20 隠された名前
多くの聴衆で埋め尽くされた二層構造の講堂。本来祈りを捧げるためのこの場所は音楽堂や歌劇場とは比べるべくもないが、居心地よく音楽を楽しめるように気配りされていた。衝立と長椅子でボックス席のように整えられた二階席には出資者である貴族や富豪、来賓が並び、座り心地の良いクッションが置かれた一階席や立見席には多くの市民や観光客の姿があった。
奏者や来賓は皆正装。しかし一階席の人々は気楽な服装だ。辺境伯夫人の計らいで招かれた孤児院の子供達もまた、いつもより小奇麗な服を着せてもらっている程度。堅苦しい決まりごとはいらない。ただ気軽に音楽を楽しめばそれで良いのだ。そのために設けられた場所なのだから。
庶民でも音楽を嗜むようになるほど豊かな国になった王国だが、それでも名の知れたホールで一流の音楽を楽しむほどの余裕があるのは未だ富裕層に限られる。そんな特別な場所でしか聞くことのできない、著名な音楽家によって奏でられる調べは聴衆を魅了した。
室内楽団の爽やかで上品な弦楽曲に聞き入る老夫婦、情熱的な南国の歌姫の恋歌にうっとりと頬を染める若い恋人達。そして庶民では滅多に聴く機会のないテノール歌手の朗々たる独唱や交響楽団の壮大な交響詩に、聴衆は感嘆の声を漏らす。
舞踏家の楽しげな民族舞踊や少年少女合唱団の童謡には、招待された子供達が興奮のあまりに一緒に踊り歌い出して付き添いの司祭や修道女を慌てさせるという一幕もあったが、それは寛大な出資者や聴衆によって許されたようだ。
二階の特等席で辺境伯夫妻が鷹揚に微笑みながら拍手でもって慌てる人々を収め、その隣の若きエンクヴィスト伯もまた楽しげに子供達に手を振っていた。
人気が高く毎年多くの参列希望者を断っているという聖歌隊に代わり、より多くの人々が楽しめるようにと企画されたこの音楽会は盛況と言えよう。大トリの王都の歌姫がしくじらなければ成功に終わるはずだ。
「……いよいよ次だぜ。ちょっと変な汗出てきた」
舞台の袖で待機していたフェリシアは、緊張ゆえか口元を歪に歪めて呟いた。
「お前でもか」
鋼の心臓の持ち主ではないかと思うほどに肝の据わったフェリシアでも緊張するものらしい。
「あんたオレをなんだと思ってんだよ」
アレクの言葉に小さく顔を歪めたフェリシアは、自身の話し言葉が周りに聞こえぬよう低い声で言った。
「お貴族様に見られながら歌うことにゃ慣れてるけどよ、ホームじゃねー場所で予定にねぇ編成で歌うんだぜ。さすがのオレでも緊張すらぁな」
淡い翡翠色のシルクに細やかな蔦の葉と小鳥の刺繍が施されたドレスと、三日月の形に削り出した大ぶりの魔法石の首飾りは、聖女サンナ・グルンデンをイメージしたものだろうか。
フェリシアは落ち着かない様子でその胸元に輝く魔法石を手袋をはめた手で握り締めている。その手をヒルデガルドがそっと握り、彼女は「ダイジョーブ」と小さく笑って頷いた。
「ちょっと前の演奏会で客に公爵家のご隠居さんがいたことはあったけどよ、ここまでは緊張しなかったな。こんなのは初舞台んとき以来だ」
「公爵……? それは凄いなぁ。王族の次くらいに身分が高いんだっけ?」
「ああ、そうだ。どの家も始祖は臣籍降下した王族なんだ――それにしてもさすがに王都一ともなるとやはり違うな。公爵閣下が鑑賞されたのか」
いささか興味を惹かれてさりげなく質問を差し挟むと、思惑通りにフェリシアは答えてくれた。
「ああそーだよ。前の王様のときに宰相様だったっていうご隠居さんが来るからくれぐれも間違いがねーようにって、散々ホールのお偉いさんに言われたからよーく覚えてるんだ」
先代のときに宰相を務めた公爵家の――と言えば該当するのは一人だけだ。フレードリク・フォーシェル。父の腹心とも呼べる男、そしてザックの実父だ。
――十八年前に世話になった者の一人。
帝国から帰ってほとんどすぐにトリスに戻ったために顔を合わせることはなかったのだが、「ちょっと前」の演奏会を鑑賞していたというのなら壮健なのだろう。
目元がザックによく似た還暦間近の男の顔を思い出しながら、アレクはひっそりと苦笑いした。
(……近いうちに手紙を出しておくか)
何か贈り物を添えて、不義理をした詫びを。
――どっと聴衆が沸き、次いで割れんばかりの拍手が鳴り響いた。王都の歌姫を除く全ての曲目が終了したのだ。
す、とフェリシアの背が綺麗に伸びた。その表情が蓮っ葉な小娘から麗しい歌姫のものに変化する。
「参りましょう」
アレクもシオリも。そしてヘルゲを含むエルヴェスタム交響楽団の奏者達も頷き、足元のルリィがぷるんと震えた。両脇を騎士に護られたもう一人の歌姫に見送られて、彼らは聴衆が待つ舞台へと進み出る。
期待と興奮に満ち溢れた拍手が歌姫一座を迎える。先頭を金管、その次に弦楽器や木管の奏者が続き、それぞれが定められた席で立ち止まって正面を向く。やや遅れて指揮者が、そして音に聞く歌姫が優雅に登場すると、迎える拍手が一層大きく鳴り響いた。
一同が恭しく会釈し、着席する。場が整うのを見て小さく頷いた指揮者が静かに指揮棒を掲げた。
一斉に楽器を構える奏者達。静まり返る講堂内。
ピンと空気が張り詰める。
指揮棒が振り下ろされ、弦楽器による数小節の前奏の後に麗しき歌姫が歌い始める。甘やかで優しい歌声が白くしなやかな喉から響き、それに合わせてシオリが幻影魔法を展開した。空間に滲み出るように現れた淡い色調の幻影に人々がどよめくが、それも束の間、幼き日の想い出の幻に吸い込まれるようにしてその声は消えていく。
柔らかな歌姫の紡ぐ童歌に合わせて描き出された子供時代の想い出の情景は、聞き入る人々の胸を甘く切なく焼いた。もう想い出の中でしか会えぬ両親、離れて暮らす兄弟、別々の道を歩んだ友垣――それぞれが過ぎ去った二度と戻らぬ懐かしい日々をその幻影に重ね、ある者は涙し、ある者は微笑みと共に、過ぎし日を紡ぐその調べに身を委ねた。
アレクもまたその一人だ。
まだ母が壮健だった幼い頃。トリスの街の片隅で友人達と日が暮れるまで遊んだ――何の憂いもなくただただ大好きな母と、気心の知れた友と過ごしたあの楽しい日々の想い出は胸に小さな痛みをもたらし、アレクは小さく吐息を漏らす。
(シオリも……思い出しているのだろうか)
小さな口元に浮かぶ微かな笑みとは裏腹に、その瞳は郷愁の念に揺れていた。映し出す幻影が時折僅かにぶれるのは決して気のせいではない。
アレクは彼女の集中を乱さぬように、その華奢な肩をそっと静かに抱いた。彼女の瞳が現実に引き戻され、今度は力強い笑みが浮かぶ。
大丈夫、と。声なき言葉が聞こえたような気がした。
――初めの歌が終わる。
客席は静まり返ったまま、瞬きすら忘れて余韻に浸っている。二階の来賓席の柵から身を乗り出すようにして舞台を眺めているエンクヴィスト伯を従者の青年達が窘めているのが目に入り、アレクは口の端に笑みを浮かべた。
出だしは上々。
緞帳の影、布張りの椅子に腰掛けて幻影を繰っていたシオリの肩を強く抱き寄せて、魔力回復薬を手渡す。
「ありがと」
それを半量飲み下した彼女はほっと息を吐いた。
孤児院の慰問よりも規模の大きい幻影魔法は魔力消費が大きい。それに加えて多くの有力者が観賞する本格的な音楽会だ。普段以上の緊張と集中力を強いられているのは傍目にも分かった。
最後の曲目「ストリィディア」に備えて待機中のほかの参加者から向けられている視線を遮るように、シオリの背を護って立つ。
彼らの視線に少なからず熱を感じて、アレクは微かに眉を顰めた。
滑らかな乳白色の肌と艶やかな黒髪を持つ東方系のシオリは人目を引く。柔らかな物腰とどこか現実味のない儚げな佇まい、そして東方系特有のものらしい不思議な微笑みを常に浮かべている彼女が多分に魅力的だからというのもあるかもしれないが、今彼らが注目しているのは決して彼女の外見的な魅力だけではないということはアレクにもよく分かる。
――歌を彩る美しい幻影。
ただ純粋に音楽だけを楽しむのならば、それはむしろ邪魔になるかもしれない。しかし娯楽として考えるならば、この幻影による演出はこれ以上はない娯楽と言えた。
(音楽会が終わったら、貴族連中からの問い合わせが増えるかもしれんな)
無論コニーは簡単に幻影魔法の使い手の正体を明かしたりはしないだろうが、念のため釘を刺しておいた方が良いかもしれない。
シオリの能力が認められるのは喜ばしいが、下手に注目されるのも恋人としては複雑だった。
――それにアレクのこれから先の選択如何で、彼女はそれ以上の注目を浴びることになる。もし仮に王族として表舞台に戻るとすれば、向けられる視線はきっとシオリを傷付ける。公的には失踪中の王兄が十数年ぶりに、それも東方人の女を連れて帰還したとなればその騒ぎは相当なものに違いない。口さがない者は必ず彼女を槍玉に挙げるだろう。
王族籍から正式に離脱しアレク・ディアとしてこのまま市井で暮らすにしても、そこに至るまでの過程で立ちはだかる障壁は決して少なくはないだろう。
かつてザックにも問われたのだ。王族籍を保持していながら市井に身を投じている曖昧な身分のアレクと共にいることで傷付くのは、ほかの誰でもないシオリなのだと。
(先の人生をシオリと共に歩むともう決めたんだ。何があっても必ず結論を出す。その過程でこいつを傷付けようとするものがあるのなら、必ず護る。共に――戦う)
二十年近くもの間目を逸らしてきた問題に向き合おうと決意させてくれた、愛しい女を見下ろしてそう思う。
――その姿に一瞬、怒りで蒼白になった娘の顔が重なった。
途端に湧き上がる凄まじい痛みと悔恨の念が胸を焼き、アレクは胸元を抑えて微かに呻いた。
ルリィが異変に気付いたのか、アレクの足元をしゅるりと撫でる。優しいスライムの気遣いに大丈夫だと頷いてみせながら、短く息を吐いた。幸いシオリは気付いていないようだ。
(……俺も、君も。多分……共に寄り添い戦おうという気持ちが足りなかった)
彼女ばかりが悪い訳ではないのは分かっている。少なくとも最後の一年は語り合う時間が足りなかった。無理に時間を捻出してでも話し合うべきだった。本気で想う女だったのなら、あんな事後承諾のような形で決意を語るべきではなかったのだ。
それは、分かっている。
だが、共に過ごした時間、その四年間の想い出に価値はないと、王族の身分を捨てるアレクに何の価値もありはしないのだと言い捨てて去った彼女が真にアレクを想っていたのかどうか――そこまでは今でも分からない。あの四年間彼女が向けてくれたその想い、その愛情が果たして本物だったのかどうか、分からないのだ。
だからこそ、不誠実だったという悔恨の念と共に裏切られたという激しい怒りと悲しみが、この心を未だに苛んでいる。
(……この想いにもいずれ決着をつけねばならん、な)
たとえどれほどの痛みを伴うものだとしても。
――もう逃げないと決めたのだ。
シオリの肩を抱く手に力を籠める。黒曜石に見紛う瞳が照明の光を受けて煌めいた。彼女は小さく微笑んでから、再び表情を引き締めた。
次の楽曲だ。
貴族の青年と平民の娘の、身分違いの恋の歌。そして森の片隅で孤独に暮らす魔女に想いを寄せる青年騎士の、秘めた情熱的な愛の歌。二曲続けて歌われる恋歌とともに映し出される若く美しい男女が寄り添い愛を語らう姿に、聴衆はうっとりと目を細めた。
映し出された男女の、その男の方の顔立ちがどちらも己に似ているように思えるのは気のせいだろうか。自惚れだろうか。
そんなことを考えながら、シオリの後ろでひっそりと笑う。
続く曲は古い歌劇に登場する子守歌。砂金のように無数に瞬く綺羅星を散りばめた、藍色から紫紺色へと柔らかなグラデーションを描く夜空を背景に歌うそのアリアは、人々を穏やかな癒しの世界へと誘う。
そして最後の賛美歌。弦楽器の穏やかな音と共に始まるその優しい旋律は、徐々に重ねられていく管楽器によって音に厚みを増してゆく。ストリィディアの雄大な原風景を背景に紡がれていく賛美の歌は、ときに優しくときに朗々と力強く講堂内に響き渡り、聴衆の心を震わせた。
――やがて慈愛に満ち溢れた微笑みを浮かべる麗しき女神の姿が祭壇のステンドグラスに溶け消えていくと同時に、歌姫の見事なビブラートが余韻を残してアーチ状の天井に吸い込まれていった。
水を打ったように静まり返る講堂内。
しばらくの沈黙の後、そこかしこから拍手が聞こえはじめる。それに倣うように次々と重ねられていく力強い拍手の音は、やがて歓声と共に大きなうねりとなって講堂内に広がった。
「ブラーヴァ!」
「ブラヴィ!」
総立ちで口々に賞賛の言葉を叫ぶ聴衆。
興奮と熱気に満ち溢れる中、舞台上のフェリシアが大輪の蕾が花開いたかのような笑みを浮かべた。
奏者達が起立し、歌姫、指揮者と共に深々と辞儀をする。
ますます大きくなる拍手。
「――大成功だ」
「……うん」
やり遂げたように満足げに微笑み、微かに肩で息をしているシオリを背後から力強く抱き締める。その足元ではルリィが嬉しそうにぷるぷると震えていた。
す、と顔を上げたフェリシアがこちらに視線を流す。差し伸べられた手が招くのは、彼女の親友。もう一人の歌姫だ。
不安げに後ろを振り返るヒルデガルドの背を、護衛の騎士が優しく微笑みながらそっと押した。舞台上ではフェリシアとエルヴェスタム交響楽団の仲間達が待っている。
「行ってこい。親友が待っているぞ」
ヒルデガルドは泣き笑いのように顔を歪め、それから頷いて今度は力強く微笑んだ。舞台で待つ親友に向かって歩き出す。
待機していた音楽家達もまた、打ち合わせで指定された位置に移動してゆく。
会場の拍手は既に止み、聴衆は何が始まるのかと互いに囁き合いながら固唾を呑んで見守っている。
その間にシオリに魔力回復薬を飲ませ、最後の大仕事に備えさせた。
フェリシアの提案で急遽アンコール曲として、参加者全員で演奏することになった交響詩「ストリィディア」。簡単な打ち合わせのみでリハーサルすらしていないこの曲に、無理に幻影を付けなくとも良いとは言われていた。
しかし「活弁映画」による演出を見た聴衆は、きっと最後の曲目にもこれを期待するだろうことは容易に予想ができた。それはフェリシア達も同意見だった。
だからこそシオリは首を横に振った。一度盛り上がった聴衆を最後の最後にほんの少しでも落胆させてはいけないと、だから最後まで参加すると彼女は言った。
開演前の僅かな時間に「ストリィディア」の歌詞を確認し、それに合った幻影を提案した。祖国解放の喜びを綴るその歌の、その歌詞に沿った幻影を。
――皆が定位置に付いたのを見計らい、フェリシアが、そしてヒルデガルドが聴衆に向き直った。講堂内のざわめきが止む。
指揮者の右腕が掲げられ、そして振り下ろされた。
エルヴェスタム交響楽団とトリス交響楽団の奏でる重厚な旋律。長く荘厳な前奏の後にフェリシアが、ヒルデガルドが――そしてテノール歌手、南国の歌姫や少年少女合唱団、舞踏団が一斉に歌いだす。
――ストリィディア、美しき我が祖国
長く冷たい冬は去り
春告鳥は永安の訪れを歌う
凍て解ける荒漠の地は芽吹き色付く
ああ 美しき我が祖国よ
名立たる音楽家達の大合唱。
その背景に映し出されるのは空を舞う鳥だ。白み始めた空を翼を広げて自由に舞い飛ぶ鳥は、暁光を浴びて美しい夜明けの色に色付いていく。
朝と春を司る女神アウロラの御使いとされているその鳥は、長く厳しい冬が終わりを告げて、雪が解け、芽吹き色付いていく大地を見下ろして、悠々と飛んでいく。
幾度目かの幻影に慣れていたはずの聴衆が再びどよめいた。空から見下ろす視点のその景色に目を奪われたのだ。
丘の上に立つ王城が誇る高見の塔や、高い山の頂にでも登らなければ見ることができないはずのその光景を、シオリは苦もなく幻影に映し出している。
――昏き夜は去り、眩き光の朝が来る
深き闇は晴れ、光と命の雨が降る
百五十年に渡る帝政ドルガストの支配から解放され、自治権を取り戻した領土奪還作戦。その勝利を祝い、解放の喜びと自由、祖国への愛国心を情熱的に歌うこの賛歌は、第二の国歌とも言われている。
国を代表する歌い手達によって朗々と紡がれるこの歌に、そこかしこで口ずさむ声が重なっていく。伝播していくように徐々に増える「歌い手」はやがて、会場内を埋め尽くした。
ある者は楽しげに、ある者は感極まって涙ぐみ、若い娘や青年達は気恥ずかしそうに、そしてまだ歌詞を知らない幼い子供達は歌に合わせて即興の踊りを披露する。
一体となった人々が歌う歓喜の歌。
――蕾は開き、花は香り、大地は黄金に実りゆく
そして巡りくる正常なる冬は眠りと癒し
無垢なる夜は安らかに過ぎゆき
明待鳥は歌う、光満ち溢れる朝の再来を
実りあれ、栄えあれ、幸あれ
ストリィディア、我が祖国、優しき大地
歌詞のところどころに差し挟まれる王国の古語。
大合唱の中、不意にミドルネームを呼ばれてアレクははっと息を呑んだ。
(――ああ、そうか)
第二の国歌とも呼ばれる交響詩ではあるが、久しく聞いていなかった。音楽を聴くどころか歌を口ずさむ気にすらならなかったこの十八年で、すっかり記憶から薄れてしまっていたこの楽曲の歌詞。興味の範疇外だった音楽鑑賞で何度か聞かされた、あまり真面目に聞くことがなかったその楽曲に、己の名の一部がその中に隠されていたのだと気付いてアレクは動揺した。
母は。長く名乗ることのなかったこのミドルネームの名付け親は、もしかしたらこの歌から――と。それを確かめる機会は失われて久しい。しかしそれでも母の想いに触れたような気がして、この胸がひどく熱くなった。
「……幸あれ、ストリィディア。我が祖国、優しき大地」
交響詩のクライマックス。何度も繰り返して歌われるこの一節を、アレクもまた口ずさんだ。
舞台を見つめて懸命に幻影を繰るシオリの背が僅かに揺れた。
後ろからその華奢な身体を抱き締めて、アレクは歌う。
「幸あれ、ストリィディア。我が祖国――優しき大地。優しき大地」
言葉の端が震えた。
――ぽたり、と。目の縁から滴が落ちたのはきっと気のせいだ。
ただ、幻影を繰るシオリのたおやかな手の片方が、抱き締めるアレクの手にそっと重ねられる。
実りあれ、ストリィディア
栄えあれ、ストリィディア
幸あれ、ストリィディア
美しき大地、優しき大地
我が祖国よ!
壮大な管弦楽の調べは講堂内を震わし、背景に映し出される幻影の鳥は澄み渡る大空に向かって飛翔していく。王国の実り豊かな雄大な景色は遥か下界に遠ざかり、大海に浮かぶ大地が霞んでゆき――そして世界は眩い光に呑まれていった。
音と光が消えた後。
光輝く数枚の羽根がひらりひらりと舞い落ち、空気に溶けるようにしてふわりと消えた。
――長いような短いような静寂の後に、割れんばかりの拍手と歓声が響き渡る。
「おお……」
二階の特等席から息を詰めるようにしてこの大合唱を見守っていたクリストフェルは、深い吐息を漏らす。漏れ出る息が震えているのは決して気のせいではない。
「あれは――」
あの幻影は。「天女」が繰り出すあの幻影が映し出していたあの光景は。
ただの人であれば決して見ることができないだろう――否、四大公爵家と同等の権力を持つとさえ言われているトリスヴァル辺境伯の己でさえも見たことのない、遥かな高みから世界を睥睨するあの光景は。
「――神々の視点……!」
まさか。まさか本当にあの女は。
舞台の袖に隠れるようにして佇む王兄と、それに護られている黒髪の女に視線を向ける。
「……彼女は本当に……天女なのか?」
――拍手と歓声は鳴り止まない。
講堂が感動と歓喜の熱狂に包まれる中、感涙に咽び泣く妻を腕に抱きながら、クリストフェルはただただ驚嘆と畏怖の念を抱いて黒髪の女を見下ろしていた。
ルリィ「アレクはしょっちゅう俺の女神って呟いてるけど」
ペルゥ「ところであの交響詩の歌詞って」
包帯付き雪男「て」
雪狼「き」
雪海月「とう!」
あまり深く突っ込まんで頂ければと_(:3」∠)_
フレンヴァリのくだりが入れたかっただけというかごにょごにょ




