17 朝
少し間があいてしまいました。
微かな衣擦れの音と人が動く気配にアレクは意識を浮上させた。薄く目を開くと室内はまだ暗かったが、カーテン越しに仄明るい青が透けて見えた。日の出前の色彩。
「……あ、ごめん。起こしちゃった?」
窓際で外を眺めていたシオリがこちらに気付き、静かに歩み寄る。
外はまだ仄明るい程度だが、この国の冬の日の出は遅い。時計は七時五十分。朝だ。起床時間まであと僅か。
「いや、大丈夫だ」
交代して二時間弱の仮眠だったが、不寝番よりは遥かにましだ。朝の挨拶代わりの軽い口付けを交わし、彼女が用意してくれたぬるま湯で洗顔を済ませて身支度を整える。
そうしているうちにフェリシアが身動ぎした。もぞりと上半身を起こして胡坐をかき、ぼさぼさ頭のまま胸元に手を突っ込んでぼりぼりと掻きながら呻いている。
「うぁー……ねみぃ……」
清純清楚な麗しき歌姫の、色気の欠片もないあまりにもな寝起き姿にアレクは絶句し、シオリは苦笑いした。
「……百年の恋も冷めそうだな……」
「うるせーよ」
シオリが差し出したグラスの水をぐっと飲み干したフェリシアは、口の端を歪めて微苦笑した。
「歌姫のオレに惚れられても正直困るんだよな。ありゃあ商売用に作ってるもんだからよ。芸人なんて皆そんなもんだけど、なんつーかそこらへん分かってねぇのがたまにいるんだわ。夢見てくれるだけならうれしーけどよ、外っかわだけ見て惚れたっつわれてもなー……」
「芸能人の素顔は秘匿されてしかるべきだからな。普段の姿を知る機会もないのであれば、ある程度は仕方ないのではないか。まぁ、同情はするが」
「オレも分かっちゃいるんだわ。ただたまにムショーに虚しくなんだよ」
芸を売る者が舞台の上で見せる姿は華やかな虚像だ。その美しい虚像の世界にひとときの夢を見て楽しむのが本来のファンとしての姿だ。しかしその虚像を現実のものと思い込み、本気で懸想する者は多いのだという。
「好きっつってくれるのは悪い気はしないぜ。でもなぁ、どーせならちゃんと中身も見て好きになってほしいんだよな。ぜーたくな悩みだけどよ」
ヒルデガルドの話では何人かに言い寄られていたということだったが、きっと作られた表面だけを見て愛を囁かれることが多かったのだろうとアレクは思った。
「……言い寄る男を袖にしたのはそのあたりが理由か?」
「まぁな」
アレクの指摘に彼女は苦笑いして頷いた。
「こっちにその気がねぇってのもあるけどさ、あーこいつもどーせ歌姫のオレに惚れたんだろうなって思ったら、なんかちょっとな」
「いっそ素のままでいてみたらどうだ。舞台ではそういう訳にもいくまいが、舞台裏なら構わないのではないか」
素人意見ではあったが、正直な考えを口にした。
昨晩のあの騒ぎの中でフェリシアは本来の姿を曝け出した。そのときに皆驚いてはいたが、そう悪感情を抱いたようにも思えなかった。それ以上の注視すべき事件に気を取られていたからだというのもあるだろうが、少なくともあのヘルゲという男はそれでも彼女への態度を変えなかったように思う。
「そう……だなぁ。あのキャラ作りってのはカリーナに言われてやってたんだけどよ」
少し考えた後、フェリシアは笑った。
「ま、考えてみるわ」
洗顔用にとぬるま湯を満たした洗面器を手渡された彼女は、あんがと、とシオリに笑い掛けてからそれを受け取った。
そのとき、扉を叩く音と共にコニーの声がする。
「私が行ってきますね」
そう言うとシオリは部屋を出ていった。自身もまた身支度を整えるフェリシアに遠慮し、少しの間席をはずそうと立ち上がる。
「……なぁ」
一言断って背を向けたそのとき、遠慮がちな声が掛かった。
「カリーナの奴も言ってたけど、あんたとシオリさんってほんとに付き合ってんの?」
「ああ」
「なーんだぁ……そっかぁ……」
迷わず即答したアレクに、フェリシアは微妙な返事だ。
「一体なんだ」
怪訝に思って訊ねれば、彼女はにやりと笑う。
「あんた、結構好みなんだよな。上っ面だけで女を見なさそーだもん。オレがカノジョに立候補してやってもいいかなって思ったんだけど」
「……お前な」
冗談とも本気ともつかぬ言葉には苦笑するしかない。
「人を揶揄ってる暇があるなら早く支度しろ。じきに朝食の時間だぞ」
「ちぇ。分かったよ」
首を竦めたフェリシアはぺろりと舌を出し、身支度するために立ち上がる。着替えや化粧道具を漁り初めた彼女のその背に向かってアレクは声を掛けた。
「ああ、だが、そうだな。あくまで俺個人の意見だが」
振り返るフェリシアを正面から見据える。
「――取り繕っているよりは、今のお前の方がずっといい」
言うだけ言って返事も待たずに出ていってしまった彼が去った扉をぽかんと口を開けて眺めていたフェリシアは、やがて口の端を歪めて笑った。
「――あの野郎」
胸元に手を当て、そのままぎゅっと握り込む。なぜか胸の奥がちくりと痛んだ。
「……本気で惚れっちまうだろうが、クソッタレ」
迎賓院の食堂で当初の予定より一時間遅い朝食を取りながら、アレクはさりげなく周囲を見回した。平然としている者もいれば、疲れ切った表情の者、眠そうに目を瞬かせている者と様々だ。
しかしコニーは疲れも見せず、催事責任者として忙しく立ち回っているようだ。聖職者というとその柔らかな物腰から軟弱な印象を抱きがちではあるが、厳格な規則の下で祈りと労働の禁欲的な修行を経た者達なのだ。軟弱である訳がない。
「僕はこれから本番まで会場で作業の指示をしなければなりません。後は係の者が案内することになりますが、よろしくお願いしますよ」
急ぎながらも上品な仕草でスープを飲み干したコニーは言った。
時間が惜しいということで食べながらの打ち合わせだ。彼を囲むようにしてアレクとシオリ、そしてフェリシアとヘルゲが腰を下ろしている。
取り纏め役だったカリーナがいなくなり、楽団の代表者も臥せったままという状況で代表を引き受けたのがヘルゲだった。事件に関して何か思うところがあるらしく、罪滅ぼしのようなものだと彼は言っていた。彼が責任を感じる必要はないのではないかと擁護する者もあったが、「その気はなくても知らないうちに誰かを思い詰めるほど傷付けていたんなら、改めるべきところは改めるさ。詫びの代わりにこのくらいはさせてくれよ」というのが彼の言い分だ。
「……見目も悪くはないし、軟派なようでいて根は真面目で責任感が強い……か。案外、真剣に想いを寄せる女は多そうだな、あれは」
外見と物腰のせいで軟派には見えるが、本人が言うようにあれは本当に社交辞令なのかもしれない。
「無自覚の女たらしなんだね、きっと」
「無自覚か。なるほど」
シオリの言い様に笑うアレクの横で、「あんたもだよ、この無自覚タラシ野郎」とフェリシアが何やらぼそぼそと呟きながらパンを齧っている。「何か言ったか?」と訊くと、「なんでもねーよ」ということだった。首を傾げながら最後に残ったスープを飲み干す。
フェリシアは結局普段は本来のままでいることにしたらしい。これについては多少の混乱もあったが、概ね受け入れられたようだ。無論思うところがある者もいるだろうが、今この場で敢えて口に出すような者はいなかった。
「しかし、大聖堂としてはやはり何らかの抗議はすることになりますよ。事件にホール関係者が二人も関わっていた訳ですからね。このために余分な経費がかかりましたし……音楽会が終わり次第、早いうちに話し合いの場を設けることになるでしょう」
事件の公表は混乱を避けるために音楽会の終了を待ってなされるようだが、カリーナの所属先であるエルヴェスタム・ホールには既に伝書鳥で報せたらしい。
その後の混乱を想像して、他人事ながらにアレクはうんざりとした。しかし自分達が協力するのは歌姫の舞台が無事終了するまで。それから先は彼らの問題だ。気持ちを切り替えて打ち合わせと食事に専念した。
食事を終えて「それではまた後で」と慌ただしく去っていくコニーを見送り、一息吐いた後は通しでのリハーサルだ。無論ほかの参加者もいる。王都で名の知れた著名な楽団と今を時めく歌姫には、同業者として、そしてある種のライバルとして注目が集まるはずだ。失敗することはできない。
想定外の出来事で仲間の裏切りに遭い、そして当初とは違う曲目での参加になった彼らに緊張が走るが、その張り詰めた空気をフェリシアが破った。
「よっしゃ。んじゃ、いっちょやるかぁ。皆、よろしく頼むぜ!」
蓮っ葉な言葉に何人は苦笑したが、その勇ましさにはかえって元気付けられたようだ。
頼もしい歌姫を囲んで頷き笑い合う人々に目を細めながら、隣でやはり緊張しているシオリの肩をそっと抱き寄せる。
彼女の役割は裏方ながらも大役だ。衆目の集まる場、それも有力貴族が集まる祭典での失敗は許されないと緊張するのは分かる。
「大丈夫だ。俺が付いているから安心して臨めばいい」
頑張れとは言わない。彼女は十二分に頑張っているのは知っている。むしろ頑張り過ぎて不安になるほどだ。肩の力を抜くくらいでちょうどいい。
「うん。ありがとう、アレク」
肩に置いた己の手に彼女の温かく小さな手が添えられた。
ルリィ「次回再登場!(多分)」
ペルゥ「自分は……」
雪熊「章末まで予定なし!」
朝食中雪男「……自分は予定すらありませんよ」
雪男のぬいぐるみに一目ぼれして買ってしまいました。




