫌伺いでもしてくるさ」

「ご、ごめんね。なんだか私のせいで大事に」

 ルリィにぺたぺたとつつかれながら眉尻を下げると、アレクと、一拍遅れてからザックが苦笑いした。

「いや、気にすんな。お前が最大限に頑張って依頼をこなしてくれたってことだからな。それは誇っていい。それ以上の面倒事はマスターの俺の仕事だと思っときゃいい」

「……うん。ありがとう兄さん。アレクも」

 二人の保護者(・・・)は揃って微苦笑し、それからふと真顔になる。

「しかし当面は嗅ぎまわる連中が出るかもしれん。いずれは事件も公になるだろうし、そっち方面で接触しようとする輩もいないとも限らん。しばらくはあまり一人で出歩くなよ」

「仕事はなるべくアレクと一緒に受けろ……つっても今更かもしれねぇが。ルリィも頼むな」

 足元のルリィが任せろと言わんばかりに力強くぷるるんと震えた。頼もしい友人だ。

「分かった。気を付けるよ」

 神妙な顔で頷くと、真剣な顔で頷き返したザックは次の瞬間にはいつものように陽気な笑みを浮かべてみせた。

「さて、そんじゃあ、報告は以上か?」

「うん」

「おう、分かった。そんじゃ今回の報酬な。改めて、お疲れさん」

 依頼料の後金は後日纏めて支払われることになっている。そのときにその後の顛末も語られるかもしれないが、二人としては依頼はこれで完遂したことになる。報酬を受け取りザックに帰宅の挨拶を済ませた二人は、なおも音楽祭や生誕祭の話題で盛り上がる同僚の脇をすり抜けて組合(ギルド)を後にした。


「……ようやく終わったね」

「そうだな」

 気が早くも既に何かに警戒しているのか、シオリの肩を抱き寄せたまま歩くアレクは頷く。公衆の面前でここまで親密さをアピールするような彼の態度は少々落ち着かないけれど、シオリは黙ってされるがままに歩いていた。

 多くの恋人達の姿も見える、生誕祭の夜。このまま密着して歩いていても、誰も気に留める者はいない。

 ――だから、少しだけ。

 シオリは頬をそっと彼の胸元に摺り寄せる。

 滅多には見せない甘えた仕草にアレクは少し驚いたようだった。けれどもすぐに相好を緩めて抱き寄せる力を強くする。二人で視線を交わして微笑み合ってから、うろうろと屋台を物色しているルリィを見て再び笑った。

「夕食はどうする?」

「うーん、もう少し食べておきたいかも」

 立食会でいくらか口にしたからそれほど空腹ではないが、もう少しは腹に入れておきたい。ルリィはヒルデガルドやほかの参加者達に餌付けされるように色々もらっていたようだったけれど、こちらもまだ食べ足りないようだ。

 アパルトメント周辺で営業している屋台で、鹿肉のパイやトリスサーモンの酢漬けに雪苺のリキュール漬け、ルリィ用には一角兎の串焼きをいくつか見繕い、最後に小さな木製のカップに入れられたホットワインを二人分買った。

 ホットワインの値がやけに高いことに首を傾げていたシオリの横で、代金を支払っていたアレクが小さく笑った。

「このカップはこのまま持ち帰っていいんだ。高いのはカップ代込みの金額だからなんだ。生誕祭の記念になる」

「あ、そうだったんだ。お祭り価格なのかと思った」

 木を削り出して作ったカップには聖女のシンボルが彫られている。可愛らしい蔦の葉と小鳥、小さな三日月。若い女性が好みそうなデザインだ。

「毎年意匠が違うんだ。第一、第二街区では金属製や陶器製のもあるぞ。毎年全種類買って集めてる奴もいるらしいが」

「えええ……家中カップだらけになりそう」

 そんな他愛のない会話をしながらアパルトメントの扉を開ける。管理人のラーシュは既に自室に下がったようで人気はなく、カウンターに呼び鈴が置かれている。

 階段を上がり、自室の鍵を開けた。アレクは当たり前のように付いてくる。シオリはひっそりと笑みを零した。こうして連れ立って歩き、一緒に帰宅することが日常になりつつあることが嬉しかった。

「……せっかくだからお風呂入っていく?」

 彼の下宿は共用風呂でその都度女将に頼まなければならず、仕事帰りにそれでは面倒なこともあるだろうと何度か風呂を貸したことはある。そのまま食事をご馳走して、長椅子で転寝してしまった彼を泊めたことも幾度かあった。

「なんなら泊っていって。疲れたでしょ?」

 そう伝えるとアレクは一瞬考えてから頷いた。

 初めの頃こそ遠慮していた彼も、最近ではあまり躊躇わなくなった。それもまた嬉しいことの一つだ。

 ――縮まる距離。

(……あ、でも……なんだか誘ってる(・・・・)みたいかなぁ)

 心を通わせた今、その先の関係に進むことには異存はないのだけれど、ただ少し心の準備ができていないということも事実だった。手足にいくつも残った傷痕を見せることにはまだ抵抗がある。彼がそれを慮ってくれていることも知っているから、ついそれに甘えてしまっているのだけれど。

 もっとも、気持ちの整理を付けたところで自分から誘うのも何かはしたないような気がして気恥ずかしくなり、シオリは紙袋に顔を埋めてしまった。

「大丈夫か? 疲れただろう」

「あ、ううん。疲れはしたけど、なんでもない」

「……うん?」

 妙な受け答えになってしまい、アレクは首を傾げている。

 ぺしぺし。

 お腹が空いたのか、ルリィが早くしろと急かすように卓の上に載せた紙袋を叩いた。

「ん、ごめんね。じゃあご飯にしようか」

 そう言うとルリィは嬉しそうにぷるんと震え、それを見てアレクが笑う。

 楽しい笑い声が響く中で手早く食卓を整えて、生誕祭の屋台料理を二人と一匹で楽しんだ。


 ――食事と入浴を済ませ、大好きな風呂でほかほかになったルリィは、簡単な伸縮運動をしてから早々に眠ってしまった。

 シオリはと言えば、風呂に入って眠気が飛んでしまったのか、まだ少し眠る気にはなれないでいた。

(……幸せ……)

 就寝前に軽い果実酒を飲みながらアレクと語らい、合間に啄むような口付けを交わす。

 見知らぬ世界に飛ばされて、もう二度と手に入らないと思っていた、温かく穏やかな時間。

(もし、アレクと一緒になったら……きっとこれが日常になるんだなぁ)

 一緒。家族。

 ふと、頭の片隅にある光景が過ぎった。暖かな日差しの降り注ぐ明るい庭で笑い声を立てて遊ぶ自分と兄を、寄り添って見守る両親の姿。その姿が不意に、自分とアレクのものに変わった。

「シオリ」

 低く優しい声に呼ばれてシオリははっと我に返る。

「随分と幸せそうな顔をしていたぞ。何を思っていた?」

「あ……えっと」

 幸せな妄想に耽る顔を見られていたことに気付いて赤面しながら、しどろもどろに答えた。

「家族のこと、思い出してた。子供の頃、私と兄さんが遊んでるところを父さんと母さんが見てた……」

 家族との、細やかだけれども温かだった思い出を。

「……家族、か」

 アレクは目を細めてシオリを見つめ、しばらくしてから視線を逸らして窓の方を見る。カーテンを引いて外からの視線を遮ってはいるけれど、それでも外の喧騒や魔法灯の光が漏れて、人々が生誕祭の夜を楽しんでいることが窺い知れた。

「――あの最後に歌った『ストリィディア』」

「うん?」

 唐突に、問わず語りに語り始めた彼。

「あの歌の中にな。俺の名前が隠れていた」

「え……?」

 どういう意味だろうか。

 アレクは手にしたグラスの果実酒を一口飲み、ぽつりぽつりと語り始める。

「俺にはミドルネームがある。実家住まいの頃にしか使っていなかった名だが、家を出るときに父が教えてくれたんだ。亡くなった母が付けてくれた名だと」

「……お母さんが?」

「ああ。実家の習わしらしくてな。ファーストネームは父親が、ミドルネームは母親が付けるんだそうだ」

 言いながらグラスを軽く揺らす。淡い紅色に色付いた果実酒が、甘く優しい香りを放った。

「前にも言ったが、俺は音楽鑑賞にはそれほど興味がなくてな。第二の国歌だから覚えた方がいいとは言われていたが、あまり真面目に聞いたことはなかったんだ。だから、今日初めて真剣に聞いて――気付いたんだ。多分母は……この歌から俺の名を付けてくれたんじゃないかとな」

「……そっか」

 だからなのかとシオリは一人納得した。

 交響詩の終盤、突然口ずさみ始めた彼。ミドルネームの由来に気付いて、溢れる想いを押し留められなくなったのかもしれない。歌が終わってもなお、自分を強く抱き締めて離そうとしなかった、あのとき首筋に掛かった彼の湿り気を帯びた吐息を思い出す。

 ちらりと見たアレクは微笑んではいたけれど、それでもどこか切なげで。

 もしかしたら、亡くなった母親と過ごした日々を思い出しているのかもしれない。

「……ねぇ。そのミドルネーム。聞いても、いい?」

「ああ」

 元々そのつもりでこの話をしたんだと彼は笑った。

「フレンヴァリ。王国の古い言葉で、『優しい大地』という意味だ」

「……フレンヴァリ。優しい大地……」

 フレンヴァリという言葉はあの歌の中で何度も出てきていた。祖国の解放と再生を歓び祝い、そして豊かな実りと繁栄を祈り願う歌の中で、そのフレーズは何度も繰り返されていた。

 ――この祖国のように優しく強く在れ。そして豊かな人生を送れますように。

 愛しい我が子への最初の贈り物に込められた、母親の祈りと願いを感じたような気がして、シオリは微笑みながら彼の胸に頬を寄せた。背に逞しい腕が回される。

「とても、素敵な名前だね」

「ああ」

「優しくて強くて温かい……アレクにぴったりの名前だよ」

「……ああ。ありがとう」

 一度強く抱き締めた彼は静かに身体を離し、指先でシオリの顎をそっと上向かせる。端正な顔が近付いて、唇が自分のそれに触れた。先ほどまでの遊びのように啄み合うようなそれとは違う、深く濃厚な口付け。熱い舌先が絡み合い、果実の甘い香りが溶けて混じり合う。

 吐息までも奪われるような激しい口付けで頭の芯までぼうっとなった頃、ようやく唇を離されてシオリはうっとりと息を吐く。

「……なぁ、シオリ」

 腕の中にシオリを閉じ込めたまま、耳元でアレクが囁いた。

「今度はお前が歌ってくれないか。俺の名前が隠された、あの歌を」

「え……私が?」

「お前の声で、俺の名を呼んで欲しいんだ」

「うん……でも。私、あの歌はまだちゃんと覚えてないよ?」

 旋律だけは耳に焼き付いてしまったけれど、歌詞はまだ不明瞭だ。けれども彼は食い下がる。

「俺が教えるから。終盤だけは覚えたんだ。そこだけでいいから聞かせてくれ」

 シオリは一瞬戸惑い、紫紺の瞳の熱量に絆されてこくりと頷く。

「……蕾は開き、花は香り、大地は黄金に実りゆく」

 彼が歌うままに、その後を追うようにして口ずさむ。


 ――蕾は開き、花は香り、大地は黄金に実りゆく

 そして巡りくる正常なる冬は眠りと癒し

 無垢なる夜は安らかに過ぎゆき

 明待鳥は歌う、光満ち溢れる朝の再来を

 実りあれ、栄えあれ、幸あれ

 ストリィディア、我が祖国、優しき大地(フレンヴァリ)


「ストリィディア、我が祖国、優しき大地(フレンヴァリ)

 何度も繰り返し歌われるそのフレーズは、強く優しい恋人の名を抱いている。

「幸あれ、ストリィディア。我が祖国――優しき大地(フレンヴァリ)優しき大地(フレンヴァリ)

 覚えやすく耳に馴染むその旋律は、やがてアレクの補助を離れて独唱になる。

「我が祖国、優しき大地(フレンヴァリ)優しき大地(フレンヴァリ)

 シオリは歌を紡いだ。何度も何度も、柔らかな歌声で恋人の名を紡ぐ。

 やがて彼は微睡みはじめ、シオリは身を預けられるままにして一緒に長椅子に倒れ込んだ。愛しい人の栗毛を優しく撫でて、寝息が聞こえはじめるまで歌い続けた。

『詩織』

 ふと、兄の、母の、父の、自分の名を呼ぶ声が聞こえたような気がした。

 詩織。詩を紡ぐ人。立派でなくてもいい、優しく温かな詩を織りなせるような、豊かな心を持つ人に育って欲しいと付けられたその名前。

(名前通りの人になれたかどうかは分からないけれど)

 歌いながらシオリは微笑む。

(私はこの人と一緒に、優しくて温かい想い出を紡いでいきたい)

 その想いが伝わったのか、眠ったはずのアレクが口の端に微かな笑みを浮かべた。そして、呟く。

 ――俺の、歌姫、と。



ルリィ「つまり恋人の部屋にお泊りしていい雰囲気になったにもかかわらず、寝落ちして朝まで爆睡して脱素人童t

ペルゥ・雪男「「だからやめてさしあげろって」」


歌姫編終了です。

とうとう一線を越えた的な展開を期待した方がおられましたら、面目次第もございません。

とりあえずペルゥの山形二つ変形でここはひとつ何卒……何卒……


あと、7月26日付の活動報告にてコミカライズ情報をお知らせしておりますがこちらでも。

家政魔導士のコミカライズ版が8月28日発売の月刊コミックゼロサム10月号より連載開始です。コミック担当はおの秋人先生です。家政魔導士の世界を大変美麗で素敵に描いて頂きました。可愛いシオリや格好良いアレクやぷるんぽよんなルリィが見られます(*´Д`)

どうぞよろしくお願いいたします。

多分数週間遅れでオンラインでも再掲載される……と思います。


また7月26日発売のゼロサム9月号、またはゼロサムさんの公式ツイッターで美麗な告知イラストも見られます。フヒヒ。

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