14 隣の花は赤い
一瞬誰が発した言葉か分からずに狼狽えたが、それはアレクやコニー達も同じだったようだ。漁師町の酒場女のように乱暴な言葉遣いと淑やかな外見が結びつかず、困惑の表情で戸口に立った歌姫を見つめていた。その身体を支えているヘルゲでさえ目を剥いて腕の中の彼女を見下ろしている。
「――オレの欲しいもん全部持ってるくせに、この上何が欲しいってんだ」
これが彼女本来の口調なのだろうか。
常の彼女からは考えられないほどの蓮っ葉な口調で言い放ったフェリシアは、自身を支えているヘルゲの腕から抜け出した。弱い魔力で中途半端に掛けられた催眠魔法の影響だろうか、夢見の悪い眠りから覚めたばかりのようにその顔色は悪い。それでもふらつく身体を自身の足で支えて一人で立つと、彼女はカリーナをぎろりと睨め付けた。
「歌姫の座なんざ欲しいならいくらでもくれてやる。だからオマエの居場所、オレにくれよ」
「何を……何を言ってるのよ。私を馬鹿にしているの?」
カリーナは蒼褪めていた顔を怒りにさっと赤らめて立ち上がる。
「貴女が欲しいものを私が全部持ってるですって? 何も持たない地味な私が、一体何を持ってるっていうのよ」
「持ってるじゃねーか」
フェリシアは嗤った。日中見た聖女のように淑やかで上品な立ち居振る舞いがまるで嘘のような獰猛な表情で、そんなことも分からないのかとでも言うように彼女は嗤った。
「――いつでも好きなときに帰れるあったかい家がオマエにゃあるじゃねーか」
はっとシオリは短く息を呑んだ。自身の肩を抱き寄せているアレクの手にもぐっと力が籠る。彼にも何か思うところがあるのかもしれないけれど、見上げたその表情からは何も窺えなかった。ただ、ほんの僅かに紫紺の瞳が揺らめいている。
「好きなときに帰れるあったかい家に、そこで待ってる立派な親父さん、優しいお袋さんにお姉さん。それに申し分ないくらい男前な婚約者様までいるじゃねーか。どれもオレが持ってないもんばかりだ」
「……何を言うの。それなら貴女だって持ってるでしょう。婚約者は確かにまだいないかもしれないけれど……」
カリーナは言われた言葉の意味が分からず困惑するようだった。
「確かに元の身分はどこの誰の子とも知れない旅芸人だったかもしれないわ。でも今の貴女は国内でも屈指の大商人の養女なのよ。おじさまもおばさまも優しくて人格的にも立派な理想的なご両親だわ。それに兄様だって貴女を実の妹のように可愛がっているじゃない」
「……そーだな。だとしてもオレの立場が危ういことに変わりはねーよ」
金茶色の髪を揺らしてフェリシアは薄く笑う。その明るい碧眼が昏く翳った。
「どんだけ可愛がってもらってたって、オレが本当の娘じゃねーことに変わりはねぇんだ。今はまだいい。でもな、養父さんと養母さんはもういい歳だ。二人がいなくなったらオレの居場所なんて簡単になくなるんだ」
養父母が死に、兄が跡を継いだらそこはもう兄の家だ。いずれは娶ることになるだろう妻も、夫と血の繋がりのない義妹を警戒することだってあるかもしれない。
親類縁者の中には身元の怪しいフェリシアを良く思わない者もいる。いつか主家の跡取り息子と彼女がただならぬ仲になるのではないかと危ぶんでいるのだ。その中には商売絡みであまり諍いを起こしたくはない家も多い。自分がいることで家同士の付き合いにも家業に差し障りが出るのであれば、養女の身でいつまでも居座るわけにはいかない。
恩あるアムレアン家に迷惑を掛けるような真似だけはしたくないと彼女は言った。
「歌の世界に入ったのだって、ただ歌が好きだったからな訳でも恩返しするためだけでもねぇ。名前が売れりゃあ広告塔にもなれるからな、そりゃあちょっとは家の商売の助けにもなるかもしれねーよ。でもな、本当は自分の自由になる金を稼ぐためだった。いつ家を出てもいいように金を貯めておきたかった」
そうして必死に歌い続けた末に、歌姫という称号を手に入れた――。
「……そんな……でも、だって」
それでも分からないと言ったふうにカリーナは小さく首を振った。
「仮に家を出たとしても、貴女は歌姫なのよ。貴女を欲しがる家は多いのではなくて?」
「馬鹿だな」
フェリシアの浮かべた笑みは悲しげなものだ。
「歌姫だって永遠の称号じゃねーよ。今はまだ若くてかわいーからチヤホヤされてっけどよ、歳取って盛りを過ぎたらそういうわけにもいかねぇ。それに若くて才能のある奴らが後からどんどこ入ってくる世界なんだぜ。いつかはそん中の誰かに歌姫の座を明け渡すことになるだろうさ。そうなったら歌姫じゃなくなったオレにはなんの価値もねぇ。元はドサ回りの旅芸人だった歌が取り柄なだけのババァが残るだけだ」
そのときにそれでもこのまま居て良いと言ってくれる家がどれだけあるだろうか。
オペラ歌手や舞台女優を目指す道もあるかもしれないが、そのとき自分にどれだけの余力が残されているか分からない。学も教養も正真正銘の令嬢には遥かに劣る自分だけれど、それでも不確かな希望に縋れるほど愚かではない。
物心ついたときには既に旅芸人の一座に身を置いていた。拙い芸を見せて稼いだ僅かな金で、その日の食事を賄うのが精一杯の日々を過ごした幼少期。そして養父に引き取られ、今度は富豪の娘として上流階級に相応しい教育を受けた少女時代。市井に身を投じて普通の女として生きるには、一般常識が著しく欠けているという自覚はある。
そんな自分が家を出て真っ当な職を得、一人で生活していけるとは到底思えない。勢いだけでもどうにかやっていけるのは若いうちだけだ。盛りを過ぎたら? 病で働けなくなったら?
「帰る家もねぇ。無条件に迎え入れてくれる場所なんてねぇんだ。そうなったときに頼れるものはなんだと思う? 金だぜ。夢も希望もねー話だけどよ、これが……現実なんだ」
お嬢様育ちのオマエにゃ分からねーだろうけどな、そう言ってフェリシアは笑うのだ。
「――家族ってもんにな、ずっと憧れてたよ。だから養父さんが引き取ってくれたときは本当に嬉しかった。雨漏りも隙間風もない家、優しい家族、あったかくて美味い飯、綺麗な服、ふかふかの寝床。具合が悪けりゃ黙って寝てるだけでいい。それだけで医者も呼んでくれるし薬だってもらえて、それどころか家族に優しい言葉を掛けてもらえるんだぜ。でもこれだって永遠のもんじゃねぇ。オレが養女である限り、いつかは手放さなきゃなんねーんだ」
そんな、曖昧な立場の自分。永久のものではない、居場所。
歌手を目指したのは、いずれくるだろう一人での生活を維持するために必要な貯えを作るため。学のない自分にただ一つだけあった才能を利用しない手はないのだ。
「だから、さ。カリーナ。オマエが羨ましかったんだ。オレの欲しいもんを最初から持ってるオマエがずっと羨ましかった」
シオリは胸元を抑えた。フェリシアの気持ちがよく分かるからだ。
異世界に身を投げ出され、何の縁もないこの世界でただ一人きり、身一つで生きていかねばならないと気付いたとき、同じように思ったのだ。兄や恋人、得難い多くの友人ができて一人ではないと気付いた今でさえ、その思いは払拭できないでいる。積み重ねてきた人の縁が何一つないということがどれほど恐ろしいことなのか、身をもって思い知ったのだ。
シオリの肩を抱く手にさらに強く引き寄せられる。力強い腕に抱かれ、彼の身体と密着した背が温かい。
フェリシアを見つめていたカリーナの視線が、床に落とされる。その白い手がぎゅっと胸元を抑えた。
「――それでも私にとっては……貴女のいるところが憧れだった」
「……だとしてもやり過ぎだ」
アレクが静かに、しかし確かな嫌悪感を滲ませた声色で言った。
「お前の自尊心を満たすためだけにどれだけの人間を巻き込んだと思っている。お前を仲間と信じていたあの者達は毒で丸一日苦しんだ。大事な舞台をふいにした者だっている。それどころか無辜の者を二人も罪に陥れようとしたんだ。到底許されるものではない」
「……二人? 二人ですって?」
カリーナはぎょっとして顔を上げた。
「罪を被ってもらうつもりでいたのはヒルデガルドだけよ。二人だなんて、ほかに誰を」
「フェリシア殿だ」
目を見開いたカリーナに、アレクは溜息を吐く。
「……いざとなったら歌姫に罪をなすりつけるつもりだったのかと思ったが――そこまでの考えがあってのことではなかったんだな」
「どういうこと? 私はただフェリスが歌姫の座から退いてくれればそれで良かった。罪を被せるつもりなんてなかったわ」
「ヒルデガルド殿を現場におびき寄せたのはフェリシア殿からの手紙、それも事件を詳細を予兆させるような内容とくれば、むしろ彼女がヒルデガルド殿を陥れて表舞台から消そうとしているかのようにも見える。当然疑いはフェリシア殿に向けられるだろう。ヒルデガルド殿が手紙を指示通りに焼き捨てない可能性を少しでも考えなかったのか」
「そんな――」
カリーナは呆然と目を見開いた。彼の言うとおり、考えもしなかったのだろう。ただヒルデガルドをおびき寄せるためだけに、そうしたのだ。
「そんな……私、フェリスに消えてもらいたいわけではないのよ。ただ身を引いてもらえればそれで良かった。だって大切な教え子で……お友達なんですもの。だからこんな華やかな世界じゃなくって、もっと静かな場所で仲良くお茶でも飲みながらお話をして、時々歌を歌って穏やかに過ごせればいいって――私、そんなふうに……」
「カリーナさん」
静かな声が割って入る。コニーは柔らかく、しかし毅然と言った。
「貴女の人生が貴女のものであるように、フェリシアさんの人生もまたフェリシアさんのものです。彼女の人生は貴方の人生を彩るために在るものではありません」
歩み寄り、そして汗ばんで冷えたままの彼女の手を取り、そっと包み込む。
「身分違いで本来なら交わるはずのなかったお二人の人生が、奇跡的に交わり
友人となった――そのことを素直に喜びましょう」
カリーナは言葉もなく俯く。そして長い沈黙の後に、小さく頷いた。
その彼女に縄を掛けようと歩み寄る騎士を、ニクラスがそっと押し留め、小さく首を振った。恐らくもう逃げる気はない、と。
彼は静かにカリーナに向き直る。
「……レディ。素人がやるにしては大掛かりな犯行だったが、これは全て貴女一人が?」
その問いに少し悩む素振りを見せた彼女はやがて、いいえ、と頭を振った。
「音楽祭のタイミングでヒルデガルドにたまたま仕事が入っていないだなんて偶然は、私一人では作れないわ。あの子、ああ見えて仕事に対してはとても真面目なのよ。だから偶然予定が空いていなければ、いくらフェリスの呼び出しがあったとしても応じなかったのではないかしら」
彼女の言葉が意味するところを瞬時には理解できず、シオリはアレクを見上げた。彼も少し考え、それから「なるほど」と唸った。
音楽祭前後の予定を空けておくようにヒルデガルドの日程を調整することができる人間は限られる。
「……それはつまり――」
アレクが言い掛けたとき、戸口から姿を現した騎士がニクラスに駆け寄った。何か長く耳打ちをし、それから略式の敬礼をして去っていく。
「――ああ失礼。つい先ほど貴女の共犯者が捕まったそうだ。語るに落ちるとはよく言うが、どうやら奴さん、語る前に勝手に落ちたようだぞ」
ニクラスはにやりと笑った。
ペルゥ「隣の芝は青いというか、隣のスライムは蒼いというか」
ルリィ「まぁ確かに蒼いけど」




